玉野真路[科学技術批評家]●イデオロギーからゲームへ、そして免罪の拒絶へ……

わたしたちは、日々、ゲームをしている。ゲームというのは、いわゆる遊びとしてのゲームとは限らず、日々の生活の中で自分の利得を最大に、損失を最小にするにはどうすればよいかを考えて、戦略的な行動をしているということだ。

たとえば、同性愛者がある場面でカミングアウトをする戦略と、しない戦略のどちらを採用するか。カミングアウトをするという戦略を採用するには、カミングアウトの利得をコストとリスクの和と比較し、それぞれの場面の中で利得が勝ると考えればカミングアウトをするし、コストとリスクの和の方が大きいと判断すればカミングアウト戦略を採用しない。

つぎに、ある一人のゲイを見ると、その人はあるところではカミングアウトしていて、あるところではカミングアウトしていないことがほとんどだろう。その人は、カミングアウトをする戦略と、しない戦略の混合戦略を採用しているということになる。そうすることによって、自分の人生から得られるうま味を最大化しようとする。カミングアウトの利得を多めに勘定する傾向のある人はカミングアウトをする頻度は高く、コストとリスクを高く算定する傾向のある人はカミングアウトの頻度は下がる。

さらに社会の中でのゲイの集団を考えてみよう。学生などカミングアウトの敷居の低い(つまりコストのかからない)層ではカミングアウトが行われる傾向が強くなるだろう。旧態依然たる会社などリスクが大きい社会ではカミングアウトが起こる確率が減るだろう。そうしてカミングアウトが社会全体でどの程度の頻度で起こるかについて、一定の均衡状態を得るだろう。

この均衡は歴史的に変遷する。近年起こったように、社会の中でカミングアウトをする人が増えてくればカミングアウトの敷居は下がり、均衡はよりカミングアウトをする側に傾くだろう。一方で、保守化が進めばカミングアウトの均衡はカミングアウトしない側に傾くことが予想される。

ジェンダーの境界も、カテゴリーやコミュニティを維持するか放棄するかといった選択の戦略もほぼ同様に考えられるだろう。ジェンダーの差異を温存する利得と捨てる利得を天秤にかける。そこでうま味を多くの人が得られると判断するならば、一部のアカデミズムがジェンダーの差異をなくすことが「正しい」と唱えても、人びとは簡単には応じない。ゲイというカテゴリー、ゲイ・コミュニティについても、最終的にはそれがなくなることが「正しい」といっても、多くの人がそこからうま味を得ていると実感できれば人びとは手放さないだろう。逆に、多くの人びとにとってうま味を提供できなければ、コミュニティは役割を終えて次第に縮小していくだろう。

こうして、利得とコスト+リスクを天秤にかけ、どういう戦略を採用すると、人生のうま味が最大になるかを考えながら、私たちはさまざまな行動選択をしている。このときに理屈として「正しい」ことがいつでも採用されるわけではない。たとえば、「ゲイというカテゴリーがなければ、ゲイ差別もなくなる」というのも理屈としては正しいだろう。しかし、たとえば「ゲイというカテゴリーがあったほうが出会いの機会が増える」など、ゲイというカテゴリーから多くの人が利得を得ている場合には、ゲイというカテゴリーが捨てられることはないだろう。論理としての究極の形を提示すれば、そこに結論が行き着くわけではなく、人びとがお互いの欲望をせめぎ合わせながらフロントラインが決まっていく。

しかし、こんなに「言われてみれば当たり前」のことが、なぜ「命をかけて」書かれなければならないのか?

