小倉康嗣[社会学者]●参与する知へ━━大地に足を着けて、ただ純粋に生きていくために

 僕は『欲望問題』を、「知」と「生きること」のつながりを問い、そこに「参与する」ための回路を切り拓いていく試みとして読んだ。

 僕は学問の世界の人間の端くれであるが、昨今の一部のアカデミズムの雰囲気に、ある違和感を感じていた。当事者性をうたう言説やマイノリティ(弱者)に寄り添う言説、あるいは研究者の政治的立場性を問う言説が増産されているが、それはたんにそういう「ポーズ」が巧妙になっただけで、結局は、研究者コミュニティという小さなコップの中だけで通用する言葉を空回りさせているだけではないか。もしかしたらそれは、偽善の巧妙化という妙な事態を招いてしまっているのではないだろうか。そもそも学問は「いかに生きるか」という実践的な問いとともにあったはずだが、「ポーズ」が巧妙になったぶん、かえってその問いと正直に向き合う愚直さを忘れてしまっているのではないか。そんな違和感である。

 そんなとき、『欲望問題』が刊行された。この本は、そんな僕の違和感をシンプルな言葉でひとつひとつ読み解いてくれた。

 僕がこの本から受けとったメッセージを端的に言うならば、「いかに生きるか」という生き方の次元では、いろんなことが自分と地続きになり、誰もが当事者になる。その根っこの次元にまで降りていこう。そして、そこから立ち上がるコミュニケーション(相互了解やつながり)の可能性を見いだしていこう、というメッセージである。

 たとえば「ゲイ」というカテゴリーに属するかどうかという次元では当事者じゃなくても、生きづらさや苦しみ、あるいは快や喜びの経験のなかで自らの居場所を見いだしていかんとする「生き方」の次元では、誰もが当事者ではないだろうか。たとえ同じカテゴリーに属しているという意味での当事者性だとか、同一の理念を共有していなくても、存在可能に向かって懸命に生きんとする生き方の次元にまで降りていくと、そこに経験の重ね合わせの可能性が生まれ、「自分ごと」(=当事者)として了解されてくる。そこから新たなコミュニケーションの可能性がひらけてくるかもしれない。

 実際、伏見さんはこの本のなかで、小児愛者の経験と(小児愛者ではない)自らの経験とを重ね合わせ、そこに横たわる地続き性を感受していく。「小児愛者」というカテゴリーの次元では当事者じゃなくても、生き方の次元にまで降りていくと、小児愛者の経験が痛いほど「自分ごと」として感じとられてくる。「あそこにいたのは自分だったのではないか」(p.14)と。そんな了解を深めていくなかで「ぼくもまたこの社会に責任を負った」(p.61)という自覚を強めていくのである。

 伏見さんはこの本で、差別問題、ジェンダーフリーの問題、脱アイデンティティの問題といった個々具体的な問題をあつかっている。けれども、それらは訴えたいことの間口にすぎないのではないだろうか。むしろ、この本で強く訴えられていることは、それらの問題を「欲望問題」として仕切りなおすことで、「いかに生きるか」という生き方の次元にまで降りていき、自分と地続きな関係性の網の目に「参与すること」なのではないだろうか。そしてこの本は、そのための根本原理を探求した本なのではないか。

 90年代のゲイ・ムーブメントの初期に「ぼくの中ではまだ『社会は敵だ』という意識が強かった」(p.44)伏見さんが、「敵だと思っていたものに自分の『痛み』も可能性も与えられていた」(p.52)ことに気づき、「そのときになってやっと、ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られた」(p.55)という。これは決して保守的な物言いではない。むしろ、こういう感覚のなかから問題が提示されるとき、マジョリティが対岸の火事とみなしがちなマイノリティの問題も「自分ごと」として受けとめられてくる、そのラディカル(根源的)な地平を照射した物言いであろう。「欲望問題」として仕切りなおすとき、マイノリティにとっても、マジョリティにとっても、社会が自らの「生き方」に切実に関わってくるものとして(つまり、「参与しうるもの」として)、受けとめられてくるのだ。

 むしろ問題なのは、参与しないポジションからの批判や告発であろう。冒頭に述べた、僕が一部のアカデミズムの雰囲気に感じていた違和感も、そこに端を発しているのかもしれない。

