2012-08-05
第11回■北京的西瓜(ぺきんのすいか)
1989年
北京的西瓜――カレーライスに続く、食べ物シリーズではない。勿論、海外遠征でもお盆時期の納涼サービスでもない。1989年という年を思う時、私の頭に同題の映画が去来する。いうまでもなく、『北京的西瓜』は、かの大林宣彦が監督し、1989年11月に公開された映像作品である。
尾道三部作などで知られる青春映画の巨匠・大林宣彦と、エロまみれのテレクラ男子、およそ、似つかわしくない取り合わせだが、大林の初監督作品『ハウス』の音楽を当時、好きだったバンドが担当していたこともあって、同作を契機に、彼を知り、一般男子同様、『転校生』や『時をかける少女』、『さびしんぼう』など、前述の尾道三部作に嵌ってしまった。『廃市』や『野ゆき山ゆき海べゆき』、『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』(“ミナミの帝王”になる以前の竹内力が主演。「愛は勝つ」以前のKANが音楽を担当している。1988年の作品)など、比較的、知名度のないものまで、追っかけるようにもれなく見ていたのだ。
『北京的西瓜』は、千葉・船橋市郊外の八百屋「八百春」の主人と中国人留学生との交流を描いた映画だが、実話を元にしている。「八百春」の主人は、中国人留学生が日本の野菜が高くて買えず、困窮する彼らを見かね、店の野菜を原価以下で販売して援助をして行く。留学生達は「日本のお父さん」と慕って集まってくる。慕ってくる留学生に対して身を投げ出して献身的に関わるようになるが、やがて店の経営は傾き出す。実際に、その模様は新聞などにも報道され、八百春をすくうための基金も募られた(ちなみに、私も募金した)。
後年、中国に帰国した留学生は中国の官僚や政治家などになり、日本のお父さんを中国に招待する。当然、映画でもそのシーンが北京で撮影されるはずだった。
しかし、1989年6月4日に起こった「天安門事件」のため、撮影ができなくなってしまう。そのことを留めるため、日本で撮影した北京のシーンに37秒の空白が挿入された。37秒とは、1989年6月4日を数字にして全部を足した時間(1+9+8+9+6+4=37)である。画面がまるで事故でも起こったかのように意図的に37秒間、真っ白になるのだ。
特に声高に批判や批評などはないが、大林監督なりの主張であり、天安門事件があったことを書き留めなければならなかった。当時、大林監督は“映画が現実に負けた”みたいなことを語っていた(勘違いなら、申し訳ない)。映画としては、きわめてバランスを欠く表現かもしれないが、そうせざるを得なかった。大林監督といえば、前年の『おかしなふたり』まで、黒い画面上に線が四角く引かれ、その中に “A MOVIE”という文字が表れるオープニングがファンの間では有名だったが、“A MOVIE”という枠を超えてしまう“事件”が起こったのだ。
考えてみたら、1989年は、天安門事件だけでなく、東欧の自由化、ベルリンの壁崩壊など、大きく時代が揺れ動いていた。
そして、“崩御”。昭和から平成へと変わったのも1989年である。1月7日のこと。前年末から、その“ご容態”がテレビなどで逐一、報告され、その前後には歌舞音曲の自粛など、重苦しい空気が時代を横溢していた。その日から暫くは、テレビの画面からバラエティやドラマなどが消えた。かの「3・11」後のようでもあった。
私の1989年1月7日といえば、そんな自粛とは関係なく、仕事仲間と群馬へ温泉旅行に出かけている。特に予定を変更することなく、そのまま旅行を敢行したわけだが、その温泉旅館では、男性だけだったので、番頭が気をまわし、コンパニオンでも呼びましょうか、と、甘い言葉を囁かれた。世の中は自粛ムードだが、地方の温泉では、破廉恥な乱痴気騒ぎという、そのギャップがおかしくもあった。流石、親父旅行ではないので、温泉コンパニオンは遠慮させていただいた(私的にはありだが、仕事仲間なので、初心なふりをしていた)。
バブルは経済的には、まだ、終焉を見せずにいた。ただ、ある意味、“終わりの始まり”は始まっていたかもしれない。世の中の雰囲気は、自粛ムード後は新世紀への祝祭モードに切り替わり、崩御前後のうつ状態から再び、躁状態へとなっていった。
昭和から平成へに代替わりすることで、何が変わったかわからないが、一時の重苦しさが一瞬にして晴れたようにも感じていた。人の心にどのように影響があるのか、知る由もないが、テレクラという窓から社会を見ると、僅からながら風向きや潮目が変わってきたように感じる。
バブルを享受できる、できない、また、どこにいるかで、世の中の見え方は違うかもしれない。私といえば、調子をこいていたと思うが、何か、イケイケな高揚感があった。私が長いこと信頼を寄せていたパンクバンドが休眠状態(勿論、引退していたわけではないが、音楽的にレイドバックし、その活動も緩やかにしていた)を脱し、戦闘態勢(それまで髪は伸ばし放題だったが、デビュー時のように、気合の入ったパンクヘアーに変身。その音楽も時代を照射する先鋭的な言葉を鋭角的な音にくるんだものになった)で、復帰したことも大きかった。“1989年のパンクロック”、まさに、そんな言葉が相応しい。いま、何かが始まる、動き出すべきだ。そんな思いが突き動かした。といっても、私としたら、テレクラに行くくらいだ(笑)。
