2009-08-02
お部屋1930/岩崎定夢と稲川会
いろいろと書きたいことがあるのですが、最近の話題については他の方々にお任せして、瀬戸弘幸がどうやってメシを食ってきたのか、そして、今現在どうやってメシを食っているのかについての話を続けることにします。
お読みでない方は先に以下をお読みください。
「1857/瀬戸弘幸と岩崎定夢」
「1858/岩崎定夢のカンパ要請 」
「1859/岩崎定夢と瀬戸弘幸の伝言ゲーム 」
「1861/岩崎定夢とフリーライター社」
「1863/瀬戸弘幸が触れられたくないこと」
瀬戸弘幸が師と仰ぎ、長らく経済活動をともにしてきた岩崎定夢の肩書きは「ジャーナリスト」です。定価1万円もの競馬必勝本を出すのがジャーナリストの活動なのかどうか知らないですが、瀬戸弘幸は、師の活動を見て、「これがジャーナリストか」と思って、自分も「ジャーナリスト」と名乗ったのかもしれません。
「ジャーナリスト」のはずなのに、岩崎定夢の詳細な経歴が不思議とネット上に見当たりません。
「瀬戸弘幸の資金倉庫」の「瀬戸氏と岩崎定夢氏」に出ていた以下が比較的詳しい経歴です。元は無名会のブログです。
http://s04.megalodon.jp/2009-0603-0127-51/blog.livedoor.jp/mumeikai/archives/50085049.html
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世話役の岩崎定夢氏は、『日本ジャーナリスト名鑑』によると「週刊映画タイムス記者、週刊サンケイ記者を経て、現在フリーライター特報版発行人。直木賞作家・胡桃沢耕史の門下生。ひと頃は政治結社・大行社の発行する『大吼』の編集長をしていた」とある。
また、アメリカの著名なジャーナリスト、デビット・カプランが執筆・出版した、日本の暴力団の実像書『ザ・ヤクザ』は、現在日本語版をはじめ世界十数カ国で翻訳・発売されているが、そのカプランが一年ほど前、米テレビに出演。
「ミスター岩崎にはNHKの幹部社員に紹介されて会ったが、その彼が稲川会総裁を紹介してくれたお陰で大冊を刊行することが出来た」と語っていたのは記憶に新しい。
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誰が書いている文章かわからないですが、米テレビに出演した時の発言が「記憶に新しい」と日本のブログで書くセンスはなんですかね。知らねえよ、そんなこと。
ここに出ている大行社は稲川会傘下の団体ですから、稲川会のもとでメシを食っていた時期があったとしてかまわないでしょうし、その関係がのちのちまで続いていたことは間違いない。
岩崎定夢は暴力団傘下の街宣右翼とベタベタの関係にあり、弟子の瀬戸弘幸もその影響下にありそうです。「ジャーナリスト」と自称する以上は、「事実か否か」が何より重要になりましょうが、瀬戸弘幸はガセにすぐに飛びつき、検証もしないで公開する。ガセであろうとも相手の嫌がることを騒ぎ立てれば金になるとの考えがどっぷり体についているとしか思えない。それ以外に、瀬戸弘幸の書くことを説明できそうにありません。「頭がおかしい」という説明もそこそこ説得力がありますが。
「週刊映画タイムス」については、岩崎定夢が別の文章でこう説明しています。
http://s03.megalodon.jp/2009-0802-1549-57/blog.livedoor.jp/yu_kenbi/archives/666209.html
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川内さんに知遇を得たのは昭和33(1958)年2月だった。東宝、松竹、大映など当時6社あった映画会社が均等に資本を出して創刊した『週刊映画タイムス』に移ったときで、連載小説を書かれていた。
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この頃、空前の週刊誌ブームが起きています。週刊誌と言えば「週刊朝日」と「サンデー毎日」、そして後発の「週刊読売」「週刊サンケイ」など、新聞社系週刊誌のことだったわけですが、昭和30年代に入って、それまで週刊誌を出していなかった東京新聞が「週刊東京」を創刊し、出版社も「週刊新潮」「週刊文春」などの週刊誌を続々創刊させており、タブロイドの新聞だった「アサヒ芸能」も週刊誌としてリニューアルされてます。
これ以外にも多数の週刊誌が出ており、そのひとつが「週刊映画タイムス」だったようです。週刊誌を出せるのは大出版社や新聞社のみというイメージがありますが、この頃は、エロ系週刊誌も多数あったらくらいで(「週刊」と銘打っていても、隔週や旬刊が多かった)、「週刊映画タイムス」もそういったB級週刊誌のひとつだったのでしょう。
戦前にも戦後にも、同タイトルの発行物がいくつか出ていますが、これに合致しそうなのは、このリストに出ている「週刊映画タイムス」くらいです。東京古書会館で行われている「ぐろりあ会」の展示リストです。これによると、創刊は昭和34年5月です。だとすると、川内康範と知り合った時期を間違えてます。
この一文が書かれているのは、岩崎定夢と瀬戸弘幸がシノギのために始めた健康食品販売のブログ「優健美館」です。岩崎定夢の署名もなく、健康食品とはなんの関係もないのに、唐突に川内康範の名前を出しているのは、箔づけと、検索で人を集めるためでしょう。他にも書く場があるにもかかわらず、わざわざここで書いたのは、世話になった人物の死をも利用して、健康食品を売りつけようとしたとしか思えません。
岩崎定夢は、廃刊当時のことを以下にも書いており、こちらでは創刊が昭和34年になってます。やはりこちらが正しいのでしょう。
http://s02.megalodon.jp/2009-0802-1545-24/blog.livedoor.jp/mumeikai/archives/2008-04.html
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株式会社週刊映画タイムス社は松竹、大映、東宝映画など邦画製作会社5社が資本金の50%を均等出資し、他の半額は代表取締役社長の松本三郎さんやキネマ旬報社の上森子鉄さん、それに後楽園や生命保険会社などが出資して昭和34年初春に創刊した。だが、雨後のたけのこのように創刊する週刊誌ブームのなかで、週刊明星や平凡、相次ぐ女性週刊誌やヤングレディなどなどとの販売競争に敗れ、1年ほどで休刊となった。
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上にあった「東宝、松竹、大映など当時6社あった映画会社が均等に資本を出して創刊」という話とは違っています。『エロスの原風景』にもチラリと出てきますが、上森子鉄は、昭和初期、上森健一郎という名でエロ出版人として活躍していました。そして戦後は「キネマ旬報」を発行しながら、総会屋として暗躍。
これを読むと、「週刊映画タイムス」はあたかも「週刊明星」「平凡」「ヤングレディ」と並ぶ雑誌だったようですが、「ヤングレディ」の創刊は昭和38年なので、競争したくてもできません。半世紀前のことですから、記憶がいい加減になるのはやむを得ないとして、このくらい調べればいいのに。調べない「ジャーナリスト」瀬戸弘幸の特性は師匠譲りのようです。
私もこの時代の雑誌は多数見ています。売防法前後のことを調べるためなので、芸能関係は弱いですが、調べる過程で、どうしても、広い範囲で目を通してしまうものです。しかし、この雑誌を見た記憶がありません。また、ネット上にもほとんど記述されていないことからも、それほど大層な雑誌ではなかったのでしょう。映画会社が出資したのが事実だとしても、わずか1年で廃刊になったことから、どの程度の雑誌かわかろうというものです。
続きます。
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