2012-09-03
第15回■コンビニのおにぎり
逆戻り
まだ、私にも良心らしきものは残っていたのかもしれない。埼玉の家電量販店に勤める20代の女性とアポをとりつつもの、すっぽかして、家に帰ろうとしていたところで、(「連続幼女誘拐殺人事件」の)“臨時ニュース”。思い込みだけで深夜にタクシーを飛ばし、渋谷まで来て、ハチ公前で知らない男に声をかけられ、ほいほいとついていってしまう女性だ。もし、変な男につかまったら大変なことになる、と急に不安になった。「東電OL事件」が起こるのはまだ10年ほど先(1997年)だが、道玄坂を上った先の円山町のラブホテル街では、女性が行きずりのセックスの果てに傷害や殺人などの被害者になる事件も起きていた。
もし、その女性が見ず知らずの男とホテルに消え、事件などに巻き込まれたとしたら、それこそ罪悪感のようなものが重くのし掛かり、一生、後悔して生きなければならないだろう。翌朝、新聞に彼女の名前や顔写真が出ていたら、寝覚めが悪いこと、この上ない。いくら私でもそのぐらいの良心(というか、自分かわいさゆえの自己防衛本能だろう)はあったようだ。
慌てて渋谷へ戻ると、その女性はハチ公前で待っていた。改めて見ると、歯並びが悪く、口元がだらしない。そんな容貌にかかわらず、やっと会えたことが嬉しいらしく、にやりと微笑むから、よけい不気味(失礼!)である。
既に時間は遅く、飲食店はほとんど閉まっていたが、道玄坂に深夜までやっている喫茶店があることを知っていた。テレクラの朝までコースを利用しない場合、始発までの時間稼ぎに使っていた店だ。深夜だと、珈琲を頼んでも必ず食べ物(マドレーヌやカステラみたいなもの)が付いてくる。当時、喫茶店を深夜営業にするためには、食品衛生法か、風営法かの関係で、食べ物を提供しなければならなかったのだ。
本来であれば、深夜ということもあり、居酒屋やカフェバーなど、アルコールの出る、雰囲気のあるところに入るべきだろう。しかし、酔った勢いでことに及ぶ、というのを避けるため、なるべくソフトドリンクのみ、アルコールのないところにした。店内の照明も明るく、性的な匂いのするところから、敢えて遠ざかる。
“地雷女”?
喫茶店では、マドレーヌを紅茶に浸してみるが、その女性との“永遠”は見えなかった(プルーストの「失われた時を求めて」ではない、当たり前だ!)。他愛のない話で時間をやり過ごしていたら、いきなり、その女性が顔を近づけ、私の耳元で、「いいのよ、ホテルへ行っても」と、甘く(?)囁いた。
この積極性に余計、引いた。普通なら、男は女性からこんなことを言われたら嬉しく、天にも昇る気持ちになるところだ。私自身も散々、テレクラで粘り、釣りあげたのだから、本来であれば話に乗らなければいけない。ところが、なかなか、話の先へ行く気になれないのだ。
まだ、「草食系」や「肉食系」などの“陳腐”な表現がない時代だった。そんな例えで敢えていえば、私はテレクラに行くくらいだから、「肉食系」で、性欲旺盛だった。ところが、あまり“やる気まんまん” (©横山まさみち)に迫られると、こちらも思い切り引いてしまう。
ご存知の通り、意外と強引になれず、押しも弱い私だが、逆に、相手が無理矢理に押してくると引いてしまうもの。天邪鬼なものだが、そんな弱腰の態勢のせばかりでなく、私の中の危険を察知するレーダーが反応していたことも確かだ。
深夜に埼玉から渋谷までタクシーで来てしまうくらい思い込みが強い、しかもすれ違った(!?)後に指名コールをされたことで、ストーカー的な資質を感じた女性だ。セックスなどしたら、面倒くさいことになる、後にテレクラ界で流行る“地雷女”になりそうな予感を抱いたのだ。
性欲にまみれていても理性はなくしてはいけない。我ながら、遊びながらもちゃんとわきまえている。たった一度の火遊びで、人生を台無しにしたくない、と漠然と考えていたのかもしれない。単純に容貌が好きか嫌いかだけでなく、その女性が放つ危険な香り(異臭!?)が私を遠ざける。
