90年代以前にも、同性愛者によって書かれた書籍はわずかながらに存在した。直接、同性愛を主題にしたものでないにしろ、美輪明宏(発刊当時は丸山明宏)の自叙伝『紫の履歴書』(初版1971、現在は水書坊、1992)などは芸能人の赤裸々な告白の書としてベストセラーになったし、おすぎとピーコの出版した所謂タレント本の数々も、自らのセクシュアリティをあからさまに謳っていた。あるいは、先駆的というにはあまりに政治的に異端であった東郷健による単行本も、何冊かは発表されていた(『雑民の論理』エポナ出版、1979や、『欲情のキスをどこにするか』三一書房、1981。最近では『常識を越えて』ポット出版、2002がある)。しかしそれらは、同性愛者一般の状況を反映したものというよりは、超個性的な彼ら個人の生き方や考え方を著したものだったと言えるだろう。
当事者によって同性愛者一般の問題を捉えようとした単行本としては、1986年に上梓されたプロジェクトG編『オトコノコのためのボーイフレンド』(少年社)が挙げられる。70年代リブに関った活動家や、後に動くゲイとレズビアンの会で活動するメンバーなどによって編集されたこの本は、評価の点で一般書籍としての広がりは見せなかったものの、90年代のゲイライフの予言書とも言える内容であった。
そして90年代になると、カミングアウトを主題にした一群のノンフィクション作品が現われることとなる。拙著『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房、1991、のちに『ゲイという[経験]』に収録)を皮切りに、掛札悠子『レズビアンである、ということ』(河出書房新社、1992)、動くゲイとレズビアンの会編『ゲイ・リポート』(飛鳥新社、1992)、伊藤悟『男ふたり暮らし』(太郎次郎社、1993)、自伝的小説である西野浩司『新宿二丁目で君に逢ったら』(宝島社、1993)、出雲まろう『まな板の上の恋』(宝島社、1993)、笹野みちる『Coming
OUT!』(幻冬舎、1995)、大塚隆史『二丁目からウロコ』(翔泳社、1995)、福島光生・久美沙織『ソメイヨシノは、実をつけない』(メディアファクトリー、1995)等々が続々と刊行された。これらの本に共通する主張は、自分のセクシュアリティを偽って異性愛のライフコースに甘んじるよりも、ゲイ、レズビアンとして正直に堂々と生きていこう!というものだった。それまで、秘めたる性的嗜好でしかなかった同性愛に、ゲイライフ、レズビアンライフというライフスタイルのオプションが示されたのだ。
また、時とともにカミングアウトするスタンスにも広がりが現われ、HIVポジティブの大石敏寛『せかんど・かみんぐあうと』(朝日出版、1995)、高校教師の池田久美子『先生のレズビアン宣言』(かもがわ出版、1999)、セックスワーカーのハスラー・アキラ『売男日記』(イッシプレス、2000)、また、同性愛以外のセクシュアリティ/ジェンダーを扱った書籍が次々に出版され、さまざな性的少数者が社会に姿を現わしていくこととなった。
そして、このように現実の当事者が顔が見える形で主張を始めると、公の報道機関での露骨な差別や、第三者による同性愛に関する無責任な発言はだんだん少なくなっていった。
一昔前までは、セクシュアリティ/ジェンダーの研究者の間でさえ、同性愛についてはこういったことが公然と語られていたのだ。
「種は、繁殖のためには異質なものとの交配(ヘテロセクシュアル)によるほかないという逆説を、人類におしつけた。だから同性どうし(ホモセクシュアル)のカップルを、法律は決して夫婦と認めないし、因循な法同様、私じしんも、ホモセクシュアルは多様で自然な愛のかたちの一つにすぎないという、ものわかりのよさそうな意見に与しない」(上野千鶴子『女という快楽』勁草書房、1986)
「すべての男は女嫌いだけれども、それが肉体化されるまでに顕在化してきてる人をホモと呼ぶんです。男と寝たいことに気づいている男と、男と寝たい自分に気づいてない鈍感な男とかいて、鈍感な男をノーマルと呼んでるだけですよ」(小倉千加子『男流文学論』筑摩書房、1992)
しったかぶりの偏見が、当事者不在の状況の元で横行し、同性愛者ははっきり言って「言われっぱなし」だった。無知による蔑み、文学的な妄想、男性嫌悪によるルサンチマン……同性愛は何とでも語っていいような対象だったのだ。
そうした言説状況の中で世に出ていった先のカミングアウト本は、それ自身がからだを張った解放運動だったとも言える。2002年現在の同性愛者を取り巻く状況からは、それらの言葉はいささか力みが過ぎているように感じられるかもしれないが、そうした迫力があったからこそ、時代の空気を一変させることに成功したのだろう。
新しい世代のレズビアン&ゲイにもぜひとも、これを機会に、かつてカミングアウトが時代のテーマだった頃の当事者の言葉に触れて欲しい。あるいは、リアルタイムでは、ホモフォビアやら無関心で、そうしたメッセージに背を向けていた人たちも、改めてそれを受け止めて欲しい。
ちなみに、先に引用した上野千鶴子、小倉千加子の両氏は、最新の対談集『ザ・フェミニズム』(筑摩書房、2002)の中で、男性同性愛についてこんな発言をしている。
「上野:セジウィックがホモソーシャル(男どうしの連帯)とホモセクシュアル(男どうしの性愛)を区別した。あれはすごく大きかったですね。私の同性愛理解をがらりと変えました……『当時は私はこの概念を持たなかったけれども、この概念にすれすれのところまではいっていたのだな』という気持ちもありました。
小倉:上野さんがセジウィックが言うまでそれを知らなかったということが驚きやわ。上野さんともあろうものが、なんでそんなに鈍いねんやろ(笑)」
人のことを「鈍いねん」なんて言ってられるのか、小倉千加子。アンタ、かつてあんないい加減な解釈をしていたのに、それにはちゃっかりほっかむりができること自体、「鈍いねん」。っていうか、人間としてどうかしてる。上野センセも、いつまでたっても偉そうで、懲りない。セジウィックが概念化しようがしまいが、当事者なら誰でも「男どうしの連帯」と「男どうしの性愛」が違うなんてわかってたこと。自分が知らなかっただけなのに、「すれすれまでいっていた」とか、自慢するな。
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