2012-06-29
第6回■BOYS BE DESIRE,JUMP THE MIDNIGHT!
いつしか、季節は夏から秋へと移る。“星空のドライブ”を共にした我が愛しの欲望のマーメイドとは、その後も何度か、会うことになった。特に付き合いをしている女性がいなかったので、彼女といえなくもなかったが、そんなことはこっちの勝手な思い込みだし、私自身、彼女が欲しいとも思っていなかった。
セックスフレンドという言葉が流布するのは90年代からだが、セックスができる女性がいれば良かった。二人で映画を見たり、遊園地へ行ったりなど、したくもなかった。前戯としてのデートという発想でしかなかった。若者向け男性誌では盛んにデート特集をやっていて、バブル時代を象徴する、いまにして思えば夢のような高級ホテルでのディナーやクリスマス・デートなどが紹介されていた。しかし私は、それは時間と金の無駄であると断じていた。
とはいうものの、下心もあり、その女性とはデートらしきことを続けていた。何度目のデートか忘れたが、歌舞伎町を職安通りに向かう、奥歌舞伎町という感じのところに、私のお気に入りの台湾屋台料理の店があり、いっしょに行ったことがあった。値段も手頃で、かつ、ホテル街の中にあるという、私のような人種(どんな人種!?)には、うってつけの店。
台湾料理をつまみながらビールを飲み、他愛のないことを話ながら時間をやり過ごすと、既に終電の時間は超える。勿論、意図的だ。あとは泊まるしかない状態に持っていく。幸い、周りはホテル街という理想的、思惑通りの展開だ。ホテルに誘うとすんなりとついてくる。今回は最後までという期待で、心臓が早鐘のように打つ。今度はしくじらない、強引にでも決めてしまえという思いも込み上げる。“きめてやる今夜”(BY 沢田研二)だ。
そこは当時のラブホテルらしく、風呂場がガラス張りで、照明を落とさないと丸見えになってしまうしつらえになっていた。さすがに明るいままではお互い恥ずかしいので、弱冠暗くしつつもなんとなく見えるという微妙な明るさに調整した。淡い光の中に彼女の身体がぼんやりと浮かぶ。彼女がシャワーを浴びた後、私も風呂へ入る。期待に胸を膨らませ、股間も膨らませる、と親父ギャグを入れておきたいところだが、多分、邪まな下心というか、そんな印を見られるのは恥ずかしいので、自制していたはず(笑)。
ベッドに入ると、いきなりキスをされる。口の中には飴玉が入っていて、それを口移しされる。大阪のおばちゃんではない、いきなり飴ちゃん攻撃だ。不可解な行動に頭をかしげつつも、気分は思い切り盛り上がる。口移しなど、なんと淫靡な行為だろう。
これは行ける。そんな確信を得る。これから始まることを存分に期待させる。前戯として、これほど、脳内物質を分泌させる行為はないだろう。身持ちの固い彼女も漸く、私を受け入れる心構えができたか。努力(!)の甲斐もあった。投資に見合う結果を得ることができようとしていた。
ところが、だ。またもや、そんな野望は脆くも打ち砕かれた。抱き寄せ、やや強引に挑もうとした刹那、背中を向けられてしまい、以前のように、やっぱり、出来ないと、拒否されてしまった。“仏壇返し”ではないが、無理やり抱き寄せ、はぁー? ここまで来て、何、恍けてんだ!と、思わず“ベッドやくざ”になるところだったが、私はDV男ではない。女性に優しい、聞き分けのいい男だ。すごすごと引き下がってしまう。そして歌舞伎町のラブホテルのベッドの上で、眠れる夜明けを、二人でいるにも関わらず、一人で悶々と迎えたのだった。
「『いき』の構造」
