2009-09-09
お部屋1950/創価学会を嫌う理由 1
※すいません、なぜか間違って、この回に次の回を上書きしてしまったようです。元の文章を復帰させました。9月9日の杉山真大さんのコメント以降は次の回につけられたものです。
「1949/宗教への嫌悪感が生ずる条件」の続きです。
このシリーズは、りゅうさんが書いていたことに呼応して、なぜ「草の根」を批判することになったのか、また、なぜ批判し続けているのかを説明するものなのですが、同時に、「創価学会の弁護をしたいなんて微塵も思っていないので、勘違いしないように」と表明しておく意図もあります。
これはりゅうさんに対してというよりも、「松沢は創価学会の信者なのか」「創価学会を擁護しているのか」などと疑う連中に対する牽制の意味でもあります。時々やっておかないと、必ずそういうヤツらが出てくるものですから。
私は創価学会がでえ嫌いであり、そんな教団を弁護をする気は毛頭なく、あくまで私は「草の根」や瀬戸弘幸らを批判しているだけのことであり、そのデマぶりを指弾しているだけのことです。その個人の事情を前回説明し、その上で、「だからと言って、創価学会員の発言を頭ごなしに否定するわけはなく、人として信頼できないわけもなく、創価学会の行動を全否定するようなわけはない」という話に進む予定でした。
しかし、りゅうさんは、私が「私」という主語で吐露した内面さえも認められないらしい。
りゅうさんは私が書いたことに対して、「なるべく控えめに」と言いつつ、こんなことを書いています。
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でもって、宗教が政治に関わるとなぜ嫌悪感が生ずるのか・・・ということの結論は・・・「宗教ですから」。ヾ(-д-;)
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★ものすごく乱暴に要約すると、こういうことです。
「宗教への嫌悪感が生ずる」のはなぜか
→それは宗教だから(以上、終わり) ゲッ!Σ(・ω・;|||
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こんな適当な要約をした上で、小馬鹿にした書き方をされるとさすがに腹が立ちますぜ。なにが「ゲッ!」だ。よろしい、これ以降は、こちらも、なるべく控えめに、それ相応の無礼な言葉と小馬鹿にした態度で対応させていただきます。あしからず。
私の中には宗教団体に対する嫌悪感や警戒心があることを前回書きました。
創価学会の人たちは違うんでしょうが、私は法律だけでなく、倫理や、個人の価値観、感情といったもので言葉を発したり、行動したりしています。法に反していないからと言って、すべてを受け入れる必要などあるはずがない。嫌ってはいけない、警戒してはいけないなんてこともない。それが個人の感情に過ぎないとしても、それを表明するのは自由に決まってます。
問題は、この個人の感情によって、容易にデマに飛びつく人たちがいることであって、そのことはずっと私は批判している通りです。しかし、それとは別に、私の中には創価学会に対する嫌悪感や警戒感があるって話です。それには合理的な理由がある。
一方に、その嫌悪感や警戒感が生じない教団もあります。
嫌悪感や警戒感が出やすい教団とそうではない教団の差は、もちろん、「法に反しているか否か」なんてことでは決定されない。なた5963さんはりゅうさんに対して「新興宗教は嫌い」とコメント欄に書いています。
このように、伝統的な宗教と新興宗教との間に一線を引く気持ちもわかりますが、私の場合はそうとも言いがたい。全然反感を抱いていない新興宗教の教団も多数ありますので。
前回のタイトルにも書いているように、私はその両者を決する条件を挙げました。
●教義よりも、社会との接点における教団のありようにおいて、嫌悪感や警戒心が生ずる。
●その社会の接点として、社会貢献をどの程度やっているのかが判断される。
●地味な活動をやっている教団、宣伝のために金を使っていない教団には反感が生じにくい。
●文化、風習、習慣、行事といった形になって定着しているものに対しては反発しにくい。
●その範囲を超えた時に、反発が生じやすく、その典型が政治である。
私が「宗教だから」と書いているのは以下の部分。
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このような嫌悪感、警戒感は「創価学会だから」ではないことを今回の選挙で強く感じました。私にとって、もっぱら創価学会への反発は「宗教だから」です。
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創価学会に限らず、以上の条件を逸脱した教団に対して反発が生じ、中でも宗教が政治に関与する時に、私の中で抵抗感が高まります。創価学会が特別ではないのだということをここでは指摘しています。
だから、幸福実現党に対してもやはり抵抗感が強くあります。周辺の人たちには「大川隆法だけでも当選しないかな」とも言っていたんですけどね。大川隆法が国会中継に登場したら大いに笑えそうですから。
こういった私の内面をりゅうさんは「アバウトな思考停止」だとしたわけです。
