竹田青嗣[哲学者]●「差別」の問題を考えるとき、これがいまのところいちばん根本的である

『欲望問題』を一読し、ある感慨を覚えた。自分が在日コリアンなので、いろいろ思い当たることがあったからだ。伏見憲明氏のことは、それほどよく知っていたわけではないが、なんとなく勝手な「仲間」意識があった。差別の問題を、単に社会問題としてだけではなくて、いわば「不遇」の感度でちゃんと考えている人という程度の理解だったが。

 私もまた二十歳すぎから三十歳近くまで、民族問題(差別問題も込みで)でずいぶん悩んだ経験がある。いってみれば、これから自分の人生をというときに、変な怪物スフィンクスに出会って、この難問を解かないと先には進ませないと言われたようなものだった。「私とはいったい何者か」というのが第一の難問で、「どうやって差別をなくすか」というのが第二の難問。はじめがアイデンティティの問いで、つぎが「社会的正義」の難問だが、ところでこの二つの問いには、なぜかすでに「正解」が存在していた。第一の問いの「正解」が「朝鮮民族として主体的に生きよ」で、第二のそれは「一切の階級や差別のない理想社会を創り出すために生きよ」というものだ。私の感度からは、これは両方とも、いわば「超自我」の声のようでどうにもなじめなかったのだが、その威力は圧倒的に大きかった。当時、ずいぶん差別の本とか、あれこれ読んだが、どういう理由だか、私にはみんな同じこと(上の正解)ばかり言っているように思った。ハイデガーじゃないけれど、「本来性」を生きるか、それとも「頽落」(=ダラク)の道を生きるか、どっちかです、みたいな。驚くべきことに、当時、そういった「正義論的構図」のほかにはどんな「答え」のモデルもなかったのである。
 
 そういうことでずいぶん悩んだのが理由で、私はいま「哲学」などを仕事にするようになった。なのに、考えてみると、差別問題についての本格的な本は一つも書いていない。どういえばいいか、正直いって、うーむ、こういうの、書きたかったなあ、と、つい思ってしまったのである。

 自分が仕事をしていないのでこういうことを言える立場ではないが、あれから日本の社会で、部落差別や障害者や性同一性障害やその他もろもろ、たくさんの差別の問題が大いに沸き立ってきたわりには、差別の本の基本構図はほとんど変わっていない、と私は思う。在日の問題でも、やっぱり四十年前と変わらず、民族とか主体性とか愛国心とかが主張されているし、ジェンダー論では男社会排撃論がまだ一定勢いを保っている。しかし、差別論は、単なる社会正義論だけで語ると決してその本質をつかめないのである。
 
 この本は、そういう正義による差別の救済論ではない。差別の問題は、いかに現行の社会の不平等や不正義を正してゆけるかという問題とは別に、もう一つのまったく異なった課題を持っている。個々人が、差別を感じることからくる不遇感やルサンチマンやリアクションをどう自己了解して、自分の生を組み立て直すか、といういわば実存的な課題である。ここでは、社会制度の改変の条件を考えるのとは別の考え方が必要である。そして、この本では、まさしく差別の不遇性を生きることのそういう微妙な側面が、著者が経験した一つの思想体験としてはっきりと打ち出されている。

 差別(的)経験はいろんな局面をもっており、だから多様な問いがわき出てくるし、さまざまな選択の場面にぶつかる。正義論的な構図では、それらの多様性は一つの正しい「答え」に収斂されていくことになる。しかし著者の声は、正しい「本来性」の道でなければ「ダラク」の道しかないよという言説の威力にあらがって、そういう人間的選択の自由の感度を届かせるものだ。こういう「差別?」の本がきわめて稀だったことを考えると、もうそれだけで、挑戦的かつ開拓的な意味をもっている。

 「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」というキャッチが、またきわめて象徴的である。

 差別の不遇を生きる人は、自分の存在のマイナス性を打ち消そうと努めるところから出発するが、その最も典型的な類型として、不正義な社会に対する「反=社会」思想が現われる。まさしく、「差別をなくすために生きる」ことこそが、自分の不遇感を取り払う絶対的な道のように感じられるのだ。たとえば革命によって理想社会を創り出すというのが、まずやってくる考え方のモデルであり、それが無理なら、ねばり強い社会批判を続けていく、という方向がつぎの方向になる。しかし、革命は成功するかどうか分からないし、いったいいつ理想の社会がやってくるかも定かでない。著者もその機微にふれているが、この生き方は、人間の当為とエロス(「欲望」)を、カント的な二律背反(理性か感性か)、キルケゴール的な「あれか、これか」(美的か、倫理的か)に必ず引き裂くことになり、要するに、原理主義的にガンガン頑張れる人以外は、ちっとも楽しくないような道になってしまうのである。

