吉澤夏子[社会学者]●「欲望問題」と「心の自由な空間」
この本には、マイノリティとして在ることの痛み、生き難さを、「差別問題」ではなく「欲望問題」として主題化するまでの、生きられた理路そのものが、シンプルで力強い、しかし繊細で周到な議論によって示されている。伏見の強みは、自分の頭で考えたことだけを、借り物ではない自分の言葉だけで語っているということ、しかもその論理のひとつひとつが生きられた経験に裏打ちされているということにある。だからこそ「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という言葉が、レトリックではなく真に迫って響くのだ。
「自身の「痛み」をできるだけ特権化しないで表現するのが、伏見憲明のゲイリブでした」(18)という。「自分の「痛み」を根拠にした「正義」」をふりかざし、何の疑いもなく弱者の位置を正当化する、ということにどうしても違和感があったということだろう。伏見は、この違和感から出発し、社会と自分の関係、社会における自らの位置を正確に把捉する、「欲望も、それを生かすヒントも社会の中からでてきたものだった。敵だと思っていたものに自分の「痛み」も可能性も与えられていた」(52)と。伏見は、差別に関わる思想や運動が、容易に陥ってしまう罠、つまり弱者至上主義やマイノリティ対社会という二項対立にけっして絡めとられることがなかった。
自分が社会に内在しているという事実に立脚した視点を獲得することがいかに重要で、しかもそれがいかに困難か、はあまり理解されていない。このことをリアルな感覚として生きて、理解している、という点で伏見は稀有な存在かもしれない。私は、この本を読んで、こうした視点を可能にしているのは、最終的に、人間や社会に対する深い信頼ではないか、と感じた。「欲望問題」では、人がそれぞれに心に抱く「痛み」や不満、欲求や理想、快楽や喜び・・・そのすべてを等価な「欲望」と捉え、さまざまに人々が思い描くそうした「欲望」を、できるだけ実現できる場として、つまり相互に対立し競合する欲望を調整する機能として、社会というものを立てているからだ。
そのことは、この本の冒頭に置かれている少年愛者の「痛み」についての叙述から、とりわけ感じることができる。読者から、少年への欲望を抑えきれなくなるかもしれない、と不安を訴えるメールがきた。この社会では、もし彼の欲望が現実にある少年へと向けられたなら、それは犯罪となる。成人同士の同性愛の欲望なら社会と何とか折り合いをつけていくことができる。しかし少年愛の場合、そうした性的欲望をもつこと自体は許されても、それを現実のものとすることは反社会的だとみなされざるをえない。ここに線引きがされる。伏見はしかし、このように慎重に論を進めつつ、少年愛(の犯罪)者と自分は地続きで繋がっているという感覚、彼と自分を隔てる線が引けたとしても、それは恣意的なもの、偶然の結果にすぎないという認識を、一貫して持ち続ける。どのような欲望をもつ人間とも、人間として繋がっているという感覚をけっして手放すことがなかった、誰のどのような欲望も他者のものとして切り捨てることがなかった、そのことが伏見を「欲望問題」へと向かわせたのだと思う。
「欲望問題」には、人間と人間が対するとき何がもっとも大切なことか、が示されている。それは一言でいえば、他者の「心の自由な空間」を尊重するということである。他者が心にどのような「欲望」を抱こうが、それはそのままにしておく、ということである。「差別問題」は、時に絶望に囚われて、人と人を遠ざけ、硬直した色のない世界を導く。しかし「欲望問題」は、99%の絶望より1%の希望に光をみいだし、人と人を繋げ、思いがけずポップな色彩に満ちた世界を現出させることもある。たとえば、もし自分のある「欲望」が社会から拒絶されたとしたら、その「痛み」はそれぞれが心の中で「個人的なもの」として引き受けていくしかない。しかしそうやってそれぞれが「痛み」を抱えて生きていくことを「切ない」こととして受け止めてくれる人がいる限り、それはけっして「絶望」ではない。私は、「欲望問題」がそのうちに胚胎しているこのポジティヴな生への志向性に深く共感する。それを私も「個人的なものの領域」という概念によって何とか掬いとろうとしてきたからだ。
最後に、この本には社会学的にも示唆に富む内容が多く含まれているが──性別二元論へといたるコペルニクス的転回、ジェンダーフリー・バッシングに内在するフェミニズムの陥穽、共同性とアイデンティティをめぐる考察など──、「イカホモ」という言葉や記号ゲームとしての恋愛についての叙述は、現代社会の中核的な特徴と呼応しているようで、とりわけ興味深かった。そこに、ジェンダーの編成をジェンダーに内在しつつ達成するという困難な課題を解く鍵があるのかもしれない。それにしても、現実と格闘する実践の試行錯誤の中から、ジェンダー論最先端の議論で武装された「攪乱」や「ずらし」といった戦略に行き着いていたということも、いろいろな意味で驚嘆に値する。
【プロフィール】
よしざわなつこ●
1955年、東京生まれ。社会学者(理論社会学、現代社会論)、日本女子大学教授。主にフェミニズム論・ジェンダー論の視点から、現代社会の「現代性」の在り処を探る。
【著書】
ジェンダーと社会理論(加藤秀一、江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
いまこの国で大人になるということ(玄田有史、茂木健一郎、小谷野敦らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
差異のエチカ(熊野純彦、荒谷大輔らとの共著)/ナカニシヤ出版/2004.11/¥2,600
世界の儚さの社会学/勁草書房/2002.5/¥2,600
女であることの希望/勁草書房/1997.3/¥2,200
フェミニズムの困難/1993.9/¥2,500