多分、その女性とはそれきりだったと思う。前述通り、恋人が欲しいわけではない。セックスできる相手を探しているだけだ。そのために恋人モードを演出し、恋愛詐欺をする気もなかった。もちろん、テレクラで、見ず知らずの女性に出会えてしまうことの驚きや楽しみがあったが、それだけではなく、根底には、手っ取り早く目的に到達したいという思いもあった。だからこそテレクラに走ったのだ。
そのデート後、彼女から手紙や電話を貰ったが、適当な理由をつけ、会うことを断り、疎遠になった。別れ話を切り出すでもなく、自然消滅を狙ったのだ。散々、寸でのところで、私を袖にしながら、それでも会おうという彼女の気持ちを当時は理解できなかった。いまなら、なんとなく、理解できる。マズローの「欲求段階説」ではないが、その女性にとって、手順や順番を踏む、段階を経ることが大事だったのかもしれない。「好き」とか、「愛している」とかを嘘でも言っておけばよかったのだろう。しかし、誠実な私(笑)は、そんな嘘はつけない。もっとも、“出会い系”の世界で、そんな段階が取り払われるには、そう時間はかからなかった。それは、また、別の話として、話を先に行かせていただこう。
いうまでもなく、私は切り替えが早い。そんなにも早く切り替えができるのは、ある本の影響でもあった。実は、九鬼周造の「『いき』の構造」という「いき」を考察した研究書を、同郷のストリート詩人に勧められ、読んだことがあった。その詩人とは、偶然、あるストリート・ライブで見初め、私が声かけさせていただいたが、大川(隅田川)の上流と下流に棲むもの同士ということで、親しくなった。「『いき』の構造」は古語が多く、難しい本だったので、すべてを理解などはできなかったが、読了後、いたく、感銘を覚えたものだ。いきの表徴は異性に対する「媚態」と、「意気地」、そして「諦め」であると書かれていた。特に、その“諦観”観には共感して、心の中へ留め置かれたのだ。
それだけでなく、「『いき』の構造」以前に、私の父が歌舞伎や落語などに親しみ、花柳界の遊びをしていたこととも関係があったかもしれない。父は有名な芸妓や幇間(ほうかん)などとも親交(テレビにも出ていた芸者から家に電話がかかってきたこともあった。父と声が似ているため、いきなり馴れ馴れしく話しかけられた)があった。そんな血筋ゆえ、いきやいなせには、それなりの拘りがあり、田舎臭いことやださいことは忌み嫌っていた。すべてにおいて執着や固執を捨て去り、あっさり、すっきり、瀟洒たるということを心掛けてもいた。
それゆえ、その女性に対しても深い追いせず、すぐに次みたいな発想になったのだと思う。ある種、「いき」の美学への憧れでもある。勿論、テレクラに行けば、いくらでも出会いの機会は転がっている。何も一人に執着や固執する必要はない。そんなのは野暮というものだ。
テレクラの“ゴミ”たち
そんな格闘を連日しているうちに、気がつけば深夜を過ぎ、翌朝までテレクラに居残ることが多くなった。“日々旅にして旅を栖(すみか)とす”ではないが、テレクラが住処のようになっていた。勿論、そういう輩は、私だけではなく、同じような連中も多かった。そんな“居残り佐平次”は、いつしか、“ゴミ”と呼ばれるようになる。ある意味、蔑称で、失礼な話だが、その分、特典もあった。
テレクラに日参していれば、不思議と客同士も面識ができ、交流も生まれる。客同士の仲が良いというテレクラも珍しいが、ボックスを出て、事務所前の溜まり場(ビデオや雑誌などが置いてあった)で情報交換をしているうちに、自然と打ち解けてくるものだ。仕事や生活、年代も関係なく、大人の社交場のようなものができる。お互い、女の穴を追う、スケベな男同志、同好の士として、不思議な連帯感も生まれる。地位や役職も関係ない、ある意味、対等な関係が心地良い。くだらない馬鹿話や風俗話、武勇伝などを語り合う。時には女性からのコールもそっちのけで、盛り上がることさえあった。
