2012-06-01

第2回■デラシネ

「テレクラ初めて物語」を語らないわけにはいかないだろう。私の初テレクラは、1987年7月。なぜわかるかというと、ジェームス三木(性交した女性の評価を詳細に手帳に書き留めておいた有名脚本家)ではないが、私の古い黒革の手帳にその日付が書いてある。それが正確か、不正確かわからない。ただ、間違いなく、私自身、ふらふらとしていた時期であることに間違いない。

私のライフストーリーになど興味はないだろうが、その時期だったことは、私がテレクラに足を踏み入れる前提条件となったため、しばしおつきあいいただきたい。

その時、三十歳直前というのに、私は無職に近く、引きこもり(!?)でもあった。当時、私は学生時代に仲間と始めた小さな企画会社が経営者の放漫経営から危ない金融機関(いわゆる高利貸しの町金)に多額の借金をしてしまい、その借用書に私も立場上、連帯保証人の判子を押してしまっていた。案の定、借金は膨れ上がり、会社存続は難しくなり、同時に金融機関からは連帯保証人である私にも執拗な請求がきた。ある時はその金融機関の事務所に監禁され、一生、トルコ(ソープランドのこと)のボイラーマンになって、借金返済のために働き続けるか!と脅された。もっとも敵もさるもの、ただ強面なだけでなく、その事務所にあった借金のかたに巻き上げた絵画を指さし、一生懸命やればこれをやるとほくそ笑む。まさに飴と鞭。そんな状況にも関わらず、現実感はなく、泣き出したりするでもなく、うすら笑いを浮かべていたのを思い出す。本当の苦境に涙なんか出てこない。

借金は数千万に膨れ上がり、最後は情けない話だが、親に泣きつき(勿論、泣いていない)、チャラにしてもらった。幸い、家が裕福だったため、なんなく返済を終えることができた。後になって聞くと、実家の会社が傾く遠因にもなったようで、まったくもって親不孝なことだ。

借金はなくなったが、その会社は辞めさせられ、しばらく、家の仕事を手伝ったり、肉体労働をしたり、時間ができると映画(あまり金がないので、名画座へ行く)や図書館三昧(大著『失われた時を求めて』を読みたかったが、第一巻がずっと借りられたままだったので、未読!)をしていた。

思えばその時期こそ、真人間になるチャンスだったのかもしれない。しかし、遊び癖というのは三つ子の魂百まで、なかなか直るものではない。学生時代から風俗三昧をしていたから、肉体労働をして小金が入ると、つい遊びに使ってしまう。とくに無頼を気取ったわけではない。ただ限りなくあほんだらである。借金生活を経験したから、本来はこつこつと貯金をすればいいものの、浪費癖、遊び癖は簡単に収まらない。時はバブルでもある。景気のいい話が転がっているし、巷間伝わってくる遊びも豪快になっていた。

元々はソープやヘルスなどの射精系の遊びをしていたが、その時期、嵌ったのはキャバクラだ。当時、キャバクラは、キャバレーの豪華さとクラブの気品を兼ね備え、ホステスは素人で、3回通えばデートが出来るという都市伝説(!)が喧伝されていた。基本的に交際する気などないが、落としてやることを目論む。出会い系(多分、まだ、そんな言葉はなかった)の社交場バージョン。淡い夢を抱き、キャバクラ通いを続けた。

新宿・歌舞伎町の大型店に何度か通ったが、その度に違う女性を指名していたので、デートにはこぎつけられない。それでは3回通うという意味が違う。いまも昔も一途にほど遠い私だ。ところが池袋のロサ会館通りの女子大生水着パブ(全員が女子大生のわけではないが、ホステスが水着姿で接客していた)という店で、一発でデートにこぎつけた。美術系の大学を出て、某メーカーでデザインのアシスタントをしていたが、仕事に悩んでいるらしく、その相談をしたいという。日を改めて会うことになった。学生企業でデザイナーみたいな人種の扱いに慣れていたから、すんなりと話が合い、話を聞くという姿勢が好印象をいだかせたのだろう。相談に乗りながら彼女にも乗る、という親父ギャグ的な展開になる。

そんな遊びをしているときに出会ったのがテレクラだった。当時は話題の新風俗として紹介されていた。

某ウィキペディアには

“テレフォン・クラブとは、電話を介して女性との会話を斡旋する店。会話次第では女性と会う約束もでき、出会い、ナンパが可能になる。通称テレクラ。1985年の風俗営業法改正後に注目され、流行した業態。全国で最初に登場した店は1985年に小林伴実により開業された新宿「アトリエキーホール」、もしくは同年秋に同じ新宿に開業した「東京12チャンネル」と諸説ある。”

