2013-01-22

第25回■クリスタルな愛人Ⅰ(バブルのバランス・シート)

新年あけましておめでとうございます。
昨年はお世話になりました。
今年もよろしくお願いします。

と、本来は「寒中見舞い」とするところだが、新春らしい(というには随分、日が経っている!)、月並みなご挨拶をさせていただく。思えばこの連載も回を重ねること、25回、愛読者様には毎度、お読みいただき、感謝に耐えない。思いのほかの長寿連載(!?)、87年の出来事から書き始め、まだ、91年である。蝸牛の歩みだが、暫く、お付き合いいただければ幸いである。

このところ、ただ、遊ぶだけでなく、正しい性知識や情報を仕入れるため、恋愛やセックスに関するNPO法人などが開催する公開講座や講習会に足繁く通っている。昨年は「世界 性の健康デー」のシンポジウムにも顔出しさせてもらった。正しい知識や情報を仕入れることで、安全で安心して、楽しく遊ぶためでもある。いわゆる“オヤジ系”の週刊誌でさえ、真面目に女性器を語る時代だ。それ以前に、女性向けアダルトショップや女性ライター、カウンセラーによるカルチャー・スクール的な講習会も盛んで、そんな状況を鑑みると、いつまでも男子も“ホットドッグ”や“プレイボーイ”のセックス特集に頼ってはいけない。知識と情報をアップデートし、先回りしなければならないだろう。そのくらいの努力は必要だ。この年齢にして、なかなかの向学心と、自画自賛したいところ。

そんな講習会の中に、受講生同士があるテーマで話し合うワークショップを設けているところがあった。恋愛観やセックス観の変遷みたいなことを話し合ったが、その中で印象的だったのは、福祉関係の大学に通い、卒業後は介護施設に就職が決まっている20代前半の男性との“街コン”話。

彼がいうには、街コンなどで出会う女性に福祉&介護関係と話すと、引かれてしまうそうだ。いまの時代、仕事先が決まっているだけでも優良案件のはずだが、仕事時間が不規則で労働が過酷なため、二人の時間が持てない、そんな理由から敬遠されてしまう。いまでは古語ならず死語になる“3K(きつい、汚い、危険)”(89年の流行語大賞にノミネートされている)の職場なのである。

既に仕事にレッテルが張られ、悪い意味でのブランド化がされ、下層に位置付けられている。格差社会などという言葉があるが、ヒエラルキーが形成されているのだ。

男と女の恋愛やセックスにおける格差社会、そんな端緒はどこにあったのだろうか。それを紐解いでいくという作業は、私のすべきことではないが、92年にテレクラで出会った“ひろみ”という女性との交流の中から薄ぼんやりと見えてきたりもする。

バブルの女たち

海外のブランドの洋服や装飾品、流行のレストラン、ホテルなどをカタログ紛いに併記した小説が一世を風靡したことがあった。80年代のことである。ある種、時代の雰囲気を書き留めたものだが、そんな空気が濃厚になるのは、やはりバブルの時代である。以前もこの連載で触れたが、高級車で送り迎えする“アッシー”や高価なレストランで食事をご馳走する“メッシー”、高級ブランドの品物をプレゼントする“ミツグくん”などの言葉も80年代後半には一般化され、同時に3高(高学歴、高収入、高身長)などが交際や結婚の条件にもなった。

すべてが数量化され、その数値の上下で価値が決まる。また、この時代は、男性と女性の立場が逆転し、選択権は女性が握り、圧倒的に優位に立つということも少なくなかった。社会的に女性の権利や地位が向上したというわけではないが、恋愛やセックスの市場においては、売り手市場であり、生殺与奪の権利は女性が握っていた。そのため、男性は必至に媚びを売り続けるしかない。いわば、マハラジャやジュリアナなど、ディスコのお立ち台に象徴されるように、ボディコンとワンレンで武装した女性が鉄火肌で、男性を品定めし、こき使う時代でもあった。勿論、極端な例でしかなく、世の中の多くがそうではなかったが、雰囲気は完全にそうといってもおかしくない。男性は女性を求めるためには、必至だった。

以前、「Looser’s Game」と表題のところでも書いたが、そんな強気な女性達は、勝ち組であり、負け組の吹き溜まりであるテレクラなどには目もくれないと思うだろう。ところが、そんな女性も何の間違いか、その吹き溜まりに紛れこむことがある。

“ひろみ”と出会ったのは、1992年も年が明け、2月に入った頃だと思う。私自身は、その前後から仕事も順調になり、仕事で海外に出かけることも多くなる。遊び時間も削られていったが、寝る時間も惜しんでも遊ぶというのが遊び人たるもの。懲りることなく(!?)、テレクラ通いを続けていた。

実質的には、92年の時点では既にバブルは崩壊していたという。しかし、実感としてはもう少し後だったかもしれない。周りには、まだ、景気のいい話はたくさんあり、男も女も浮かれていた。当然の如く、バブルを体現するような価値観を持った人達もたくさんいたのだ。

紛れ込み組(!?)だが、いくらディスコで遊んだり、高級レストランやホテルで豪遊したりしても、どこかに孤独を感じることがある。イケイケを装いつつも心には隙間風が吹き抜ける。話し相手さえもいない、そんな時に、テレクラに電話をかけてしまう。当時は、それだけテレクラの勢いが増し、広く認知されるところになっていた。前々回、前回と触れたように、テレクラも全国規模、いたるところに出来ていた。それだけ、目にする機会も増え、主要駅等でのティシュ配りも常態化していた。バーキンやケリーのバッグにテレクラの宣伝のティシュが入っている。いまでは俄か信じにくい、そんな均衡を欠く、不思議な時代でもあった。

