2012-09-18
『百年の憂鬱』、『悪魔の飼育』刊行記念
エフメゾトークライブ「埋葬せずにはいられない」
佐藤雄駿×伏見憲明
2012年8月29日、伏見憲明さんがママを務める「エフメゾ」(毎週水曜日営業)にて、ロックバンドNON’SHEEPのヴォーカル担当であり、小説集『悪魔の飼育』を上梓した佐藤雄駿さんと『百年の憂鬱』の著者である伏見憲明さんのトークライブが開催されました。
話は佐藤さんの小説のモチーフとなっている「死」、「埋葬」にはじまり、ミュージシャンとして言葉を紡ぐことと、小説家として言葉を紡ぐことの違い、そしてインスパイアされた小説、ミュージシャンのことなど多岐にわたって展開していきます。どうぞお楽しみください。
佐藤雄駿(さとうゆうた)/1984年生まれ。ロックバンド、NON’SHEEPのボーカル担当。初の小説集『悪魔の飼育』(徳間書店)を先頃上梓した。
死と再生の物語
伏見 エフメゾではこれまでいろんなトークショーをやってきました。中村うさぎさんとか宮台真司さんとか鈴木邦男さんとか…ふだんは言論系の方が多いので、ミュージシャンである佐藤さんと話すのは異文化間コミュニケーションで楽しいんじゃないかと、今回お招きしました。
佐藤 僕も伏見さんのことが大好きで尊敬しているので、お招きいただいて嬉しいです。
伏見 「大好き」って言われると、今日、エフメゾを占拠している佐藤さんの女性ファンの目が怖いんですけど(笑)
佐藤さんはいまNON’SHEEPというバンドをやられていますが、どんなバンドなんでしょう? さっきドラムがイケメンだと聞きましたが。
佐藤 はい。ドラムがイケメン担当ですね。
伏見 ボーカル(佐藤)は何担当なんですか?
佐藤 根暗ですかね(笑)
伏見 僕と佐藤さんは偶然、同じ時期に小説を出しました。僕は『百年の憂鬱』(2012.7/ポット出版)という小説を上梓して、佐藤さんは『悪魔の飼育』(2012.7/徳間書店)を出された。僕は佐藤さんの作品は「死」がモチーフになっているんだと読みました。「死」と「再生」ですね。短編集というかたちで死と再生の物語が繰り返し語られている。僕はそれほど死を直接的には描いてはいないんだけど、死に近い場所、生ではない場所と生を往還するという形式が骨格にあったりする。
佐藤 僕は最初に伏見さんの『魔女の息子』(2003.11/河出書房新社)を拝読して、僕と表現しているものは違うけれど、僭越ですが僕の作品に描かれている懊悩に触れた時の感触が近い、と強く感じたんです。「なんだかすごい作家さんを見つけたぞ、しかもゲイなんだ」って。
伏見 「しかもゲイ」って、あんた…(笑)。
それはともかく、佐藤さんは根暗とおっしゃったけど、僕も寒々しいところに行かないと暖かくなれないという根暗な体質があるんだけど(笑)、佐藤さんの場合はもっと死が直接的に描かれているじゃないですか。それはどういうところから来るんですか?
