2007-11-28

2002年大統領選挙でルペン・ショック

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写真脚注:国民戦線集会でガッツ・ポーズをとるルペン党首(撮影:及川健二)

オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。

主題:2002年大統領選挙でルペン・ショック
副題:欧州極右のカリスマ「仏国民戦線」の没落(2)

暴力団まがいの党内抗争

 1998年終わりから始まった抗争は暴力団まがいの内部抗争だった。

 「ブルータスが短刀でシーザーを暗殺しようとしたとき、シーザーは寛衣で頭を覆ったが、私ならブルータスに刺される前に剣で彼を殺す」と、自分をシーザーに、メグレ氏を謀反者ブルータスに仕立て「フランスが危ない!」とルペン党首は怒号をあげた。

 メグレ氏が考えていたことは、ルペンの扇情的な外国人排撃の一人芝居だけでは政権はとれないということだった。国民戦線を近代化し、政権に参画することが可能な政党をめざすべきだとメグレ氏は考えた。

 メグレ氏はルペンが25年かけて築いた城塞(じょうさい)と娘婿や忠臣らメグレ派造反組との間で罵倒(ばとう)・痛罵(つうば)の交戦をし、果ては執行部をどちらが手に入れるか主導権争いをし、左派系日刊紙『リベラシオン』は、「マフィアまがいの戦争」と形容し、泥沼化は年が明けた。

 メグレ氏は反撃に出た。造反組は1999年1月に臨時党大会の開催を要求し、国民戦線・幹部セルジュ・マルティネーズ氏が同大会開催への署名運動を行い、開催に必要な党員の20%、1万以上の署名を集める。敵のゲリラ戦に慌てた党首は「エリゼ宮(大統領府)から資金が出ているメグレ派フリーメーソンの陰謀! クーデター! 臨時党大会は罠(わな)!」と、叫び立てる。そして12月23日、メグレ氏と腹心6人を正式に除名し、メグレ派事務局員らの首も次々に切りスターリン流に一大粛正を決行した。

 国民戦線党員の6割を占めるメグレ派は党員2000名を集めて1999年1月23日、24日に臨時党大会を開き、新党「国民戦線―国民運動」を結成した。ルペン党首の長女・マリー=カオリーヌ=ルペン氏も大会にメッセージを寄せ、メグレ派への参加を宣言した。大会では86%以上の票を集めメグレ氏が党首に就任する。メグレ党首は「暴言、失言、アジテーション抜きの政権をめざす党に」と演説した。この大会では皮肉なことに名誉総裁の称号をルペン氏に贈った。ルペン氏は「私がいたら、足げりを食らった連中が出たことだろう。国民戦線は私が30年前に設立した党しかない」と、国民戦線はひとつしかないことを強調した。

 しかし、5月11日にパリ大審裁判所はメグレ派が国民戦線という党名とマークを使用することを禁止した。ルペン氏は「これでメグレ一派は死んだ」と喜びの記者会見を行った。1999年欧州議会議員選挙 (6月13日、投票)にメグレ派は候補者を擁立したが、フランス全土で57万8774票(3.28%)を得るにとどまり、議席はひとつも獲得できず、敗退に終わった。国民戦線は100万5225票(5.69%)を得て5議席獲得した。

 1999年10月2日に党大会を開き、メグレ派は党名を共和国運動に変更した。2002年フランス大統領選挙にメグレ党首が出馬したものの、66万7026票(2.34%)を得ただけで惨敗した。2002年下院議員選挙(6月9日、16日、投票)では577選挙区(定員:1名)のうち571選挙区に党公認候補を擁立したが、フランス全土で27万6376票(1.1%)を得ただけで当選者はゼロだった。

 2004年の欧州議会選挙ではメグレ派はわずか0.31%の票を獲得しただけで、議席はゼロだった。メグレ一派は現在、壊滅状況にある。

 ルペン・メグレ戦争の勝利者はハッキリしていた。ルペン氏に軍配は上がった。

欧州を揺るがした2002年の「ルペン・ショック」

 国民戦線はメディアからは総スカンを食らい、常にからかいの対象であり、現代のファシズムとして知識人・ジャーナリストから非難されている。主要政党の政治家もルペン氏をはなからまともな政治家として認めず、フランスの恥部の最たるものとしてルペン氏を紹介するのがほとんどだ。ルペン氏自身、「私は公共の最大の敵だといわれている」と自らへの不評を認めている。

 メグレ一派が離脱した後、これで国民戦線は壊滅だといわれた。しかし、脱党者が大量に出て組織はガタガタになり瓦解寸前のところまでいったにも関わらず、ルペン人気は一向に衰えなかった。

 2002年に行われたフランス大統領選挙で大きな事件が起きたことをあなたは知っているだろうか。フランスの大統領選挙では国政議員・地方議会議員・首長など500人の署名を集めた候補者だけが立候補でき、第1回投票で多く得票を得た上位2位の候補者が決選投票へと進める。それまでフランス共和国では決選投票に進むのは必ず保守派(右派)候補と革新派(左派)候補だった。2002年4月21日の第1回投票で、第1位に立ったのは現職のジャック・シラク大統領(19.88%を獲得)だった。これは予想されていたことだった。しかし、2位に立ったのはフランス人の誰しもが必ず決選投票へと進むと確信していた社会党のリオネル=ジョスパン首相(当時)ではなかった。フランス人のみならず世界中の人々がその結果に驚がくしたのだが、欧州政界で悪評名高い極右のドン、ジャンマリー=ルペン『国民戦線』党首が第2位につけたのだ。ルペン氏が獲得した得票率は16.86%で、18.18%のジョスパン首相と約20万票の開きがあった。

 フランスではキワモノ扱いで、常にメディアの嘲笑(ちょうしょう)と批判の的になってきたヒール・レスラーのようなルペン氏が決選投票に進んだことはフランス社会に大きな衝撃を与えた。いや、フランスのみならず、移民排斥を掲げる極右勢力が同様に台頭する欧州の他国にも深刻なショックを与えた。ジョスパン首相はその日に政界引退を表明した。

 「ルペン・ショック(Le Choc Le Pen)」。マスコミはそう形容した。

 ルペン・ショックは欧州を揺るがした。

〈つづく〉