2015-01-22

ニーチェ『道徳の系譜』【帰ってきたニーチェ】

哲学者が現代によみがえったら、どんなふうに自分の書いた本の内容をしゃべるか。そんなコンセプトでまとめたものです。基本的にテキストの内容には即しているけれど、かなり自由にしゃべっている部分もあります。哲学書に興味のない方含め、いろんな方、どうぞ。
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※レジュメは連載形式で公開していきます。2週間に1回程度の更新を予定しています。
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“どうぞご自由に”レジュメ集 by 石川輝吉 is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 2.1 日本 License.

序言

1

 哲学ってさ、ソクラテスのむかしから、「汝自身を知れ」って言われてるように、自分自身を知ることだろ。けれど、誰もそんなことやってないよ。だってさ、まず、自分以外のことを知るのに忙しいんだよ。仕事でどう成功するか、とか、どこのスーパーで大根が安いか、とか、そういうことが気になる。ネットで他人の書き込み見て笑ったりするのもそう。みんな知りたがってるんだよ。自分以外の情報をさ。けれど、ほんとのこと言うと、そういう情報への興味って自分自身という場所から出ているんだ。でも、そこは知ろうとしないんだ。

 もちろん、ふと、自分自身について考えることだってあるよ。「オレっていったいなんだろう?」ってさ。でも、そうやって考えて出てきた自分自身の答えって、なんか方向をまちがえるんだな。これが。

2

 だいたいさ、そうやって自分自身について考えてきたのって、これまでの哲学なんだけど、その答えってまじめなんだよ。すぐ、道徳ってことになる。「自分のなかには、世のため人のために尽くす道徳ってものがあるんじゃないか」ってなるんだ。学級委員みたいなんだ。だから、なにかこう、自分の気持ちを殺してまで、とにかく善いことをするのが自分なんだ、みたいなことになる。これって、かなり苦しい自分を抱えることになるよ。だから、誤った自己認識だよ、これは。そもそも、「自分のことはさし置いて人さまのため」みたいなのが善いとされてるから、こういうまじめで不幸な人が出てくるんだ。オレはここを問題にしたいね。

 オレに言わせれば、自分自身って、自分が元気になろうとする気持ちのことじゃないかな。オレのつくった言葉でいうと、この気持ちって「力への意志」っていうんだ。で、正直、オレも暗かったんだよ。ずっと「これまでの道徳っておかしい!」って、わーわー言って批判してた。でも、さいきんよくわかったんだよ。なんでわーわー言ってたか。それは、自分が元気になりたいっていう気持ちにうながされていたからなんだ。「力への意志」からなんだ。

 だから、いろんなことがわかってきたよ。たとえば、「自分のことはさし置いて人さまのため」っていうのは、自分が元気になるかどうかはまったく問題じゃなくて、「人さまのほうに奉仕しろ!」ってことなんだ。もう滅私、自己否定だよね。これだと、だれも元気にすることはできない。だって、そもそも、自分を大切にする、という観点がないんだもん。自分を大切にするから、自分が元気になれるんだろ?

3

 道徳っていうのは、善い悪いという価値としてあるんだ。オレが問題にしたいのは、その善い悪いという価値じたいのよい・わるいなんだ。道徳の価値を問いたいんだ。堅苦しい言葉で言うと「価値の価値」ってものを問題にしたいんだよ。それでもって、「これまでの道徳っていうのはわるい!」って言いたいね。

 でね、オレなりに考えると、なんかあったと思うんだ。その道徳が生まれた時にさ。きっと、自分を元気にしそうにないようなものが「善いこと」とされたと思うんだ。そこを明らかにしたいんだ。もちろん、この作業は、いままでずっと、オレたちをがんじがらめにして、たとえば、さっき見た、まじめな連中なんかを苦しめているような道徳について、「おかしい!」って批判するためにやってるんだよ。だからさ、これからオレのいう道徳の起源というのはあくまでも仮説だよ。起源までたどるって意味はさ、いま現在にあることの批判のためにあるんだよ。

4

 もちろん、オレだってこれまで、道徳が生まれたその現場、道徳の起源をたどる作業をやってきたよ。でも、この本はその集大成なんだ。なんで集大成かは、もしよかったら、オレのこれまでの本を読んでもらえたらよくわかるはずだよ。

5

 で、くり返しになるけど、オレにとっていちばんの問題は、道徳の起源について仮説を立てることよりも、道徳の価値なんだ。それについては、ずっと問題にしてきたよ。ショーペンハウアーの道徳とは、もう腐れ縁のようにずっと闘ってる。だってさ、ショーペンハウアーは、同情を、他人に対する無私無欲の愛、自己犠牲なんていって、最高の道徳だ、っていうんだよ。もうわかると思うけれど、これはひどいよ。だって、これ、「自分をなくしてしまえ!」ってことだろ。こんなのまったくの自己否定じゃん。オレはさ、この自分やこの世界に否を投げつけるような思想や態度を、「ニヒリズム」って言うんだけどさ、ショーペンハウアーにははっきりと、このニヒリズムの徴候があらわれてるよ。

 さっきも言ったけど、自分を大切にするからこそ、自分が元気になれるはずなんだ。もちろん、人間が自分という中心をもっているから、エゴイズムの問題や苦しみが生まれる、というショーペンハウアーの問題意識はわかるよ。でも、だからといって、「自分をなくしてしまえ!」というのはどう考えてもおかしいよ。

6

 これまで、「自分のことはさし置いて人さまのため」や同情について批判してきたけど、もうこうなったら、いわゆる道徳と呼ばれるものはすべて怪しく見えてくると思うんだ。そこがオレのねらいなんだ。オレはね、いつもは当たり前と思っている善いことの全体の価値を問題にしたいんだな。だから、いわゆる善人と呼ばれる人の価値だって問題だよ。善人はじつは元気のない人間のことかもしれない。でも、まあとりあえず、これまでの道徳っていうのは、全体として、ものすごく危険なものだと考えておいたほうがいいよ。

