2008-04-16
お部屋1457/あれやこれやの表現規制 9
そもそも肖像権が日本で確立されたのはデモ撮影の是非が争われた事件の最高裁判決です。
これについては以下にまとめられてます。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/96-6/ichikawa.htm
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デモに覆面もせず仮装もせず素顔をさらして参加した場合、参加者は自己の肖像権を放棄したことになるであろうか。かつては放棄したことになるという学説や下級審判決もあった。しかし、デモ行進参加者は集団としての意思を表現する限度において肖像権を放棄したにすぎず、デモ行進という集団的表現活動をそれとして写真に撮ることは認められても、参加者個人の顔写真を撮ることまでは認められないというのが学説の多数であり、下級審判決にもそのような立場をとるものもあった。そしてこうした流れを受けて、最高裁は、京都府学連事件判決(最大判昭和四四年一二月二四日刑集二三巻一二号一六二五頁)において、憲法一三条の保障する国民の私生活上の自由の一つとして、「その承諾なしに、みだりにその容ぼう、姿態を撮影されない自由」があるとし、デモ参加者も原則として警察官によってその容ぼう、姿態を撮影されないと判示したのであった。これは、表現者が自己をある程度さらしても完全に匿名性の保障を失うわけではない、ということを示している。
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すでに見てきたように、肖像権についての裁判はそれ以前からあったのですが、この最高裁判決によって、肖像権が確立されます。
無制限に肖像権が認められるのではなく、【捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうる】となっていて、ジグザグデモのように違法性のある場合の撮影は公益性があるとし、その際に他の人たちを写すことも許されうるとしています。
この判決は警察官がデモ隊を撮影していたところ、デモ隊がこれを誰何して、棒で突いたことによって警察官が負傷した事件に対するもので、学生側がその撮影に違法性があると主張したのが退けられており、違法性のない範囲を上記のように定めたわけです。
これだけ読むと、犯罪性がない限り、デモを撮影してはいけないようですが、この場合は、警察によるデモの撮影が争われたものであり、「表現者」というのはデモ側であることに注意。警察による撮影は、デモという表現を侵害するものであり、ストレートに憲法違反になり得る事例です。
「表現者」対「公権力」という構図ですから、当然、前者が優先されます。つまり、デモは100人なら100人の集団でひとかたまりの表現が成立しており、個別の参加者が肖像権を放棄したわけではないということです。
著作権を例にするなら、あるサイズになっていて初めて成立するイラストを著者に無断で小さくトリミングして雑誌で発表すると、同一性保持権を侵害するようなものでしょうか。
デモを表現の自由に位置づけて、著作物と同様に、全体をひとつの表現とする解釈は飛躍がありますが、十分理解はできます。当然右翼の街宣活動も表現ですから、法的に禁止されるべきものではありません。
「靖国 YASUKUNI」において、「右翼にも表現の自由はある」「街宣活動も表現だ」として映画館に抗議した行動を擁護するムキがありますが、そんなことは誰も否定していないでしょう。「上映を中止しろ」という抗議の内容を批判している。あるいは「観てから言え」と批判している。
それはさておき、このような「公権力」対「表現者」という構図の事件と違って、デモと一般の撮影者では、「表現の自由」対「表現の自由」でありますから、よりデモに参加する人たちの肖像権は制限されてもやむを得ないと思われます。
まだまだ続きます。
追記:街宣車の問題については、4月12日の「あれやこれやの表現規制」につけられたコメントで教えてもらった「鈴木邦男をぶっとばせ!」に書かれたことが参考になります。
また、4月14日付けの日記の内容も素晴らしい。映画が上映中止になって悔し泣きをし、映画館に抗議をした右翼青年を出演させた「ニュース23」の姿勢を礼讃する。
鈴木邦男の言っていることは昔から一貫しているわけですけど、今になって私もつくづくこの姿勢に共感するところが大きくて、「靖国 YASUKUNI」の騒動があるちょっと前にも、「マツワル」で、鈴木邦男の姿勢を改めて評価し直していたところです。
ところで、これによると、すでに「責任者探し」の段階なのですね。そういうことは他の方々にお任せして、私は引き続き、政治家の言うことだから、あるいは新聞記者の言うことだからと鵜呑みにすると、とんだ恥をかくことを肖像権の観点から明らかにしてきます。