2005-10-10
【ルポ】極右との対話1……極右の祭典を取材して……
ジャンマリ=ルペン氏が登場するイベントを取材する日はいつも暑い。
極右政党『国民戦線』主催のジャンヌダルク祭が行われた5月1日は30度まで気温が上がり、お年寄りの支持者のなかには暑さの余り倒れる人も出た。ルペン党首もジャケットとネクタイを外し、ワイシャツ一枚で演説を行った。
5月下旬に行われた欧州憲法・反対の集会も、暑さのあまり壇上には扇風機が二つ設置された。
毎年秋に開かれる極右政党『国民戦線』主催の祭典『BBR』(Bleu Blanc Rouge)に参加するため、10月8日、パリ郊外の駅・Bourgetに降り立った。10月に入ってからずっと曇りの日が続き、うすら寒く冬の到来を思わせるような日だったのに、、その日は雲ひとつない快晴で初夏のように気温が上がった。タンクトップやTシャツ姿の男女を電車内で見かけた。
改札を出て壁に貼られた地図を見ていると、スーツを着た白人男性が私の隣に来た。
「アナタはBBRに行くのですか。私もそうです。さて、どのバスに乗ればいいのやら?」
と尋ねられたので、
「会場へとつなぐ無料バスがあるそうですよ」
と説明する。運がいいことにちょうどそのバスがやって来て、駅前に停車した。
バスを国民戦線が貸し切って一日中ずっと往復し続けるという。運転手は国営企業の職員だ。ふだんは普通のバスに客をのせ運転している。極右集会に客を乗せていくことをどう思うのだろう。職務として割り切っているのだろうか。
バスに乗り込み椅子に座り発車を待っていると、大学生っぽいブロンド・ヘアの細身の女性がずっと携帯電話で話している。バスがエンジンを入れると電話をきり乗り込んだ。あとで気づいたのだが、彼女とは以前 ジャンマリ=ルペン『国民戦線』党首の記者会見場で顔を合わせている。
15分ほど走ると、飛行場の滑走路のようにだだっ広い駐車場が見えてきた。イベント会場だという。建物の入り口に入ると、空港のようなセキュリティが設置されており、10人以上の職員が働き、入場者に金属を探知する機械を通るように指示する。私もそこを通り、プレスの受付に行く。一悶着あったのだが無事通過して、プレス向けのカクテル・パーティーの部屋へ到着した。開始時刻の12:00を10分ほど過ぎていた。
パーティーの受付に、真っ黒なスーツを着て、黒いロングブーツを履いたミニスカートの女性が立っており、私の顔を見るなり微笑み、「Kenji Oikawa. journaliste japonais」と書かれたプレス・カードを渡した。勝ち気な彼女とは国民戦線の集会がある度に顔をあわせ、顔も名前もすっかり覚えられている。
会場に入るとすでにルペン党首が到着しており、カメラや録音機器を持った記者に囲まれている。その隣には党内ナンバー2のブルノー=ゴールニッシュ全国代理がいた。彼のワイフは日本人で、彼自身、京都大学に留学した経験を持つ。日本語は堪能で日本文化にたいする造詣も深い。三島由紀夫、川端康成、芥川龍之介や、源氏物語、平家物語、万葉集を好きだという。
会場内をうろつき、どんな人たちが来ているか確かめた。党内ナンバー3で最近ルペン党首と意見対立があったカール=ラングさんが会場の隅にずっと立っている。党内分裂と幹部更迭……という左翼政党も真っ青の歴史を繰り返してきた国民戦線のことだから、ラングさんもそのうち更迭されるかもしれない。
ルペン氏の娘で副党首のマリーヌ=ルペン氏やジャニー=ルペン夫人の顔もあった。ルペン氏は相変わらずときおり笑いながら、記者団にずっと話し続けている。
ゴールニッシュさんとルペン党首の間でも最近 意見対立があったのだが、そのことを記者から突っ込まれると、
「諸君、国民戦線は軍事組織じゃないんだ。市民組織だ。異なる意見があるのは当たり前だ」
と語り、ゴールニッシュさんと肩を組み、笑顔全快でおどけてみせた。
一団に混じり、写真をとっていると、ゴールニッシュさんと目があった。左手に持ったシャンパン入りのグラスをこちらにむけて少し上げ、「乾杯!」の仕草をした。
ルペン党首にもゴールニッシュさんのところにも記者がたえず張り付き、彼らは休む間もない。少し記者が離れたところでゴールニッシュさんはこちらに来て、フランス語で「ようこそ。御元気ですか?」といって握手をして、ルペン党首についてそそくさと立ち去った。祭典会場内のブースを見学するのだとか。