佐藤 ちょっと話は遠回りしますが、伏見さんの本はほとんど私小説と同類の小説であり、主人公がどう見ても伏見さんにしか思えないじゃないですか。僕の本も、物語自体は現実の世界では起こりえないようなことが起こる内容になっていますが、私小説とも言えるくらいに自分のバックボーンが反映されています。『挽歌』という小説には、主人公が幼少期に、飼っていたウサギがシベリアンハスキーに喰い殺される場面を見て、そのときから死ってなんだろうと意識し始めたというのがあるんですけど、僕自身、幼少期に全く同じ体験をしたんです。小学校低学年のときに家の裏庭でウサギを飼っていて、ある日、僕が二階の自室にいた時、母親の悲鳴のような「雄駿ちょっと来て!」という叫びが聞こえて、尋常じゃない様子だなと下に降りていって勝手口から出たら、ウサギがシベリアンハスキーに首をグッと咬まれて、ぶんぶん振り回されている状態でした。まったくこの本と同じなんですけど、その後にシベリアンハスキーの飼い主が家にやってきて、おそらくお金が入っているであろう封筒を両親に渡そうとしている光景を見て、「死ぬってなんだろう」と。ウサギのことはとてもかわいがっていたので、僕はその日一日中大泣きしていたんですけど、そこから死ぬということを意識せずにはいられなくなりました。以来、宿題に集中できないときにノートの端っこに「ぼくはしぬ」と書いたりしているような子で、それを母親に見られて「なぜこういうことを書くの?」と叱責されて、「死ぬってことは言葉にしちゃいけないのかな」という、トラウマいうほどでもないですけど、そう感じたことがあります。
伏見 死ということは恐怖なんですか? 今の話を聞いているとちょっとエロスに近いのかなと感じたんですけど。
佐藤 いや、エロスではないですね。死という言葉自体は、文字は見えても実体は見えない。やがて僕もそこに行くけど、そこってなんなんだろう、という漠然とした不安は、幼少期から変わらないです。
伏見 僕にもいくつかの死のエピソードがあります。ひとつは大宮から東京方面に向かう京浜東北線に乗っていたとき。僕が佐藤さんくらいの歳だったか、もうちょっと若かったか。先頭車両に乗っていたんですけど、電車が突然止まったんです。なんで止まったのかなと思って外を見ていたら、前方に踏切があったんですね。踏切はしまっているのに、たぶん、知的障害と思われる子がのったらのったら歩いて来るんですよ、真ん中の方に。「あ、この子のために止まったんだ」と思って、「クソっ! これからアルバイトに行かなきゃいけないのに」とイライラして見ていたら、あっという間に対向から来た高崎線にボンッてはねられたんです。そのときに、人が生きている状態から、たぶん即死なんだけど、物体になる瞬間を見た。死というものは、本当はそこここにあるはずなのに、なんでふだん見えていないんだろうと、とても不思議な恐怖感を覚えました。佐藤さんの小説の、犬にウサギが咬まれたシーンでそれを思い出しました。
もうひとつはタイに旅行にいったとき。ボート船に乗っていたんです。そうしたら船頭のお兄さんがフィーバーして騒ぎ始めて、「アレ、アレ」と指を指したんですよ。そうしたら人間の首がどんぶらこ、どんぶらこと流れていた。タイの人にとっては珍しくないのかよくわからないんですけど、波に浮かぶ頭部にフリーズしました。
「“死”が放置されることが何よりも怖かった」というフレーズが佐藤さんの小説にはありましたが、ある意味で、我々の社会では死は放置されていないわけですよね。あなたの小説を読んで「そうか、放置されるということはああいうことなんだ」と思い出しました。
佐藤 たぶん僕は神経質過ぎるくらいに敏感で、人の死に関わらず、虫一匹殺せないんですよ。部屋で蚊が飛んでいても殺しません。共存を選びます。刺されたらかゆいですけど、目一杯吸えばもう吸わないでしょう。かゆいか、殺すかどっちを選ぶとしたら僕はかゆいのを選ぶんですよ。大きめの虫が部屋に入ってきても、ティッシュで優しく包んで外に放すし。勿論、その価値観を他人に強要はしません。自分が異常なんだとは思っています。幼少期は、常にビニール袋を持ち歩いていました。僕は以前、アルバイトの職場まで原付で通っていた時期があったんですが、そうすると、わりと猫とかの轢死体を見つけるんです。そういうのを見かけるとすぐ停車してビニール袋にそれを包んで、どこかに埋葬して、十分十五分遅刻する、みたいなことを繰り返していました。
伏見 それ、本当にエロス的な欲求ではないんですか?