7

 それでさ、この本は、いまある道徳の価値を問うために、その起源までさかのぼる、というかたちをとるわけだけれど、そこに、かなりドロリとした暗い情念、人間の妬みや恨み、これはオレの言葉いうと「ルサンチマン」っていうんだけど、そういう暗い歴史を見るとこになると思うんだ。でもさ、それを自分自身のあり方のように考えて、直視してほしいんだ。こういう歴史を描くのは、ほんと骨の折れる作業だし、それを読むのもつらいと思うよ。でも、きっと、この作業をやったオレ自身もそうだけれど、読んでくれる人も、この本を通じて、これまでの道徳を笑って受け止めて、そこから前進できるようになれると思うんだ。

8

 最後にちょっと言っておくけど、じつはオレも反省してるんだ。いままでの自分の本のわかりにくさを。でもね、この本は、いままでの自分の本の解説書のつもりで書いたよ。この本のことをわかりやすいと思ってほしいな。もちろん、この本も含めて、オレの本は全部、何度も何度もくり返して読んでほしいけどね。

第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」

1

 あのさ、オレのむかしの友人でパウル・レーっていうのがいるんだ。あいつの『道徳的感情の起源』って本は、イギリスの哲学者たちの考え方の寄せ集めみたいなところがあるけど、けっこうがんばってはいると思うんだ。レーにしろ、イギリスの哲学者たちにせよ、ふだんは誰もやらないような、自分自身を知ろうとする試みをやってる。それに、道徳の根拠をキリスト教に求めてないしね。でも、その自己認識はやっぱり誤りなんだな、これが。

2

 それでさ、レーはこういうことを言ってるんだ。「世のため、人のため」っていう道徳のもとになる行為、他人を気づかう行為っていうのは、はじめは「よい」という意味はなかった。けれど、ある時、そういう行為が、まわりの人びとから「有益だ」ってよろこばれたり誉められたりして、他人を気づかう行為は「よい」とされた。これが道徳の起源だ。それで、いまはもう、その起源、もともとの人びとの利益や人びとから誉められたことは忘れられてしまって、他人を気づかう行為、「世のため、人のため」っていう道徳は、それ自体で「よい」ものであるかのように思われてる。こういう話をしてるんだよ。

 オレはこれ、まちがってると思うよ。まず、レーやレーが影響を受けたイギリスの哲学者たちは、「世のため、人のため」っていうこれまでの道徳のよし、あしを問題にしてないよ。そこがまず足りないところだよ。それに、そもそも、「よい」という価値の根拠を、よい行為をしてもらった人びと、つまり、自分じゃない他人においているのがかなりまずいよ。

 オレに言わせれば、「よい」の根拠は、他人じゃなくて、自分自身にあるんだ。自分自身からわき起こってくる「よい」という肯定感、それが「よい」の根拠であるはずなんだよ。なんでそう言えるかって? よく考えてみなよ。他人の「よい」を自分自身の「よい」という気持ちより上に置いたら、問題が起こってくるはずだよ。たとえば、人さまの「よい」、社会の「よい」、親の「よい」に、自分の気持ちを殺してでもしたがわなくちゃならないとすれば、それはとても苦しいことになるよ。

 これまでの道徳っていうのはこういう自己否定を強制してくる。「自分のことはさし置いても人さまのため」ってさ。そのおおもとに、他人の「よい」を自分自身の「よい」という気持ちより上に置く考え方があるんだ。だから、レーやイギリスの哲学者たちっていうのは、これまでの道徳のあり方をただ容認しているだけなんだよ。

 それで、オレはさ、自分自身からわき起こってくる「よい」という肯定感を大切にしたいんだ。違和感あるかもだけど、そういう自己肯定的な人間のモデルは古代の支配階級にあるんだ。この人たちってさ、「オレはやったんだ、オレはできたんだ、だから、オレはよい人間なんだ」という自分自身からやってくる自己肯定感をもってたと思うんだ。

 この肯定感って、自分の利益や功利といったことからはやってこないよ。たとえば、功利主義っていうのは、功利を「快を求め、苦を避けること」というけど、そんななまやさしいもんじゃないんだ。

 古代の支配階級ってもともと戦士なんだよ。もう、死という最大の苦しみさえ乗り越えて戦うんだよ。これはものすごい緊張感だよ。だって、負けたら奴隷だよ。いつも、ものすごく努力して、戦いに勝ち続けた者たちだけが、支配階級になるんだ。そうした勝利の感覚、苦しいことをのり越えて、「オレはやったんだ、オレはできたんだ、だから、オレはよい人間なんだ」というのが、自己肯定感というべきものなんだ。これは同時に、死を恐れて戦わない者たちや負けた者たちに対する優越感でもあるんだよ。

 ここに、貴族的価値評価、他よりすぐれた自分自身の存在を「よい」(優良)と肯定し、自分から見て劣っている者を「わるい」(劣悪)とする価値評価が生まれるんだ。「よい」の根拠というのは、他人の「よい」ではないよ。自分で苦労して競って得た自己肯定感なんだ。

 いきなりこんなマッチョなイメージを言ってみたけど、よく考えてみてほしいんだ。自分は「よい」存在なんだっていう気持ち、自己肯定感って、だらだらしてなんにもしないんだったら得られないよね。まずはさ、現実に行為することだと思うんだ。自分から行動を起こすって、苦労するってことだよ。世界にはたらきかけるわけだから、障害や抵抗だっていろいろある。でもさ、自分の経験を思い出してほしいんだ。「オレはやったんだ、オレはできたんだ、だから、オレはよい人間なんだ」というよろこびの気持ちって、そうした苦労を乗り越えたときに得られるものじゃないかな。