そんなミッドナイト・トーク・セッションには、テレクラでアルバイトしている大学生も加わった。その彼は遅番で、深夜から早朝までを担当していた。彼が店番のときは、常連から金をとらなくなるのだ。その分、ゴミ扱いされるわけだが、最初の入店分を払っていれば、朝までの延長料金は払わず、無料で過ごすことができた。全員がヘビーリピーター、テレクラ中毒患者だ。それまでに相当の金を店に落としている。顧客サービスもあったのだろう。同時にアルバイトだから特にノルマがあるわけではなく、熱心に仕事する必要もない。そんな気楽さというか、いい加減さもあったかもしれない。私達は遠慮なく、甘えさせていただいた(笑)。
ゴミと言われる常連にはいろんなメンバーがいたが、純然たる会社員より、自営や自由業が多かったように思う。深夜から朝までテレクラにいられる職種など、限られる。フリーのカメラマン(英国BBCのカメラクルーをしているといっていた)、映像関係の技術者(スピルバーグと連絡を取り合っているといっていた)、大学の助教授(某有名音楽家と共演している音楽家の親戚といっていた)……。それが本当か嘘かはわからない。私自身も適当に職業をいっていた。時間が不規則というところで、デザイナーなどといっていたはずだ。
すべてが本人の自己申告である意味、いい加減で、曖昧でしかないが、だからといって、特に詮索されることもない。本当のことを言えなどと誰も言わない、素敵な仲間達である。社会学的にはホモソーシャリティというらしいが、そんな男同志の関係が居心地良くも、楽しくもあった。
誰かががアポを取ったら、皆で見に行ったり、テレクラの近くにあるヘルスやキャバクラへ団体で遊びに行ったりもした。また、近くのスーパーで食材を買い込み、テレクラの溜まり場で、鍋までやった。ここまでくると、テレクラという枠を外れ、大学の部室みたいな感じさえする。多分、ナンパ研究会みたいなサークルがあれば、そんなサークルの部室という雰囲気だろう。
欲望や野望を剥き出し、女性と出会い、セックスするという同じ目的を持った仲間。建前は不要、本音を語り合う。それでいて、嘘やハッタリも許し、プライバシーにずけずけ入り込まない。緩い人間関係だが、そこは自分が自分らしくいられるところでもあった。
私が学生時代から務めていた企画会社は、資金調達のため、社員に高利貸しから金を借りてこさせるようないい加減な会社だったが、私自身は真剣に仕事に取り組んでいた。その熱心な仕事ぶりから、周りからは生真面目な人間と取られていた。それなりの人望や評価も得ていた。ところが、本当の自分(というほど、大袈裟なものではないが)は、生真面目どころか、これまで風俗絡みの数々の武勇伝(!?)を披瀝してきたが、とてつもないろくでなし(思わず、ワハハ本舗の梅垣義明のピーナッツを鼻から飛ばす歌が浮かんでくる!)だ。そんな自分を曝け出し、自然体でいられる場所だった。随分と楽になれたものだ。女性を落とすため、日々格闘しながらも、私は思い切り、自分自身を開放していった。多分、それは私だけでなく、その場にいるものも同じだったと思う。誰もが第二の青春時代ではないが、自動延長のモラトリアム期に、ミッドナイト・パーティやワンナイト・カーニバル(氣志團か!?)を思い切り楽しみ、馬鹿騒ぎしていた。
大志ではなく、欲望を抱いたテレクラ・ボーイズはグッド・フェローズでもある。ゴミ同士で団体戦はしなかったが、利害関係のない遊び仲間を持つということ、それがいろんな女性と出会い、セックスする機会を増すことに繋がっていった。つまらない競争をするのではなく、男同志がつるんで共闘する。変なライバル心や、相手を出し抜くなどのいやらしい心を捨てると、獲得できるものもあるのだ。釣り場(狩場)を変えてみたら、“相棒”が待っていた──。