佐藤 まったく違います。そういうことではないです。
伏見 埋葬しないと、自分がどうなっちゃう感じがするんでしょう?
佐藤 わからないです。ただ、そうせずにはいられないんですよね。つい一週間前くらいにも、おそらく猫が捕まえてきてそのへんに放ったんだろうネズミが放置してあって、それも周辺にあった駐車場の端っこに埋葬して、手を合わせました。いまだにその行為がなんであるのかが自分ではわからないんですけど、そうせずにはいられないです。
伏見 もしかしたら、「死」がふだんは隠蔽されているのは、みんなが埋葬せずにはいられないという欲求を持っているからなのかも。
佐藤 かもしれないですね。日本では火葬してお墓に入れる、というイメージがあるじゃないですか。土葬ではないですけど。最初にウサギが喰い殺されてしまったときに裏庭に土を掘って埋めたという経験があるからそれを繰り返しているだけなのかもしれないですけど。
伏見 「埋葬」という言葉に小説でもこだわっていらっしゃる感じがしましたが、改めて考えてみると、埋葬って、面白いですね。なんのためにするんでしょうね。
佐藤 僕のイメージとしては、土に還す、ということですね。
伏見 僕の母はもうだいぶ老体で、葬儀について調べたことがあるんですけど、葬儀屋のパッケージ商品ではなく、自分で予約したりすると、火葬場ってキロで料金が決まっているんですよ。体重が何キロだといくらだと。デブはこういうときも不利ですね(笑)。
「添える手」になりたかった
伏見 佐藤さんは音楽をやっているわけだけど、音楽で死を表現するのと、物語で死を書くということに違いはあるんですか?
佐藤 根本的には全く違いはないですね。ただ、音楽のほうが、歌詞には縛りが多いと思っています。NON’SHEEPの楽曲の作り方はメロディーと、バンドの音が出来て、最後に歌詞を乗せるんです。だからメロディーに合わせて歌詞を書かなくてはならない。表現という意味で、文字を入れ込むという縛りは大きいけれど、メロディーがついて、リズムがついて、音が重なることによって、言葉を連ねるだけでは伝わらないものが伝わることを可能にするというイメージはあります。
伏見 音楽という手段があるんだったら、わざわざ文章なんて書かなくてもいいじゃん、と思ったりもするんですけど、それはどうでしょう?
佐藤 僕は言葉にというツールにかなり重きをおいていて、すごく書きたいんです。音楽があればそれでいい、という感じではなく他に言葉を使った表現方法があればできることは全てやりたい、という気持ちです。書くことには執着しています。すがりついているイメージですね。
伏見 作品を読んでいて、残酷なものとか、不条理なものがモチーフとしてあるじゃないですか。僕は、もともとはエッセイや評論を書いていたんですけど、そこでテーマにしていたのは、世の中から不条理なものをなるべく排除する、社会を理にかなったものにしていくということだったと振り返ります。でも、実は僕たちが生きているこの世界は不条理なものや残酷なものがあることで成り立っているという面があって、そういうものを排除していくことばかりをやっていると、どういうわけか、心がやせ細っていくんですよ。人間は理路だけでは存在しえない。だから、不条理なものとか残酷なものとか、理にかなわないものとか、そういうものをもう一度自分の中に取り込んでいく必要がたぶんあって、それで小説をこの十年くらいやっている感じがするんです。
佐藤 僕がそのテーマで衝撃を受けたのは、カミュの『異邦人』を読んだときです。物語の最後、主人公は不条理とも言える判決で処刑されることが決まり、友人たちとの最後の別れをする。そして最も重要な部分で「私は初めて世界の無関心な優しさに心を開いた」という一節があって。それが僕の中で「これだよな」、と。「これだよな」と言ったら軽いですけど、ぐっと掴まれた感じがあったんです。それは高校生くらいのときですかね。
伏見 無関心な優しさという、ちょっと冷たい肌触りの、そういう言葉に掴まれたんだ。
佐藤 そうですね。さっき伏見さんは、世の中は不条理で成り立っている部分があるとおっしゃいましたが、たまたまその不条理が自分に回ってきてしまっている人たちの一番、世の中の底辺の底辺の底辺にいるところにそっと添えられる手のような言葉ってなんだろうな、と思ったときに、入ってきたのがカミュの言葉だったんです。
伏見 そのときに佐藤さんは底辺にいたんですか?