 それに、自己肯定感って、やっぱり競い合うことでしか生まれないと思うんだ。オレは競争を肯定するよ。ただただ生きているだけじゃ自分に肯定感はやってこないと思うんだ。どこか、「自分は他の人より優れている」という感覚がないとね。だからさ、自分から行動を起こすってことは、苦労することなんだけど、それは競争に入っていくっていう苦労でもあるんだ。

 もちろん、こういう意見もあると思う。「オレはやったんだ、オレはできたんだ、だから、オレはよい人間なんだ」という自己肯定感って、「オマエはやった、オマエはできた、だから、オマエはよい人間だ」と認めてくれる人がいてこそなんだ、ってね。でもさ、その承認ほしさに、他人の「よい」ばかりにしたがって、自分を押し殺すようなことになったら、それはもう本末転倒だよ。これだと、これまでの道徳の問題と同じになる。「自分のことはさし置いても人さまのため」ってね。

 だから、オレの強調したいのは、まずはやってみる、ってことのほうなんだ。苦労も競争もあっていやだけど、まずは現実にかかわってみるってことなんだ。きっとだれにも、苦しくても現実にかかわって自分を大きくしたいという気持ち、もっと言えば、オレの言葉でもある「力への意志」に素直にしたがってみようってことなんだ。それでもって、じっさいに、自己肯定感が得られるかどうか、承認されるかどうか、そういう結果のことはほんとはあとの問題だと思うよ。まずやってみる。身体を動かして眼の前の現実にかかわってみるんだ。このことは眼の前の現実にかかわらずうじうじしているより、ずっといいことだと思うんだ。

 オレだってほんとはよくわからないんだ。自分の書いたものがどれだけ認められるかってことを。でもさ、とにかくこうやって書いて人の前に出してるんだ。意見や表現、仕事や勉強、なんだってそうだと思うんだけど、めんどくさいけどとにかく実際に身体を動かしてみて、現実にモノを出してみることが大切だと思うんだよ。

 ところで、オレの考え方って、自分自身の優越感や自分を力強くしたい気持ちを中心にしているから、「他人のことを考えないエゴイズムだ!」って批判したくなる人もいるかもしれないね。けれども、自分の生をどう肯定できるか、ってことはなにはさておき一番の問題なんじゃないかな。自分自身のあり方を中心に考えるってことは、悪しきエゴイズムなんかじゃまったくないよ。どうしてオレの考えを批判したくなるのか。それはさ、きっとまさにあの「道徳的先入見」、「自分のことはさし置いても人さまのため」に毒されているからじゃないのかな。

3

 それでさ、またレーの道徳の起源の説に戻るけど、ここでちょっとチャチャ入れてみたいんだ。レーはさ、道徳の起源、もともとの人びとの利益や人びとから誉められたことは忘れられた、って言うんだけど、その「忘れられた」ってどういうことなんだよ?

 ふつう、そういう重要なことは覚えていることだと思うし、きっと世代ごとに受け継がれていくことだと思うんだ。この意味では、「忘れられた」なんて言わずに、「人類は、有益なことを忘れずに、それを深めながら進化していく」と考えたハーバート・スペンサーのほうが話のすじは通ってるよ。もちろん、レーもスペンサーも、そもそも「よい」の根拠を功利性に求めている点で根本的にまちがってるけどね。

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 で、話をまた古代社会に戻すよ。これは言葉の問題だけれど、古代社会では、「よい」という言葉は「高貴」という意味、「わるい」という言葉は「低級」、「素朴な者」、「平民」といった意味だったんだ。古代社会では、価値をあらわす言葉は身分をあらわしていたんだよ。 
まあ、簡単に言えば、「よい」とは他からぬきんでた優れた人間のことを意味して、「わるい」は優れていない、普通か価値の低い人間のことを意味するんだ。さっきも見たけれど、古代社会では、他の人間から優越を感じて自己肯定感があるのは支配階級だったんだから、当然、自己肯定感をあらわす「よい」という言葉は、社会的身分である「高貴」と同じことになるんだよ。

 こういうことを言うと、民主主義的先入見にとらわれた人は「階級社会の肯定だ!」と批判するかもしれないね。でも、オレは、古代の階級社会のかたちを借りて、いまでも重要な問題である自己の生の肯定の話をしてるんだ。自己肯定感のある人が自分のことを「他からぬきんでたところのある「よい」人間だ」と感じていること。自己肯定感のない人が「ぬきんでたところのない「わるい」(劣った)人間だ」と感じていること。こうした差異のなかで、ある意味で自己肯定感をめぐる身分や階級のなかで、オレたちが生きているということは認めなくちゃいけないよ。

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 まだ言葉の話はつづくけど、古代社会での「よい」というのは、高い身分の者のじっさいの行為、彼らの目に見える現実的なふるまいを意味していたんだ。けれども、その「よい」という言葉が、じっさいの目に見える行為と切り離されて使われるようになってくるんだよ。すると、「よい」は、誠実さ、といった目に見えない内面的な性格をあわしたり、かたちだけの貴族の身分を指す言葉になったりしてくる。

 これはどういうことを意味しているか? 貴族が行動しなくなったからなんだよ。身分が世襲になって固定化し、あの、生きるか死ぬか、支配者か被支配者か、主人か奴隷か、といった緊張がなくなったんだ。そうなると、「よい」はもうかたちだけの身分をあらわす言葉になってしまう。でも思い出してほしいんだ。そもそも、「よい」は戦士の自己肯定感だったことを。

