2013-03-16
お部屋2491/「差別語」の議論
在特会を筆頭としたレイシストたちが注目されるとともに、いまさらながらに「差別語」についての議論が起きていたりします。
本当はしっかり説明した方がいいと思いつつも、面倒臭いわ。だって、いまだに「人が不快になる言葉を使わないのが差別を避ける基本」みたいなことをしたり顔で語る人がいます。アホか。それは個人対個人の間で成立する、あるいは価値観を共有する共同体の中で成立する礼儀とか配慮とか約束とか、そういうレベルの話であって、差別とは関係がない。こういうことを言うヤツこそが私は不快です。
あるいは「差別語か否かは差別された側が決定する」とか。まだそんなことを言っているのか。
まずはこれを読め。
読もうにも品切れで、中古も出てないですけけど。
じゃあ、これを読め。
こっちも在庫がもうほとんどないと思いますが、中古がまだ出るでしょう。
「差別語か否かは差別された側が決定する」ということから、「週刊金曜日」は、同性愛団体「すこたん企画」の抗議を受け入れて、オカマという言葉を使用したことを謝罪した。それに対して同じく同性愛者たちからの批判が続出。
ここでまず見るべきは、同じく同性愛者という属性であっても、言葉に対する感じ方はさまざまということです。ホモという言葉も同様で、古い世代にとっては女っぽいゲイボーイに対する言葉としてプライドをもって使われるようになった言葉であり、いまなおゲイではなく、ホモを使う人たちは多数います。それを「ホモは不快」という同性愛者の意見だけで葬っていいのか。
「当事者だから」「差別を受けた側だから」という論理は成立しないのであります。もちろん、無視していいと言っているのではなく、「被差別者」や「当事者」は決定的かつ唯一の判定者の資格にはならないってことです。もしこれが資格になるのであれば、発言者はまず自分の属性を明らかにしなければならなくなる。被差別者であり、当事者であれば発言が尊重される。属性を隠したい人の発言は軽視されてしまいましょう。
そもそもオカマという言葉の当事者は本当に同性愛者なのか? 先日、ゲイバーを始めて半世紀以上になる二丁目のママに別件で話を聞いている時に、「オカマは男娼を指す言葉だったのよ」という話が出てきました。そうなんでげすよ。これは当時の雑誌を読むとよくわかります。
となると、同性愛者にその言葉が向けられることがあるとしても、オカマの当事者は女装の売春者ではないのか。少なくとも女装者を筆頭に「女性性を強く持つ男」ではないのか。
その意味で、半ば当事者とも言える東郷健が自称として使用した「オカマ」を、女性性を嫌う同性愛者が抗議するのは当事者の自称の言葉を非当事者が消そうとしているに他ならないのではないか。その時に貶められているのは、男娼や女装者だけでなく、女性総体なのではないか。
といった内容であります。このシリーズの第二弾では、私が当時ネットに書いていた大量の原稿をまとめる予定だったのですが、詰めが甘いので、出すのをやめてしまいました。
のちにメルマガで、この続編のようなシリーズをやりまして、私なりの結論を出してます。これらもメルマガの読者にはいずれ公開するつもりですが、『「オカマ」は差別か』を読めば十分かと思います。
オカマ論争の時点での結論を言えば「これは差別語である」と認定して、あらゆる場面で使えなくするのではなくて、いかに面倒でも文脈で個別に差別か否かを判定するしかない。その感覚ももちろん人によって違うのだけれど、その感覚の違いをすり合わせていくしかないのです。さもないと、被差別者の中にある他の属性への差別意識も肯定することになりかねないし、特殊な個人の体験や感覚さえも尊重するしかなくなる。
結果、言葉は無限に葬られていく。たまたまそれが差別的に使われたことを知らない人が使っただけで「差別語を使う人間は差別者だ」という非難を受けることにもなる。そういう理不尽な非難をしたい人たちにとっては差別語の拡大は便利な武器になるのですけど、それ以上の意味などないでしょう。
そういう考えがなおまったく共有されていないことに愕然とします。こんな現状で「ヘイトスピーチ規制法」なんて制定したら、目も当てられない。こういう連中がゴロゴロいる限りは、私は法制化に反対し続けます。
これについても野間易通が積極的に議論をしていますが、彼が上記2冊の議論を踏まえた議論をしているのに対して、彼を批判している人たちは議論を踏まえていないため、彼が何を言っているのかさえ理解できていないように見えます。この四半世紀の議論がまったくなかったかのような主張をしているわけです。溝は深い。とめどもなく深い。ワシはこういう人たちといまさら議論するのは面倒じゃ、やっぱり。野間に任せた。
「同和こわい考」を挙げながら、その本についての論考が無いというか薄くないですか?
それがどうかしましたでしょうか。
『「オカマ」は差別か』は『同和はこわい考』で論じられている「当事者性」という問題について踏まえていますから、改めて触れる必要はないでしょう。Amazonでも他の古書サイトでもすでに入手が難しいことでもありますし。しかし、私が知る限り、このテーマについて最初に論じたものかと思いますので、書影を出した次第です。
つまり、お飾りだったってことですか?
同和こわい考を読み、なお、同時代に執筆者と接してきた者として、言わせて貰うと、差別語の問題というより、反差別に身をおく者としてのあり様が主題だったはずです。
「反差別に身をおく者としてのあり様が主題」であることは差別語の認定においても適用されるのですから、ここにおいて出すことに何の問題が?
ここに出した理由についてはすでに説明した通りですが、参考になる資料の書影を出したらお飾りとはどういう意味でしょうか。
他人があなたと同じように本を読み、あなたが望むように本を紹介するわけではないと理解しておいた方がよろしいかと存じます。意味がないので、これで打ち切りとします。
http://www.geocities.jp/kowaikou/kowaikou.htm 参照資料。
なるほど。
読み手で、解釈は変わりますが、主題をほっぽり出して、違う議論に引っ張り出す無理やり感は否めないのでは?
リンク先にあるように、著者は「現状を打開するためには、差別する側、される側、両側からの腹を割った討論と、密接な関係を結んでいくことしかない」と言っておられますね。それまでの「差別された者の痛みは〜」「差別された側の不利益は〜」という前提を疑うところから改めて議論を提案している。
無理矢理も何も、現に『「オカマ」差別か』では、この本を踏まえ、中でもタイトルを出し、文章を引用しています。あなたが無理矢理と感じるのはあなた個人の思い込みであって、事実に反しますし、私がそれを共有する義理はございません。
いい加減にしてくれませんか。
うわっ、「同和こわい考」中古本の値段にビックリ。