佐藤 僕は底辺ではなかったと思います。
伏見 添える手だったんでしょうか?
佐藤 うーん、普段から僕ずっとそういう思考ばかりを巡らせていたときに、その手を見つけた感じです。自分が添えられたという感覚も半分ありながら、でも、自分がそんなに恵まれていないかと言ったら違う。今でもその思考が巡り続けているのは変わらないのですが。
伏見 添える手になりたかったんだ。
カート・コバーンと、何者かになりたい自分
佐藤 それもありますし、それによって僕も救われた部分はあった。
そういう体験は、小説で言ったらカミュの『異邦人』で、あとは音楽ですね。ニルヴァーナも歌詞がすごく好きで、言葉にするのは難しいのですが、救われたという感覚があって、僕は勝手に恩義を感じているんです。それに恩返しをしていきたい、僕もそういうものを作りたいという気持ちで音楽を始めました。そして音楽をやっていくにつれ、やっぱり言葉だよな、と言葉にどんどんシフトしていって、小説を書かせてもらったんです。
伏見 ニルヴァーナって、僕も「Never Mind」がヒットしていたときにCDを買っていたんですけど、あれってどういう歌詞なんですか? 単にサウンドが心地よくて聴いていたのですが。
佐藤 「Smells Like Teen Spirit」に関しては、若者が抱える鬱屈とした劣等感みたいなものが歌われています。アメリカって、体育会系のアメフト部がモテて、運動できないやつは全然だめ、みたいにわかりやすく二極化しているイメージがあるじゃないですか。それで、カート・コバーンはモテない、窓際的な方で、更に親が離婚したりだとか、すごく不遇な環境で育っていて、自分にはなんの才能もない、だけどそんな自分をこの世に送り出してくれた神に感謝するよ、というアイロニーが込められた歌詞なんです。僕が一番影響を受けたのは、最後のアルバム「In Utero」に入っている「All Apologies」という歌で、それは「すべてに謝罪する」という意味なんですけど、その歌詞が「僕が全部悪かった、謝るよ」という内容で、その曲を残してカート・コバーンは自殺してしまった。遺書のような曲でもあるんです。
あの歌詞はぜひ伏見さんに読んでいただきたいんですけど、「僕らはみんなゲイだ」と歌っていて、「太陽の下僕らはみんな結婚をし、埋葬される」という歌詞なんですね。僕の小説、「挽歌」に登場するストリートミュージシャンが歌う曲に、「喉が渇く前に埋葬を」というのと「月が消える前に婚礼を」という歌詞が出てくるんですけど、その歌詞は「All Apologies」の歌詞にインスパイアされていて、あれは僕の中でカートに敬意を表して作ったんです。
伏見 ウィキペディアで読んだんだけど、カート・コバーンってアメリカのゲイ雑誌「The Advocate」で自分はバイセクシャルかもしれないという発言をしていたみたいですね。
佐藤 彼は憧れていたんだと思います。彼は何も才能のない自分が、バイセクシャルであったり、ゲイであったりすることで”特殊な自分”となり、そこにアイデンティティを求めたという部分があって、それでバイセクシャルかもしれないと言っていたんだと僕は推測しています。
伏見 だとしたら意外と単純な男ですね(笑)。チンコ好きか、マンコ好きかということに何か特異な才能を見てしまうというのも、僕からすると一昔前の話という感じがある。要するに、ありきたりじゃない、何者かになりたいけどなれない自分への鬱屈というのが、カート・コバーンの本質的なところなのかな。
佐藤 彼はしきりに、「僕は何をやってもうまくいかなかったから音楽だけはどうにかして成功したい」とインタビューで言っていて、時代も時代で、ガンズ・アンド・ローゼスのようなロックスターがいてそれに対する、アンチロックスターみたいな感じで彼が意固地になっていた部分もあると思います。
ロックは思想か!?