 いまだって同じだよ。まずはさ、じっさいに行為してみなくちゃ。目に見えることを示さなくちゃね。そうしたものがまず前提としてなければ、そもそも自己肯定感なんてありえないはずだよ。それに、そういう現実のものを示さなければ、いくら偉い地位にいたってだめだよ。自己肯定感というのは、いったん獲得したら「ハイ終わり」、「双六は上がった」っていうわけじゃないんだ。「もう偉くなったんだから」って安心するとじっさいに手を動かすことを忘れてしまうんだよ。たえず、苦しいけれども努力して、競いあいのなかで現実的な行為をつづけていかなくちゃならないんだ。

6

 さっき見たように、「よい」が、じっさいの行動から離れて、内面的な性格をあらわすようになると、だんだん変なことが起こってくるんだ。

 でも、そもそもさ、自分の内面は優れてます、っていったって、その内面の優位をどうやって他の人にしめすんだよ。内面なんて他の人の目に見えないよ。ところが、僧侶たちはその方法を考えたんだ。それは、現実の行為を普通よりたくさん禁止することなんだよ。これだけ厳しい禁止を守ってます。だから、すごい内面、すごい精神力をもっているんですよ、と。そういう見せ方をするんだ。

 具体的にいうとさ、僧侶たちはもともとあった「清浄と不浄」という対立に目をつけるんだ。清浄は不浄なものに触れないというということ、禁止を守ってある特定の行動をしないことだよね。僧侶たちこの清浄と不浄の対立を過激にするんだ。

 なんで過激にしなくちゃならないか? 禁止を守ることだけなら、ふつうの人だってやっているからなんだ。清浄と不浄ということがあるだけでは身分の区別にはならないんだ。だから、僧侶たちは、自己肯定感を得るために、自分とふつうの人を区別するために、どんどん自分たちで禁止を増やすんだよ。基本的に、僧侶たちの生活って禁止条項がいっぱいだよね。あれも不浄、これも不浄、これも触れてはダメ、あれも触れてはダメ、これもダメ、あれもダメ。

 こんなふうに、わざわざたくさん禁止をもうけて、それを守って、「わたしはふつうの人よりも多くの不浄なものに触っていません、だから、すごく清浄な「よい」人間なんです」ってやってるんだ。「わたしはふつうの人よりも多くの禁止を守っています、だから、すごい精神力をもってる「よい」人間なんです。内面が人よりすごいんです」ってやるんだ。

 けれど、ほんとのこと言うとさ、禁止を過度に多くもうけるってことは、それだけいろんな行為を「〜してはならない」と禁止するわけだから、自分をすごく苦しめることなんだ。禁止が厳しいから、それでもって欲望が世界に向かって自然に発揮されないから、とても苦しいことなんだよ。だから、僧侶たちは病気になるんだ。

 もちろん、この病気はそれなりに意味をもっているよ。だってそれは、自分のなかにはどんなに禁止してもわき上がってくるような欲望っていうものがある、ってことの自覚でもあるからね。だから、オレだったら、こういう病気には、そんな神経質なまでに細かい禁止なんて破ってしまって、現実に行動して、欲望を世界に発揮することが大切な治療法だと思うんだ。

 けれど、僧侶たちは、必要以上にたくさんの禁止を守ることでもって自己肯定感を得ようとこだわってるから、まったく逆のことをやらかすんだ。彼らはこう考えるんだ。なぜ苦しいのか? それは、禁止のせいではなく、むしろ欲望のせいだ。欲望は、なかなかコントロールできず、禁止にしたがわないから苦しみがある。欲望は「悪い」。だから、むしろ、そういうやっかいな欲望をなんとかして完全になくしてしまわなければならない。そんな危険な考え方をするんだよ。

 そこで、僧侶たちは、禁止よりもっと危険なことをやらかすんだ。それが禁欲なんだよ。禁止の多い生活でもって欲望を抑えることから、禁欲的な修行でもって欲望そのものを否定すること、無にしてしまうことに進むんだ。

 欲望そのものを完全に否定しようとするんだよ。こんなの自己否定だよ。無理だよ。だれにもできないよ。でも、そういう自己否定を無理にでもやって、逆に、自分の優越感を得ようとするのが僧侶たちなんだ。「わたしはあらゆる欲望を否定した、だから、だれにも到達できないくらい「よい」人間なんです」ってね。

 ほんとはさ、こういう「エゴを殺してエゴを得る」みたいなやり方、これこそエゴそのものだよね。だから、僧侶たちだって欲望を完全に否定できてないんだ。だったら、欲望をすなおに認めればいいんだ。オレが描いてきた戦士たちがそうだったように、ちゃんと現実の世界に出て行って行為することで優越感を得ようとすればいいんだよ。僧侶たちのようなやり方はほんとねじくれてるよ。ものすごく危険なものがあるよ。
 いまでもよく、人間は動物とちがって欲望を否定できる、それが人間の優位だ、みたいな考え方があるけど、それはこの僧侶たちの影響だよ。欲望は「悪い」。だから、それは否定しなきゃならない。否定するから偉い。そういう僧侶たちの考え方は、いまでもなんらかのかたちで生きてるんだよ。

 もちろん、いまははげしい禁欲的な修行なんかしている人は少ないと思うよ。けれど、人間の欲望そのものが「悪い」という感覚をもつ人はやっぱりいると思うんだ。それはけっきょく、自分自身の生を呪うことにしかならないんだけど、でも、こうした自己否定的な価値が生まれたのにはそれなりの理由があるんだ。それはつぎの節からゆっくり説明していくよ。

7

 僧侶たちってさ、禁止に従順な生活を送ったり、禁欲生活を送ったりして、積極的な行動をしないことで自己肯定しようとする人びとだよね。だから、それだけで戦士たちの貴族的価値評価に対立するところがあるんだ。けれども、共同体が強力であるときには、僧侶たちの仕える神は民族に勝利をもたらす神なんだから、ってことで、僧侶たちは人びとにけっこう大切にされるんだ。