 どんな差別運動も、それ以外には道がないというぎりぎりのプロセスを経緯しているから、こういう正義の感覚に根ざす原理主義的反差別運動が不必要だった、と言うつもりはぜんぜんない。これらの運動が、社会が抱え込む差別意識の悪質な反動性に対抗する上でどれほど大きな役割を果たしてきたかということは、ユダヤ人や黒人の歴史を見ればすぐに理解できることだ。しかし、どんな反差別運動(や思想)も、その本質から言って、絶対平等や絶対正義に向かう運動という理念のままではけっして生き続けることができない。反差別の運動は、公正で開かれた市民社会の成熟へ向かうときにだけ、さまざまな市民階層の中によく根を張り、感動的な慣習や秩序にたいする持続的な改変の運動として持続することができる。

 たとえば「在日」の中では、さすがに「民族的主体性」のテーゼは、一部の(もっと言えば、日本のサヨク的陣営が期待するような)在日=反日知識人だけの看板になっていて、ふつうの「ザイニチ」の若者の中では確実に死滅しつつあり、この状況はもはや決して後戻りしない。性の問題においても、いわゆる原理主義的フェミニズムの思想が一つの時代の役割を終えつつあることは明らかである。しかし、ニーチェが力説したように、じつはその「次の考え方」が難しいのである。「神は死んだ」。それはよいとして、次に何が現われるかというと、もしわれわれが生の積極的な価値を根拠づけられないかぎり、古い倫理に根拠を求める反動、無神論、相対主義、ニヒリズムといったさまざまな「反動形態」、といったものが世界にはびこることになるだろう。

 そう、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」。そんな、正義のためだけに生きることなんてふつうの人にできやしないし、だいいち、「楽しく」ない。しかし、「差別をなくす」という社会的な希望をすっかり捨ててしまうと、われわれはどこかで生きることが「寂しく」なる。いま差別や不遇の感覚を生きている多くの人間が立っているのは、いわばそういう微妙でやっかいな地点だと思う。

 考え方を変えてみよう。必ずつぎの出口がある。たとえば全てを「欲望問題」として考えてみよう。そうすると、社会的な不正義の構造をいかに少しずつ変えてゆくという課題と、不遇の感覚を生きる自分といかに折れ合って自分の生のゲームを創っていけるか、という課題とのつなぎ目が見えてくるはずだ。伏見憲明はそう言っている。

 私はこの考えは正しい出発点だと思う。すべてを「欲望問題」として考えることは、いわば二十世紀における、支配と被支配の善悪、という構図をいったんチャラにして、代わりに、多様な欲望をもった人間がその多様性を承認しあいながら、どのように「市民社会」というゲームの中に積極的なエロスを創り出していくか、という前提に立つことだからである。私の立場から言っても、「差別」の問題を考えるとき、この立場がいまのところいちばん根本的である。「差別のない社会」というような前提で考えると、道はおそろしく遠いものになる。そうなるとじわじわ絶望だけがやってくる。さまざまな「欲望問題」が多様な仕方で承認しあうゲームを創り出すと考える。そのゲーム自体が一つの深いエロスになると、道の遠さは関係なくなる。この本は、われわれがそういうゲームをうまく設定してゆくための、一つの重要な布石になるにちがいない。
 

【プロフィール】
たけだせいじ●
1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。早稲田大学国際教養学部教授。