とある。そんな歴史的なことは、社会学者や歴史学者がまとめればいいが、なんとなく時代だけは気に留めておいてもらいたい。

風俗情報に関しては、毎日の株価の変動をチェックする投資家のように、風俗情報誌(多分、もう『ナイタイ』や『大人の特選街』などはあったはず)や男性週刊誌(というより親父系エロ週刊誌)は逐一チェックする習慣のある私だ。ふらふらする前からテレクラの存在は知っていた。そのくせ、実際に行くのには二の足を踏んでいた。

その理由は、テレクラは会員制で、身分証明書を提示しなければならなかったからだ。証明書のいらない店もあることを後で知るが、ほとんどが証明書を必要とすることが書かれていた。所属していた会社は放漫経営で、社員に連帯保証人をさせるようないんちきな会社だったが、身分証明書を提示し、会社などの身分を明かすことに抵抗があった。ある意味、箍(たが)のようなもので、会社の信用を失墜させてはいけないという変な責任感みたいなものもあったのかもしれない。

ところが、その会社を辞め、帰属するところがない、根なし草の状態。デラシネならぬ、だらしねえ生活をしている。箍が外れるではないが、怖いものなし、信用の失墜も何もない、身分を明かすことに躊躇いはなくなった。そんな状態がテレクラへと足を向けさせたのだろう。

初テレクラが1987年7月とある、と書いた。夏だったことは皮膚感覚として覚えている。熱い夏の始まり。場所は新宿・歌舞伎町だ。テレクラそのものは、新宿以外にも池袋や渋谷などの主要駅以外にも点在していたが、私としてはありとあらゆる風俗が密集し、様々な人種が蠢く、24時間、眠らない街、新宿・歌舞伎町でなければならなかった。

備えあれば憂いなし。遊びにも準備を怠らない私は、情報誌で、テレクラの所在などは調べていたが、まずは街を彷徨い、フィールドワークをしてから行く店を決めることにした。今は亡きコマ劇場周辺に点在していた、のぼりを立て、マイクで呼び込みをしているような大型チェーン店「りんりんハウス」などには、なかなか入る勇気がなかった。テレクラに入るところを見られてしまう。いまなら、そんなことなど露ほども心配しないが、まだ、照れや恥ずかしさ、後ろめたさがあった。初心だった。

初テレクラ店「ジャッキー」

散々、歌舞伎町を歩き回ったあげく、雑居ビルにあった「ジャッキー」を初テレクラの場として決めた。

記念すべき初テレクラ店「ジャッキー」は、歌舞伎町の中央通りを直進し、コマ劇場にぶつかり、右へ行き、客引きがたむろする通りにあった。ピンサロやイメクラ、ヘルスが入ったビルだが、小ぶりゆえ、派手さはなく、なんとなく入りやすかった。あとで、そのピンサロがぼったくりバーだったと気づくことになる(客と店員がいつも階段で金額のことでもめていた)が、その時はそんなことも知らず、最上階にあったテレクラへと一目散に駆け上った。

店内に入ると、さほど広くない。50平米もないだろう。事務所みたいなところと、個室が10数室、並んでいる。最初に店員(あとで知るが、店長だった。40歳にはなってない、不動産屋系の佇まい、愛想はいい)に、システム(風俗ファンは、この言葉に何故か、反応してしまう)の説明を受ける。入会金が2000円、利用料が1時間3000円だったと思う。身分証明書、その時はまだ運転免許を取ってなかったので、パスポートを出し、用紙に本名や年齢、住所などを記載していく。

会員証を発行してもらい、ボックスへ通される。畳一畳ほどのスペースにリクライニングチェアーとテーブルとテレビと電話がある。ティッシュとゴミ箱もある。F1のコックピットのようでもある。この狭い空間は電話一本で外の世界と繋がる……なんてね。

部屋に入ると、けたたましく電話のベルが鳴り響く。しかし、一瞬で鳴りやみ、どこかのボックスで男と女の会話が始まる。中にはベルが鳴る前に、話し出すものもいる。その時はなぜそんなことが可能なのかわからなかった。

テレクラとは匿名の男と女の出会いを演出する装置だ。学校や会社など、肩書を必要とする出会いではなく、名前も年齢も住んでいるところまで、まったく匿名、捏造(時には性別さえ偽ることができる)する者たちの出会いを可能にする。

狭い箱(ボックス)の中で、ひたすら女性からの電話を忍耐強く待つ。鳴っても早取りだと、電話を取れないことさえある。仮に取れて繋がっても、時にはいわれのない罵倒を浴びることもある。まだ女子中高生が参入する以前だったので、いわゆるイタズラ電話は少なかったが、それでも日々のストレスをテレクラ男達に向ける者もいた。そんなことも、寛容さでやり過ごす。ある種、修行のようなものだ。早取り技術を習得し、交渉術をものにすれば、必ず、女は堕ちる。それまでは修行するぞ、修行するぞ……だ。かの尊師のそんな言葉が世間を騒がす随分前のことだった。