2008-04-14

お部屋1455/あれやこれやの表現規制 7

今回は「黙示の承認」に関わりつつ、話がちょっと飛びます。

現在、青山のワタリウムで展覧会が開かれている故・渡辺克巳の写真については、「マツワル」で詳細に論じ、「月刊プレイボーイ」にも書きましたが、今の時代にはもう撮れない写真かもしれません。

渡辺克巳はかつて流しの写真屋でした。「ナベちゃん、写真を撮ってよ」とゲイボーイ、ヌードスタジオの女たち、ヤクザやチンピラたちが1枚ナンボで写真を撮ってもらいます。

一対一の関係で成立する写真です。見せるとしても、お客さんや恋人、友だちくらい。ここに渡辺克巳の写真を魅力的にしている大きな要因があります。

この写真を写真集にすること、展覧会として公開することについての肖像権はどうなんかという話については難しすぎて私は判断がつきません。「靖国 YASUKUNI」の比ではなく難しい。

写真を撮られることを承諾している場合、それが無条件に公開されることも承諾をしていることになるのかどうかって問題です。財産権は別にして、人格権については、判例はないのではなかろうか。

被写体は写真を撮られることについては明らかに合意していて、そこに疑問の余地はないのですが、合意されているのは「私用の写真を撮る」ということでしかありません。むしろこの場合は「カメラマンはそれ以上の利用はしない」ということが前提になっているようにも思います。

渡辺克巳の場合は、早い段階から、それを展覧会で発表していますから、その段階で「黙示の承認」があったとも言えましょうけど、「そんなことは知らなかった」と言われたらそれまで。したがって、訴えられたら負ける可能性もあるかとは思うのですが、今のところ、そういう話は聞いてないので、問題が生じる前に騒ぎ立てることもあるまい。著作権同様、親告罪ですので。

その頃はまだ写真を撮られることが今のようには日常化してませんでしたから、写真を撮られることの緊張も気取りもある。しかし、その表情やポーズはなお無防備であって、プロではない。

昔は写真を撮るというのはこういうことだったわけです。鑑賞者は撮影者と被写体とその周辺の数人しか想定されてない。

ところが、プライベートの写真も、今はどこかに公開されることが前提になってきています。プライベートの写真が消滅しつつある。ケータイで写真を撮って、その日のうちにブログやmixiに出す。場合によっては撮った直後に出す。広く公開されないとしても、友だちの間で回される。

こうなると、レンズの向こうに常に不特定多数の視線を意識しないではいられない。その結果、無防備な表情、無防備なポーズを撮りにくい時代になってきています。かつてはモデルやタレントしか意識していなかった不特定多数の鑑賞者を誰もが意識する。

だから、渡辺克巳の写真はもう撮れないのかもしれない。プライベートで撮るハメ撮り写真にはまだこの無防備さが残っていて、だからこそ写真としての原点を辛うじて確認できるわけですが、それさえも公開されることが前提になっていることは多いでしょう。

昨今はケータイで女子までが男子の裸を撮って、友だちに送ったりします。チンコの写真までケータイでばらまかれますから、おちおちチンコを出せないです。チンコに肖像権はないですが。

路上で声をかけて写真を撮らせてもらう場合でも、「なんの雑誌?」「エロ本はダメだよ」「いくらくれるの?」「マガジンハウスは商品券をくれたよ」などと言われ、予算のない雑誌は写真も撮らせてもらえません。

肖像権なんてものがあることを皆が知るようになったのではなくて、自然と写真は公開されることが前提となり、雑誌に出る場合は自分の写真にも価値があること認識するようになったということでしょう。財産権としての肖像権に近い意識までが、そうとは認識されないままに浸透しています。

あるいは「あれやこれやの表現規制5」に書いたように、路上で写真を撮っているだけで、写真をチェックすることを求めてくる。これも「写真を撮られた」イコール「公開される」という時代になったことによるものです。

私自身、何かの集まりで写真を撮られて、ブログやmixiに出されると、「一言言えよ」とは思いますけど、「写真を撮られたら公開されるものだと思っておけ」というのもまた正しい。

誰もが表現者になり得る時代には、そういう意識が必須であり、その意識があればこそ、「どこで使うの?」と確認するクセもつく。出されたくない場合はこっちから積極的に言うしかないし、言う勇気がないのであれば諦めるしかない。そういう時代なのであります。