2012-07-20

第9回■テレフォンライン(一本の回線が繋ぐ命の電話)

桜ヶ丘

釣り場や狩場を変えながらの転戦の模様を前々回、前回と、報告させていただいたが、テレクラそのものの場所も変え、転戦することになる。

時期はうろ覚えだが、新宿に少し手詰まり感が出て来たため、新宿から渋谷へと、河岸を変えてみることにした。渋谷は通っていた大学や学生時代に務めた会社の事務所があったので馴染の地ではあったが、あまり、遊び場という認識はなかった。

その店は「アンアン」という某女性誌から拝借したような名前(風俗店には、この手の店名が多い)で、渋谷でも少し奥まった桜ヶ丘にあった。

当時、桜ヶ丘は渋谷駅に近いにも関わらず、マンションや住宅が立ち並ぶ、閑静なところだった。道玄坂や宮益坂などにあるテレクラと比較すると、隠れ家的なテレクラといっていい。

同店へ至る手前の坂を上ると、有名な中華飯店があり、その先には、なんと、ドラマ『岸辺のアルバム』のロケでも使用されたラブホテル(当時からかなり老朽化していた)があった。さらにその奥へ行くと、かつて、かのロス疑惑の三浦和義が経営したブティック『フルハムロード良枝』もあった。さらに、S女性とM男性をカップリングするSMバー(まだ、フェティシュバーやハプニングバーなどという言葉ができる前のこと)まであった。閑静な住宅に欲望が渦巻く(!?)、まさに穴場的なところだ。

駅を出ると、センター街など、渋谷の喧騒にまみれることなく、そのまま辿りつけるのがいい。まさにお忍び感覚で、秘密基地に行くという雰囲気が好きだった。歌舞伎町の風俗街的な雑多さは好きだったが、渋谷の学生街的な雑多さには馴染んでいなかったようだ。

渋谷がブルセラや援助交際の街(ブルセラ、援助交際という現象や言葉は90年代に入ってから一般化する)になるには、もう少し時間がかかる。チーマー(チーマーという言葉は1989年に作られたとされている)が出没し、新宿以上に危険な香りを醸す、前のことだ。

その女性の電話を取ったのは、深夜ではなく、まだ、9時過ぎくらいだったろうか。
「アンアン」は早取り制ではなく、取次ぎ制である。どういう経緯で私に回ってきたかわからないが、彼女の声のトーンは低く、ある種のやるせなさみたいなものを帯びていた。いきなり、これから会って、セックスしましょう、みたいな軽い乗りではない。

長い会話になることを覚悟した。セックスできる云々は別として、アポが比較的、容易に取れるようになったのは、私がじっくり話す(というか、聞く)からというのがある。焦ることなく、落ち着いて話を進める。「いま、どこ? これから会わない!?」などと、間違っても、性急に口走らない。

まずは、お互いに簡単な自己紹介をする。その女性は30代の看護師だった。仕事を終えて家に帰ってきたばかりで、誰かと話したくて電話をしたという。彼女は心に問題を抱えていた。ある男性と結婚の約束をしていたが、その男性の母親の反対で、破談となってしまったのだ。

いきなり、重たい話である。確かに、一人で抱え込んだまま朝を迎えるには、しんど過ぎる。少しでも話して、軽くしたいのだろう。
婚約破棄は、その男性から直接言われたものではなく、彼の母親が“宣告”したのだそうだ。本人から言われるのであればまだ納得もいくが、いくら親とはいえ、当事者でもない人間からの一方的な通告。彼女自身、理不尽さを感じ、わだかまりが消えない。婚約者からは一切、連絡がこず、また、連絡をしてもまったく繋がらない状態だという。彼女からしてみれば突然の出来事で、まさに晴天の霹靂。こんな理不尽なことがあってもいいのだろうか、という気持ちである。

他人事ながら、その親子に怒りを覚えた。かの佐野史郎がドラマ『ずっとあなたが好きだった』で、“冬彦さん”なるマザコン男を演じるのは1992年だが、まるで、マザコン男が母親の言いなりになっているようだった。

