2011-04-12

お部屋2192/歌と言葉と行動と ※追記あり

「ワシが大声で言ったところで、どうなるものでもなく」と思って、ずっとメルマガだけで原発のことを書いていたのですが、どうにもならなくても言うべきことは言った方がいい。どうにもならないことを確認するために言うべきこともあります。じゃないと悔いが残る。

それでも、広く言葉を発することができないでいたのですが、高円寺のデモに参加して、やっと前を向けるようになってきました。原発の状態は悲観的でも。
 
 
まだ「あんなことをしても何も動かない」と言っている人たちがいますね。クズ学者でおなじみの池田信夫さんとか。

  高円寺でデモしてるのは超少数派。彼らがいくら叫んでも世の中は動かない

「世の中が動くか否か」で他者の表現を否定する以上、「自分の発言で世の中が動く」と思っているんですね。池田さんは今回の震災でフォロワーが増えたことをお喜びのようで、ツイッターで10万人以上のフォロワーがいる自分は超多数派だと思っているんでしょう。よござんした。

あれだけ発言していれば、たまにまぐれでいいことも言いますが、しばしばデタラメを書いて笑い者になっているのに、「オレの言葉で世の中は動く」と思っているらしき池田さんのような人がいる一方、世の中を変えられなくても歌い、語り、歩く人たちがいます。

「変えたい」と言っていても、デモというのは意思表示です。それだけ言っていれば変わるなんて思っている人も中にはいるかもしれないけれど、多くの人が思っていないでしょう。ブログに「変えたい」と書いただけで変わると思っている人がそうはいないのと一緒です。

高円寺の公園で、ジンタらムータの演奏を聴きながら、あるいは路上のチンドンの音を聴きながら、私は幾度も故・篠田昌巳のことを思い、彼のサックスの音を幻聴のように耳にしていました。

この動画、初めて観ました。パチンコ屋の店頭で「プリパ」をやっている。アイルランドの反戦歌をルーツとする韓国民主化闘争の歌です。

篠田さんは生前チンドンについてこんなことを語っていたことがあります。

「誰一人聴いていないかもしれない。記録もされない。それでも、心から満足できる音が出せる瞬間があるんだよ」

チンドン屋という、宣伝のための音楽をやりながら、そこには彼の表現がありました。もちろん、これは仕事でもありますが、音楽として受け取る人はほとんどいない。チンドン屋を音楽家とか表現者と思う人もおらず、やっている個人の名前なんて知ろうともしない。世の中なんて変えられるはずがない音楽です。それでも彼はそこに表現者としての満足を得ていた。

そして、彼は金にならない場でもしばしばサックスを吹いていて、生きていたなら、ジンタらムータの一員として、きっとあのデモにもいたでしょう。

レコード会社の人間は、「あのミュージシャンは売れないね」と切り捨てる。私も出版社からよく売れないライターとして切り捨てられてます。ディレクターや編集者は金を生まなければならない仕事だから、それもやむを得ない。

それでも、好きなミュージシャンのライブに通ったり、彼らの活動をサポートするディレクターもいます。仕事とは別に好きな音楽を捨てるわけではない。

そんな事情などないリスナーが「これは売れないね」と切り捨てるような音楽の聴き方をするのもまた勝手です。しかし、その聴き方、読み方が唯一普遍的なものであるかのように思い込むのは不幸ですし、時に迷惑です。

池田信夫のように、表現を効果や成果、数でしか見られない人たちがいます。そこで人と人がつながったり、情報を得たり、希望を見たりすることがわからない。貧しい想像力で見える「世界」や「世の中」がすべてだと思い込み、他者を愚弄する。

彼らには見えないものを見た人たちがいます。彼らには得られないものを得た人たちがいます。彼らには表現できないものを表現した人たちがいます。

原発によって命が危険に晒されている。水を飲むにも数値を気にする。雨が降るだけで外に出る気がなくなる。家族を遠くに避難させる。それらのストレスから精神的な病を発症させている人たちがいる。

