2012-10-15

第19回■フィールド・オブ・ドリームス

 前回、伝説になる「コンサート」の後に“彼女”と六本木のビストロで食事をした、と書いた。実は、その時、なんとなく近況を話したくらいで、肝心なことは話していない。勿論、別離の「理由」は聞けなかった。また、知ってもどうにかなるわけではない。おそらく、想像通りのことだろうが、その理由に真実を肉付けしていく必要などないだろう。さらに傷つけ合うのは愚かしいこと。男女の仲では、知らなくていいことはたくさんある。
 真実は残酷で、人を傷つけもする。別離の泥濘に嵌り、もたつきはしたくないだろう。何も知らない、いまなら、笑顔で別れられるというもの。去り際は、ボギーのようにありたい。“君の瞳に乾杯”だ。二人の間には「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(As Time Goes By)」が静かに流れる。

 そんな女狐との格闘。喪失感と徒労感に苛まれつつも、真底に落ちないのが私である。春に向け、次の一手を打っていた。新宿を離れ、再び、渋谷へと舵を切る。すると、自然と釣果が出る。今度は、田園調布の“お嬢様”だ。

名だたる一等地に住む女

 下町生まれ、下町育ちゆえの山手コンプレックスなどはないが、ある種、生息地(!?)のランクによる、女性のランクアップもある。まるで、四万十川の鰻や大間の鮪、勝浦の鰹、丹波の黒豆、小布施の栗のようだが、グルメたるもの、ブランドというか、その産地や漁場には拘りたい。東京でも田園調布は特別な響きがある。麻布や六本木などではびくともしないが、やはり、田園調布には、豪邸が立ち並び、人生の成功者が住まいしところというイメージがある。かつて、1980年には、成功し、大金持ちになれば、“田園調布に家が建つ!”という、星セント・ルイスのギャグがあったくらいだ。

 そもそも田園調布の発祥は、かの渋沢栄一の息子・秀雄がイギリスのガーデン・シティーに魅せられて構想を立てた田園都市計画だった。しかし、この構想は、五島慶多を始めとする野心あふれる実業家によって欲望に満ちた不動産業へと変貌したという。大学の誘致、住宅地と鉄道敷設を一体にした開発、在来私鉄の買収劇など、東急王国はみるみる増殖、ロマンあふれる構想はもろくも挫折し、生臭い話が残るが、田園調布そのものは変わることなく、イギリスのガーデン・シティー構想を端緒とした田園浪漫が残る街ではある。その辺の経緯は現在、東京都副知事の猪瀬直樹の『土地の神話』(1988年)に詳しい。同書は第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『ミカドの肖像』(1987年)の続編ともいえる作品。近代の日本を描いた名著である。まさに、バブルの時代。土地開発など、どのように近代日本が作られていったか、西武と東急の暗躍(!?)を含め、自然と興味を持ち、貪るように読んだ記憶がある。東京生まれ、東京育ちの自分にとって、東京がいかに変わっていったか、気にならないはずはない。後の「地上げ」や「土地転がし」などに繋がる因子が書かれている。バブルの萌芽は既にあった────というような「都市論」は、またの機会に譲ろう。

 田園調布のお嬢様と出会ったのは、90年の春だった。丁度、女狐とのラブ・アフェアーがクロスフェイドした頃である。多分、再会の「コンサート」の前には会っていたと思う。懲りないとは、私のことだ(笑)。
 渋谷の桜ヶ丘にある、私の隠れ家「アンアン」で、コールを受けた。おそらく、夜の9時過ぎくらいだろう。どんなことを話したか、ぼんやりとしているが、お嬢様の恋愛相談に乗ったことだけはよく覚えている。好きな人が二人いて、その間で揺れる女心みたいなことを散々、聞かされた。テレクラ相談員としては、うんざりするようなことでも嫌な顔せず(当然、見えないが)、親身に聞くのが作法というもの。そういう点では、本当、根気のいる仕事(!?)だろう。

 ある意味、お嬢様はもてる女性、引く手あまただ。同時に、気の多いというのも確かである。一途などという言葉は、バブル時代以降、完全な古語、死語になっていた。そんな性格ゆえ、その気の多さゆえに、私も知らぬ間に彼氏候補になっていった。私の誠実(!?)な対応が気にいったのだろう。相談を受けながら、私への興味が増していったようだ。恋愛相談など、当人にとっては悩みごとだが、他人にとってはどうでもいいこと。しかし、それにちゃんと対峙するだけで、好印象を抱かせる。単なる思い違いや勘違いでないことは、この後の様々な出来事がそれを立証することになる。