彼女は、母親の電話を受けてから、食事がのどを通らなくなったという。水分もあまり補給してないようだ。一瞬にして、拒食症になってしまったのだ。

安易な励ましや慰めなどはできなかった。彼女が求めているのは、そんなものではないと感じた。男と女である。何が正しく、何が間違っているかは、一概にはいえないし、軽々しく善悪を論ずるものでもないだろう。しかし、彼女が怒りや憤りを抱くことは決して間違ってはいない。誰が聞いても理不尽なことだ。その思いを肯定はしてもらいたいという気配は感じとることはできた。ともに怒りの炎を燃やし、悔しさの露を払う、共感者(もしくは共犯者?)が必要だった。彼女は自ら抱えている、いいようのないものに対して、第三者の判断を仰ぎたかったのかもしれない。

何故、そう思ったかというと、“証拠のテープ”を聞かされることになったからだ。実は彼女、その母親との会話を自宅の電話の留守電に録音をしていた。

留守番電話。いまでこそ当たり前(というか、様々な機能がついた携帯に比べると、極めて原始的な機能だ)だが、当時はようやく留守番電話が普及したばかり。携帯やポケベルが一般化する以前、家にいなくて電話を取れなくても、相手の用件を聞けるだけでも画期的だった。その機能を利用し、婚約者の母親と会話しながら、留守電のスイッチを入れ、録音していたのだ。

今度はその機能を利用し、私と話しながら、その会話の録音を再生する。一瞬、その母親と直接、話している錯覚を覚える。聞いていると、嫌味なものいいや見下した発言の連発に、当事者でなくても反発を抱き、憤怒の情が込み上げてきた。その理不尽な発言には耐えがたいものがあり、思わず、怒鳴りたくなってしまう。

家柄が違う、などというと、旧態依然のものいいだが、看護師として働いている彼女の職業への不満と、結婚しても仕事は続けることへの反発が、山の手の嫌味な“ざあます”言葉で語られる。慇懃無礼とでもいうのだろうか。罵詈雑言ではないが、そこには悪意と敵意しかない。同時にその背景には、自らの息子が親の承諾しない相手と結婚を考えたことへの焦燥と嫌悪が満ちている。

私自身、ざあます言葉を操る、似非上流階級(!?)には敵意を抱きこそすれ、決して好意などを持つわけがない。

状況証拠や前提条項で判断するのはいかがなものかと思うが、仮に裁判員裁判なら、その女性が正しく、母親が間違っていると、私は判決を下すだろう。彼女はそんな判決を待っていたのかもしれない。

創世記のテレクラの役割

婚約破棄を宣告した会話の録音など、誰にでも聞かせられるものではない。それは、自分の恥部を晒すことだ。だが、テレクラでは容易に晒すことができる。むしろ、テレクラでなければ、彼女の憤りや怒りを思惑や対面を気にすることなく、肯定するという、共感者を見つけることができなかったのだろう。

いくら友達や親類でもいえない、秘密の会話。テレクラだからこそ、彼女は包み隠さずに言うことができたのかもしれない。

私がその会話を聞き終え、同じように怒りを感じたというと、彼女は幾分、元気になって、声のトーンもいくらか高くなってきたように感じた。いったい自分のどこがいけないのか、自分では判断できず、第三者に委ねたかったのだろう。あまりに混乱し、混沌としてしまった自分の揺らぎやぶれをどこかで、修正しなければならない。それをテレクラに求めていた。

テレクラが出会いの機能を果たすのは言わずもがなだが、それ以前は、相談相手を見つけるものでもあった。あたかも子供電話相談室のように、テレクラも、創世記には相談や話し相手を見つけられる場所であることを喧伝していたのだ。「素敵な彼がいる」ではなく、「話を聞いてくれる男性がいる」、ということで、女性側の抵抗感を払拭しようとしていたのかもしれない。

テレクラが、実際に会うためのものではないとすれば、清水節子(テレフォン・セックス考案者。風俗リポーターとして、懐かしや『11PM』などの番組でも活躍。70年代から80年代にかけて一世を風靡した。80年代後半まで開設されていたが、最盛期は70年代半ば)のテレフォン・セックスの素人版みたいなものの端緒といえなくもない。
テレフォン・セックスは当初、いまでいうテレフォン・セックスという疑似性行為をするだけではなく、性の悩みや問題にも答えていた。それと同じように、テレクラ創世記は話し、聞くことだけで完結していたのだ。

