おーいひきこもり そろそろ外へ出てみようぜ タメ塾の本
定価:1,900円 + 税
ISBN978-4-939015-10-6(4-939015-10-6) C0037
A5判 / 240ページ /並製
[1997年08月刊行]
内容紹介
ひきこもる子ども達との共生の場、タメ塾。そのタメ塾の塾長・工藤定次とひきこもる子ども達とのつき合いの記録。塾生達によるタメ塾大紹介も。
目次
【序にかえて】不登校は病気でも障害でもない
【第1部】
ひきこもりという生き地獄から
抜け出すためには、
“待つ”だけの行為に終止符を打ち、
“行動”することだ。
●“ひきこもり”の今日ー こもりは誰にでも起こり得る
●「ひきこもり」をめぐる混乱ー ひきこもり仕掛人富田富士也君への批判
●“いじめ”と“不登校”ー いじめが不登校の主たる原因ではない
●出会いと旅立ち・梶原純二君のことー 「この子は決して自らの力では出られない」
●出会いと旅立ち・水口慎二君のことー ひきこもり歴十五年の三十一歳
●出会いと旅立ち・堀川純子さんのことー 学校には行きたいが“一歩”が踏み出せない
●出会いと旅立ち・斉藤聡君のことー “ひきこもり”解消のきっかけはメキシコ旅行
●安易に語られすぎる自立という言葉ー 不登校の子はフリーターにしかなれないのか
●大人になるということー “大人になる”時は、自分で決める
【第2部】
教室あり、寮あり、仕事もあり。
スタッフがいて、親がいて、
そして子ども達がいる、
タメ塾という場。
●タメ塾ってどんなとこ
●タメ塾を上からのぞくー ようこそ、ジュラシックパークへ
●タメ塾寮生の暮らし
●タメ塾生のお母さん語るー 親にはできないことがあるんです
●タメ塾OBに聞くーみんなと同じじゃなくていいんだと思えるようになった
●タメ塾スタッフ大いに語るー「どう生きていくのか」を見守るのが役目
●タメ塾の弟分、北斗寮ー北斗寮がきっかけとなって、全国に同じような場所ができればいい
●タメ塾と海外交流ーフィリピンでの小さな学校運営に協力して欲しい
●タメ塾を支える人達ー同じ悩みを持つ親同士の輪
●タメ塾データ
●PRのページ
野菜カット工場「福生フーズ」
ハウスクリーニング「クドウビソウ」
【第3部】
タメ塾を応援する二人が語る
ひきこもりの背景と現状、
そして、タメ塾、工藤定次への期待。
●タメ塾を応援する精神科医インタビューだから、工藤がやるしかないんです
●タメ塾を応援する元高校教師ー前人未到の難問に挑戦するタメさんの試み
あとがき
前書きなど
『タメ塾』は、東京のはずれで誕生した。二十数年前のことである。大学時代の知人が『英数教室』という名で、こじんまりとやっていたのだが、ある病気で入院することになり、半年という約束でピンチヒッターをやることになったのが始まり。なんと、その知人は、アッサリと他界。奥さんと、幼い子どもがいたのだが、
「好きにして下さい」
ということであったので、代打の私は、辞めるつもりだった。ところが、出逢いというか運命のいたずらというか、たまたまサリドマイドの中学二年生の可愛らしい女の子がいて、
「私、将来漫画家になりたい」
と言う。その子の両腕は、私たちの三分の一ほどの長さで、ちょっと不自由そうに見えるのだが、鉛筆やコンパスなどを実に器用にこなし、彼女の描く絵もなかなかのもの。
「この子の将来が見える入口までは付き合おう」
と思ってしまったのが、そもそも間違いのもと。
「先公、坊主、金貸しだけにはなるまい」と固く決心していたのだが、まさか
「教育界に巣喰うダニ」
の学習塾をやろうとは……。周囲も驚いたろうが、本人が一番驚き、危ぶんだのだ。ところが、やってみると、これが結構面白い。何が面白いったって、動物園の園長さんみたいなもので、毎日毎日違った個性の子どもに出逢えて、やりたいようにやれること。誰に指示、束縛されることなく、自分のペースでやれる上に、案外私には
「教える」
という行為が性に合っていたようで、苦痛でもなかった。
それに、どうせ拾いものの塾だし、もともとヤル気も無かったので、まったく
「食う」
ことを考えなくて良かったのが幸い。
(中略)