ひろみだけでなく、“バブル女性”にはたくさん遭遇している。ひろみの話の前に、その“生態”を少しだけ、紹介させていただこう。バブル女性がかかるのは渋谷。間違っても新宿ではない。その“バブル女性A”と出会ったのは日曜の夕方。渋谷の桜ヶ丘のアジトで、網を張ると、公衆コールがかかってきた。「土曜の夜と日曜の朝」というアラン・シリトーの小説があったが、テレクラでは日曜の夜が狙い目。“サザエさん症候群”ではないが、月曜を前に、何も楽しいことがなく、休日が過ぎてしまう、そんな強迫観念から女性はテレクラへ電話を掛けてくる。

買い物を終え、少し時間があるので軽く飲みたいという。公衆コールなので、あまり話し込むことはなかったが、なんとなく、話がまとまり、即アポとなった。駅前で待ち合わせし、合流すると、そのまま飲みに行くことになった。

公園通りにあるカフェバーへその女性を案内する。カウンターチェアーに腰をかけると、長く、すらりと伸びた脚に目が行く。20代半ばで、イベント・コンパニオンをしているそうだが、それも納得の美脚である。脚だけでなく、流麗な肢体に涼やかな顔も人目を引くものがある。誰が見ても“良い女”である。女性をランク付けするのもいかがなものか(といいつつ、よくしているが…)と思うが、“上物”である。こんな優良案件(!?)を逃してはなるものかとなるところだが、なんとなく話が噛みあわず、カクテルを数杯飲んだだけ、文字通り、少し時間の共有するに留まる。
口説いて恋人にしようという邪心(笑)はない。“俺は、ただ、お前と、やりたいだけ”(by ザ・ルースターズ「恋をしようよ」)だ。“引き”がなければ、潔く撤収である。その女性の御眼鏡に、私自身が適わなかったというわけだが、なんとなく、求めているものに明らかな乖離があるようだった。余分な労力は無駄というもの。素敵な恋人にはなれそうもない。なんていうことを考える間もなく、速攻の撃沈ではある(笑)。

ただ、その女性がいわゆる高ビーな、バブルと寝たような女かというと、そうではなかった。当時ならコンパニオンという強気に出られるような職業にも関わらず、いたって謙虚で、奥ゆかしいのが印象に残っている。たいしておごったわけではないし、おごられることが当たり前に思っているのが多い中、その女性は、ちゃんと、ご馳走様といってくれた。そのことをいまでも覚えている。

ひょっとしたら、派手な仕事で、上っ面の付き合いが続く中、本当に心が通うような相手を求めていたのかもしれない。究極の美化(笑)だが、泡沫に浮かれることなく、堅実に真実の愛を求めていたとしたら、それはそれでいて、本当の意味での“いい女”だったのではないだろうか。当然の如く、いまとなっては知る由もないが……。

と、余韻を残すような女性もいれば、バブルな世相に踊らされ、勘違いをする女性もいた。“バブル女性B”である。多分、その女性も同じく渋谷で、日曜日に掛かった。夕方ではなく、昼過ぎだった。起きたばかりで、朝食を兼ねた昼食を取りたいという。どっかで、食べさせてくれというものだった。まるで、メッシー扱いだが、昼食なら高くはつかないと、判断し、会うことにする。なんか、こう書くとせこいような気もするが、バブル女性に対抗するため、費用対効果、遊びのバランス・シートというものを考えていたように思う。

昼過ぎの渋谷駅頭はごった返していたが、どうにか、アポを取った女性と会うことが出来た。20代の後半で、アルバイトをしているという。どこかしら、あか抜けない感じを漂わせつつも、ほんのりしたものはなく、どこかに険がある。私が気に入らなかったのか、少し話していてもつっかかってくる。

とりあえず、昼食ということで、レストランを探すが、日曜日の昼時の渋谷、妥当な店がない。さすが、いまでいうサイゼリアやガストのような低価格のファミレスには案内はしなかったが、かなり大衆的なレストランへ行くことにする。フレンチやイタ飯にでも連れて行ってもらうつもりだったのか、そうではないことに不満たらたらである。メニューもそんな高価(というか、妥当)なものがなく(!?)、仕方なくパスタをオーダーすることになった。特にうまくもまずくもないが、その女性が“スパゲティ(パスタと言えば、まだ、イタ飯感があるが、敢えてスパゲッテイと言っているようだ)か…”といいながら、パクついていた。大衆店のスパゲティは私には相応しくない、私には高級フレンチや豪華な割烹がお似合いとでも言いたげである。実際、この前、会った人にはどこそこのレストランへ連れて行ってもらったなどとうそぶく。何が、その“バブル女性B”を勘違い女にさせてしまったかはわかないが、バブルの幻想に囚われ、自らの価値を見誤ったとしかいいようがない。

私のバランス・シートでは、費用対効果がないと、査定させていただいた。これ以上、愚痴を聞くのも嫌だし、出費も無駄と考え、ランチでさようなら、である。当然の如く、その女性からは、ご馳走様という言葉はなかった。