2008-03-14

お部屋1425/靖国のみかた

今週、「マツワル」では、李纓監督のドキュメンタリー映画「靖国」について、5回にわたって書いてました。映画そのものについては1回だけですが、この映画の意義を理解するための前提を延々と説明してました。我々はいかに思考の枠組みにとらわれていて、自分自身の頭で考え、判断することができにくいのかってことです。ここでは、もっぱら左翼的な思考の枠組みを素材にしていたんですけどね。

その映画の意義をまったく読みとれない人たちによって、映画が批判する(と私には思えた)内容そのままの事態になってきてます。

一部議員らがこの映画の「事前試写」を要求して、配給のアルゴフィルムは、検閲させることはできないとして、全国会議員を対象とした試写を実施。
http://www.asahi.com/national/update/0312/TKY200803120422.html

この映画はどうにでもとれるため、観る側の力量が問われる。反靖国の映画とも、靖国礼讃の映画ともとれる。「既存の思考の枠組みの中で偏向した価値観をもってすれば」です。

試写を見た民主党の横光克彦衆院議員は「戦争の悲惨さを考えさせる映画だが、むしろ靖国賛美6割、批判4割という印象を受けた」と言ってます。戦争の悲惨さを考えさせる映画だとは私には思えませんでしたが、そうともとれるわけです。

靖国賛美6割ととれるのはもっともで、靖国刀を作っていた刀匠を含めれば、靖国神社を肯定、礼讃する人たちが映像の7割以上に登場しているのではないでしょうか。人数で言えば9割かな。

一方で、事前試写を要求した稲田朋美衆院議員は「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と語ったそうです。まったく違う映画について語っているようですね。つまりは、映画を語っているのでなく、自分の立場、自分が思考する枠組みを語っているだけです。これこそがこの映画の特徴であり、ドキュメンタリーの力を雄弁に物語ります。

この映画の多くの登場人物たちは、ナレーションもBGMもない引いた映像の中に写っているだけです。だから、どうにでもとれる。

私には彼らが滑稽に見えました。それは靖国に反対する人たちも一緒。靖国神社内の式典に乱入する左翼小僧も、靖国神社に「魂を返せ」と要求する高砂族も、等しく滑稽なのです。高砂族にいたっては、靖国の力をいやというほど見せてくれる。それに無自覚な様が滑稽です。

右だの左だのといった二分化した枠組みの中で安住してきたことこそをこの映画は批判しているように私には見えました。もちろん、靖国神社で刀が作られて、戦地に送られていたことも知らなかった私自身も批判の対象ですし、アジアの人たちも同様。そう受け取れるかどうかは知りませんけど。

その滑稽さをそのまま引き継ぐ形で、「週刊新潮」や稲田議員が言葉を重ねています。

「週刊新潮」は百人斬りの記事や中国での首斬り写真がでてくることをもって、「反日映画」と狭量に決めつけてますが、なぜこれを出す必要があったのかと言えば、この映画の主人公は日本刀だからです。

鉄の塊が徐々に美しい日本刀になっていく映像は心打たれますよ、実際。その日本刀が日本人の魂となっていく過程もこの映画は見せています。

寡黙な刀匠は「日本刀は機関銃も斬れる」と、この時ばかりは嬉々として語ります。そのように神格化されていく過程のひとつとして、百人斬りの記事もある。この記事の意味を言語でしっかり解説しているのは、靖国神社で署名をしている人たちであって、映画では主人公である刀の記事を最後の最後にフラッシュバックのように見せているだけです。

これが当時のメディアのでっち上げであるというのであれば、まさにそれが日本刀の神格化です。そして、それを批判する側も、刀を持ち出す。この映画では主人公の活躍振りを見せているだけ。

それをもって「反日映画」と決めつけることは、まさにこの映画の意義を高めるだけでしょう。いかに人は思考をあっけなく停止させるかという意味で。

対して鈴木邦男は、この映画のパンフに「愛日映画」だとコメントを出しています。「何も知らなかった自分が恥ずかしい」とも。「愛日映画」だとも思わないですが、靖国神社のことを知らずに語っていたことを真摯に認める鈴木邦男はさすがです。

映像を観る能力がなく、自分の頭で考える能力もなく、手垢のついた言葉しか使えない人々の滑稽さをイヤというほど見せてくれる、この映画の第二章が現在リアルタイムでロードショー中です。