伏見 僕は口にするのも恥ずかしいんだけど、昔は音楽をやりたいと思っていたことがあって、歌が歌いたかったんですよ。デブのくせに(笑)。そういうことがあって音楽をやっている人にはジェラシーを感じたりするんだが、今ロックをするのって、どういう意味があるのかと思うんですよ。たとえば尾崎豊は僕と同世代なんだけど、当時の僕は、対抗するものがもはや学校くらいしかなくなってしまっていて、そこでふんばって対抗軸を見つけたね、良かったね、みたいな皮肉な目で彼を見ていた。むしろ、後に登場するミスターチルドレンにはびっくりしたことがあって、彼らの歌詞の中で「秩序のない現代にドロップキック」というのがあったでしょう。「ロックは、秩序がないことに賛成じゃないの?」と。ミスチルの歌詞は、サラリーマンが会社帰りにちょっと歌うような歌詞が多かったりして、「ああ、これが今のロックのリズムをまとった音楽なんだな」とちょっと皮肉な気持ちもあるし、納得する気持ちもあった。そこで、今ロックをするということがどんな意味を持つのか。僕の世代ですらロックはメジャーや体制に対抗するものというイメージはなくなっていた。佐藤さんはぼくより20も若い。その人が今ロックを選んでやっているわけでしょう。
佐藤 掘り下げていけば、ロックって黒人音楽と白人音楽の融合で生まれたけれど、いわゆる一般的なロックのイメージは、極端に言えばセックス&ドラッグ、ドント・トラスト・オーバーサーティーのイメージもあると思うんですが、僕からするとロックは音楽のジャンルでしかなくて、ロックの思想もクソもない、というイメージなんですよ。たとえばこの前「文化系トークラジオ Life」というラジオ番組を聞いていたんですが、そこで原発デモとロックの思想を絡めて話をしていたんですよ。デモに積極的に参加するのがロックなのか、それともそのデモに違和感を感じるのがロックなのか、と。僕にはまったく意味がわからず、ロックって、音楽なんだけどな、と思いました。もはや思想でもなんでもないし、ロックというのはロックというビート感だったりサウンド感だし、音楽のジャンルでしかないのに、今でもそういうふうな話し方があるのか、と少し驚きました。僕は「ロックという音楽」に自分の思想と言葉を載せて発信する。だからロック自体に思想があるわけじゃない。僕としてはそういう感覚ですね。
伏見 じゃあ、佐藤さんにとってロックとは、自分の感覚に合ったリズム、ということにすぎないんだ。
佐藤 そうですね。僕がかっこいいな、と思う音楽はロックでした。音楽として。ただ、反応したのは言葉だったんです。
伏見 じゃあ、ちょっと時間にもなったので、もしよかったら最後に佐藤さんにご自身の曲を歌ってもらいましょう。よろしくお願いします!
(2012.8.29 エフメゾにて)
百年の憂鬱
著●伏見憲明
発行●ポット出版
希望小売価格●1,500円+税
ISBN978-4-7808-0184-2 C0093
四六判 / 160ページ /上製
[2012年7月31日刊行]
悪魔の飼育
著●佐藤雄駿
発行●徳間書店
定価●1,400円+税
ISBN978-4-19-863430-8 C0093
四六判 / 192ページ /上製
[2012年7月31日刊行]
悪魔の飼育(CD)【タワーレコード限定】
NON’SHEEP
レーベル●stock farm
価格●1,000円+税
規格品番●SFCD-002
[2012年9月19日発売]
タワーレコード限定発売
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