コマ劇場近くの映画館で

 私が彼女と話していて一番、驚いたのは、お嬢様らしく、ピアノを嗜んでいる、その発表会が春にあるから、予定を空けておいてと言われたこと。その“春”だが、今春ではない、来春である。一年も先のことを言われたのには、正直、ある意味、驚きを超え、何を考えているのだろうという気さえした。数時間、話をしただけで、まだ、会ってもいないのにだ。その場限りや、セックスしたら終わりという出会いしか、考えられないテレクラ遊びをしている私にとって、1年後などは、とても考えづらいことだ。

 多分、ピアノの発表会の話が出るくらいだから、恋愛相談以外にも音楽などの話もしたのだろう。その流れから映画などの話題も出た。実は、そのお嬢様との最初の“デート”が「映画鑑賞」だったのだ。
 当時、封切られたばかりの『フィールド・オブ・ドリームス』(監督&脚本:フィル・アルデン・ロビンソン)を見に行くことになった。同作品は1989年4月にアメリカで公開され、日本では1990年3月に公開されている。ケビン・コスナー主演で、某映画評論家が「生涯最高の映画」と絶賛したもの。アメリカ文学の巨匠、W・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』を原作にした映画で、とうもろこし畑を野球場に変えたところ、続々と人が来るという夢物語のようなストーリーで、かの相棒と村上春樹ともに愛読した作家、サリンジャーを思わす幻の作家も登場する。私自身も気になっていた映画である。

 ある日の夕方、主人公はとうもろこし畑を歩いていると、ふと謎の声(”If you build it, he will come.” = 「それを作れば、彼が来る」)を耳にする。その言葉から強い力を感じ取った彼は家族の支持のもと、周囲の人々があざ笑うのをよそに、何かに取り憑かれたように生活の糧であるとうもろこし畑を切り開き、小さな野球場を作り上げた……。

 1989年には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー 2』などがヒットし、翌90年にも『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』『ダイハード2』など、満漢全席のようなハリウッド産の大作の豊漁は続くが、その狭間に“小品ながら良心的”な映画として、話題になっていた。実際、日本では、かのハリウッド大作に負けないくらいのヒットを記録している。毎回、満漢全席では飽きが来るというもの。精進や薬膳のような料理もいいというところだろうか。

 その女性、お嬢様らしく、女子大学(どこか、忘れてしまったが、いわゆるお嬢様大学だった)を卒業後、会社などに就職することなく、「花嫁修業中」という名の「家事手伝い」をしている。年齢は20代半ばだった。それゆえ、休みに関しては、平日も土日も関係ない。

 翌日、私達は新宿・歌舞伎町のコマ劇場の側にある映画館の前で、待ち合わせた。平日の昼間である。歌舞伎町は夜とは違う顔を見せる。まだ、コマ劇場もあったし、シアターアップルもあった。当然、映画館もいまとは比べものにならないくらい、たくさんあった。ある意味、文化的な街でもあったのだ。シネコンなどが普及する以前のこと、まだ、新宿は歌舞伎町を始め、新宿南口や靖国通り沿いにも映画館が林立していた。幼い頃、父親とかのコッポラの『ゴッドファーザー』の封切を見たのも新宿のコマ劇場の側だった。

 歌舞伎町は男と女の欲望が交錯する街だけではない。文化や芸術の街でもあったのだ。新宿のアルタ前(同所は既に1979年には出てきていた)などではなく、歌舞伎町の映画館の前で、待ち合わせたのも昼なら女性一人、歩かせても問題ないと考えたからだろう。

 さて、私の前に現れたお嬢様、どこかしら浮世離れした雰囲気があり、独特の浮遊感がある女性だった。良家の子女だからといって、高級ブランドを纏うことなく、落ち着いた、どことなくコンサバな服装をしているのも好感を抱かせる。顔立ちも特に目を引くような容貌ではないが、育ちの良さが現れている。皇室にでもいそうな雰囲気を持っている。どこか、理知的で聡明な風情を漂わせつつ、若干、メルヘンな香り(いまなら、不思議ちゃんとでもいうのだろうか)が包んでいく。