町を失った人々もいる。仕事を失った人々もいる。野菜や魚を売れなくなった人々もいる。今なお情報を隠し、金のためにウソを言い続けている人々もいる。その代弁者として振る舞っている人々もいる。

怒りや哀しみの声をあげないではいられない。それに対して「何の意味があるのか」「何も変わらない」ということにこそ、いったい何の意味があるのか。

人は歌わないではいられないことがある。言葉を発しないではいられないことがある。抗議しないではいられないことがある。

あの日、高円寺の公園に鳴り響いていた「平和に生きる権利」のオリジナルです。

クーデター軍に連行され、ビクトル・ハラは歌い、そして、殺された。

ビクトル・ハラの歌はたしかに銃の前には無力だったかもしれない。あるいは、歌ったからこそ、殺されたのかもしれない。

それでも人は歌う。それでも人は書く。それでも人は歩く。

歌える人は歌を、語れる人は言葉を、歩ける人はデモを!

煽ってみました。
 
 
追記:詳しくは下のコメント欄、あるいは、「高円寺のデモをめぐるさまざま 1」「高円寺のデモをめぐるさまざま 2」を見ていただきたいのですが、あのデモによって迷惑かけられたと感じる人たちには申し訳ないと思ってますし、@lammy_iさんの指摘を見て、迂回路の表示を出すなど、改善できる点については改善した方がいいと納得して、その旨、デモの翌日にスタッフに伝えており、彼も同意。また、人手が足りないんだったら、私も手伝う意思があると書いてます。ここには書かなかったですが、ツイッターで、迷惑がかかってもやむを得ないといったことを書いているのがいたので叱責もしています。
だからといって、「左翼っぽいだからうぜえ」だの「お祭り騒ぎはやめろ」などと言うヤツらに耳を貸すつもりはございません。
コメントをしているみわさんもそういう類いのゲスな人としか思えないですが、とにかく足を引っ張りたい、イチャモンをつけたいという人たちは、せめて私の書いていることを読んでからにしていただきたい。
もともとツイッターで@lammy_iさんが言っていたことに対しては今後改善すればいいだけのことでしょう。そのひとつの例で「大ひんしゅく」などと大げさに取り上げて、「対面で謝れ」などとあり得ないこと、なおかつ相手にとって迷惑この上ないことを要求する人間は罵倒させていただきます。
迷惑だと感じた人たちに謝罪をし、改善した方がいいとスタッフに伝え、合意してもらった段階で、私にとってはこの話は終わりです。にもかかわらず、なおここに悪意をギラギラさせて乗り込んできたみわさんのような人間にはこちらも相応の態度をとるまでです。
高円寺にいくつかある商店会や自治会すべてに伝えていたのか、それが各店舗、各家庭に伝達していたのか、わからない点もあって、これはデモの主催者せいではなく、商店会や自治会の伝達不足の問題かもしれない。事実関係がわからない段階から、デモを批判するために他者の発言を利用するようなことをしないように。同じ意味で、以下に私が「デマ」とまで書いたのはちょっと行き過ぎたかもしれないので、訂正すべき時には訂正します。
ゲスな人たちのために、改めて追記を入れておきました。

このエントリへの反応

  1. http://togetter.com/li/122310
    この件についてはノーコメントですか?

  2. すでにコメントしているのですが、そちらのパソコンでは読めないですか?

    http://www.pot.co.jp/matsukuro/20110411_094254493923178.html
    http://www.pot.co.jp/matsukuro/20110411_083400493923166.html

    それではこちらからも質問をしますが、ここにあるツイートは「商店街で大ひんしゅく」という話ではないですよね。「住民にひんしゅく」という話。そこはより配慮があってよかったと私は思っています。

    商店街に対しての事前説明はあったそうで、にもかかわらず、あたかも商店街全体で顰蹙を買ったかのような印象操作をするこのまとめ方は悪意がこめられていて、「現実に何があったのか」を冷静に論じる姿勢が感じられません。あなたはこのやり方をどう思いますか?

