ぼせ[研修医]●「正しさ」を疑い、「あちら側」を忘れない

本書は「欲望問題」の視点から、差別問題、ジェンダーフリー問題、アイデンティティへの懐疑(クィア理論というのかな?)に議論を投げかけているようです。しかし、僕が最初に本書を読み終えたときの感想は

「ふぅむ」

というもので、それほど大きな驚きもなく、かといって、すごくツマラナイというわけでもなく、伏見氏の主張も納得出来るモノだし…てな、無感動なものでした。それは、伏見氏が言っているように、利害が対立する場所としての社会で、それらを互いに尊重し合いながら妥当な線引きを見極めるという発想自体は「しごく当たり前のこと」だと感じてしまったからだと思います。

もちろん、伏見氏のように明瞭に言語化しながら暮らしている人はそう多くないとは思いますが、生活感覚として非常に納得のいく論理を「欲望問題」は提示してくれていると感じます。また、「自由の相互承認」や「リベラリズム」という考え方にも通じるのかなーと僕は感じました。うんうん、そうだよね。なるほどなるほど。伏見さんやっぱり分かりやすくて読みやすいなぁ。すごいなぁ。と。

しかし、せっかく感想文を頼まれたのにそんな内容じゃちょっと送れないなぁと思って、本書を何度か読み返してみました。そこで、僕はようやく分かったんですが、伏見氏は「正しさ」の根拠を疑うことをしているんですね。そのことに気が付いてから、自分の頭のなかでウマく連結されていなかった各章がすごく有機的な一貫性をもった構成になっているんだとだいぶ分かってきました。

反差別運動を支える「正しさ」、ジェンダーフリー運動を支える「正しさ」、アイデンティティ懐疑を支える「正しさ」。でも、それらの「正しさ」に普遍性を与えるような明瞭な根拠はなく、むしろ「正しさ」ですらなく、そこにはただ「欲望」があるだけなのだ。そう伏見氏は異論を唱え、そして、新しい枠組みを提出したということなんでしょう。社会はさまざまな欲望が共存した場所であり、事後的にしか「正しさ」を規定できないという主張に従えば、いまこの瞬間を生きている僕たちがリアルタイムに「正しさ」を受け取ることはできません。つまり、先見的に「正しさ」を設定した上での運動、行動、考え方…それらに根拠なんてなく、かつ、そのような先見的な正義を設定するやり方はいずれ実生活と乖離し、下手すれば生活を脅かす存在にもなりうるということです。

さらに、おそらく意識的にでしょうが、「過去の自分」をもきちんと批判対象として、人間の陥りやすい優しさや正しさといったものに、徹底的に決別しようとしています。かつての自分を奮い立たせてくれた根拠、存在や行動に理由を与えてくれた正義を、いま再び、自らの意志で問い直す。自分で自分の爪を剥ぐような強い苦痛を伴った作業なんじゃないかと思います。楽なほうへ流れていく僕みたいな人間には、もう尊敬の一言しかありません。

そして、これら伏見氏の主張・行動も1つの「欲望」と捉えてみると、実生活から乖離した言説や当事者の痛みに根拠を求める差別運動といった「欲望」よりもずっと懐が深くて、少なくとも僕には、世の中をよりよい方向へ動かしていくのに有用な議論だと感じます。

せっかくなので、最近僕が出くわした「カミングアウト原理主義問題」について欲望問題の枠組みで考えてみます。カミングアウト原理主義問題というのは、このごろのネット界隈でゲイの可視化を促進するにはどうするか?ということが話題になってきたことから始まります。リブ志向のゲイブロガーなど(僕もそちらに分類されると思います)は「ゲイの可視化はカミングアウトからしか始まらないんじゃないか」という立場を大なり小なり持っているわけですが、そのような主張がこの1年くらいでわずかばかりですが勢いを見せつつあります。僕自身も「個人の私的な動機によるカミングアウトが、結果的に社会を少しずつ変えていく」とブログで書いたこともあります。

するとそれらへの反論として「カミングアウトできない人たちも世間にはたくさんいる。カミングアウトできる人間はまるで自分たちがエリートかのような視点で、上からものを言っている」という主張が見られるようになりました。「カミングアウト原理主義」だとして、ゲイブロガーたちの主張に批判が入った格好です。

僕自身の私的な感想として「カミングアウトしてからのほうがラクだし楽しいし、周りの人たちは僕をきっかけにしてフォビックな状態から簡単に抜け出しているし、怖がらずにもっとカミングアウトすればいいのにー」という、すごくバカっぽい私的感覚を表明しているだけなのですが、それが「エリート気取りで、カミングアウトできない人を見下したような言い方だ。俺達の気持ちも考えろ」という反論をされることをどう考えればいいんだろうと思っていました。だって、カミングアウトしたくなければしなきゃいいだけじゃないですか。こちらとしては個人の意見としてオススメはするけれど、それを強制する気なんてさらさらないんです。(この対立って、「欲望問題」のジェンダーフリーとジェンダーレスの境界はどこか?という決着の付かない論争構造と似てますよね)

でも、「欲望問題」の枠組みを借りてしまえば、「カミングアウトできない→つまりカミングアウトできる人よりも社会的弱者→俺達の気持ちを考えないなんてサイテーだ!」となってるだけなんですよね。当事者の痛みを「正しさ」として、カミングアウトするかしないかを権力関係の図式に落とし込んでしまってるんですね。一方、僕自身も「好きでカミングアウトしてるし、それでいーじゃん。結果的に社会の役にも立ってるし」と当事者の快楽やある政治的立場を「正しさ」としてエクスキューズしている節がありました。そんな両者はきっと分かり合えないだろうなぁと思います。

そもそもカミングアウトをするかしないかを「正しさ」で測ることは不可能です。まさに、さまざまな環境におかれたさまざまな個人のカミングアウトに対する「欲望」があるだけで、その視点においてカミングアウトする人と、カミングアウトしない人は等価な存在になります。カミングアウトすることが偉いわけでも、カミングアウトしない痛みが優先されるわけでもない。不毛な議論を繰り返すのではなく、おのおのの欲望が最大公約数として実現されるような道を探っていければいいのだろうと思います。そしてそれは、カミングアウトを強要しないことであるとか、殊更にカミングアウトという行為を非難しない立場であるとか、そういう当たり前の結論になるわけです。

近年、とくに若年世代でカミングアウトをするゲイが増えていますが、これはきっと、「より多くの人たちがカミングアウトするという欲望を選択できる社会になりつつある」という意味で歓迎すべき変化かなと考えればいいんでしょうね。そして一方で、カミングアウトしていない人たちへの配慮、例え07.2.27ば「もう少し社会が優しくなったらカミングアウトしたい」とか「とにかく私はカミングアウトするつもりはない」とか、そういう様々な欲望を持った他者を考えることを忘れてはいけないのだろうと思います。

伏見氏が『魔女の息子』で書こうとしていた「あちら側とこちら側」。その意味が、本書を通じて少しだけ理解できたような気がします。

【プロフィール】
ぼせ●1980年生まれ。第15回バディ小説大賞受賞。研修医。

このエントリへの反応

  1. 「欲望問題」の感想文…

    ポット出版 ? ぼせ[研修医]●「正しさ」を疑い、「あちら側」を忘れない●スタジオ・ポット/ポット出版

    ↑僕の感想文載ってます。ある晩にどどーっと書いたのでたしょ (more…)