同じ量の“怒り”

その女性とは、証拠テープを聞かされてからも延々と話すことになる。実は、私が学生時代に務めていた企画会社の同僚の女性が同じような“痛い目”にあっていた。その女性は仕事の打ち上げ後、酔って、彼の実家に電話したら、たまたま母親が出てしまい、ほろ酔い口調を咎められ、かつ、深夜(といっても11時前だが)まで、仕事仲間といえ、男女複数で、酒を飲むという行為をたしなめられた。彼女自身も婚約をしていたが、母親の意向で、婚約破棄されてしまう。それも同じように、彼からちゃんとした説明もなく、母親からの一方的な宣告によってだ。その彼女は、彼へ電話をしようとしても、実家なのでかけても取り次いでもらえないため(この辺が携帯以前のことだろう)、手紙を送るしかなかった。そこには当時、流行った近藤真彦の「ケジメなさい」(1984年の紅白歌合戦の出場曲!)の歌詞を引用し、“ケジメなさい”という言葉が綴られていた。

しかし、ケジメはつけられることはなく、曖昧なまま、うやむやにされ、傷心の彼女はニューヨークへと旅立ってしまった――。

同僚の女性とは恋愛関係などにはなかったが、大事な仲間を傷つけた、ケジメのつけられないマザコン野郎は、忌避すべきものとして、心の片隅に置かれたのだ。

それゆえ、30代の看護師の女性の“悲劇”は、他人事と思えず、身近なこととして憤慨もした。その女性と同じ怒りの量で、怒りを持ったといっていい。

話は延々と続き、朝を迎える。始発の走る時間である。私も仕事があったが、彼女は、食事ができないだけでなく、ほとんど寝ることもできていないという。性欲は抑制できても食欲や睡眠欲は堪えることができないものだが、完全にその欲求が減退している。それが続けば、彼女の身体が持たないばかりか、精神的な失調も起こしかねない。

私は話を切り上げ、まずは寝ることを促した。寝なければ、意識も朦朧とし、適切な対処方法なども見つからないというものだ。

彼女自身は話し足りないらしく、もっと話したいという。思わぬアポだが、その日の夕方に会うことになる。公園通りのパルコの前で、待ち合わせることにした。さすがに渋谷のハチ公前では、人が多過ぎ、待ち合わせてもわからない。我ながら、正しい選択だと思う。

彼女の服装を聞くと、大きな花柄のワンピースだという。目鼻立ちははっきりして、派手目ともいう。看護師とは“星空のドライブ”をした女性以来、ときどき、テレクラで遭遇する機会があった。なにしろ、テレクラの御三家的(看護師や保母、主婦などが当時、テレクラを比較的、頻繁に利用していた。勤務時間や育児の時間、友人との祝日の関係で、出会いが限られる)存在でもあったからだが、看護師は、仕事場ではどちらかといえば地味で、華美さより、清楚さが求められる。しかし、オフになると、派手な服装や化粧をするという女性が多かった。電話の内容と、服装や容姿に違和感を若干、覚えつつも、看護師だからそういうものだろうと、勝手に判断した。

その朝、テレクラを出て自宅に戻り、1時間ほど仮眠をすると、仕事先へ向かった。あまりの睡眠不足で、たいして仕事にならなかったことを覚えている。とても給与に見合う仕事をしていたとは言い難い。申し訳ない(涙)。

約束の時間までになんとか仕事を切り上げ、仕事場から渋谷へと急ぐ。果たして、彼女は来るだろうか。かなり朦朧とした中でのアポだから難しいところかもしれないが、しかし、数時間、それこそ、夜から朝まで話し合った二人である、信頼感みたいなものも芽生えているはず。まさか約束は破られることはないだろうと、信じていた。まだ、人の心や情けが信じられる時代でもあった。
渋谷駅から公園通りの坂を、パルコへと上った。するとそこには、“一杯のかけそば”ならぬ、“一杯のカレーライス”という“ドラマ”が待っていたのだ。