2008-12-09

お部屋1731/表現と公然性

お知らせ1:メルマガ「マツワル」の購読者募集は終了しました。次回は3月を予定しています。

お知らせ2:新刊『風俗お作法』(しょういん)が一部書店で大変好調です。お近くの書店にない場合は取り寄せするか、アマゾンでご購入ください。この影響で、「風俗ゼミナール」シリーズの「女の子編」がアマゾンでまた動いているようです。在庫は少なく、こちらはこれ以上、増刷はされないと思いますので、お早めに。

お知らせ3:私も企画に関わっているDVD「嗚呼、涙のハードコアお笑い劇場」(大洋図書)が先日が発売になりました。こちらも書店流通で、アマゾンでも取り扱い中です。
 
お知らせ4:品切れになっていた書店もあるかと思いますが、『エロ街道をゆく』の4刷が決定しました。私の文庫では『魔羅の肖像』に続く好成績です。どっちかといえば、売れてないものが売れてくれた方がいいんですけど、この際、なんでもいいです。

 
 
 
たしかに私は3羽の雀さんが言うようにチンコを見るのも、チンコを語るのも好きです。『魔羅の肖像』を出して、「ノンケのチンコ好き」という地位を確立しているくらいで。

ただし、3羽の雀さんが言う「チンコとウンコは相互排他的なものではない」との主張には首肯できないものがあります。

チンコの話は場所を選びます。メシ時はチンコの話は控えた方がいいでしょうし、セックスの最中も、チンコの話はしない方が無難です。「この人は女の私を前に、なんの話をしているのだろう」と神経を疑われます。

レズビアンバーでもチンコの話は嫌われます。私が行けるようなMIXの店(男も入店可)だと語れる場合もありますが、その日のメンツを考慮しないわけにはいきません。

対して、ウンコの話は場所を選びません。ウンコを食いながらメシの話はできませんが、メシを食いながらウンコの話はできます。ウンコをしながらウンコの話をすることだってできます。そういう状況下では、相手がいないため、どうしても独り言になりがちですが。

もちろん、ウンコにも個人差があるわけですが、一般にチンコよりウンコの方が汎用性があることに異論はないでしょう。ハナクソはウンコよりさらに汎用性がありますから、ウンコの話をしている時に、ハナクソの話もしていいとは言えるでしょうが、ウンコの話をしているからと言って、チンコの話までしていいとは言えない。

私自身、ウンコという言葉をタイトルに入れることには抵抗がないのですが、チンコをタイトルにすることには抵抗感があります(これはホントの話)。雑誌は読む人が制限されますし、とりわけエロ雑誌はそうです。しかし、ネットは見る人の範囲が広く(必ずしも人数が多いわけではないにしても)、ましてタイトルは目立ちます。『魔羅の肖像』も、本文ではチンコマンコ連発なのに、タイトルでは「魔羅」にしたのはそういう事情です。

今回も「チンコの研究」というタイトルにしようと思ったのですが、やめました。エロ話ばっかり書いていた頃だったら、タイトルにチンコという言葉を入れることもできたでしょうが、読者の層が当時とは違ってます。

以上のような点から、皆がウンコの話をしている時に、いきなりチンコの話を始めた3羽の雀さんの態度はあまり褒められたものではないだろうと思った次第です。いきなりにならないように、先にキンタマの話を挟めばよかったのに。チンコよりは汎用性がありますから(ここは地域性が反映されるため、異論がありそうですが)。

ただし、3羽の雀さんに先に書かれてしまいましたが、3羽の雀さんが出したチンコという言葉は、クロダイさんが「チンケな小物」と書いていたことを略したものであって、男性器のことであると決めつけたことは勇み足だったかもしれない。

それと、チンポに比べると、チンコはいくぶん汎用性があるので、男性器のことだとしても、3羽の雀さんは最低限の配慮をしたとすべきかもしれません(「なぜチンポよりチンコの方が汎用性があるのか」を説明するとまた長くなるので割愛しますが、これについてもすでにデータを集めてあります。エロに関する言葉は私の専門ですので)。

