2009-09-11
お部屋1952/創価学会を嫌う理由 3
「いかに私は創価学会が嫌いか」を延々と書いていこうと思ったのですが、やめました。
ここまでのおさらいをしつつ、今回でこの一連の話は終わりにします。
前々回書いたように、このシリーズは、「私は何故東村山の問題に関与したのか」を説明し、「創価学会は嫌い」という個人の事情をも説明しつつ、「創価学会であろうとも、その信者を拒絶することはなく、連携できるところでは連携する」という結論になる予定でした。
しかしながら、私が「創価学会は嫌い」という前提をりゅうさんが受け入れてくれなかったため、「だったら、どんだけ嫌いか、とことんわからせてやろうじゃねえか」ということになったわけです。りゅうさんによって嫌いになったわけではなくて、もともと嫌いですから、それを表明するだけのこと。
暇つぶしとして、あるいは仕事として、おそらく今まで百を超える信仰宗教系の団体とコンタクトをとったことがあると思いますが、いつだって最初は警戒心から始まります。その緊張感が宗教団体巡りの醍醐味だったりもします。異文化と接触するのが楽しい。海外旅行をするようなもんです。
その警戒心がいつまでも消えないこともありますし、それが嫌悪といったよりネガティブな方向に転ずることもあります。また、好意に転ずることもあります。
時にはその嫌悪や好意は、教団の体質なのではなく、個人の問題であったりもするわけですが、教団のすべてを知ることなどできない以上、その人物がある教団の信者として目の前に現れたら、そこで判断するしかない。教祖や教主といった立場にいる人であればましてや教団全体を判断します。
信者さんたちは、「入ってみなきゃわからない」なんてことをよく言います。しかし、いちいち入ってられるはずがないでしょう。私はいちいち入っていた時期もあるわけですが。
で、創価学会の場合、なおも警戒感が続き、嫌悪感もあるのは、私が経験してきたこれまでのいくつかのコンタクトによるところがまずあります。これも詳しく書く予定だったのですが、まあいいや。
続いて、創価学会が外部に出す情報の不快感です。これも詳しくは省略。すでに書いたように、信者ではない我々は、こういった外部との接点で判断してよく、外部から見て気持ち悪ければ気持ち悪い教団と言ってよい。
もうひとつは公明党です。これまたすでに書いたように、どんな教団であろうとも、政治的に力を持とうとすることには警戒します。
細かく言えばまだまだありましょうが、これらが相まって、私の創価学会に対する警戒感や嫌悪感が形成されています。
自分では注意していたつもりですが、私はこれを「私の感情」として語っていたつもりです。「創価学会は存在してはならない」「創価学会は社会的に非難されるべき」と言っているのではなく、私個人としての創価学会に対する姿勢でしかありません。ここはりゅうさんが誤解したかもしれない。
宗教は、「鉄道が好き」「アニメが好き」「エロが好き」といった単なる趣味以上に人格に関わるでしょうが、それでも信仰の対象だけで人を判断できるはずもなくて、「学会員だから信用できない」なんてことは言わない。だから、学会員ともつきあえる。
ただし、東村山については微妙なところがあります。前回引用した、2年以上前に書いた私の文章の中に「学会が出張ってくると話がこじれそうなので、今回も黙って遠くから見ていてもらいたいものです」とありました。
ただでさえ、そう見られかねないのに、「創価学会とともにやっている」と見られるのは単純にイヤです。それを避けるために、ことさらに創価学会の批判を私はするしかないかもしれない。「草の根」を批判すると同時に、創価学会をも批判するのは大変です。
それに、学会員として動く場合、どうせ教団のためにしか動かないだろうと推測できます。創価学会に限らず、宗教団体の信者はそんなもんでしょうし、会社員だって、「××の社員です」と公言したら、会社の批判はしにくい。
例えばの話、創価学会に非があるという局面があった場合でも、彼らはそこには触れないでしょうし、こっちも気を使って、そこに触れにくくなりかねない。
外向けには創価学会の批判をせざるを得ず、しかし、本人に気を使って批判はしにくい。ストレスが溜まります。こういうことを考えるだけで面倒です。
仮に、学会員であることを伏せていたなら、こっちも気を使いようがなく、その人物としても、同じ学会員の目を気にせずに「創価学会にも非がある」と言えるかもしれないですが、名乗ってしまったら、そうはいかない。
といったことを考えると、遠くで見物していてくれた方がいい。
そう思ってはいたのですが、この2年間で考えが大きく変わりました。
創価学会に関わらないで欲しいと思えていたのは、そんなもんの力を借りずとも、解決できるのではないかとの期待があったからです。東村山市民でもなんでもない私らが批判し続けることによって、多くの東村山市民や市議たちが行動を起こすことを期待もしていましたが、すでにそんな期待はしていません。
数名の市議を除けば、次の選挙で当選することの方がずっと大事であり、火中の栗を拾うような市議はいない。政治家こそ自分の利益しか考えないのでは困るのですが、現実はこんなものです。遊びで海外旅行に行ったことを嬉々としてブログで書いているのに、自分の足下で起きているりんごっこのことにも、洋品店襲撃のことにも一切触れない。
市民の支持があれば、本当はやりたくなくても、票欲しさでイヤイヤやるでしょうが、東村山市民たちも無関心。あるいは関心があっても、意思表示はしない。これでは自分のことだけ考えている市議たちが動く動機がない。「草の根」に投票するのも市民なら、それを容認する市議たちに投票するのも市民です。
