91年、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)を発表した私のもとには読者からたくさんの手紙が寄せられた。そうした反響の中には、レズビアンや、トランスジェンダーの人たちのものも少なからず含まれていた。さらにゲイライターとして活動していく中で、実際に私の周りに同性愛者以外の性的少数者の人たちが現われるようになっていった。それまで自分のセクシュアリティの問題に精一杯だった私も、「同性愛」という言葉に反応して集まってきた、より周辺の「性」を生きる人々に関心を持たざるを得なくなり、『クィア・パラダイス』(翔泳社、1996)という対談集を企画した。トランスセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックスなどのことをもっと深く知りたかったのだ。
その後、そこに登場してくださったトランスセクシュアルの虎井まさ衛も、自著『女から男になったワタシ』(青弓社、1996)で自らの半生を語り、またインターセックスとして自らの居場所を求める橋本秀雄も、『インターセクシュアルの叫び』(かもがわ出版、1997)で性別二元制のありようを世に問うた。そうしたマイノリティの動きによって、性的少数者という枠の中で同性愛者は相対化され、「性」の多様性はより明確なものとしてイメージされるようになったと振り返る。とくに、埼玉医大で実施された「性転換手術」のインパクトは、男女の境界自体が連続的だという認識を静かに広めていったと思う。
当初私は、「変態」として同性愛同様、社会から排除されてきたトランスジェンダーなどに対して、同士的な感覚を持って接していた。が、多くの出会いと真摯なコミュニケーションを通じ、共有する問題以上に、それぞれに異なる背景と、存在論理があることを痛感するに至った。それは否定的に言っているのではなく、より深く理解できるようになったということだ。
違いを知ることもお互いが付き合っていく上で大切なことだろう。ろくに相手を知らないくせに、すぐに「被差別者どうし共闘すべき」とか「弱者である彼らを助けましょう」といったスタンスに立てる人の方を、私は逆に信じられない。今の私は、性的少数者どうしの関係は、必要なときに助け合えばいいが、そうでなければあえていっしょに行動する必要はない、と考えている。
また、私自身の仕事の功罪に関るのかもしれないが、「クィア」「セクシュアル・マイノリティ」という括りを打ち出したことで、同性愛者と他の性的少数者がいっしょに行動することが「正しく」て、例えば、レズビアン&ゲイだけでパレードをするのは他の性的少数者を「排除している」と言うような主張がネットワークの中で出てきたことも問題だった。あるいは、常に少数者は正しくて、多数者は間違っているといったスタンスで批判するような議論にも疑問を感じた。
それぞれの主体を立てる自由を認めないような「セクシュアル・マイノリティ」という共同性の問題、少数派の立場にのみ正統性の根拠を置くような批判の仕方に対しては、伏見憲明編『クィア・ジャパンvol.4 友達いますか?』(勁草書房、2001)、伏見憲明・野口勝三ほか『「オカマ」は差別か』(ポット出版、2002)で反論を展開しているので、参照してほしい(「ゲイ」「レズビアン」という共同性が問題とされるのならば、「セクシュアル・マイノリティ」という共同性だって、同じロジックで立てられなくなってしまう!)。
ともあれ、相手の現実を知らないでは何かで組むことも、批判することもできないわけだから、私たちには自分たちにとっての他者を理解する努力も必要だろう。もちろん、すべてに共感したり受け入れることもないのだが。
トランスジェンダーに関しては、当事者の立場からのものでは宮崎留美子『私はトランスジェンダー』(ねおらいふ、2000)がわかりやすい解説書となっている。自分を弱者の位置に置くばかりでなく、自身が矛盾した結婚生活を送っていることなどを誠実に内省している著者に、私は人間としての奥行きを感じた。ルポルタージュとしては、松尾寿子『トランスジェンダリズム』(世織書房、1997)が深い洞察を記していて、推薦できる。
●もくじ・はじめに
●ゲイ&レズビアン・ライフ
●同性愛の歴史
●クィア・カルチャー
●レズビアン&ゲイ・スタディーズ
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