2005-03-02

PHOTO アフリカ大陸旅行・初日目 ……でっかい太陽とわし物語……

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 まもなく着陸し始めるという機内アナウンスがながれたので、丸い窓の外に目をやると、一面、砂の大地が広がっていた。
チュニジア南部の都市・トゥズール。
これまでの旅行でも、着陸直前に窓の下に広がる風景を眺めるのが常だった。昼間であれば道路が見えたり、住居の屋根が見えたりするものだし、夜間につく場合は一面に、ネオンライトや街灯、車の発する光などが眼下に広がるものである。
しかし、トゥズール行の便の窓から見える景色には、人が住んでいると感じさせる景色はなく、ただただ砂ばかりが見える。私は初めて目にする砂漠の大地に、かすかな感動を覚えた。
パリ郊外のオルリー空港を発った飛行機の中で、アジア系の顔をしているのは私だけであった。バカンスを楽しむために来たフランス人と故国へ帰るチュニジア人がほとんどであった。
日本人がわざわざ個人で、パリ経由でチュニジアへ行くことは珍しいのかもしれない。

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空港に着くと、そのまま滑走路におろされた。頭上で燦々と太陽が輝いている。日差しの強さに、強い目眩を覚えた。長い間、その場に立たされた気を失ってしまうだろうナと思った。国際便が乗り入れているのに、そこはとても小さなこざっぱりとした空港だった。まるで、久米島や石垣島の空港のようだ。一階建ての施設に入ると、入国審査の係官が二人おり、パスポートと機内で配られた入国カードを渡すと「どこのホテルに泊まるんだ?」とだけ、フランス語で聞かれた。ホテル名を告げると、「ああ、あそこか」といって、無愛想にパスポートを返された。入国審査の次には、手荷物をX線で通す場所が設置されていた。すべての人のすべての手荷物が、そこを通されることになる。いままで旅行した国の中で、そんなのは初めてであった。
ロビーに出て郵便局でユーロをチュニジアの通貨、ディナールに交換した。空港職員の口髭を蓄えた男性が「日本人ですか?」と日本語で聞いてきた。
「Oui, je suis japonais.」
とフランス語で返答すると、
「ニホンゴ、半年ダケ、習イマシタ。日本人、ココニハ、アマリ、来マセン。ナゼデスカ?」
という。
「直行便がないですし、とても遠いからじゃないですか」
と答えると、
「ソウデスカ。デハ、ボン・バカンス」
笑顔でいった。

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空港を出ると、タクシーが並んでいる。4km先にある町の中心部へ行くバスはないから、タクシーに乗るか歩くしかない。タクシー乗り場に行くと運転手の一人が、先頭のタクシーのドアを開け、「どうぞ」のしぐさをする。私は荷物を抱えて乗ってから、行き先を告げ、
「いくらするんだ?」
と、フランス語で尋ねた。ドアを開けた男が
「20ディナールだ」
という。
「高すぎる。やめた、降りる」
というと
「彼はとっても親切だよ」
という。運転手は後ろを振り返り、私に微笑みかけた。
「だめ。降りる」
といって降りた。その場にたむろしていた何人かの運転手がアラブ語で笑いあった。
空港ロビーへ戻って、インフォメーションの係りに行って、地図をもらった。その地図には、滞在先のホテルも載っている。片言の日本語を操る先の空港職員に、道の行き方を尋ねると、空港前を出ている道を、まっすぐ歩けば着くという。
「歩いていくのか?彼は私の友達だ。10ディナールでいいといっている。彼のタクシーに乗らないか?」
といって、そばにいた男性を紹介されたが、
「ノン」
と断り、空港内のカフェに行った。
その時点で、ホテルまで歩くことを決めた。でも、水分をとらないと途中で倒れてしまうかもしれない。そんな不安があった。そこで、コーラを頼んで飲み干してから、頭に白い手ぬぐいを巻いて、ホテルへと向かった。

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町の中心へと向かう一本道を歩く人は、他には見あたらなかった。人通りのほとんどないその道を歩きながら周囲を見渡すと、砂の大地が広がるばかり。人の住む家もレストランも建物もない。道路の脇には、いかにも砂漠といった感じの木々が植えられていた。