このブログに東村山市民から「頑張ってください」なんてコメントが書き込まれることがありますが、頑張るのはおめえらだろうが。私は東村山市民のためにやっているのでなく、東村山市民が生み出した「草の根」を批判しているだけのことです。「草の根」に対抗している一部の市民を除いて、東村山市民たちを信用していないし、味方だとも思ってません。
メディアがこのことを扱うことも期待していましたが、わずかな例外を除いて、期待しようがない。朝木明代が殺害されたかのようなデマを流した雑誌や新聞は書きっぱなし。かつて「草の根」の活動をバックアップした文化人たちも知らんぷり。りんごっこ保育園の認可をバックアップしたTBSもそのまんま。
実のところ、薄井市議の問題以降、テレビを含めて、いくつかの媒体が動いた事実がありまして、私も雑誌に提案したことがありますが、ほとんどの企画は潰れています。相手は札付きの訴訟マニアですから。
それとともに、「草の根」の「反創価」というニセの看板がメディアにおいてはなお有効なようです。メディアは創価学会に支配されているようなことを言いたがる人たちが多いものですが、その側面もありつつ、創価学会が嫌いな人たちも数多くいて、だからこそ、ああも朝木明代の転落死については、易々とデマに乗ったわけです。
私だってそうですから、嫌いでもいいから、ちゃんと調べればよさそうなものですが、そんな記事を出したところで売れない。だったら、調べる意味はない。結果、調べもせずに、今なお創価学会が怪しいと思っている人たちさえいます。
という現実をさすがに私も認めるしかない。
「1950/創価学会を嫌う理由」に印伝さんという方がこうコメントしています。
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徹底的にやりすぎて世間の失笑を買うという愚は唐沢氏との論争で経験済みかと思いますので、「どこまでやればいいのか」「どこで相手を許すか」は考えてみてはいかがでしょうか?
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これはりゅうさんとの件についてです。りゅうさんとの関係でいえば、たしかにこれ以上続けるのは得策ではないという指摘は理解できるのですが、この人にとっては「徹底的にやること」自体、否定されるべき愚だということのようです。2年もこんなことをやっているワシらがさぞかしバカに見えるのでしょう。
ちなみに唐沢俊一については、唐沢俊一が書いていることをいちいちチェックして検証しておけばよかったと今は反省しています。つまり、徹底していなかったことに反省がある。印伝さんと違い、私は3羽の雀さんやkensyouhanさんのように徹底的にやる人の方が尊敬できます。
あるいは、kdxという人物がいまして、私は彼が途中で放り投げずに、徹底的にやることにずっと敬意を払っています。その姿勢のためにあちこち出入り禁止になっていますが、その姿勢だけでなく考え方も大いに参考になります。最近では、mixのコミュで、と学会の山本弘会長がkdxさんの書き込みの頻度だけを根拠に無職であると決めつけ、「この野郎、嘘ついてやがる」と罵倒したことがあります。ネットに出ている情報だけでも、kdxさんがウソをついていないことはわかるんですけどね。山本さんは、職業を見抜く超能力を過信し過ぎです。
彼らに比べると、私は飽き性なので、何事も中途半端です。東村山のこともとっくに飽きているわけですが、「この辺で許してやるか」とも思えない私としては、もはや創価学会に「遠くから見ていて欲しい」なんて言ってられない。悔しいですけど、これが現実。
学会員であれなんであれ、ここに参入してくれるのはありがたい。でも、言っておくけど、私はあなた方のためにやってきたわけではないし、創価学会に対する警戒心を解くことはしませんよと。これが真如苑であろうと、モルモン教であろうと、崇教真光であろうと同じです。ここはくれぐれも誤解しないで欲しい。学会員の方々には理解できないでしょうけど、世間に失笑されようとも、なんのメリットがなくとも、納得できないことに納得しないだけのこと。私以外のブロガーも同じです。
もうひとつ、この2年ではっきり考え方が変わった点があります。一般論として、トラブルは言論で解決すべきであって、訴訟は避けたい。私はライターということもあって、言論の力を諦めたくない。「草の根」や瀬戸弘幸たちに対してでさえも、当初、私はそう思っていたのですが、議論が成立する相手ではないことはすでにはっきりしています。かくなる上は、法廷で白黒つけることもやむを得ない。つうか、積極的にそうする以外に解決はなさそうです。
「草の根」については、自らああも訴訟を起こしてきた歴史があるし、市議であり、「新聞」を発行し、FM局もやっているのですから、力のない個人ではありえません。いくら訴えたところで、SLAPPであるとの批判はされないでしょう。批判するのがいたら、私は断固擁護します。
瀬戸弘幸たちも、それぞれ立派な団体の代表者であり、選挙の当落までを左右できるだけのすさまじい力をもっているそうですから、同じくSLAPPとの批判は成立しない。ああも活動できるくらいに潤沢な資金もあります。本人たちもしばしば「訴えればいい」みたいなことを言っていたので、希望通りにしてあげるのが親切というものです。
利己でかまわないので、どんどん創価学会は訴えてやってちょうだい。
ということなのですが、これだけ創価学会が嫌いな私を学会員が受け入れる余地はなさそうだし、私は私でどうせキレると思うので、今後は互いに接点を持たないのが賢明です。何も横につながらずとも、互いに互いの領域でヤツらを批判し続けることが、結果、連携することにもなりますし。今後は創価学会がらみの領域には触れず(もともとあんまり触れてないし)、瀬戸弘幸の過去を探ることと、前々からやろうと思っていた「草の根」の過去を振り返る作業に集中します。