2008-06-30

お部屋1560/出版界崩壊は止められないがために 9

では、出版界の話に戻ります。

私としては、編集者とライターあるいは漫画家の関係が薄くなったところで、薄い関係を元にした仕事のやり方をやればいいのだから、そう困ることはないのではないかとの思いもありつつ、人間関係が薄くなってきたことによって、人間関係がフォローしていたことがフォローできなくなってきていることはたしかに問題かもしれない(それを含めて「しゃあない」とも思うし、「そうも人間関係は本当に薄くなってきてるのか」との疑問もあって、こういう時代だからこそ、今まで成立しにくかった新しい関係がでてきているようにも思うのですが、ひとまずここでは「両者がサラリーマン化している」「人間関係が薄くなっている」「それでは困る」という前提で話を進めておきます)。

いい意味での「アバウト」、いい意味での「なあなあ」が通じなくなってきたのは、人間関係が希薄になったためだけでなく、メディアが監視される時代になったことが大きいように思います。

それこそパクリが顕著ですが、ああも次々と新聞記者、論説委員、小説家、漫画家、テレビのパクリが報道されるのは、パクリをする人たちが増えたのでなく、権利意識が強まったことと、チェックする人が増え、なおかつそれを公然と指弾することができるようになって、パクリ側がそれを封殺できなくなってきたためであって、昔からやっている人はいくらでもいたでしょう。

そんなことを大声で言う人はいないでしょうが、パクリを指摘されて、「えっ、これはダメなの? 20年間やってきたことなのに」と当惑している人たちだっていそうです。何十年間も食い残しを使い回してきたことが社会的に糾弾されて、「そりゃいけないかもしれないけど、もったいないじゃないか」と当惑している食い物屋みたいなもんです(注2)。

その結果、「まあまあ、いいんじゃねえの、この程度は」と業界内で済ましてきたことが、だんだんそうはいかなくなってきた。つまりは、外部の論理、外部の倫理に出版界も合わせるしかなくなってきたわけです(注1)。

雷句誠氏の一件でも、こうも漫画家やファンたちの意見が噴出するのは、今の時代だからであって、編集者と漫画家の関係さえも晒されて、批判の対象になる。業界内で通用してきた非常識が、世間一般の常識に照らし合わせて叩かれる。

こうなると、もう昔のやり方は通用せず、漫画家を猿回しの猿扱いをしていては、出版社もやってはいけない。それがかつては如何に意味のあったことだったとしても。

他の出版社で仕事ができないようなことを言ったり、編集者の一存で本を絶版にできるようなことを言ったところで、すぐにウソはバレます。

では、編集者と書き手、描き手はどういう関係を作りだしていくべきなのでしょう。

これに対しては、竹熊健太郎氏が提案するようなエージェントやマネージャーという緩衝を設けるのが有効かもしれません。

しかし、実現すれば有効かもしれないだけで、こんなん、一部の漫画家、一部の物書き以外無理に決まってます。また、その一部の人たちにとって有効だとしても、そのしわ寄せがどこに行くのかを考えた時には暗澹たる気持ちになります。エージェントの取り分は、どこかからかすめ取ってこなければいけないわけですから。

こういう話はライター、小説家、イラストレーターの間でも、昔から出ていたことでしかありません。たった今思い出しましたが、20代の頃に、スージー甘金に、「イラタスレーターのマネージメントをやりなよ」と言われたことがあります。スージーさんは覚えていないかもしれないですが。

「ギャラの交渉が下手なイラストレーターをいっぱい抱えて、10パーセントを抜けば食べていけるよ」とスージーさんは言っていて、バブル期のイラストレーターのマネージメントであれば食べて行けたかも。雑誌の仕事は話にならなくとも、イラストレーターは1点100万円のポスターの仕事や億単位の金が動き得るキャラクターグッズの仕事もあったりするわけですから、そういう人たちのみを抱えていればやっていけたでしょう。

でも、物書きではほぼ無理です。雑誌はページの制作費がだいたい決まっていて、ランクによって原稿料もだいたい決まってますから、交渉の幅が少ない。経費は別の予算から引っ張れる場合があるため、「取材経費を出して欲しい」という交渉はわりと通りやすいですけど。

単行本でも印税の基準はだいたい決まっていて、10%を11%、12%にできるような人は確実に万単位売れることがわかっているような一部の人たちだけです。そんな人たちゃ、なにも交渉するまでもないわけで。

あとは、講演会やテレビ出演など、単価がよく、交渉の幅が大きい仕事をしている人たちの、そういう部分だけを請け負う。今現在も、芸能プロの文化人部門がやっていることです。

日本ではなぜ出版にエージェントが成立しなかったのかと言えば、「日本だから」ではなくて、「日本の出版界だから」です。現に芸能人やミュージシャンの世界では、プロダクションやブッキング・エージェンシーが成立しています。

芸能プロの中には、タレントの執筆に関してはノータッチという場合があります。1本2万円のコラムから20%引いたって金にならないので、「勝手にやれ」ってことです。つまり単価が安すぎて、誰がこんなもんのエージェントをやるかってことでしょう。

続く。

注1:否定すべきルールばかりではなく、長年の蓄積によるいたって合理的なルールも出版界にはたくさんあります。

例えば雑誌では、広告は広告とわかるようにすることになっています。読者のためには当然のことかと思います。

ところが、ネットになると、多くの物書きは、アフィリエイトを明示しない。純然たる広告とは違うとは言えども、「この本を読者が購入することによってアマゾンから金が入ってきます」ということを明示すべきだと思うのですが、そういう発想は出てこないみたいです。

つまり、ルールの意味をひとつひとつ考えて行動している人は稀で、「なぜこれをやっていいのか/悪いのか」を考えない。だから、パクリもしてしまい、指摘されるまで気づけないってことなのだろうと思います。

注2:客が残したものを使い回す行為の是非については、昨日、「マツワル」で配信しました。長くなるので、ここでは簡単に。

この行為自体、食品衛生法にストレートには抵触せず、法ではなく、モラルの問題です。「食中毒になるわけじゃないにしても、客に出した食べ物をもう一度出すのは不衛生」というモラルに反するわけですが、一方でこの社会が共有している「食べ物を大事にする」というモラルには適っていますから、このふたつのモラルをどう調整するのかって話です。

以前、偽装表示問題について、徳岡孝夫というジャーナリストを強く批判した文章を「マツワル」に書き、「黒子の部屋」にも転載しました。たぶんこの人だったら、「腹痛を起こしたわけでもなかろうに」として、使い回すことを弁護するのでしょうが、この問題もまた単なる「衛生」という観点だけでは語りきれず、「商行為のモラル」として語るべきです。「“もったいない”という感覚を、客の了承のないまま客に解消させることの商行為のモラル」という観点から見た時に、私は使い回しは批判されてしかるべきと考えてます。