ポリアモリー
“カレーライスの泣きむし女王”の前後で、新宿のテレクラで会った“離婚歴&子供ありの30代肉感女性”とは、細々だが、連絡は取り合ってはいた。
何度か、居酒屋デートを繰り返し、セックスできる隙を伺っていたが、なかなか、好機は訪れない。あっさり、さっぱりと、女性離れがいい私だが、新たな狩場や釣り場で、試し打ちをしながらも“離婚歴&子供ありの30代肉感女性”は繋げていた。いまでいうところの“キープ”という状況だろうか。
テレクラ男子には一途などという言葉は似合わない。いわゆる普通の恋愛ではないところで、戦いを挑んでいるから、二股や三股などは当たり前だ。出会いの乱脈経営みたいなものだが、テレクラ男子は延縄漁を得意とするところ。一時に広範囲に仕掛けを施す。後年、出会い系などで、既に恋人を探し、恋愛関係になっているにも関わらず、新たな相手を探す書き込みを見つけ、トラブルになったりすることが問題になったが、ある意味、既にそんな“時間差乱交”状態の萌芽もテレクラにもあった。私自身はなかったが、テレクラで会ったことのある女性と再び、電話が繋がってしまうということもあった。テレクラにいる男性も男性なら、テレクラにかけている女性も女性ということだろう。いまであれば、ポリアモリーなんていう便利な言葉もある。ちなみに、“ポリアモリー (Polyamory) とは、つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定しない可能性に開かれていて、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のこと”である(某ウィキペディアより)。
テレクラでの出会いと普通の恋愛関係を同次元に語ってしまうのは無理があるかもしれないが、まだ、恋愛を取り引き材料にしつつ、どうしたらセックスができるかを試みていた時代でもあった。デートなどという面倒くさいものにも時間を費やすことなど、いまとなっては面倒臭く、馬鹿らしいことだが、まだ、そんなには話が早くはなかったと思う。
離婚歴&子供ありの30代肉感女性とのデートで、いまでも覚えているのが混浴温泉デート(!?)である。混浴温泉といっても、山奥の秘湯へ行ったわけでもない。東京の下町にある、ひなびた健康ランドへ行っただけだ。いまなら「大江戸温泉物語」や「ラクーア」など、こじゃれたところもあるが、まだ、そんな時代ではない。その健康ランド、入浴施設は当然、男女別だが、温泉プールがあり、そこでは水着着用であれば男女混浴(正確には混浴とはいわないか)になる。
プールといえば、“星空ドライブの看護師”が懐かく思い出される(当時としたら、そんな前のことではないが、既に懐かしいものになっていた)が、どうやって裸にするではないが、一枚一枚と服を脱がすより、水着になってもらえば手っ取り早いという発想もあった。ひょっとしたら、水着萌えもあったかもしれない(笑)。
恒例の水中でのじゃれ合いを楽しませていただいたが、お互いの水着の中に手を入れ、局部をまさぐったりもした。AVの露出ものみたいだが、水面下で、他の人から見えないところでは、かなり過激なことをさせてもらった。意外とそういうところには乗ってくる。特に嫌がるそぶりも見せず、恥ずかしながらも破廉恥な行為に応じてくれる。そういうことは平気でさせてくれるものだから、今夜はなんだか、いけそーな気もしてくる。
彼女とは、そこまでは何度も行く。後、一押しである。なかなか、諦めきれず、性懲りもなく挑むのは、“肉感”と書いてあるように性的な匂いを持ち、それに惹きつけられるからだ。また、離婚歴&子供ありという身の上(というか、記号)もある意味では興奮させられるものがある。
『未亡人下宿』シリーズ(サングラスにちょび髭がトレードマークのかの山本晋也“カントク”のヒットシリーズ。すごいですねぇ)ではないが、旦那がいないため、生活も困窮し、かつ、欲求不満で、男を欲しているという成人映画のようなファンタジーを抱かすには充分である。彼女自身は当然、未亡人ではないが、ちょっとした薄幸な匂いも漂わす。多分それは、彼女が子供と暮らす、決して豪華とはいえないマンションという名のアパートに行ったことがあるからだろう。
男とは単純なものだ。男の性的な妄想は、ある種の記号(それは人妻や看護師、先生などでもいい)に喚起されるという、今も昔もそう変わらないところがある。
“水中遊戯”で、さんざん触りまくり、前戯はばっちりと、健康ランド後にお誘いをしたら、あっさりと断られた。めげずに一押し、二押しすればいいものの、相変わらずの私である。この詰めの甘さ、優柔不断さゆえ、また、もろくも淡い妄想は崩れ去るのである。未亡人下宿は男のロマンだなあ、メルヘンだなあでしかない。私のチョメチョメ(毎度、お馴染み、昭和の山城新吾ギャグ・シリーズである!)な欲望はかき消される。
毎回、負け戦(!?)が続く私だが、それが連戦連勝(なわけはないが)、歓喜の勝ち名乗り(?!)を上げるようになるには、そう遠くはなかった。昭和から平成へと、時代が変わると、緩やかに風向きや潮目が変わってきたのだ。私の中の“37秒”が弾けようとしていた。