2011-01-12
お部屋2164/唐沢俊一の特性
初めての方は以下を先にお読みください。
2139/「メタ視力」リンクまとめページ
ここまで書いてきた「メタ弱視=客観なき人々」の特性は、おおむね唐沢俊一に当てはまります。「ごっこ右翼」ほどひどくはないかもしれないですが、唐沢俊一は物書きであって、物書きがガセやパクリをああも乱発するのは許されることではない。
唐沢俊一がガセを連発するのは、文字は読めていても、そこに書かれた内容を読めていないことによるものでしょう。単なる不注意で起きるレベルではなく、読むと同時に脳内で意味を変換していくのだと思われます。
以前から「唐沢俊一は本を読まずに書評を書いている」と指摘されていましたが、「藤岡真blog」の「唐沢俊一の朝日新聞書評 その2」で、常連のトンデモブラウさんがこうコメントしています。
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私は未だに「読まずに書く」説を採れずにいます。
「読んだのに、読んでない人のガセ感想文のようにしか書けない」説です。
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同感です。唐沢俊一は、本を読んでもそこに書かれた内容は読めておらず、自分の都合に合わせた解釈でねじ曲げる。そのため、通常の読解力がある人たちからすると、「読んでないだろ」としか思えない。そういうことなんじゃないかと私は推測しています。
これは私自身の経験にも基づいていて、唐沢俊一は、どこからどうやったらそう読めるのかわからない頓珍漢な解釈をして誹謗してくるのですから、こちらはどういう文章であったのかを解説してやらなければならない。「頼むからちゃんと読んでくれ」って話です。
彼は典型的な「議論ができない人物」で、私との議論の最中に「どっちが本をたくさん出しているか」って言い出すのですから、呆れます。今何が議論されていて、何を答えなければならないのか理解できないのです。
すでに書いたように、「メタ弱視」「客観の欠落」はガキの特性でもあります。あることで揉めている時に、いきなり「おまえとオレとどっちがプラモデルを持っているんだ」と言い出すのもガキ。
唐沢俊一と揉めている頃、唐沢俊一を知る人たちの中に、こちらに情報を流してくれるのがいて、笑った話があります。唐沢俊一は周辺の人たちに「おまえは松沢の味方か、オレの味方か」と聞いていたらしい。私は「“はい、唐沢さんの味方です”って答えておけばいいんじゃねえの」と彼に言いました。敵か味方かでしか人を判断できないんですから、味方だと思わせておけばいいでしょう。
唐沢俊一の文章がガセのみならず、誤字・誤用が多く、勝手な変更が許されない固有名詞でも頻繁に間違えていることは「唐沢俊一検証blog」「トンデモない一行知識の世界 2」「藤岡真blog」で繰り返し指摘されている通りです。
誤用は一般にあまり使わない言葉や外国語を使おうとした時とりわけ起きやすいようです。ハッタリをかまそうとして誤字のある名刺を配る「ある種の人々」と似ています。
プロフィールがやたらと長いことも、肩書き羅列の名刺に通じますし、唐沢俊一は実体の伴わない肩書きを早くから使用していましたね。
「ごっこ右翼」も個人商店なのか団体なのかもわからない存在の代表になるのが大好きです。
ちなみに私のプロフィールはこのページの右上にある通り。あまりに不親切ですけど。名刺に肩書きはありません。肩書きのある名刺を作ったこともありますけどね。タコシェの名刺を作った時は「エロ部長」でした。
唐沢俊一がブーメランを連発することについても、これまで多数指摘されていて、私も1850「唐沢俊一のブーメラン」で指摘しました。
自己と他者の関係を、今目に見える視点からだけではなく、別の視点から把握できないため、自分の発言がどう自分に跳ね返るのかの想像ができない。
発言すれば高い率でブーメランになる瀬戸弘幸とブーメラン競争をして欲しいです。
著作権に対する無頓着、無神経な唐沢俊一の姿勢はこの上説明するまでもないでしょう。法律という客観的なルールが理解できないわけです。
おそらく彼は著作権において何がやってはいけないことで、何がやっていいことなのかを今なお理解できていないと思います。謝罪できないのはプライドの高さによるものもありましょうが、なぜやってはいけないことなのかが理解できていないからだとしか思えません。
唐沢俊一に限らず、著作権に対する姿勢に、「メタ弱視=客観なき人々」の特性がよく表れます。
続きます。
>「メタ弱視」「客観の欠落」はガキの特性でもあります。
つくづくそう思います。いまどき、プロレスについて「ファンがわかっていることを前提として“世界”が成立しているのだ。“王様は裸だ”とわめきだすような、KYなガキはアッチいけ、だったのである」なんてしたり顔で書くなんて、まさにガキそのもの。
唐沢には大人の発想がありません。それは大人の体験がないからでしょう。ガキが弟のコネで強引にデビューしてしまった。それを自分の才能と勘違いして今日に至る、ですから。
藤岡さま
大人が子どもの発想を持ち続けていることは必ずしも悪いことではなく、時にそれは魅力でさえあるわけですが、このタイプの人たちは、その自覚が欠落しているため、子どもの論理が他者に通じると勘違いしています。それが迷惑。
そういう人なのだと周りが認識した上でつきあう以外ないんでしょうね。あるいは一切つきあわないか。
子供の発想で大人の世界を批判する。それがいたいけな子供のすることなら、微笑ましいの目から鱗のという感じでしょうが、薄汚い中年の親爺なんですから。単に幼稚なだけ。わたしは「一切つきあわない」ようにしたいと思います。
はじめまして。
唐沢俊一検証blogからこちらを知りました。
メタ弱視の話題を読ませていただきました。
その特性は、高機能広汎性発達障害やアスペルガー症候群の特徴と重なる部分が多いのではないのでしょうか。
(ガキ、こだわり、客観視の弱さ、不適切な行動等々)
客観的に見て、変だなぁと感じられる唐沢氏の行動や発言もそのような障害を持っていると考えると、うまく説明できる気がします。
ましゅさま
一般にこの程度は性格と見なされるべきものでしょうけど、「ごっこ右翼」の周辺には、あきらかに病気の領域に踏み込んでいる人たちが多数いて、その特性には共通するものがある、少なくとも親和性が高いのだと思います。
私が言うところの「メタ弱視」は、自覚できていれば問題は生じにくく、現実に、いくらでも存在しています。唐沢俊一の場合、「そういう人なのだ」という認識が広く浸透しつつあるので、あとは本人の自覚の問題だと思うんですけど、難しそうです。