 けれども、民族がぜんぜん勝てなくなったらどうかな? 自分たちをぜんぜん勝たせてくれない神さまなんてみんな拝みたくなくなると思うよ。だから、そんな神さまに仕えている僧侶たちの立場も危うくなる。そういうことが古代のユダヤ社会でも起こったと思うんだ。

 ユダヤ民族は、大むかしはダビデやソロモンという王様がいて、けっこう強い時期もあったんだけど、そのあとは、もう何百年もずっとまわりの強国に脅かされたり支配されていたんだ。民族として負け組になってしまっていたんだよ。

 もちろん、ユダヤ民族にも戦士たちはいたんだよ。また強くなろう、独立しよう、と強国に戦いを挑もうとしたんだ。だからさ、そういう勇敢な者から見たら、「僧侶たちってなんなんだ!」ということになる。僧侶たちの仕える神さまは勝たせてくれないし、僧侶たちそのものがぜんぜん行動を起こさない役立たずだし、もう共同体の敵に見えてくる。だから、戦士たちは僧侶たちを非難するんだ。

 いろいろ非難されて、僧侶のほうは僧侶のほうで戦士を憎む。けれども、なにしろ僧侶たちは無力だから、直接戦士たちに反撃できないんだ。そこでさ、心のなかだけで、「強いあいつら戦士たちは悪い、弱い自分たち僧侶たちこそ善い」っていう価値をつくって復讐をやらかすんだよ。こういうのもなんだけど、まあ、腕っ節の弱い、いじめられっ子のやる復讐なんだ。「いじめるあいつらは悪い、いじめられる自分こそ善い」ってね。

 これってさ、ユダヤ教の基礎の感情になってるんだよ。

 たとえばさ、神さまはユダヤ民族だけの神ではない、他の民族にも勝利をもたらし、ユダヤ民族に苦しみをもたらす神なんだ、という一神教の考え方なんて、じつは、自分の仕える神が勝利をもたらさない弱い神であることをそのまま肯定しちゃってるよ。

 それに、ユダヤ民族が苦しめられる理由は神による罰なんだから、神の与えたさまざま決まりを守って慎ましく生きなさい、なんて考え方もそう。現実にはたらきかけてなんとか状況を変えようとしないで、ずっと弱いままの、禁止を守ったり禁欲することしかできない自分を、理屈をつけて肯定しているだけなんだよ。「弱くてつつましい自分こそ善い」ってね。

 こうしたことは、貴族的価値評価とはまったく反対だよ。戦士にとってはさ、大切なのは勝利なんだ。敗北や支配されることには意味はないよ。だから、勝利の神を信じ、戦いとなれば禁止も破るんだ。
ところがさ、僧侶的価値評価ときたら、戦士たちの勝利の神は自分たちの神より程度の低い神としたり、敗北や被支配を忍従することに意味を与えたり、決まりを守ることを重視するんだ。ほんと、貴族的価値評価から見ればまったく意味のないものを肯定してるんだよ。あくまでも、戦士たちの価値を無価値なものとしてひっくり返して、「強いあいつら戦士たちは悪い、弱い自分たち僧侶たちこそ善い」ってやるんだ。

 もちろんさ、こういうことを心のなかだけでやってるわけだから、それだけでは僧侶は戦士には勝てないよ。けれどもさ、勝っちゃったんだよ。僧侶たちのほうがさ。現実に戦士に対する復讐をなしとげちゃったわけ。ユダヤ社会は僧侶を頂点とした宗教共同体になった。

 つまり、ユダヤの人びとの多くが、僧侶たちの価値評価、ユダヤ教を受け入れちゃったわけだよ。それはさ、こういうのもなんだけど、もうユダヤの人びとの多くが、みんないじめられっ子みたいになってたからなんだ。

 だってさ、もう何百年もなんだよ。まわりの強い国にいじめられつづけ、独立しようと反乱しても逆にめちゃくちゃにやられ返されつづけてきたんだ。だからさ、気力を失っちゃって、多くの人が、戦士として戦うことではなく、自分たちの無力さに意味を求めるほうに傾いたんだ。これは仕方ないよ。そこにうまく僧侶たちの価値転換が入りこんだんだ。

 自分たちの不幸を神に与えられた試練とすること、律法を守って慎ましく生きることが救済に通じること、こう考えることで、人びとはなんとか無力な自分の生きている意味を見つけ、自分を肯定しようとしたんだ。こうして、ユダヤ民族の全体が僧侶みたいになった。「僧侶的民族」になったわけだよ。

 そしたらさ、また同じ復讐の構造が民族単位で起こるわけ。「強いあいつら支配民族は悪い、弱い自分たちユダヤ民族こそ善い」ってね。無力な人びとはさ、実力でもって復讐することができなかったので、心のなかでだけ、自分を肯定し、敵を呪うわけ。

 同じなんだよ。また、いじめられっ子のやる復讐なんだ。「いじめるあいつらは悪い、いじめられる自分こそ善い」ってね。

 こういう気持ちって、やっぱりユダヤ教がよく表現しているよ。強い支配民族に神の鉄鎚が下る呪いの予言や、慎ましく生きる者の祝福っていうのは、旧約聖書によく出てくるんだよ。でさ、ちょっとトーンはやわらかくなるけど、新約聖書もさ、たとえば、『ルカ福音書』に出てくる「さいわいなのは貧しい人々、わざわいなのは富んでいる人びと」といった言葉もそれを引き継いでると思うんだ。