  3. ていうか松本さんって、商店会の役員の一人ですよね。

  4. まとめ方にはおっしゃられる通りかもしれません。が、ネット上では注目を集めることが第一ですから、戦略としてはありでしょう。

    ただ、本筋の話に戻りますと、

    商店街に理解をしていただけるように最大限の努力をしている、と言われても、交通規制で一番影響を受ける商店街.町会の掲示板に交通規制のお知らせ貼るということもせずに、それを最大限の努力といわれても、余りにも釈然としません。夜中の道路工事だって掲示して連絡するのに、と思います。

    と、当該の方がツイッターに書かれていますが、これでも「事前説明はあった」の一言で済ませますか?

    私は高円寺とは無関係の部外者ですが、立場としては、デモに賛成、原発に反対の立場です。当該ツイッターアカウントの方は、医院の名前もだされていますし、悪意あるツイートではないと思うので、直接会って話して、そのあとに経緯を報告、そのうえで改善すべき点があれば改善する、と告知するのが筋じゃないでしょうか。

    デモに賛成、原発反対の立場だからこそ、少しでも敵を作りかねないような要素を排除していってほしいのです。どうも、デモに参加した方のブログを読むと、昂揚感だけが激しくて、反省すべき点への言及が少ないと感じます。日本ではデモという行動は大変誤解を受けやすい行動です。だからこそ、可能な限りこうした点への配慮を過剰なほどまでにしてほしいのです。特に近隣地域の方には低姿勢でコミュニケーションしていくことが必要で、現に不快に思った方がいれば、直接会って誤り、改善の告知を大々的に出すべきだと思います。ネット上ですみませんでした、と言って済むことじゃないと思います。

  5. みわさま

    >まとめ方にはおっしゃられる通りかもしれません。が、ネット上では注目を集めることが第一ですから、戦略としてはありでしょう。

    「目立てばOK」なんて立場では、何を言っても説得力がない。高円寺のデモはそういったものではなかったですが、あなたは「目立てば迷惑をかけてもいい」としてデモをする人たちを責める資格をすでに失ってます。

    >これでも「事前説明はあった」の一言で済ませますか?

    頼むからちゃんと読んでください。商店街に事前説明があったと書いたのは、「商店街で大ひんしゅく」がウソであることの指摘ですよ。kdxnさんが書いているように、主催が商店会の役員でもある。それらの事実関係も調べずに「商店街が大ひんしゅく」と書くのはデマですよ。にもかかわらず、それをもあなたは肯定してきた。目立てばOKと。

    >デモに賛成、原発反対の立場だからこそ、少しでも敵を作りかねないような要素を排除していってほしいのです。

    私はあの指摘をしていた住民を敵にしたいとは思ってません。だから、一参加者であっても謝罪をして、改善できることは改善すべきだとスタッフに伝えたこともすでに書いてます。

    1万5千人が対面して謝罪するのは迷惑であることくらいわかりますよね。よっぽどのバカじゃなければ。あとは主催者に任せて、参加者はネットで謝ればいいでしょう。

    私が書いていることを読みもしないで「スルーですか」と書き込みをしてきたことについては、別エントリーだからやむを得ないと思ってましたが、なお、私が書いていることをねじ曲げたり、無視するとは困った人です。

    住民を敵にするつもりはありませんが、「少しでも敵を作りかねないような要素を排除していってほしい」と言いながら、デマとともに敵対関係をわざわざ持ち込んできたあなたのような人を敵にすることにためらいはないです。悪意を向ける人には悪意をお返しするまで。

  6. 10年ちょっと前に話題になった差別語問題のときに、「差別語を使わなくなれば差別がなくなる、なんてことはない」ってのは十分わかったうえで、それでも目の前にいる「過去の経験からある言葉を見て不快な思いをしてしまう人たち」をなんとかしたいと思って声あげた人がいたんですよね。
    そういう人たちを『「差別語を使わなくなれば差別がなくなると思って言葉狩りしている人」とみなしてる人たち』を見て、なんとかならないかなと思ってて、でも当時力及ばず失敗してしまった自分としては、今回の松沢さんの気持ちはよくわかる気がします。
    こちらの気持ちは今でもあまりわかってもらえないんだろうなぁとは思いますが、それはそれでしょうがないと今は思ってますけどね。