ちなみに、その女性の容貌だが、当時、人気だったロック・バンドの女性キーボード奏者に似ていた。多分、同じバンドのメンバーと結婚したはずだ。前述した通り、笑うと、独特の不気味さがある。怖いと感じてしまう。体系もスレンダーというより、痩せぎすといったようなスタイルで、あまり、抱き心地がいいとは思えない。勿論、抱く気はない(笑)。すべてがきつかった。
円山町へ
甘い囁きをさりげなく聞き流し、かみ合わない話をしながらも、時間をやり過ごそうとするが、なかなか、時間は過ぎていかない。始発まではまだ大分ある。「変な人についていっちゃだめだよ」と、子供に諭すように言い含め、先に帰りたくなるが、流石、そこまで非情にはなれない。そのうち、だんだんと眠くもなる。当時、深夜喫茶は、睡眠が禁じられていて、仮眠などしていると起こされてしまう。その頃、いまのようなネットカフェや漫画喫茶があればきっと、利用していたはずだが、まだ、そんなものは出揃ってはいなかった。
仕方ないので、深夜喫茶を出て、道玄坂を上った。女性は嬉しそうに腕を絡めてくるが、横断歩道を渡る隙にさりげなく振りほどく。露骨に嫌な顔は出来ないので、あくまでも自然な流れで離れた、といったそぶりをとる。道玄坂を上ると、百軒店を過ぎ、円山町の入口になる。いまのようにクラブやバー、ライブハウス(「オンエアー」が出来たのは1991年)などもなく、あるのはラブホテルばかり。その街に消えるものたちの目的は既に決まっていた。
円山町は道が入り組み、迷路のようになっている。実際、その時、どこにいたのか、どこのホテルに入ったかは覚えてない。道玄坂から東急本店に抜けるメインストリートに面したホテルではなく、少し奥まったところだったと思う。まさに意を決して、ラブホテルに突入だ。嫌々に不承不承でラブホテルへ行くなんて、初めてのこと。考えてみれば、これまでとは真逆の展開だ(いつもはこれから始まることに期待を込めつつ、喜々として入った)。深夜なので既に休憩料金ではなく、宿泊料金になっていた。多分、タクシーで帰った方が安かったと思う。
蛇に睨まれた蛙
派手な内装や凝った間取りではなく、とりたてて記すべきものがない、何の変哲もないラブホテルだった。昔からある連れ込み宿的な風情があったことだけは覚えている。たたきを上がると和室があり、障子の向こうには寝室がある。畳に座り、机を囲み、お茶を飲む。まるで、不倫旅行にでも来たような感じになる。和室から寝室へ目をやると、当時の流行なのだろうか、浴室がガラス張りで、寝室から見えるようになっている。ここら辺は、せめてもか、ラブホテルらしいところ。
うだるような暑さだった。汗もかき、身体もベタついている。その女性は風呂に入ると言うと、急ぐように浴室へ消えた。ガラス越しに薄ぼんやりと、シャワーを浴びる肢体が見えるが、敢えて見ないようにする。もし間違いでも起こしたら、大変なことになる(笑)。浴室から出てくると、その女性は裸体をバスタオルを包んだだけの姿だった。すっかり、やる気だ。私も汗だくなので、シャワーを浴びることにする。汗を洗い流しながら、この絶体絶命のピンチをどう切り抜けるか、考えを巡らす。と、その時、天啓のように閃いた。「星空のドライブの看護師作戦!」(もう随分前のことになる。連載では第5回だ。シティ・ホテルでのプール・デート後、「星空のドライブ」をした看護師を覚えているだろうか。彼女はホテルに入り、ベッドを共にしながらも「好きな人とでないと、できない…」と、言い放ったのだ。この手がある!)があった。
浴室から出て、脱衣所で、濡れた体をバスタオルで拭き、ホテルの浴衣を羽織る。裸体にバスタオルだと、変な期待をさせてしまう。