 だから、オレに言わせれば、ユダヤ教もキリスト教もそんなに変りないんだ。いちばん根っこには、あの僧侶たちの価値評価、いじめられっ子の復讐心みたいなものがある。

 たださ、ここは注意してほしいところだけれど、そもそも、こういう価値転換と復讐の物語が僧侶たちによってつくられた、ということなんだ。オレのスローガンは、「ユダヤ人と共に道徳における奴隷一揆がはじまった」だけれど、その一揆を指導しておいしい汁を吸うのは、いつでも僧侶みたいなやからだっていうことなんだ。ユダヤの僧侶たちは、ユダヤの人びとの報われなさをうまく宗教の物語で吸い上げて、そのことによって権力を得た。キリスト教の教会権力だってそうなんだ。そういう権力の問題は、『反キリスト者』って本でかなり問題にしているから、そっちを見てほしいな。

 それはさておき、話を元に戻すと、ユダヤ民族の「いじめるあいつらは悪い、いじめられる自分こそ善い」っていう価値転換による復讐は、まだ心のなかだけの試みなんだ。でも、ユダヤ共同体で起こったのと同じで、それがまた勝利するときがくる。この勝利はキリスト教がローマ帝国で受け入れられることで実現されるんだ。

 もちろん、ふたつの宗教のかたちはちがうよ。けれども、あの僧侶的価値評価、いじめられっ子の戦いはずっと引き継がれてるんだ。この勝利には、人類の救済のために十字架にかかった神の子、イエス、という道具立てが重要になってくるんだよ。この道具立てでもって、僧侶的価値評価の世界大の勝利が完成するんだ。その勝利が、じつは、いまのオレたちにも深く食い込んでいるあの道徳の価値の起源になっている。僧侶的価値評価は、ユダヤ、ローマ帝国、そして現代の世界までも支配することになるんだ。その流れはつぎからまた見ていくよ。

8

 それでさ、じゃあ、十字架にかかったイエスの意味ってなんなのか? ということになるんだけど、これがよくできた話なんだよ。

 キリスト教のキーワードは「愛」だよね。だから、これまで見てきたユダヤ的な憎悪や復讐心みたいなドロドロした感情とはまったく関係ない宗教だと思えるかもしれない。けれど、ぜんぜん違うんだよ。この愛こそ、あのユダヤの僧侶たち以来ずっとつづいてきた、いじめられっ子の闘いを勝利に導くものなんだ。

 でさ、愛の宗教キリスト教のいちばん核になるのは、神の人間に対する愛なんだ。そして、この愛が十字架にかけられたイエスでもって示されたって話になっているんだよ。

 そこでまず、あらかじめ言っておくけど、神の子って意味じゃないナザレのイエスっていう人本人は、自分の罪のために、政治犯みたいな人物として死んだと思うんだ。この人は、たぶん、当時のユダヤ社会の支配階級である僧侶たちの傲慢を告発したり、生きていくために不浄なこともしなくちゃならなくて律法を守れない人びとに対しても救いがあることを主張しただけなんだと思うんだよ。まあ革命家だね。

 そうなると、僧侶階級は面白くないよ。だから、イエスは、僧侶たちに訴えられて、当時ユダヤ社会を支配していたローマによって、反逆者として十字架刑にされたんだ。ローマだって、イエスのやってたことは既存の秩序への挑戦に見えて、面白くなかったんだと思うよ。

 十字架っていうと、いまでは聖なる象徴なんだけど、当時はローマに刃向う者に対する極刑なんだよ。ぜんぜんありがたいものじゃなくて、むしろ、おぞましいものなんだ。

 じゃあ、どうして十字架が聖なる意味をもつようになったか? それは、イエスの死後に、キリスト教の立役者、パウロがつくりだした理屈に理由があるんだよ。それが、「神がイエスをこの世に遣わし、イエスの血でもって、人類の罪をあがなってくれた」って理屈なんだ。これが神の愛だっていうんだよ。

 パウロのこの理屈はほんとよくできてるんだよ。これが。

 まず、ここで注意しておかなくちゃならないけど、キリスト教の神はユダヤ教の神と同じだという点だよ。パウロはさ、もともとユダヤ教徒だったんだ。そのあとキリスト教に鞍替えしたんだよ。でも、信じている神はずっと同じなんだ。だから、裏読みをすればさ、パウロは、自分の信じる神への信仰を広めるためにイエスという人物の死を利用したんだ。ユダヤ教のなかにあった憎悪と復讐心、その根っこにある僧侶的価値評価を、十字架にかけられたイエスという道具でもって世界大に広げたんだよ。これがキリスト教の愛なんだ。この愛とは、つぎのような意味をもっているんだよ。

 まず、旧約聖書の世界で神は厳しいんだよ。神との約束、律法を守らなかったりすると、人間は神によっていろいろ罰を受けるんだよ。アダムとイヴがエデンの園を追放されたのも、神との約束違反なんだ。それ以来、人間はずっといろいろなかたちで罪を犯して神に罰を受けてきた。

 もちろん、こういう物語がユダヤ民族に他の民族から支配され苦しめられる理由を与えてきたんだよ。苦しいのは神から与えられた試練だってね。だからこそ、もうこれ以上神に罰されないように、律法を守って生きることが重要になるんだ。ちゃんと神との約束を守っていれば、いつかは神に赦されて救われるときがくるってね。

 それで、パウロはこの物語にオチをつけたんだ。「いままでの罪はみんなイエスが引き受けてそれをあがなってくれた。神がイエスをこの世に遣わしたんだから、あの厳しい神が赦してくれたんだ」ってね。これが神の愛なんだ。まあ、言ってみれば、アダムによってこの世に入ってきた罪はイエスによってチャラにされたんだ。

