2008-06-25

お部屋1553/出版界崩壊は止められないがために 4

今私が仕事をしている範囲で言っても、編集者との関係はさまざまです。仕事と直接関係がなくても、ほとんど毎週のように会っているのもいれば、最初の顔合わせ以降会ったことのない編集者もいます。今現在は、会ったことのない担当編集者は一人もいないですが、連載が終わるまで一度も会わなかった編集者もいます(たいていは前任から引き継いだ編集者です)。

信頼関係がないまま仕事をすると、いざトラブルになった時に回復不能に陥りやすくはあるのですが、トラブルになりようのない原稿もありますから、一概に「薄い関係はよくない」とは言えない。

「どうつきあうのがいいか」は原稿の内容に左右されるのと同時に、編集者の質や性格にも左右されます。性格が全然合わないのにベタベタされても迷惑です。

専門的な知識や理解が必要な内容の原稿を書く場合、編集者がその知識や理解があることが理想ではあります。そうであれば、間違いを指摘してくれたり、アイデアを提供してくれることまでが期待できます。

しかし、そうではない編集者がダメだとは私は全然思っていません。編集者のすべてに、こちらと対等の知識や理解を求めることは不可能です。特集だってあるし、他の連載だってあるわけで、そんな暇はないでしょう。

なにもわかっていないのに、下手に内容に介入してくると面倒なだけですから、事務処理を的確にやってくれればいい。

以前から言っていることですが、編集者は必ずしも私の原稿を理解している必要はない。人を理解してくれている必要もない。理解しているに越したことはないにせよ、理解していなければならないということはない。それより大事なのは事務処理能力です。

その点、大手出版社の漫画編集者は、当然事務処理能力もあって、内容に介入する代わりに資料を探してくるし、ストーリーも考えるのだとばかり思っていたのですが、そうでもないみたいですね。

元漫画家のハヤシさんの書いていることを読むと、「少年サンデー」の担当編集者は「面白くない」「イマイチ」しか言わず、それ以上のアドバイスはなかったみたい。

この場合、ピアノや音楽についての知識がないために、コメントしようがなかったのかもしれません。

それより何より驚いたのは、担当編集者に自宅の電話番号さえ教えてもらえていなかったとの話です。携帯電話が普及していない時代のこととは言え、その時代だって、私は主だった編集者の自宅の電話番号を知っていたと思います。「その時間はうちに帰っているので、自宅にFAXしてください」ということになって、自然に知ることになってました。

そういう機会があっても教えないのは、「私生活に仕事を持ち込みたくない」ってことなのでしょうし、多くの人が指摘しているサラリーマン化ってことです。

たしかに今の時代にも「メールは家では見ない」ないしは「家では見られない」という人たちもいます。しかし、これも私は一概によくないとは言えないです。

サラリーマン化したのは書き手も同じです。

数年前に、文芸畑の編集者数人に、編集者と書き手の関係がどう変質したかという話を取材したことがあって(メインの取材テーマは別だったのですが)、全員が「関係が薄くなった」と口を揃えてました。作家先生が、各社の編集者を引き連れて、銀座を飲み歩くなんてことはなくなってきています。なぜか女性作家たちに、こういう体質が残っているみたいですが。

仕事とプライベートを分けたがる作家が増え、小説家や編集者ではなく、別の業界の友だちと飲み歩く。文壇バーには行かず、ゴールデン街も行かない。家で奥さんと晩酌するだけの人たちもいる。「飲まない人も増えている」という話も聞きます。

飲まないくせに、飲み屋によく行く私は、「そんなんでいいのか」と思っていたのですが、編集者の中には「サラリーマン化したことや編集者との関係が薄くなったことが悪いとは言えないのではないか」と言う人もいました。村上春樹は文壇だのなんだのと昔から縁のない人ですが、「では作家としてダメなのか」ってことです。それもそうかと。

だいたい私も飲み屋に行くと言っても、出版関係より、エロ関係やお笑い関係の人たちとの方が多かったりしますから、そういう傾向を非難できる立場にないです。

たしかに破天荒な生き方をしている人が面白いものを書くとは限らない。そんな法則があるんだったら、前科10犯のヤク中のヤクザはみんな大作家になりましょう(面白いものを書く人もいそうな気がしますが)。

両者がサラリーマン化したことが、編集者と書き手の関係を変質させていることは事実でしょう。編集者は、担当している作家が普段何をしているのか、どんな生活をしているのかもわからなくなってきています。

取材して原稿を書くタイプのライターは難しいとしても、原稿はメールで送れますので、銀座に行こうと思わなければ、小説家が東京に住む必要もない。事実、地方在住の作家が増えているとのことでした。

以前であれば、毎週のように顔を合わせていたのに、今は顔合わせを一回やるだけ。あとは出版パーティや授賞式で上京した時に会うだけ。電話も携帯ですから、家族がいるのかどうかさえもわからない。

エッセイやブログを読んで初めて生活ぶりがわかる。読者と一緒なのです。「それでいいのか」とまた思うわけですが、それでいいのかも。

ここでハヤシさんは、編集者との薄い関係に、そう強い不満を抱いていないことにも注目です。そんなもんだと思うのですよ。

編集者と書き手との理想的な関係を掲げて、「それに比べれば今の時代は〜」と語られがちですが、実のところ、そこには「昔はよかった」的な郷愁が入っているようにも思います。今の時代は今の時代の関係があり得て、そこに問題が生じているのなら、今の時代に即した対応をすべきであり、過去に戻ることはもうできない。

今の時代に大きな支障が起きているのだとすると、むしろ、もはや成立しにくく、成立する必要もない編集者と書き手のかつてのありようを頑なに信じて実践しようとしている人たちがいることが原因になっているのではなかろうか。

今回の騒動で改めてそう感じたのであります。

まだまだ続きます。