寝室ではなく、和室へ行き、冷蔵庫から清涼飲料水を出し、火照った身体を静めていく。その女性にも勧める。コップの縁に口をつけると、性的なものを暗喩させるようなしぐさで、飲み干す。目つきも獲物を狙うように妖しい光を帯びる。まるで、私は蛇に睨まれた蛙だが、修羅場を切り抜ける算段はついている。「大丈夫だ、頑張れ、自分」、と、心の中で言い聞かせた。
前のめりになっているその女性をすかし、かわすように、少し落ち着いた声色で話し始めた。
「ぼくは、そんな男性じゃないから」
(そんな男とは、いきなり会った見ず知らずの女性と一夜を共にするような男性のこと)
「身体目当てじゃないんだ。何もしないよ」
(勿論、テレクラだから身体目当てできている)
天使と悪魔ではないが、誰も二面性があるもの。まったく意に反することを、さもいい人という面持で、しらっと言う。“なんて誠実な人、変な人じゃなくて良かった”と、思ってくれることに賭け、一芝居を打ったのだ。
本来、“誠実さのかけらもなく、笑っている”(©ブルーハーツ)ような人間だが、相手のことをさも大事に思っているように見せかける。
多分、いま、こんなことをラブホテルというシチエ―ションでいったら、女性に興味がないと思われるか、自分が女性として見られてないと思い、女性自身がショックを受けるはず。昔は、敢えてセックスしないことが“いい人”だと判断され、通用する、のどかな時代だった。
その女性は不満な表情を浮かべつつも、なんとなく、私の誠実(!?)な対応に納得したようだ。かの「星空のドライブの看護師作戦!」、我、成功せり、である。
ただ、睡魔が襲い、性欲は限界ではないが、睡眠欲が限界に近づいてきた。始発の時間まで、寝ることにする。寝室には当然の如く、ベッドがひとつしかない。仕方なく、二人で寝ることにする。
しかし、ベッドで二人いることで、何か間違いが起こってはいけない。ここは慎重な私のこと、しっかりと、「星空のドライブの看護師作戦!」に続く、次の作戦は用意していた。
“誠実な人”
まず、その女性にベッドに寝てもらい、その上から掛け布団を横にして掛ける。そして、私も横になり、掛け布団の上に寝る。そして、掛け布団を折り曲げ、身体に掛ける。こうすると、直接、肌と肌が接しないようになる。丁度、コンビニのおにぎりのようなもの。ご飯と海苔が包装フィルムで仕切られ、直に接しないようになっている。それゆえ、食べる時にフィルムを剥すので、海苔がべとべとになることなく、パリッとした食感で、食べられる。
コンビニのおにぎりの包装方法のような形で、寝ることになった。いまにして思えば、この「コンビニのおにぎり作戦」、かなり滑稽ではあるが、その時は、生身の女性が隣に寝ている気の迷いで、良からぬことをしてしまうかもしれない、そんなことは決してあってはならない──そんな思いで、布団にくるまったのだ。
なんとなく落ち着かず、浅い眠りが続き、何度も目を覚ますが、欲望に駆られることなく、気づくと、完全に寝落ちしてしまった。
不思議なもので、こんな時は早起きになる。多分、6時過ぎには目覚め、顔を洗い、歯を磨いていた。起きてきたその女性に、おはようと、優しく声をかける。約束通り、何もしてない。“なんて誠実な人だろう”と、彼女は思っていると勝手に判断させていただいた。
着替えてもらい、ホテルを出る準備をする。一番近い駅はと聞かれ、京王井の頭線の神泉の駅を教え、ホテルの玄関を出たところで、「じゃあ、またね」と、心にもないことを言って(勿論、連絡先など聞いていないし、教えていないので、会う術などはない!)、別れる。もう朝だ。ホテル街を一人で歩いても危険なことはないだろう、と判断し、その女性を“放流”した。
私は渋谷駅を目指し道玄坂を急いで下る。修羅場(!?)を無事に切り抜けた安堵感に包まれる。やはり、この日も朝だというのに日差しは強く、眩しいくらい。また、汗をかいてしまいそうだ。駅の売店には、昨夜の“臨時ニュース”で、第一報が流れた“事件”を報道する朝刊が並ぶ──。