 人間は神によってもう赦されたんだから、信仰には律法が絶対条件ではなくなるよね。ここがパウロのねらいだったと思うんだ。

 だってさ、律法には割礼もあるし、異教徒と一緒に食事をしてはならない、ってのもある。パウロはこういうのはじゃまだと思ったんだよ。「これでは神への信仰はなかなか広まらない」ってね。そこで、イエスには人類の罪を背負って十字架にかかってもらったわけだよ。

 こうして、パウロの信じる神、それはパウロがユダヤ教徒のときでもキリスト教徒のときでも変わらないんだけど、その神への信仰を世界全体に広げることができたんだ。

 じゃあ、その神への信仰とはなにか?っていうことになるんだけど、これが、「強い者は悪い、弱い者こそ神さまは救ってくださる」という価値評価なんだ。

 うまくできてるんだよ。

 パウロは、十字架にかかったイエスについての理屈をつくりだすことで、それまでのユダヤ教の「強い支配者たちは悪い、弱いユダヤ民族こそ神によって救われる」という価値評価を、「強い支配者たちは悪い、弱い者であればだれもみな神によって救われる」と、より汎用性の高いものにしたんだ。律法は信仰の絶対的な条件ではなくなったんだから、神によって救われるのはユダヤ人だけじゃないんだ。「弱い者みんな」なんだよ。

 もうわかったと思うけど、かたちを変えてずっとつづいているんだよ。あのいじめられっ子の闘いみたいなのがさ。

 さいしょ、ユダヤの僧侶たちは戦士たちにいじめられて、「いじめるあいつらは悪い、いじめられる自分たちこそ善い」って強い者に対する憎悪から発する価値評価をつくりだした。そうしたら、その価値評価はユダヤの人びとの報われない思いを吸い上げて、僧侶たちはユダヤ人社会を支配できるようになったんだ。復讐はここで一回なしとげられたんだよ。

 そこでつぎに、「いじめるあいつら支配民族は悪い、いじめられる自分たちユダヤ民族こそ善い」っていう、これまた強い者に対する憎悪をもとにした価値評価が生まれたんだ。でも、ユダヤ教そのもののかたちでは、この価値評価はローマ帝国全体にはなかなか広まらなかったんだよ。律法という制限があるからね。パウロはこれに気づき、神の愛、十字架にかけられたイエスという理屈を道具に使って、この制限をはずしたんだ。

 こうして、「いじめる者はみな悪い、いじめられる弱い者はみな善い」というまたもや強い者に対する憎悪からの価値評価が生まれたんだ。しかも、どんな人間でも食いつけるような開かれたかたちになったんだよ。キリスト教の神の愛ってさ、どんなにかけ離れたものに見えても、ユダヤの僧侶からはじまってユダヤ民族に受け継がれた、あの憎悪と復讐心の世界全体への広がりを可能にする試みなんだ。

 だから、キリスト教の十字架にかけられたイエスっていう存在は、ユダヤの敵じゃないんだ。ほんとうはユダヤの手下だというべきなんだよ。

 「強い者は悪い、弱い者こそ善い」という価値評価は、キリスト教というかたちで、ローマ帝国内の報われない人びとみんなの思いを吸い上げることができるようになった。だいたいさ、ローマ帝国なんて、皇帝の絶対的権力があって、あとは貴族階級もいるけど、圧倒的多数は抑圧され、支配された人びとばかりだったんだ。だから、この価値評価の広がりはもう止められない。皇帝もキリスト教を公認せざるをえず、あげくの果てにはキリスト教はローマ帝国の国教にまでなったんだ。

 それで、人びとの報われない思いをうまく組織して、うまい汁を吸ったのは誰かといえば、またもや僧侶たち、キリスト教教会なんだ。そこから、皇帝や王様といった世俗の権力さえその前に跪かなければならない絶対的権力、ローマ教皇なんてのも出てくる。

 だから、ついに勝ったんだよ。あのユダヤのいじめられた僧侶たちがさ。キリスト教というかたちをとって、僧侶的価値評価は最終的に勝利したんだ。復讐はとうとう世界大でなしとげられたんだよ。

 パウロの神の愛、十字架にかけられたイエスの理屈はすごいよ。けっしていい意味じゃないよ。もうほとんど黒魔術だね。だってさ、この理屈は、たんに僧侶的価値評価を世界全体に広めただけじゃないんだ。恐ろしいくらい残酷なものなんだよ。

 なにしろ、神が自分の大切な子の血でもって人類の罪をあがなってくれたわけだよね。これって、人間のほうから見たら、たいへんな負い目、返すことのできないくらいの負債を神に負ってるってことだよ。神に無限の負い目を負っていること。これこそ、人間が自分の存在を悪いものだと思うこと、自己否定や自虐の最たるものだよ。それに、教会はこの負い目の感情をうまく刺激して、人びとをコントロールするんだ。人間にとってこんなに残酷なことはないよ。でも、この問題については、しばらくあと、第二論文でまた詳しく論じることにするよ。

9

 でさ、ここまで話すとさ、民主主義、民主主義、って言ってる進歩的な知識人みたいな連中、自由精神ってやつは、こういうんだろうさ。

 「ちがいます、勝利したのは教会じゃないんです、民衆なんです!」ってね。

 そうだよ。そのとおりなんだよ。でも、だから問題なんだよ。

 だってさ、その民衆の勝利ってなにかよく考えてみなよ。オレの言い方では、「血が混じる」って過激な言い方になるんだけど、いまじゃさ、みんな平等ってことになったんだよ。主人も奴隷もないってことになってるんだ。これが民主主義だ、民衆の勝利だ、ってわけなんだ。けれど、この平等ってさ、ようするに、「力のある抜きんでた人間はよくない!」って価値なんだよ。だから同じなんだよ。毒が蔓延しちゃったんだ。あのユダヤの祭司連中から出てきて、それから、キリスト教の教会に受け継がれた「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」っていう価値評価がさ、すべての人に、民主主義っていう最終的なかたちをとって、いま広まってるんだよ。