するってえとなにか、「創価学会が政治進出することはよくて、幸福の科学はダメ」という価値観を共有しないと、思考停止になるわけか。あるいは、「創価学会は法には触れていない。法に触れなければ何をしたっていい。それに反発するのは反発するヤツらが悪い」という考えを受け入れないと思考停止ってことか。
悪いけど、そんなバカげた考えを受け入れることは一生ないですから、諦めてくれよ。
予定を変更して、当面、この話を続けます。
松沢様
当方の無礼な態度により、不快な思いをさせて誠に申し訳ありませんでした。
小馬鹿にするつもりなどなかったのですが、言葉足らずな表現で結果的に無礼な態度となってしまいました。
重ねて申し訳ありませんでした。
りゅうさま
謝る必要はなにもありません。あなたの信仰、創価学会の信仰がどれだけくだらないかを見事に表現した素晴らしい文章でしたよ。
互いの間に誤解など何もありませんから、言葉足らずのために結果的に無礼な態度になったわけでもない。あなたが言葉を増やして、正しく自分の信仰や思想を語れば語るほど、私は嫌悪するまでです。
それでも、あなたの書くことを全否定するつもりはありませんので、ご心配なく。
重ねてお詫び申し上げます。
全面的に私が無礼な態度をとってしまったことに非がありました。
誠に申し訳ありません。
「言葉足らずな表現」という表現についても、重ねて訂正して謝罪いたします。
該当記事の削除の必要があれば、すぐに対応いたします。
ご迷惑をおかけして、大変に申し訳ありません。
自分も、この辺り納得しますね。
竹入回顧録が朝日新聞上で連載されていた直後には創価学会(&公明党)の集中砲火には凄まじいものがありましたけど、竹入以上に内情を十何年も暴露し続けて際どい存在だった矢野にはダンマリだったんですよね。だから矢野が突如として訴訟を起こした際には、思いっ切り違和感を感じたのですよ。竹入回顧録の際には当事者の発言として納得できるものがあったけど、矢野に関しては今迄散々内情を漏らしてた割に胡散臭さしか残らないって気が。
直接関係のない立場の人が戦いに参加することに疑問を感じることはさほど不自然とは思えません。
ここまできつくりゅう氏を追撃するのは相当頭にきておられるからとは存じますが、度が過ぎて本来非難することもないようなところまで非難されるのは関心いたしません。
一度「何を非難すべきか」「なにを非難すべきでないか」落ち着いて再考されたほうがいいように思います。
公の場でブログを公開する以上、批判や非賛同の意見が出てくるのはある程度仕方がない事かと思います。
その様なものが出てきたときに反論を超えて「徹底的に打ち負かすまで叩く」なら、それは松沢氏自身が「義憤」で戦っておられる東村山の某氏のやり方となんら変わるものでなく、言葉は悪くなりますが世間的にみたら「馬鹿と阿呆のおもろい泥仕合」になってしまうのではないでしょうか?
徹底的にやりすぎて世間の失笑を買うという愚は唐沢氏との論争で経験済みかと思いますので、「どこまでやればいいのか」「どこで相手を許すか」は考えてみてはいかがでしょうか?
杉山真大さま
元学会員による創価学会批判も、それに対する創価学会による批判も、どっちも眉に唾せずには読めないです。乙骨正生や段勲のような人間たちは言うに及ばず、どいつもこいつも胡散臭い。それが創価学会ってことなんじゃないでしょうか。全部が全部そうだとは言わないですが、まずはそういう人たちだと疑ってかかった方が無難かと。
無神論者さま
すいません、こちらの手違いで、次のエントリーへのコメントがこちらに残ってしまいましたが、このまま続けます。
>直接関係のない立場の人が戦いに参加することに疑問を感じることはさほど不自然とは思えません。
そういう人が一般的に多いだろうことは指摘している通りです。「宗教は信者の利益だけでなく、社会全体の利益を考えなければならない」なんて決まりはどこにもないですから、利己のみを追求する宗教があってもいいとも書いてますけど、私は他者のために動くことを信者に理解させようともしない宗教をバカにしてます。
チベットにからめて創価学会を含めた仏教系教団を批判したことはありましたが、それ以来、その機会がなかっただけのこと。たまたま今回、その機会が来たわけで、「非難すべき」ものを非難しているとしか思ってません。
ただ、今ここでそれをやることのメリットとデメリットを考えろという意味であれば、「確かにね」というところはあります。どうすべきかは考え中。
印伝さま
世間の失笑を買ったかどうかは知りませんが、あなたはそう思ったのですね。私はあの時以上に、「草の根」や瀬戸弘幸に対して徹底的に批判し続けていますから、あの時以上に失笑される愚を続けていると思っているのでしょう。ご自由に。
[...] 前々回書いたように、このシリーズは、「私は何故東村山の問題に関与したのか」を説明し、「創価学会は嫌い」という個人の事情をも説明しつつ、「創価学会であろうとも、その信者を拒絶することはなく、連携できるところでは連携する」という結論になる予定でした。 [...]
[...] 前々回書いたように、このシリーズは、「私は何故東村山の問題に関与したのか」を説明し、「創価学会は嫌い」という個人の事情をも説明しつつ、「創価学会であろうとも、その信者を拒絶することはなく、連携できるところでは連携する」という結論になる予定でした。 [...]
[...] 「1950/創価学会を嫌う理由」に印伝さんという方がこうコメントしています。 [...]