 たとえば、僕が属している社会学界とのからみでいえば、「客観性」や「政治的正しさ」の御旗のもとに、学問主体である研究者自身が、自らの学問の足元に横たわっているはずの「いかに生きるか」という実践的問いと(つまり自分自身と)向き合わずにきたのではないか。「客観性」の御旗は、決められた手続きで「実証」さえすればいいという態度を再生産し、(流行理論を振りかざす研究にありがちな)「政治的正しさ」の御旗は、「懐疑」さえすればいいという態度を再生産しつづけてきた。それは、ポストモダン思想による「客観性」(あるいは「超越性」)批判を経たあともなお、当事者性をうたうポーズとは裏腹に、研究者コミュニティという小さなコップの中で超越的に措定された「他者」「倫理」「正義」といった理念を盾にすることによって、自らの学問の足元(=生き方の次元)を掘り下げることをしてこなかったのではないか。つまり、自分と地続きな関係性の網の目の当事者として参与してこなかったのではないか。

 「知」が生成される学問活動の土壌は、人びとの生活経験の土壌と地続きであり、研究という営みはその「地続きの土壌」において実践的=参与的に検討されていくべきものであろう。そして学問主体たる研究者も、研究者である以前に生活経験をもったひとりの生活者であることに変わりはない。その意味で、「知」の最終判定人は現実を生きている生活者である。

 そういった学問姿勢をつらぬこうとするとき、そこから引き出されてくる知見の確からしさも、妥当性も、この「地続きの土壌」における人間相互のかかわりあい(コミュニケーション、相互了解)としてしか成り立たない。翼をもち空高くから見えた(ような気になった)超越的な視界も、大地に生きる僕たちがよりよく生きるために生かされるものでなければ「絵に描いた餅」である。それを生かすためには、大地まで降りてその生かし方を検討し合うことが必要なのである(むしろ問題とすべきは、その検討し合う場で、皆が参与可能なコミュニケーションが行なわれているかどうかということであろう)。

 そのためには、研究者も、研究対象ばかりに語らせるのではなく、なぜその研究をし、どういう問題意識をもち、それが自身の欲望や経験や実存とどう関連しているのか、自らの研究の根っこにある自分自身を語らねばなるまい。そこからしか「地続きの土壌」でのコミュニケーションは始まらないからだ。『欲望問題』は、まさしく著者自身の欲望や経験や実存を切開しながら、そのことを問うている。だから「命がけで書いた」作品なのだ。そして「命がけで読んでほしい」という帯の言葉は、理念や理論という盾でごまかさずに、自分と正直に向き合い、純粋に自分を入れ込んで読んでほしい、つまり参与してほしいというメッセージなのではないだろうか。

 「知」も人間の経験的所産であることにかわりはない。理念や理論といった「知」の上澄みだけを一足飛びにとりだして消費するだけでは、それを本当に理解し生かすことはできないだろう。「知」が生成される現場である「地続きの土壌」にまで降りていくことが必要なのである。この本には、著者が自らの経験と向き合い、おのれと時代とを切り結びながら、現在の思想を形成するに至った経験のプロセスが正直に、ありありと開示されている。そこに、「知」が生成される土壌たる「経験の大地」がある。

 ポストモダン思想による批判以降、理論的にも方法論的にも従来の枠組みの問い直し(脱構築)の議論は盛んになされてきた。しかし大事なのは、そこからどこに向かうか(どう生きていくか)、である。あとは「経験の大地」にしっかり足を着けて、現実によって試されながら、「生成」と「創造」に向かってただ純粋に生きるのみである。

【プロフィール】
おぐらやすつぐ●1968年生まれ。社会学者。立教大学・東京情報大学・東京外国語大学・慶應義塾大学非常勤講師。エイジングやライフストーリーをめぐる社会学的研究を軸に、現代日本人の生き方の可能性を探りながら、<生き方としての学問>への方法論についても探究している。

【著書】
高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー/慶應義塾大学出版会/2006.12/¥5,880
社会調査入門——量的調査と質的調査の活用(K・F・パンチ著、共訳)/慶應義塾大学出版会/2005.2/¥7,350
同性愛入門[ゲイ編]——Welcome to the GAY Community(共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
定年のライフスタイル(共著)/コロナ社/2001.4/¥1,785
フィールド・リサーチ——現地調査の方法と調査者の戦略(L・シャッツマン=A・L・ストラウス著、共訳)/慶應義塾大学出版会/1999.6/¥2,730
近代日本社会学者小伝——書誌的考察(共著)/勁草書房/1998.12/¥15,750