これまでジェンダーやセクシュアリティに関する反差別論の領域では、カミングアウトしない戦略、性差別に抗わない戦略、ゲイというカテゴリーをゲイであっても嫌悪し近寄らない戦略をとる人びとが圧倒的に多い中で、ごく少数の人間によって担われてきた。そうした人びとからすると、利得の幻想を信じ込む必要があった。そういうときには幻想としてのイデオロギーは有効だったし、これから新しいムーブメントにはある種のイデオロギーは必要とされ続けるにちがいない。

カミングアウトは絶対的に正しいという幻想、差別の解消のためにはゲイというカテゴリーやジェンダーの差異がなくなることが正しいという幻想……それらの幻想が「正義」だとする価値観。わたしを含めて、反差別論の分野で言説を弄してきた人間たちは、そういった幻想を見て、その価値を信奉しながら闘ってきた。多くのアクティビストたちはしばしば単純な損得には還元できない行動選択もしてきただろう。損得勘定を越えた言動が人に現れるところに“愛”を見るとすると、そこには確かに愛もあっただろう。

しかし、この幻想はいつしか絶対的ないし規範的な「正しさ」「正義」と考えられるようになり、原理主義的に突き詰められていく。たとえば「カミングアウトをすることは正義であり、その正義を行えない人間は差別に屈している」という風にして、カミングアウトをする人間が一段上に立ったりするようなことが起こる。そうなると運動の外部から見ると、その運動にリアリティがないと思われるようになってくる。つまりゲームの均衡点から、イデオロギー的な主張が大きく離れていくのだ。そうなると、多くの人から飽きられていくことになる。ときとしては攻撃されることにもなるだろう。

さて、こうした暴走を止める手段は何か?

伏見はまず冒頭で、少年愛者ではないという自己規定をしてマジョリティの側から、少年愛者というマイノリティを見て、彼らの自分との連続性を確認する。ところが、そこで「みんな欲望において少年愛者と地続きだから、少年愛者の気持ちも考えましょう」といった耳あたりのいいヒューマニスティックな結論に落ち着くことはない。社会を営む以上、線引きをせざるを得ない場合がある。自分たちの利害だけではなく、多くの人がゲームを行い、欲望がせめぎあう場として社会を構想するからだ。それでも、彼は言う。

「この社会を営んでいく過程で、善し悪しの線引きをしていくことの割り切れなさや、「痛み」は、それぞれが心の中で引き受けていくしかありません。この社会自体にノーを言い立てることでその責任を免れるわけではないし、そんなことは頭の中での罪悪感の打ち消し、自己慰撫でしかないでしょう」(p65)

線引きで向こう側に追いやった人びとに、われわれは痛みを与えているのであり、現行の社会の中での正しさを唱えることで免責されるわけではない。そこへの想像力を堅持しなければならない。与えた痛みを忘却する「免罪」は許されない。

さらに第3章では、『X-men』に出てくる、人間にはない能力を持った「ミュータント」というマイノリティの立場に立ってつぎのようにいう。

「人間社会には人間社会の、それまで積み重ねてきた合理性も意味もあるのだから、「ミュータント」の利益からしたらそれは自らを抑圧することに思えても、それを全否定する権利は一方的にはない。」(p161〜162)

マイノリティの側も、マイノリティであるというだけでどんな要求でも通るわけではない。マイノリティであるというだけで、無限に権利を要求し、マイノリティが反転した特権を持つという事態を避けるためにも、「免罪」によって痛みのない社会を構想するのではなく、これを拒絶する思想が必要だということだろう。

社会の中で対等な決定権をもつ人びとが、共同性を維持するためには、こうしたゲームをうまく機能させることが鍵となる。そのためには、マジョリティが線引きをして正しさに酔うことで免罪されることも、マイノリティがマイノリティの立場で免罪されて反転した強者になることも拒否することだ。

免罪を拒否して、合理的な思考へと進むこと。本書は、現代ジェンダー・セクシュアリティ論の「宗教改革」の書といえるだろう。

【プロフィール】
たまのしんじ●予備校講師、科学技術批評家。名城大学非常勤講師。セクシュアリティの科学などを専門とし、科学や医療の問題を、科学的データを踏まえたうえで社会的な視点でとらえていこうとしている。

【著書】
新しい高校生物の教科書(共著)/講談社ブルーバックス/2006.1/¥1,200
新しい科学の教科書/文一総合出版/2004.5/¥1,800
同性愛入門(伏見憲明らとの共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
クィア・サイエンス(訳、サイモン・ルベイ著)/勁草書房/¥4,500