「それにつけても、どこまでこいつらはウンコの話を引っ張るつもりか」と訝しく思っている方々もいらっしゃいましょう。

我々がウンコの話をこうも書いているのは、西村修平、瀬戸弘幸らがウンコを重大なテーマとして語り出し、なおかつその鑑定結果を公開しないからですが、日本の政治史、思想史に名を残すことはありえない彼らの名前をせめてウンコ史に残してやろうとの思いやりでもあります。

それと同時にウンコの話が我々もまた好きだからです。手榴弾や拳銃に見えるウンコがベランダに投下される以前から、我々はウンコネタを書いていたのですから、我々を前にしてウンコのことを書こうものなら、こうなることは火を見るよりも明かです。

ウンコ話が嫌いな人たちは、この話に触れなかったり、触れてもウンコをわざわざ伏せ字にするなどの配慮をしています。我々「スカトロ三兄弟」も、ウンコの話はいいとして、ウンコの写真はまずいだろうと判断して、誰も写真を転載するような真似はしていません。

つまりは、それぞれのモラルや趣味に応じた取り上げ方をしているわけです。

ところで、「スカトロ三兄弟」という呼称は、もともと我々を揶揄したい人が言い出したものだったように記憶してますが、実際、ウンコネタが好きですから、これでは揶揄にならないです。しかし、「スカトロ三兄弟」ウンコの話が好きなだけで、「スカトロ三バカ兄弟」のようにウンコをほぐしてニオイを嗅ぐようなことはしないです。

で、以下はミハルさんにすでに指摘されてしまったことですが、大事なことなので、さらに細かく論じておきます。

ある表現が問題であると感じて、それを批判する際には、第三者が検証できるように、問題である表現をそのまま取り上げるしかないことはあります。しかし、そこになんら配慮がない場合、実のところ、その表現に問題があると感じてはいない可能性が透けて見えることがあります。

新聞社のサイトで「母親が息子にフェラチオをした」という話を書いていたことを「変態だ」として問題にする側が、「母親のフェラチオ 獣姦 口内発射 顔面射精」と書いたプラカードを公道で掲げる。検証したい人はネットや出版物を読めばいいのですから、わざわざ公道でそんな言葉を露出しなければならない必然性はない。

ネットの方がはるかに公然性が低いのですから、自らが新聞社以上に変態であることを明らかにしています。3羽の雀さんが罰ゲームかプレイだとしているように、より恥ずかしいのは、新聞社ではなく、プラカードを掲げている人です。

これも私の得意分野ですが、「場はそれぞれ固有の特性をもつ」のであって、公然性の高い場所では、それにともなって、許される言葉、許される振る舞いが制限されます。ネットでの表現を批判する人たちが、その表現をプラカードに再現することはバランスが狂ってます。わかりやすい例を出すと、「ストリップ劇場でこんな格好をしていたのです」と全裸になって公道でストリップ劇場を批判する行為と同じです。

道頓堀劇場が公然わいせつ罪で摘発されてしまいましたが、閉鎖性が高く、見たい人しか来ない場に、公然わいせつ罪が適用されることに対する違和感も、場の特性の違いが考慮されていないことによります。場の特性は予め場によって決定されているのでなく、そこにいる人たちの質によっても決定されます。同じ人が書いているブログでも、読者の層が変化すると、そこでは書きにくくなるテーマや言葉が出てきてしまうわけです。

ちなみに、「道劇」はすでに営業を再開していて、ストリップファンが応援のためにいっぱい来ているという話を先日聞いたところです。いい話です。

もちろん、変態プラカードの写真をネットに出すことは、公然性の高い場の行為を公然性の低い場で再現することですから、抵抗感は薄れます。この写真を転載して批判している人たちも、公道でこのプラカードをもつ勇気はないでしょう。私もエロ雑誌ではさんざんエロワード、エロ表現を書いていますが、こんなプラカードを持って公道に出ることはできません。見たくない人も見てしまい、見られることが恥ずかしいので。

場の特性を読めない恥知らずどもが、どのツラ下げて毎日新聞社を批判できるのでしょうか。

女性の人権を名目に、風俗産業を批判する人たちが、その資料として、風俗雑誌の誌面を無断で印刷物に転載していることがあります。そこに出ている風俗嬢たちの事情に配慮することもなく、顔にモザイクも入れていません。風俗誌では考えられないことです。辞めてしまっているかもしれないため、許諾なく、風俗誌で写真を再利用することはまずありません(女のコが辞めたあとも、風俗店が写真を使用し続けるようなケースはあるにしても)。こいつらは、風俗嬢たちの人権なるものをこれっぽっちも考えていない。批判するために人権を持ち出していることを自ら明らかにしています。

