2008-09-15

お部屋1651/我が輩の辞書に「調べる」の文字はない

ブログの不調が続いていたのですが、やっと解決。私が解決したのでなく、ポットが解決。以下は今から10時間くらい前に出す予定だったものです。追記するのも面倒なので、そのまま出します。
 
 
やっとせと弘幸が「日本よ何処へ」で私の名前を出しました。「柳原滋雄のコラム日記」を転載したついでにくっついてきただけですが。

批評するわけでもないのに、こうやって文章を全文無断転載する神経は理解できないです。せと弘幸は、どこかからかっぱらってきたと思われる写真をよく使用していて、著作権意識の低さは中国並みと言っていいでしょうし、これは「草の根」とも通じます。

日本のものも含めて、海外の著作物が正規の手続きを経て流通し始めるとともに、中国の著作権事情も大きく変わりつつあるので、そのうち中国人たちに抜かれるのではないでしょうか。

内容についても、さっそくミハルさんが指摘してますが、追い込まれたせと弘幸は、この問題を「創価学会vs.反創価学会」の構図になんとかしてもっていこうとしているのでしょう。「現役警察官による内部告発」の話を皆が忘れるためもあって。

せと弘幸が登場するずっと前から、この構図で見る限り、問題の本質は見えてこず、この問題に限らず、時代劇や西部劇のような「悪と正義」という二項対立の図式で解釈できるほど、この世の中は単純ではないということをこれまで繰り返し書いてきました。

その一部を出しておきます。

「1280/今日のマツワル40」

「1439/矢野穂積・朝木直子問題」

「1501/『創価体質』の人々1」

「1503/『創価体質』の人々2」

「1578/元創価学会の反創価学会」

「1601/ランスさんへの質問・4」

「1606/創価学会も『草の根』も批判する立場」

「1636/「創価学会vs.反創価学会」ではない」

こうも強調せざるを得なかったのは、現にあまりに単純な二元論でしか考えられない人たちが多いためでもあります。これだけ書いてきているのに、いちいちこちらが書いていることを読んでくれるわけではないので(読んでいる人ならこうはならないわけで)、なおランスさんのような人間が出てきてしまいます(すでに解決済みの問題なので、いまさら突っ込むのは適切ではないでしょうが、あくまで例として出しておきます)。

彼の場合は私自身が創価学会の信者であるだなんてことを言わなかっただけマシではあります。しかし、「まだマシな人々」でさえも、なおこの世界は「水戸黄門」で描かれている世界観で解釈できると思えているわけです。

この発想は宗教を支える人々のそれともしばしば重なります。「××を信じられる選民の私たち」「信じられない哀れな人たち」という二種の人間しか存在しない。「信じられる私たちは正しい」のですから、内部に対する批判はせず、もっぱら外部に対する批判をし、外部からの批判に対しては内部が結束する。これが宗教団体の強さでしょうが、当然こういう組織は腐敗しやすい。自浄作用が働きにくいわけです。

創価学会もこれと無関係ではなく、それに敵対する教団も同様でしょうが、宗教に無縁でも、同じような発想しかできない人たちがたくさんいます。「反創価学会はですべて正しい」と発想し、「敵を利する行為」だとして、同じ方向を向いている人たちへの批判を避ける。それが「草の根」の人たちをのさばらせてきた理由にもなっていましょう。

実のところ、人間はこういう発想から完全には逃れられない。私も逃れられていません。だからこそ、「これでいいのか」を不断に自問していくしかない。

なぜ人間がこういう発想から逃れられないのかと言えば、楽だからです。「創価学会は悪である」として、その信仰をする個人も攻撃の対象としていいと思える。「反創価学会」というお題目を掲げ、「創価学会は出ていけ」と念仏を唱え、せと弘幸を拝んでいると、一商店に対する嫌がらせをし、制止を無視して内部に侵入することに対しての抵抗もなくす。さらにはその「正義」を掲げていると、相手が創価学会の信者であるかどうかを調べる手続きさえも省いていいと思える。そりゃ楽だ。

すでにどこかで指摘している人がいましたが、グリンピースが正義の名のもとにやったことと同じです。いかに目的が正しかろうと、グリーンピースはかっぱらいをやってはダメです。

せと弘幸の中では、「中国人はやってはいけないが、オレ様は他人の著作物を無断で転載していい。写真をかっぱらっていい」ということになっているのでしょうが、これもダメざんす。

右も左も関係なく、こういう人たちが存在している。

今回の騒動において、私自身、転機になったのは、「洋品店襲撃事件」です。あれで「こいつらは許せない」となりました。それまでは「対話が可能な人たちかも」と少しは思っていたのですけどね。あれによって、ゼリーグループの呪縛から解けた人たちも多かったのでしょうが、だからといって、こっち側の言っていることを鵜呑みにする必要はない。それをやったら信仰の対象を変えただけ。

「朝木明代は殺されたかもしれないが、だとしても、洋品店襲撃は許せない」という立場は当然あるでしょう。「朝木明代は殺されたかもしれないが、それでも『草の根』のやっていることはおかしい」「この問題についてせと弘幸の言っていることはおかしいが、せと弘幸が推薦する健康食品もやっぱり信用できない」といったようにさまざまな立場があり得ます。

自分自身で調べて考えるために、できることなら、さまざまな資料に目を通したり、裁判所に出向いたり、東村山に出向いたりして欲しいものです。それほど皆さん暇ではないでしょうが、ネット上だけでも、大量の資料が出ていますので、それらに目を通して、自分の考えを作り出していただきたいものです。

せと弘幸には無理でしょうけどね。「創価ジャーナリストのブログより 」で、「柳原滋雄のコラム日記」について、こんなことを書いてます。

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このブログに「東村山事件」が最近初めて登場しました。

 今年6月、7月のブログ記事にはまったくありません。おそらくその以前にもなかったでしょう。

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この人は「検索」って機能を知らないらしい。「柳原滋雄のコラム日記」を「東村山」「矢野穂積」で検索すれば、せと弘幸が登場するはるか以前から繰り返し触れていることに気づけるはずなんですけどねえ。

あー、いつになったたら、せと弘幸は「調べる」という言葉の意味や「ジャーナリスト」という言葉の意味がわかるのでしょう。今までこういうことを誰も批判してこなかっただけで、あるいは批判されても聞き入れなかっただけで、この人はずっとこういうことをやってきたのでありましょうか。楽な生き方ですこと。

なんかもうバカバカしくなってきました。

次回は「矢野穂積に学ぶ」シリーズに戻ります。

このエントリへの反応

  1. [...] あとは、瀬戸弘幸の特性や癖もリストアップしたいですね。写真のパクリについて、「1651/我が輩の辞書に【調べる】の文字はない」で、私はこう書いてます。 [...]