ジャニー=ルペン氏とマリーヌ氏が談笑しているところに近づき、親子のツーショット写真をとっていたら、ジャニー氏が私の方を向いた。マリーヌ氏もこちらを見る。何事かと思いきや、ジャニー氏が「アナタはブルノー(ゴールニッシュさんの名前)の息子に雰囲気が似ているわ。彼はね、背もちょうどあなたぐらいだし」という。どう返答していいかわからず、「私は日本人ですからね」と返すと、「知っていますよ」という。ゴールニッシュさんの息子は日本人とのハーフだから、「東洋系」つながりということで似ているといったのだろうか。
会場のマップを手にして、記者用の部屋を出た。各地域の国民戦線・党員がブースを出して、チーズやワイン、シャンパンを販売したり、牡蠣を売ったり、あるいはバーやレストランを出している。気になったのは、「イラクの子ども SOS」というブースだ。そこに立ち寄ると、ジャニー=ルペン氏が書いた著作とイラクの子ども達とダニーさんがおさまった写真などが飾られている。ジャニーさんはゴールニッシュさんらと本年九月にヨルダンに飛びたったという。
国民戦線が第一次イラク戦争(湾岸戦争)・第二次イラク戦争に反対し、湾岸戦争においてはルペン党首がイラクに乗り込みフセイン大統領と交渉し、フランス人の人質解放にこぎ着けたことは日本ではあまり知られていない。同党はイラクとの交流が深かく、イラク経済封鎖により子ども達が100万人以上餓死させられていく現状を「テロ」と非難していた。
ブースを見ていると、NGO組織「イラクの子ども SOS」は1995年に設立され、代表はジャニー氏がつとめている。日本で云えば、「日本のルペン」石原慎太郎・東京都知事のワイフがイラクの子ども達の救援活動に取り組むようなものだ。「極右と人道支援」は「水と油」のように思えるが、そうでもないのだろう。
ブース内をうろついているとネクタイを締めたおじさんが
「アナタに以前会いましたよ。いつだったか、国民戦線の集会で見かけました」
といって、私の手を握りしめた。東洋顔の記者が国民戦線の集会を取材することなど稀だから、しっかり顔を覚えられてしまったようだ。
会場をそのあともぶらついていると、フランス海外県のブース前でルペン党首が立っている。13:15からTF1に出演するのだという。会場からの実況中継だそうだ。バーにあるような高い椅子が用意され、党首はそれに腰掛けている。カメラマンや記者、警備のごっつい男どもがそれを囲み、そのまわりに支援者の輪ができる。ゴールニッシュさんも近くで眺めている。
「ケータイの電源は切りましたか」
と彼が話しかけると、ズボンの後ろポケットからルペン党首はケータイを取り出し電源をきり、まわりのスタッフにそれを渡した。
何か用事があると彼は右の一差し指をあげ、それを曲げる。スタッフがさっと来る。耳元に党首様は何かささやく。「かしこまりました」といい、スタッフはさっと身をひく。放映の数分前、ルペン党首は立ち上がった。椅子が取り去られる。
放送が始まったのか、カメラに向かって微笑みだした。スタジオのキャスターがルペン氏に話しかけているようだが、会場の聴衆はそれを聞くことができない。突然ルペン氏が口を開き、2007年大統領選挙に向けた決意などを語り出した。
上半身をゆらし、両手をつかって話す。笑顔全快だ。
10分ほどでインタビューは終わった。最期に党首が「ありがとう。さようなら」といって終わった。
「ジャンマリー」「党首様〜〜!」
という合唱が拍手とともに起こった。
「フレー、フレー、プレジダン!」
と支持者は絶叫する。ルペン氏は党員・支持者達に握手をしてまわる。
握手を終えると、ルペン氏は各ブースを回り始めた。
支持者が近づくと相好を崩し、女性が相手だと時には両頬にキスをする。あるいは、キスを受ける。レストランのブースではテーブルにつき紙のお皿に盛られたパンやチーズを美味しそうに頬張る。サインを求められると気軽に応じる。話しかけられると邪険にすることがなく必ず耳を貸し、支持者とテーブルにつき同じ目線で語り合う。写真を求められると一緒に収まる。親しみをこめて「ジャンマリー」とファーストネームで呼ばれることもある。初めて顔を合わせたのに、ファーストネームで呼びたくさせる親しみやすさが全身から漂っている。
支持者が氏のことを心から尊敬し慕う理由が分かった気がする。