2007-12-08
ジャンマリー=ルペン、絶頂のとき
『オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。
主題:ジャンマリー=ルペン、絶頂のとき
副題:欧州極右のカリスマ「仏国民戦線」の没落(3)
写真脚注:BBR祭りの開催を祝うレセプション・パーティーでメディアの取材を受けるジャンマリー=ルペン『国民戦線』党首。
ルペンを善戦させた保革共存というゆがみ
事前の世論調査で常に1、2位を争っていたジョスパン首相の敗因はいくつかある。
ひとつは、保革共存 (コアビタシオン)に対する国民の飽きがあげられる。
フランス政治体制は日本といささか異なる。元老院(上院)・国民議会(下院)の二院制からなる点では似ているが、国民の投票によって選出される大統領が存在する点では異なる。第五共和制(1958年)以降、大統領に絶大な権力が集中するようになっている。
他方、首相という職がフランスには存在する。首相を選ぶのは大統領だが、フランスの慣例では、下院議会で過半数を形成した政党・政治勢力から首相が選ばれることになっている。大統領の任期は7年(2002年から任期は5年に変更)で、下院議員の任期は5年だ。選挙の年月日が異なるため、時によっては大統領と首相が違う政治勢力から選出される場合がある。そんな事態がいままで3回起きた。
保守と革新が同時に政権に就くその状況を保革共存(コアビタシオン)という。コアビタシオンは本来、同居・同棲を意味する。そこから派生して、政治的文脈においては大統領と首相がそれぞれ対立政党から出ている状態を意味するようになった。
第一次保革共存は1986年3月から88年6月まで続いた。このときは社会党のフランソワ=ミッテラン氏が大統領(任期は1981-1995年)で、首相に就いたのは86年の下院議会選挙で多数派を制した、右派の共和国連合のリーダー、ジャック=シラク前大統領だった。88年の国民議会選挙で社会党が多数派を占めて第一次保革共存は終わる。
ミッテラン大統領・シラク首相のときは意見対立がしばしば起き、激しい応酬が交わされたという。
第二次保革共存は93年から95年までで、共和国連合のエドゥアール=バラデュール氏が首相に就いた。しかし、バラデュール首相のときは、ミッテラン氏が高齢の上、前立腺ガンを患っていたため、仕事の大部分を首相に任せたという。
フランスは保革共存を2回経ることで、外交・軍事を大統領が担当し、内政を首相が担当するという風に、役割分担が確立されるようになった。
そして、2002年の大統領選挙に影響を与えた第三次保革共存は1997年6月から2002年5月まで続いた。1997年6月の下院議会選挙では社会党・緑の党・共産党・左翼急進党・市民運動といった左派勢力が保守政党を数で上回り、政権交代が実現する。このときの大統領はシラク氏であり、首相には社会党の重鎮、リオネル=ジョスパン氏が就いた。ジョスパン首相の政策で有名なのが週35時間労働制の導入だ。それまで週39時間労働制だったのを4時間短縮した。労働者の権利を手厚く保護する左翼政権の象徴的な政策だった。
しかし、保守と革新が同時に政権に就いたことで、両者の違いが国民からは見えにくくなった。いまの政治に不満があったとしても、左翼が悪いのか右翼が悪いのか分からない状況だった。
若者、肉体失業者、労働者で一番人気だったルペン
2002年大統領選挙でその間隙(かんげき)をついたのが、ルペン氏だった。右翼・左翼に対するアンチテーゼとして少なからぬ国民はルペン氏に投票した。躍進したのはルペン氏だけではない。トロツキストの極左政党『労働者の闘い(LO)』『革命的共産主義同盟(LCR)』『労働党』の三候補が得た票は10%を超えた。極端な右にくわえ極端な左も伸びた状況は、既存の保守・革新に対する国民の嫌気を表しているだろう。
ただ、理由は保革共存だけに求めるわけにはいかない。
マスコミは第1回投票後、なぜ、ルペン氏が人気を得たのかを調査し背景分析をした。治安に対する不安、減らない失業、増加する移民、耳当たりの良い国民戦線の政策などなどさまざまな要因があげられた。
ルペン党首がシラク大統領とともに決選投票に進出した2002年フランス大統領選挙第1回投票の世代別投票動向(フランス大手調査機関・IPSOS調査)を見ると、16人いる候補者の中で18~24歳ではルペン党首が一番人気で16%もの支持を獲得、2位のシラク候補・ジョスパン候補(当時、首相。社会党)はおのおの14%。25~34歳ではシラク支持が18%(1位)なのに対し、ルペン支持は17%(2位)。職業別で見ると、失業者のルペン支持は38%でダントツ1位。2位のジョスパン(社会党)支持(13%)に大差をつけている。肉体労働者の支持率でも30%とルペン氏が2位のジョスパン氏(15%)を圧倒。失業者や労働者、若者がルペン支持に傾斜したのだ。
決選投票では82%の得票でシラク大統領が圧勝
ルペン氏が決選投票へ進出することが決まった後、左翼政党も労働組合も、ルペン氏だけは大統領にしていけないと、「フランスの民主主義を守る」という大義名分の元、保守のシラク氏への投票を訴えた。5月1日のメーデーでは、フランス全土で130万人の市民がデモに参加して「ルペン阻止」を訴えて行進した。
5月5日に行われた第2回の決選投票では、勝敗が分かり切っていたが、1回目の投票率が約71%だったのに、決選投票の投票率は約80%という高さで、シラク大統領が約82%以上の票を獲得し圧勝した。
しかし、ルペン氏は敗北したものの、過去の大統領選挙で最高の552万5032票を獲得した。ルペン氏にとっては絶頂のときだった。
〈つづく〉