2012-08-20

第13回■LOSER’S GAME

セックスしたくなる記号

あまりに呆気なく、一線を越えてしまった。それまで散々、苦労し、策を弄しても果たせなかったことが、いとも容易く、それも自然な流れの中、恋愛という取り引きもせず、セックスをすることができたのだ。それまでの負け戦(?)が嘘のように、勝ち戦(!)へと転じる。詰めが甘く、強引になれない私でさえ、詰めることなく、強引になることもなく、セックスへ持ち込んだ。

過激な性描写は自主規制し、控えさせていただくが、あんなこともこんなこともしたと思う。“大人のエッチ”という感じで、欲望や願望を遠慮会釈することなく、二人は絡まり、睦みあう。まさに、“決めた、今夜!”、“なんだか、いける!”である。その時ばかりは、毎度、お馴染みの“トホホ…”というBGMは鳴り響かなかった。

一夜を共にした30代の独身女性。前回も書き記したが、決して器量がいいとか、見目麗しい美形というわけではない。ただ、性的な匂いだけは漂わせていた。思わず、セックスしたくなるような要素や記号が彼女にはばら撒かれていた。そういう点でいえば、30代で独身、一人住まい、むっちりとした肢体にいやらしい下着、甘えるような媚態、性に対して積極的……充分過ぎるほどだ。普通の男子であれば、ふるいつきたくなるというもの。セックスの対象としては、極めて、リアルな存在であろう。

テレクラ男子目線の“女の価値”

「女性の価値」などと、男性目線で語れば傲慢の誹りを免れないが、当時のテレクラ男子の立ち位置でいわせてもらうと、セックスができるか、セックスができないかで、その価値的な数量は上下も増減もする。モデルのように綺麗、アイドルのように可愛いなど、女性の美醜を推し量る物差しはあるものの、テレクラ男子にはもう少し実用的な物差しがあった。それは“セックスができるか、できないか”だ。
相手がやらせてくれる、やらせてくれないばかりではなく、自分自身ができる、できないも大きい。その女性“性”が男性“性”を刺激し、臨戦態勢にしてくれるかも重要である。下品な表現で申し訳ないが、やれる女か、やれない女か(あまり、「やる、やれない」など、直裁な言葉は好きではないが、わかりやすくするためなので、お許しいただきたい)が大事だったりする。

テレクラというフィールドはオーディションやコンテストの会場ではない。スターやアイドルを探す必要はないのだ。勿論、スターやアイドル候補生と出会えれば嬉しいが、変に甘い夢を抱かず、それより、確実にセックスできる女性を探す、極めて、実用的、実戦的な荒地である。セックスしたい男性がいて、セックスをさせてくれる(セックスをしたい)女性がいる、それだけで充分である。女性を前に審査員を気取り、目で愛でるより、“身体で味わう”という、実用的な女性があくまでも優先される。

当時の男性週刊誌風の、軽佻浮薄な表現を敢えてしてみれば、“やりたボーイがやりたガールに出会う場所”ということだろう。

テレクラのヒロインは「エロブス」

そのやりたガール、やりたがるだけに、とてつもないエロスを携えている。淫靡な仮面を被り、官能の鎧を纏う。美形や器量良しでなくてもエロい女性こそがテレクラでは実質的な主人公(ヒロイン)であった。私的には、そのような女性を「エロブス」と、勝手な呼称で、当時の遊び仲間の中では、表現させていただいていた。確かに美人ではないが、どこか色っぽく、男の噂や影が途絶えない。はたから見れば、どうして彼女がもてるのかわからないが、男を捉えて離さない、男から引く手あまたという女性のことである。誰もがアイドルやモデルのような端正な容貌の女性を好むわけではない。むしろ、整わないことがエロスの源であり、何かが欠ける、どこか整っていない、不完全や不均衡であることが情欲を掻き立てることもあるのだ。グラビアやAVを眺めるのではない、セックスという生のやりとりである、実態が伴う、絡みである。だからこそ、表層的にブスであることより、内実的にエロであることが立ちあがってくる。テレクラ実用主義者、テレクラ功利利主義者としては、エロであることが優先されるべきものだ。

木嶋佳苗のとてつもないエロス

昨今、“平成の毒婦”といわれた殺人事件の容疑者の容貌のことが喧伝され、何故、あんな女にいともたやすく男が騙されたのかと議論された。だが、私としては、それもわからないでもない。彼女は、決してマスコミが煽るような“ブス”ではないと感じていた。少なくとも “ブスのルサンチマン”が犯罪の温床とも思えなかった。むしろ、自らの性的な機能を特別なものと証言し、話題にもなったが、表面的には良妻賢母風の家庭的な女性と見せかけ、そこには性的な優位性を自慢するような、とてつもないエロスを内包している。女性に免疫のない男性がひっかかったというが、そうでなくても彼女が次々と男を毒牙にかけ、落としていくのがわかる(状況証拠だけなので殺人を犯したとは断定できないが、ある意味、蜘蛛女的な手技は弄したのは間違いない)。この“平成の毒婦”、私の定義する「エロブス」と被る。法廷ルポなどを読むと、彼女自身、優雅な佇まいの中に、どこか不均衡さや不自然さがあったと書かれているが、むしろ、それさえ、エロスを増幅しているような気がしてならない。

かの毒婦を論評することが本題ではないが、セックスというフィルターを通すと、見える景色や背景も違うということである。同じ脚本でも全く違うドラマが展開されることもあるのだろう。

テレクラの流儀は“低め打ち”