【著書】
「自分」を生きるための思想入門/ちくま文庫/2005.12/¥740
人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想/講談社/2004.12/¥2,700
愚か者の哲学/主婦の友社/2004.09/¥1,400
よみがえれ、哲学/日本放送出版協会/2004.06/¥1,120
近代哲学再考:「ほんとう」とは何か・自由論/径書房/2004.01/¥2,100
現象学は<思考の原理>である/ちくま新書/2004.01/¥780
哲学ってなんだ/岩波ジュニア新書/2002.11/¥740
言語的思考へ 脱構築と現象学/径書房/2001.12/¥2,200
天皇の戦争責任(加藤典洋、橋爪大三郎との共著)/径書房/2000.11/¥2,900
プラトン入門/ちくま新書/1999.03/¥860
哲学の味わい方(西研との共著)/現代書館/1999.03/¥2,000
陽水の快楽 井上陽水論/ちくま文庫/1999.03/¥680
二つの戦後から(加藤典洋との共著)/ちくま文庫/1998.08/¥700
はじめての哲学史(西研との共著)/有斐閣/1998.06/¥1,900)
現代批評の遠近法/講談社学術文庫/1998.03/¥820
現代社会と「超越」/海鳥社/1998.01/¥4,000
正義・戦争・国家論 ゴーマニズム思想講座(小林よしのり、橋爪大三郎との共著)/径書房/1997.07/¥1,600
エロスの世界像/講談社学術文庫/1997.03/¥820
世界の「壊れ」を見る/海鳥社/1997.03/¥3,800
恋愛というテクスト/海鳥社/1996.10/¥3,398
エロスの現象学/海鳥社/1996.06/¥3,107
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/講談社学術文庫/1996.04/¥800
ハイデガー入門/講談社選書メチエ/1995.11/¥1,800
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1995.11/¥1,300
<在日>という根拠/ちくま学芸文庫/1995.08/¥1,068
「私」の心はどこへ行くのか 「対論」現代日本人の精神構造(町沢静夫との共著)/ベストセラーズ/1995.06/¥1,760
自分を活かす思想・社会を生きる思想(橋爪大三郎との共著)/径書房/1994.10/¥1,800
ニーチェ入門/ちくま新書/1994.09/¥720
力への思想(小浜逸郎との共著)/学芸書林/1994.09/¥1,748)
自分を知るための哲学入門/ちくま学芸文庫/1993.12/¥740
エロスの世界像/三省堂/1993.11/¥1,553
意味とエロス/ちくま学芸文庫/1993.06/¥950
恋愛論/作品社/1993.06/¥1,800
はじめての現象学/海鳥社/1993.04/¥1,700
身体の深みへ 21世紀を生きはじめるために3(村瀬学、瀬尾育生、小浜逸郎、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1993.02/¥1,796
現代日本人の恋愛と欲望をめぐって(岸田秀との共著)/ベストセラーズ/1992.10/¥1,553
世紀末のランニングパス:1991-92(加藤典洋との共著)/講談社/1992.07/¥1,845
現代思想の冒険/ちくま学芸文庫/1992.06/¥740
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1992.05/¥1,300
自分を知るための哲学入門/ちくまライブラリー/1990.10/¥1,300
陽水の快楽 井上陽水論/河出文庫/1990.04/¥466
批評の戦後と現在/平凡社/1990.01/¥2,136
現象学入門/NHKブックス/1989.06/¥920
夢の外部/河出書房新社/1989.05/¥1.942
ニューミュージックの美神たち/飛鳥新社/1989.01/¥1,300
ニーチェ(For beginnersシリーズ)/現代書館/1988.06/¥1,200
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/河出書房新社/¥1,600
現代思想の冒険/毎日新聞社/1987.04/¥1,300
<世界>の輪郭/国文社/1987.04/¥2,000
意味とエロス 欲望論の現象学/作品社/1986.06/¥1,600
陽水の快楽 井上陽水論/河出書房新社/1986.04/¥1,300
物語論批判(岸田秀との共著)/作品社/1985.09/¥1,200
記号学批判 <非在>の根拠(丸山圭三郎共著)/作品社/1985.06/¥1,200
<在日>という根拠 李恢成・金石範・金鶴泳/国文社/1983.01/¥2,000

このエントリへの反応

  1. ネットで「ニーチェ」「差別的」をキーワードにGoogleを検索していたらこの
    サイトが目に入り読ませていただきました。
    差別の問題については今まであまり興味が無く避けてきた話題でしたがこの記事を読み結構身近な問題でもあることを感じました。男と女という人間としての根本的な問題は人類みな感じる差別(差異)でしょう。 フェミニズムにしろ民族運動にしろ差別を無くすために社会に訴えて運動をするが、その問題が無くなり平均化する
    とその問題を訴えていた人たちのアイデンティティというようなものも無くなり虚無的な感覚に陥るというのは面白い現象だと思います。
     よく世間では「差異をお互いに認めて仲良く暮らしましょう」と単純に言いますが違う価値観を許容するということがいかに難しいことか。また、その少数派の人たちのアイデンティティや生きる意味のような個人的な問題と現実世界の社会とをいかに同調させるのか。社会の少数派はこのような問題をいつも抱えながら生活しているということがわかりました。