2011-08-22
カダフィ政権・崩壊は中東の春ではない。
反資本主義新党(NPA)の機関紙(週刊)『TOUT ets a nous!』7月28日号で「中東の春」について全紙面を遣って特集を組んでいる。
さて、カダフィ大佐がリビアを掌握したのは、1969年9月1日であり、カダフィは27歳の若さだった。若者たちのグループを率いて政権の座に就いた。1970年にイスラム教=アラブ民族に基づくアフリカ合衆国論者であったナセル大統領(エジプト)が亡くなると、カダフィがナセルの思想・路線を受け継ぐ継承者になった。
チュニジア・エジプトの独裁政権に終止符を打った中東の春とリビアが大きく異なるのは、両国が民衆の力によって独裁者が倒されたのに対して、リビアの政権交代はNATOの軍事介入がなければ成功なぞしなかった点にある。
なるほど、ユーゴ紛争の折、ブレア首相は「Value War」(価値の戦争)という概念を創り上げ、民衆が為政者によって虐殺されるような人道危機があった場合は、それをとめるための軍事介入は認められるようになった。
カダフィがリビア東部で立ち上がった民衆を虐殺したのは事実であろう。それを止めるためにNATOが介入したのなら、分かる。しかし、今回はカダフィ政権を転覆させるのが目的となった。もはや、気に食わぬ国の独裁者を倒すならば軍事介入できるところまで、戦争は「カジュアルな」ものになった。
「戦争は最終手段」という原則(principle)など、かなぐり捨てたも当然だ。
今回、リビア東部の民族の叛乱は、欧米におんぶにだっこされて、成功した(も同然である、現時点では)。それには2つの背景がある。
一つはロナルド=レーガン政権のときにリビアを、トリポリとベンガジに分けて考え、ベンガジを支援していくのが、極秘裏に米国政権の外交戦略となって引き継がれてきた。
2つ目はフランスの動きである。支持率が低迷して、来年の大統領選挙で再選が危ぶまれるニコラ=サルコジ大統領は、人気取りのために、中東に吹いた春風に乗って、これまでのカダフィ大佐リビアとの友好関係をなきもののようにし、世界で一番早く反体制派をリビアの「政権」と認証し、カダフィ打倒のために積極的な軍事介入に邁進し、ドイツをはじめ、アメリカも巻き込んだ。
東西部族が対立し合うリビアでは、中部に停戦ラインをひき、西部のカダフィ・リビアと東部リビアに分割し、将来においては、分離独立すべきであった。カダフィ政権が瓦解し、今度は西部部族が抑圧されることになろう。
リビアの政権転覆は民衆の力ではなく、欧米列強の軍事によるものであり、「中東の春」とは峻別されてしかるべきだ。