予想外なお誘い

 とりあえず、簡単なあいさつをして、映画の上映まで、あまり時間もないので、そのまま映画館へ入ることにする。テレクラで会って、いきなり映画館というのも不思議な感じだが、昨夜のトークで、なんとなく、お互いを知り得たようなところがあるので、まさにあいさつもそこそこに、敢えて自己紹介するまでもなく、すんなりと映画を見ることになる。

 映画館では当然、隣り合わせに座る。本来であれば、手を握ったり、肩に手を回したり、軽く前戯の前戯(!?)をするものだが、流石、初対面である。そこまではできないだろう。同時に、私自身、結構、映画を見入ってしまうタイプなので、そんなお遊びをすることもなく、かなり真剣にスクリーンと向き合ってしまった。

 映画そのものは、このところのハリウッド大作に食傷気味だったので、私的には丁度いい塩梅の腹持ちだった。ちょっと、いい時間を映画とともに過ごしているという感じである。ところが、お嬢様はお腹が痛くなり、途中で出てしまった。私も当然、最後まで見ることなく、出てしまったのだ(後日、ちゃんと、一人で見直した。映画の評価そのものは変わらない、名作である。私のように汚れきった生活をしているものを浄化してくれる)。

 映画館のベンチで休んでいたら、容態も落ち着いたらしく、顔色も良くなる。聞いたところ、前夜は興奮して、あまり寝ていなかったらしい(子供の遠足か?)。多分、睡眠不足が原因だろう。当然の如く、映画そのものは見ていて気持ち悪くなるような描写はない(ホラーやパニックものではない!)。

 とりあえず、軽く食事を取りに、コマ劇場から靖国通りに向かったところにあるタイ料理へ行くことにする。店選びは、敢えて変化球を投じることにした。
 シンハビールを飲みながら、トムヤムクンやパッタイ、グリーン・カレーなどを食す。お腹が痛いのに香辛料が強いものはどうかと思ったが、お嬢様は体調が戻ったらしく、もりもりと食べる。フレンチやイタリアンではなく、エスニックというのが珍しいらしく、彼女のツボに嵌る。私の目論み通りである。

 話した内容は、昨夜の繰り返しのようなものだが、それよりもお互いのことを話し合ったと思う。多分、その頃には、すっかり打ち解け、お互い信用したようで、結構、プライバシーを明け透けに話す。家族のことや学生時代のことなども聞いたはず。
 いつもであれば、時間を引き伸ばし、「終電逃し&ホテルへGO作戦」を取るところだが、今回は、誠実感(!?)を演出するため、すんなりと帰すことにする。すると、意外な申し入れがされる。今度の日曜日に家に来ませんか、と、誘われたのだ。家庭訪問を断る理由はない。テレクラ男を親にでも紹介しようというのか、あまりに予想外な展開である。

まぼろしの旧駅舎

 数日後、私は田園調布の駅舎に降り立った。先日、複々線化にともない、地下化していた旧駅舎が復元されたが(この辺は東京駅の復元と同様だ)、まだ、地下化される前だったと思う。東京急行電鉄のHPには「旧駅舎は東横線の抜本的な輸送力増強工事である『目蒲線改良工事および東横線複々線化工事』の一環として実施した田園調布駅改良工事により平成2年9月4日に解体されたものです。」とある。平成2年だから1990年のこと。お嬢様の家庭訪問時には、旧駅舎であり、それは昔の風情を残したものだった。その駅前には噴水や花壇があり、らせん状に道が広がっていた、と、記憶している。勘違いなら申し訳ないが、洗練されながらもどこか鄙びた趣きがあった。都心に比べれば、緑多く、空気澄む、田園地帯である。まさに田園浪漫、フィールド・オブ・ドリームスだ。

 お嬢様は駅舎に迎えにきていた。多分、家で昼食を取ってから出かけているから午後だったと思う。彼女の笑顔が迎えてくれる。その笑顔を見た時、私の頭の中には、セント・ルイスの“田園調布に家が建つ!”が木霊する。
 そして、伊達邦彦や北野昌夫など、我が敬愛する大藪春彦が描く世界の主人公たちは、政財界の要職にあるものの令嬢を誑かし、落として、上流階級に食い込み、地位や財産を築き上げていく。そんなハードボイルドな野望も擡げてくるのだ。

 そのために、羊の皮を被った狼は牙を隠し、誠実を装っていた。いきなり会って、すぐセックスしないのは、相手のことを大事にしているからと思われていた、のどかな時代でもある。テレクラ男子の大いなる野望劇の始まりである────なんてね。