『タメ塾』は、全てにおいて、ズブのシロウト領域から出発した。障害児(者)に対しても、不登校、いじめに対しても。しかし、結果的には、シロウトであったことが幸いしたようだ。さまざまな子どもを、生のまま、有りのままに見ることができたし、接してこられたからだ。専門性という既製の概念に決して捉われることなく、眼前に存在する子どもを、実体のある対象として、素直に引き受けることができたから……。
例えば、不登校の子どもに対して。
二十数年前、不登校の子どもは、自閉症という障害の範囲の中の存在として捉えられていた。しかし、私は眼前に現れた子どもを見て、
「何でもないじゃん。普通の子だよ」
と感じ、思った。今でも変わらない思い。だが、七、八年前までは
「当たり前の子どもたちだ」
と主張しようものなら
「シロウトが何を言うか」
の一言。今では「普通の子ども」が一般化。一体、今も生きているであろう、当時の専門家と言われた人々は、何と言い訳するんだろう。実に非道いものだった。しかし、タメ塾では「普通の子ども」という視点で、独自な方法と形態を作り出すことができたのだから、良し、としよう。
(中略)
一時期私は、専門家と称される人間が口にする
「治す」
「立ち直らせる」
という言葉に反論し続けたものだ。
「病気でも、障害でも、何でもない子どもたちを治す、とは何だ。子どもたちは、何でもないんだから、自分の力で気付き、変化するのだ。大人は、環境を整備、提供するだけで良いんだ」
と。これは今でも変わらない。
子どもは、ほとんど何事においても、自らの力で気付き、変化し、成長して行くものだ。大人や、諸機関は、それらを単にサポートする役割を担えば良いのである。タメ塾が、この二十数年間やり続けたことと言えば、空間を提供し、若干のサポートをし続けてきたに過ぎない。更に一言付け加えるとすれば、生身の子どもを、ありのままに見続けて来たに過ぎない。
担当から一言
20年前から[ひきこもり達]とつき合い続ける工藤定次は、多くのカウンセラーや医師たちが口にするアドバイス、「そのままじっと見守り続けましょう」を徹底的に否定し、論駁する。「待つのは、3か月から長くて1年まで。それ以上は、子どもの大切な時間を浪費させるだけ」。
「ひきこもりという生き地獄から抜け出すためには、待つという行為に終止符を打ち、行動することだ」と。
東京・福生の「タメ塾」で20年以上、いろんな子どもたちとつきあいつづけたタメ塾塾長・工藤定次は、
ひきこもり達]に向かってつぶやくのだ。「そろそろ外へ出てみようぜ」。
著者プロフィール
工藤 定次(クドウ サダツグ)
タメ塾塾長。1950年福島県生まれ。早稲田大学文学部、和光大学人文学部にて、心理学、社会学を学ぶ。1976年から、友人の経営する学習塾を手伝いはじめる。友人の急死により、学習塾を引き継ぐ。
1977年、学習塾にサリドマイド児を受け入れる。これをきっかけに、いわゆる普通の学習塾から、不登校児や障害のある子など、様々な子どもたちを受け入れるようになる。塾名を『タメ塾』と改名。
1978年、初めてひきこもりの子どもを受け入れる。1979年、ひきこもりの子ども達には生活する場が絶対に必要であるという考えから、共同生活を行うための寮を開設。
1982年、ひきこもりの子ども達が自立をめざして、少しずつ働くことのできるように銅線むきの作業を始める。以後、和紙製造や空き缶回収作業、モツ焼き屋経営など、成功と失敗を繰り返しながら、さまざまな事業を試みる。現在は、野菜カット工場『福生フーズ』とハウスクリーニング『クドウビソウ』が軌道に乗り、タメ塾生が元気に働いている。その一方で、ひきこもりや不登校などをテーマにしたシンポジウムを定期的に開催。
1993年、タメ塾生が模擬店を開いたり、クラブ活動の発表を行う、『タメ塾』の文化祭『タメ塾フェスティバル』を開催。毎年の恒例行事になっている。また、1994年からは、『マンスリーコンサート』と題して、様々なジャンルのミュージシャンを招待して、コンサートを開く。
現在の『タメ塾』は、共同生活を行っている寮生21名、通いの生徒24名、スタッフ7名。実質的な塾内の業務はスタッフに任せ、ひきこもりの子どもを表に出すきっかけを作るための家庭訪問に力を注いでいる。