  7. Hさま

    何を言いたいのかよくわからないので、もっと具体的に書いて欲しい。仮に他者に思いが伝わらなかったのであれば、こういう婉曲な表現をしていることにも理由があるんじゃないでしょうか。それで他者に「わかれ」と言っても無理です。

    たぶんオカマ論争のことだと思いますが、「不快な思いをする人たち」は、一対一の関係であれば配慮はされていいとして、不特定多数に向けた表現においては、ただ「不快だから」という個人の体験や感情だけで消されるべきではないという話でしたよね。

    なので、「私は不快」という人たちを無視したわけではないはずですが、なにぶんにも具体性がないので、よくわからないです。

  8. 以前、「ショー松」で呉智英が、市民運動を批判したのを受けて呉智英を批判した際にも、ビクトル・ハラの死に際を引用してましたよね。

    私はこのデモを阪神大震災のボランティアに行く最中に事故死した、見津毅が生きてたらどうしてたかな?と思って見てました。

  9. 猫まんこさま

    バレたか。あの時の原稿を焼き直しただけ。この20年、実は私も世の中もあまり進歩していない。

    見津君は、現地へのサポートをしながら、あのデモにいたと思う。

    揶揄したい連中は、「被災地のことをほっておいて、お祭り騒ぎをややっているバカ」みたいな見方をしたがりますが、あのデモには「被災地へのサポートをしながら、お祭り騒ぎをやっているバカ」がたくさんいました。行動するバカこそがあそこにいた。私もそうありたい。

    たった今、私は福島から帰ってきたところです。この話はまた今度。

  10. 返信どうもです。「不快だからこの単語は消されるべきだ」なんて所までは思ってはいなくて、「最終的には著者の判断によらざるをえないんだけど、それでも無配慮にどんどん使われて氾濫した状況になるのだけはなるべく避けたい」と同時に思って声上げた人もいたわけなんですよ。
    今回の記事を読んで、そういう感覚も少し理解してもらえるのかもと思ったのですが、「消されるべきかどう」かという視点で返信をいただいたのは残念に思いました。
    ただ、それらの自分の過去の経験も含めて、今回の松沢さんの「それだけ言っていれば変わるなんて思っている人も中にはいるかもしれないけれど、多くの人が思っていないでしょう」というところから続く感覚に深く同感したのでコメントさせていただきました。
    失礼いたしました。

  11. Hさま

    残念もなにも、「消されるべき」ということで、「週刊金曜日」では抗議があったのですから、そういう表現になっただけです。私はその言葉が差別的に使用されない限り、氾濫したってかまわないという立場ですから、配慮すべきは「差別的に使わない」ということでしかない。

    Hさんは、他人がわかるはずのない内面を他者が理解するのが当然と思い過ぎなのではないでしょうか。そもそも最初のコメントを見ていただきたいのですが、他人があれを見て、正しく理解することができるはずがないですよ。

    そういう配慮は一対一の関係でなされるべきで、個人の内面を理解することを、見ず知らずの相手に求めるのは無理ってもんです。さもなければ、あらゆる言葉は使えなくなります。言葉の趣味はさまざまですから。

    「高円寺のデモをめぐるさまざま 1」
    http://www.pot.co.jp/matsukuro/20110411_083400493923166.html
    でも、私の「無能」という表現に文句をつけてきたらしき人がいますが、その言葉で彼がどう傷つこうが私は知ったことではないです。しかし、彼が友人、知人だとしたら、一対一の会話では配慮はします。

    つうか、こういう話はオカマ論争の時に書きましたよね。その時と何も私は変わっていないのですが、いまさら何を言いたいのか理解できないです。