五分ばかり歩くと政府関係と思われる建物が見えてきた。赤色の国旗が風に吹き付けられ、バタバタいっている。そこから五〇〇メートルほど歩いたところから、路上が子どもで覆われている。近くにはいくつも学校があるようで、授業を終えた子どもたちがたむろしている。かけながら遊んでいる子、地べたに座っている子、友達と立ちながら談笑している子などがいた。に私が通りかかると、おしゃべりを中断して、まるで珍しい動物が歩いているかのように凝視する。中にはほほえんできたり、話しかけたり、追っかけてくる子もいる。
「おー、ムッシュー、コンニチワ」
と、声をかけるから、
「ボンジュール」
とほほえみ返すと、
「ジャポネ、ジャポネ」
とコールする。
多くの子どもたちが私を見ては、
「ジャポネ」
「コンニチワ」
「サヨナラ」
「アリガトウ」
と連呼するものだから、何だかスターになった気分だった。きっと、その道を通りすがる日本人などまずいないだろうから、物珍しかったのであろう。
それにしても、わずかの表現とはいえ、なぜ、こうもたくさんの子どもが日本語を知っているのだろうか。チュニジアと日本はそんなに交流があるわけではない。直行便もないし、アジア諸国に比べたら、日本にとってチュニジアは遙か彼方の異国だ。そして、なぜ、私が日本人であることが分かるのだろうか。アジア系の顔を見たら、皆、日本人だと思うだけなのかもしれないが……。
満面の笑顔を浮かべた子どもたちに囲まれていたら、この旅行はとっても心に残るものになるにちがいないという気がしてきた。

滞在先のホテルに着くと、ロビーにあるふかふかの椅子に座らされ、ワイングラスに入ったオレンジ色のジュースが供された。チェックインの手続きを済ませると、バンガローのように分離した部屋の一つに案内された。ホテルから荒涼とした大地を見ることができた。二〇分くらい歩いて街から離れれば、そこは人の住まない砂漠が広がる。
荷物をおいてすぐに、町の中心地へと向かった。

中心街へと続く一本道はゆるやかな下り坂になっており、高級リゾートホテルが並んでいる。観光客用の馬車が何度も通りかかっては、
「コンニチワ」
と声をかけ、乗っていかないかと誘う。ラクダをひいた男性にも遭遇し、「Very good price」という。
道路はコンクリートで舗装されているけれど、空気も道路も砂っぽい。つねに財布の入った黒い鞄を肩にかけているのだが、鞄の表面に細かい白い砂がすぐにびっしりくっつく。口の中もいつのまにか、少しじゃりじゃりしてくる。
道すがら、顔の周りにスカーフをかけた女性が営む小さな商店で、1.5リットルのミネラルウォーターを購入し喉を潤した。

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街の中心にあるメディナには、小さな雑貨店・お土産屋・ファーストフード店が並んでいる。店の前を通りかかるたびに、「コンニチワ」と声をかけられる。中には「ぼちぼちですか?」という店員もいた。
通りすがりにカフェの店内をいくつか眺めるとチュニジア男性でいっぱいで、水タバコを吸ったり、カードゲームをしたり、コーヒーを飲んだりしている。女性がいないのは、きっと、こういう娯楽の場に女性が来ることが戒められているからなのだろう。

トゥズールの街を歩いて気にかかったことがいくつかある。一つは街の至る所に優しく微笑みかける大統領の肖像画が飾ってあることだ。カフェや商店の店内に掲げられていたり、店の外に貼られていたり、道路の壁に貼られていたりする。
それと、フランス人に遭遇することは何度もあったが、日本人や他の国から来た東洋人にお目にかかることはまずなかった。中国人や韓国人はあまり、来ないのだろうか。

メディナを通り抜け、各地方へ向かう遠距離バスが発着するバスステーションに行き、チュニス行きの便数と出発時間を確認してから、ホテルへと向かった。
途中、大衆食堂に立ち寄り、チュニジアの肉料理とフライドポテトを食べた。メニューには、ピザやスパゲッティといった西欧的(というよりイタリア風)な料理とクスクスといったアフリカ特有の料理が混在していた。
レストランを出ると、日は落ちていた。すっかり気温も下がり、店を出た途端に、うすら寒くなった。砂漠は日中と夜の温度差が激しいという事実を、身を以て感じさせられた。空には星々が見え始めていた。砂漠の街で眺める満天の星を期待していたのだが、さして多くの星が見えるわけではなかった。

ホテルに戻り湯船につかり、歯をみがいて、さっさと床に就いた。うがいのために水を口にしたのだが、泥水をこしたのではないか…と思えるぐらいにひどい味で、環境の厳しさを思わせた。

追伸:アフリカというと鈴木宗男センセイのことを思い出してしまいます。彼が議員連盟というものを最大限に利用してアフリカ利権を手中にしていったことについて、中村敦夫さんが御自身のブログでふれていました(『こちら』)。