2010-04-27
お部屋2045/インタビュー原稿のルール 3
前回、「合意」という言葉を繰り返していて、「週刊ポスト」においても、合意があったという前提で、私は私の考えをツイートしました。
合意があったのであれば、今さら企画趣旨に文句をつけるのはルール違反。合意があったのであれば、その範囲で加筆されるのはおかしなことではない。合意があったのであれば、インタビューイによる加筆も、その合意の範囲でなされるべきってことです。
それでもなお編集部は、原稿チェックの段階で削除した部分を復活させたのはまずいと思うのですが、一方、「[ツイッターを疑え!]を疑え」で展開された河野氏の「週刊ポスト」批判も多くは行き過ぎだと思ってました。
この段階では、「合意があったのに、いまさら何を」と思っていたわけです。しかし、よくよく読むと、事前にどこまで説明があったのかについて河野氏は記述してません。そこで私は「あえて伏せたのではないか」とも疑いました。合意があったことを隠した上で、あのような批判をしたのなら姑息です。
ここは確認するしかない。そこで、私は河野氏に質問をしました。
「[ツイッターを疑え!]を疑え」のコメント欄を読んでいただければおわかりのように、私の質問に対して、河野氏が説明してくれたところによると、最初は「ツイッターの功罪」というタイトルだったとのこと。
そうだったのか。それなら話は違ってきます。ここは書いておいて欲しかったものですが、書いておかないことを批判されなければならないというものでもない。
そういうことなら河野氏の腹立ちは理解できます。功罪を語ることに合意し、事実、それを語った河野氏としては「話が違う」ってことでしょう。同じ状況であれば、私も腹を立てます。
これは河野氏を騙す意図ではなく、デスクや編集長、あるいは他の部署からの意向によって、より売れるよう変更されたものだと推測できます。よくある話です。
どういうタイトルをつけるのか、どういう内容にするのかは、もちろん編集部が決定してよく、ただ漫然と、登場する人たち、執筆する人たちに表現の場を提供しているわけではありません。しかし、編集部がその人たちの言葉をどう処理してもいいというわけでもない。
だから、その意思の擦り合わせがあって、編集部が望むものを提示して、合意してもらうわけです。その合意を変更するのなら、その説明を改めてやって、合意を再度とりつけるしかないし、取材協力者がそれに合意できないのであれば、この段階で「降りる」という選択もありです。ライターや編集者のことを考えると、なかなかそうはできないですが。
あるいは、編集部としては、合意できる人については一方的なツイッター批判でまとめ、合意できない人については合意された範囲で原稿をまとめるべきでした。
しかし、現実には、十分な合意がないまま、河野氏のインタビュー原稿はまとめられ、加筆部分は一方的にツイッターの「罪」を強調するものです。
以下が河野氏が語っていないのに加えられ、チェック段階でカットしたのに掲載されたとしている部分です。
最近では、クレーマーまがいの人物がツイッターでの書き込みを理由に会社へ抗議電話をかけるという〝リアル攻撃〟に発展するケースも増えてきているといいます。
河野氏自身、このような話を知らない。私も知らない。そういうこともあるかもしれないと思える程度。その言い回しから、ライターは想像で書いた可能性もありそうです。
断定する書き方ではないので、このような表現は許されるという考え方もありましょうし、私も「捏造」とまでは言えないと思いますが、この場合は、そもそも合意が覆されて、批判する部分を強調する表現ですから、「週刊ポスト」側に弁明の余地はないかと思います。
その過程を踏まえれば、河野氏が「歪曲」とすることも妥当と考えます。
それでもなお河野氏がタイトルを指して【まともな神経の人ならこの時点で偏向報道だと思う】と批判したのは過剰です。すでに述べたように、礼賛記事、礼賛本が溢れる中で、一方的に叩く記事を出すことでバランスをとるのはよくある話であり、雑誌の役割だとも思います。礼賛を読みたいのなら、他のものを読めばいい。
批判に重きを置いた言論がすなわち偏向だと言うのであれば、河野氏のこの一文もまた偏向です。
「疑え!」という呼びかけは、あらゆるものに対して言えることであって、なんら間違っていない。「民主党政権を疑え!」「マスコミを疑え!」「権威を疑え!」「××ブームを疑え!」などなど。ツイッターのみが疑われてはならないはずがありましょうか。
今回のことでも、河野氏が書いていることを疑わないばかりか、その内容を拡大して、マスコミ批判をやった気になっている人々がたくさんいることを見ても、繰り返し、「情報を疑え!」と強調することに意味はあるでしょう。
合意を覆されて、言っていないことを出されてしまったのであれば、このくらいの批判はしたくなるのも心情的に理解できますから、この点について、私は河野氏を批判はしないですが、その批判が妥当か否かについて、第三者は冷静に判断すべきです。当事者だから無条件に信用できるわけがない。当事者だからこそ、「説明するまでもない」と思って大事な情報を書かないで済ませることがあるものですし、当事者だから、過剰になることがあるものです。
しかし、この記事の反響を見ればわかるように、ほとんどの人たちは冷静に判断することなんてどうやってもできないわけですから、それを前提として、河野氏は「何が問題であったのか」について、より丁寧に説明を試み、過剰な「週刊ポスト」批判は避けた方が好ましかったとは思います。
ここは腹を立てているであろう当事者ではなく、第三者がやるべきかもしれず、だから私がこうしてやっているわけです。連載が次々と切れられて、もはや出版で食っているとは言えない状況になりつつある私が、なんであたかも出版界の代弁をしているかのようなことを書かなきゃいけないのかよくわからないですが、金にならないこと、話題にならないことは皆さんやりたがらないものですから、しゃあないですわね。
批判に重きを置いただけで「偏向」呼ばわりされ、原稿チェックを前提としたインタビューに加筆しただけで「捏造」呼ばわりされてバッシングされるようなバカげた社会は私自身困りますし。
まだ続きます。くどい性格なものですから。
[...] 続きます。 [...]
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