後年、テレクラでは「テレ上・テレ中・テレ下」など、美醜のランキング(!?)を示す用語が一般化するが、それは世間の物差しや座標より、基準を少し低いところに設定されていた。テレクラでは、好球必打でホームランやヒットを狙うだけではなく、低めでもバウンドでもとにかく打ち、出塁しろと、いわれている。ストライク・ゾーン(というか、ヒット・ゾーン)は上にも下にも縦にも横にも広い方がいい。バットは振らなければ、塁に出ることはできないのだ(当たらなくても振り逃げという方法もある!)。いわゆるやったもの勝ち、という状況。同時に、それだけ間口を広げれば、セックスの成功率も上昇していくというもの。

「勝ち組・負け組」みたいな表現が一般化(当然、第二次世界大戦後のブラジルの日系移民の話は抜かす)するのは、バブル崩壊後、90年代から00年代にかけての格差社会以降だと思うが、それ以前、男女ともそんな分類や区分があったような気がする。バブル華やなりし頃、派手に着飾り、女であることを武器に、男をアッシー、メッシー、ミツグくん扱いする、自分を高く売りつける“タカビー”(1990年には俗語として登場している)な女性がいる一方で、地味といわないまでも外見的なことを武器とせず、変に高く売りつけることもなく、むしろセックスをさせることで、女であることの自尊心や自己承認欲求を補填する女性もいた。ある意味、両者とも性を取り引き、駆け引きにしているが、それには落差や誤差がある。

二極分化などというと短絡的かもしれないが、テレクラという風俗(風俗産業という意味の風俗ではない)には、そんな「負け組」の男と女が吹き溜まりつつあった。本当の意味で、吹き溜まるのは数年後だが、当時から自嘲気味にテレクラなんかに行く男、テレクラなんかにかける女みたいな視点や目線があったように感じている。いわゆるディスコ(まだ、クラブの時代ではない)やパーティなどが晴れやかな「ハレ」としたら、テレクラは、しみったれた「ケ」だ。地縁、血縁のないところの非日常で、ハレであるはずなのに、ケであるというのは論理矛盾のような感じもするが、決して、誰にも誇れるような晴れがましい場ではないことは確か。テレクラで出会った男女の多くが出会いの契機が同所だったことをカミングアウトできないでいたのも、そのような理由からだろう。出会いのメディア・ヒエラルキーとしては、低位に位置していたのだ。ソーシャル時代のいまであれば、SNSやFacebookで、出会ったといっても、誰も指弾されないのとは、大きな違いがある。テレクラそのものは、アングラとはいえ、ソーシャル・メディアの先駆けであるにも関わらず、認知されることのない私生児、時代の鬼子のような存在かもしれない。

かのクラッシュも憧れたグラムロック・バンド、モット・ザ・フープル。彼らが1973年に発表した『革命』というアルバムの中に「モット・ザ・フープルのバラード」という曲がある。その中で、イアン・ハンターは“ロックンロールは敗者のゲーム”と、歌っている。
そういう点でいえば、テレクラは“敗者のゲーム”かもしれない。あらかじめ失われし者たちが集い、遊戯に興じる賭博場のようなもの。失われたピースのひとかけら、ひとかけらを寄せ集め、どこかで、心や身体の隙間を埋めようとしている。そんな気がしてならないのだ。

尾崎豊は「僕が僕であるために」で、“僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない”と歌っているが、むしろ、負けることを知ったからこそ、私自身は、勝ち続けることができたのではないかと、考えている。まるで、先のロンドン五輪で、3連覇を成し遂げた吉田沙保里のようだ。彼女は五輪前、5月の国別対抗戦W杯で、4年ぶりの黒星を喫したが、その「負けを知って、また、強くなれた」といっている。負けを知らなければ、勝つ意味を知ることや技を磨くこともなかっただろう。まるで、武道や剣術の極意のようだが、テレクラ道(!?)を極めるとは、そういうものである(当然の如く、極めるなど、遥か、先のこと。勿論、極めたかどうかは、未だにわからない)。

嘘のはてに

その女性との濃厚な時間は、数時間にも及び、知らぬ間に朝になっていた。寝る暇も惜しんでではなく、丸裸で、絡まりながらも、どこかで寝落ちしてしまっていた。特にアラームをかけたわけではないが、自然と目が覚める。気だるい空気に包まれながら、窓の外に目をやると、すっかり明るく、強い日差しが眩しい。まさに、絶好のドライブ日和である。しかし、当たり前だが、車があるわけでも、ましてや免許もあるわけではない。

特に、この連載で、自らのろくでなしぶりを自慢気に(まるで、元ヤンが昔は悪かった的に)カミングアウトをするつもりはないが、いま思い出しても自分自身、いい加減というか、とんでもない奴だと、自己嫌悪(というほどではないが)に陥る。ドライブを約束していたが、急に用事があったことを思い出し、帰らなければならなくなった、と、平気で言い放ったのだ。多分、そのままではなく、少しは言い訳らしいことも付け加えてはずだが、その時、どんな風に取り繕ったかは、すっかり忘れた。とりあえず、セックスしたら帰ってしまうなど、現金なことこの上もない。まさに、「やり逃げ」(今回の原稿、下品な表現の多用、お許しいただきたい)である。なんと適当(というか、なんと調子いい)なのだろう。何十年も前のことだが、いま思い出しても赤面し、反省したくなる。ところが、彼女は約束を反古にしたことを叱責するでもなく、私を開放(特に脱出を試みたわけではないが、開放という言葉が相応しい)してくれたのだ。

その時、ドライブという“嘘”はセックスへ切り替わった。いまにして思えば、ドライブしたいは、セックスしたいと同義語だったのかもしれない。「ドライブ」は「セックス」のための理由や言い訳だったのではないだろうか??