かつて女児殺害事件にからんで、ホラービデオがバッシングされたことがありました。その時に、やり玉に挙げられたビデオ「ギニーピッグ」の監督をした漫画家の日野日出志を取材したのですが、「自分はビデオとして発表するものとして作ったのであって、なぜその映像をテレビが流すのか」と怒ってました。その通りですね。しかも、このビデオが容疑者宅にあったというのはガセだったようです。テレビ局もその映像がたいした問題ではないことを知っていたのでしょうが、視聴率をとるためにこういうことをやる。

これと同じく、騒ぎを起こして金を集めるために変態右翼が変態プラカードを掲げる。ゲスです。

これもミハルさんが書いているように、言語的な批判で済むにもかかわらず、アダルトサイトで公開された画像を転載し、見たくない人にまで見せようとした「草の根」もまったく同じで、実のところ、その表現が問題だなんてことはまったく思っていない。アダルトサイトの画像がセクハラなら、「草の根」のやっていることはその何倍も悪質なセクハラです。著作権侵害だったために、抗議されて引っ込めているように、法を無視してまでこういうことをやる。

わざわざアダルトサイトに入り込むほどにエロが大好きな「草の根」の体質と、にもかかわらず他人を貶めるためはなんだってやる「草の根」の体質がよく出ていますし、「場が違えば見る人が違い、表現の意味合いも違う」という視点さえ獲得できない「ゼリの根」グループの体質がよく出ています。

他者の視点を取り込まないと、その場を特性を読み込むことはできないですから、多様な視点から物を見て考えることができない彼らは、自分たちのやっていることのどこがおかしいのかをいまなお理解していないだろうと想像できます。

さて、チンコと言えばちんげちんげと言えば、「日本よ何処へ」のコメント欄の常連であるなまえさんです。チンコの話は場所を選ぶと言いながら、いきなりちんげの話を出すのもどうなのかと思いつつ。

そして、なまえさんと言えば、ベーナスです。次回はベーナス・ブームを決定づける「ベーナスの研究」です。

このエントリへの反応

  1. >ネットの方がはるかに公然性が低いのですから、

    ここが解かっている人と解かっていない人の落差がありますね。ネットだけが
    自分の居場所と解かってる人はまだ良い。ネットから始めましょう、なんての
    は昭和の頃からいましたが、そこから始まったのは見たことがない。
    逆方向でのデジタル・デバイドってのが発生しつつあるのかもしれません。
    そろそろテレビを鵜呑みにする人を笑う自称情報強者を、笑ってよい時期かも
    しれない。何の事は無い、使ってる機器が変わっているだけ。最新のPCを使っ
    ても使ってる人間までは最新になりませんよ、と。

    2chなどを見ているとマスコミからの情報に怒りを覚える人たちが少なからず
    声を上げている。曰く、(なんらかの)権力に阿った情報だ、と。
    だったら、それを否定する情報を自分で引っ張ってくれば良い。シベリア方面
    で活躍のsinok30さんなんか、官報検索というコストだけで相当な視野の拡大
    をされている。これこそ行動でしょう。

    ところが、反証として伝聞の捏造情報なんか持ってくる人は何も考えてないし、
    何も行動していない。みのもんたを信じてバナナを買う人と、どこが違うのか。

    サンプルとして黒田さんを考えると、瀬戸さんのミニチュア版として単純化され
    ているだけに、色々と解かりやすいですね。支持者さんを含めて。

  2. >もんさま

    そそそそ。既存のメディアにはさまざまな問題がありますよ。だったら、その問題を克服することをしなきゃダメじゃないですか。

    新聞記者の足下にも及ばない取材力、資料の読解力、情報の分析力、思考力しかない人たちが何を偉そうなことを言ってんだって話です。

    誰もが既存のメディアを信じていればよかった時代より、個人の能力差がなおのこと問われているってことに無自覚なことの危険さと滑稽さを彼らがよーく見せてくれてます。

    そういう意味で彼らから学べることがいっぱいあります。