 この価値評価、平等っていうのはさ、ユダヤ教の段階からあったんだけど、キリスト教がさ、それを広めたんだ。「神の前ではみな平等」ってやつをね。それで、宗教改革はこれを忠実に実行したよ。ローマの教会権力はおかしいってね。それでさ、つぎに、王権もおかしいってことになって、市民革命だよ。ほんとはみんな平等じゃないんですか、特別な権力をもった立場っておかしいんじゃないですか、ってわけなんだ。だからさ、「神の前ではみな平等」って思想が、ずっと、いまの民主主義、民衆の勝利までを生きつづけてるんだ。

 もちろんさ、自由精神は進歩的な顔をしたいだろうから、教会には批判的だよ。教会も近代化しなくちゃいかん、とか、旧体制の遺物だ、とか、教会の歴史的な役割は終わった、とか言うと思うんだ。でもさ、オレはわかってるよ。教会は嫌いでも、連中はやっぱりあの僧侶的価値評価、平等ってやつじたいは大好きなんだよ。だってさ、さっきも言ったように、自由精神が大事にしているあの民主主義じたいが、あの「神の前ではみな平等」って価値評価をもとにしてるからね。

 だから、自由精神は、教会は否定しても、教会のもっている価値評価は否定しないんだ。でも、この価値評価こそ問題なんだよ。僧侶的価値評価、奴隷道徳というものがいかに問題か、これから突っ込んで見ていくよ。

10

 僧侶的価値評価、奴隷道徳っていうのは、恨みや妬みや反感、これは「ルサンチマン」っていうんだけど、そこから出てるんだ。でさ、ルサンチマンを抱いたら、すぐにわっと発散してしまえばいいと思うかもしれないけれど、ここで問題にする「ルサンチマンの人間」っていうのはなかなかそうもいかないんだ。このルサンチマンの人間っていうのは、いままで言ってきた「弱い者」のことだよ。こういう人たちは、ルサンチマンをため込んでしまうんだ。

 たとえば、ユダヤの祭司階級、ユダヤ民族、ローマ帝国に支配されている人びと、苦しい人びと、報われない人びと、貧しい人びと、それに、いまの時代でもなかなか自分に肯定感のない人、自分をみじめだと思っている人びと、いろいろ例をあげたらきりがないと思うんだけど、こういう弱い者、弱っている状態の人間のことを考えてみようよ。というか、うまくいっていないときの自分のことも考えてみようよ。

 こんな状態のとき、強い者、支配者、自己肯定感がある人、うまくいっている人のことが羨ましく思えるんじゃないかな。そう思って、自分も強い者になろうって、一念発起してがんばることもあると思うよ。でもさ、それが難しいことだってあるよ。たとえば、古代社会だったら、奴隷が主人になるなんてほとんど無理だよ。強大なローマ帝国にユダヤ民族はどう反抗したらいいんだよ。いまだって、うまくいかない経験ばかりが重なったら、他者や世界に働きかけて自分を肯定しようなんて考えることは難しいと思うよ。

 そうなると、ルサンチマンが自分のなかにどんどん溜まってくる。自分はそうなりたくてもなれないと思えば思うほど、強い者、支配者、自己肯定感がある人への気持ちは、羨ましさどころではなく、憎しみ、恨み、妬み、反感になってくるんだ。するとどういうことが起こるか?

 想像力がたくましくなるんだよ。強い者、支配者、自己肯定感がある人、うまくいっている人をまるっきり悪い存在、悪い敵、悪人としてつくりあげてしまうんだ。それでもって、「強い者は悪い!」とやるんだ。これは心のなかでやるんだよ。だから、想像上の復讐なんだ。心のなかで、強い者を攻撃することでルサンチマンを晴らして、この感情の埋め合わせをするんだ。

 だから、ルサンチマンの人間は、まず、自分が敵とみなす他者に「否定」を言うこと、「おまえは悪い!」、「あいつらはなんだ!」と言うことからはじめるんだ。

 でも、貴族的人間はこれとは逆だよ。貴族的人間っていうのはいままで言ってきた「強い者」のこと、自己肯定的な人間のことだよ。で、この貴族的人間は、まず、自分自身の存在に対して「然り」と言えるかどうかを問題にするんだ。「強い自分はよい」と言えること。この自己肯定のために、自分が敵とみなす他者が必要とされるんだ。敵と言うと、なんだか悪い存在のように思われるから、むしろ、ライバルと言ったほうがいいかもしれないね。現実に世界にはたらきかけて、行為して、強力なライバルと競って勝つことができれば、自分のよろこびも大きい。自己肯定感も大きくなるんだ。だから、貴族的人間は、自分のライバルに対して感謝することもできるんだよ。

 どんな時代でも、どんな人間でも、貴族的人間のように力強い生き方ができると思うんだ。けれども、いろいろな条件があって、人間はルサンチマンの人間にならざるをえない。古代社会なんてとくにそうだよ。でもさ、やっぱり、ルサンチマンの人間は批判しなくちゃならないんだ。そこには、なにか毒々しい不健康なものがあるんだ。

 たとえば、貴族的価値評価は「強い自分はよい、弱い者は自分より劣っている」というものだったよね。そこから、貴族的人間は、弱い者、平民や下層民を軽蔑することはあるんだ。けれども、貴族的人間には基本的に自己肯定感があるから、弱い者に対しては憐憫や思いやりといった好意的な気持ちがあるんだ。まあ、充実した人間は自分より劣っていると思われる人間に対して、余裕をもって接するんだよ。自分に余裕があるからこそ他者を思いやることができる。そんな感じかな。

 でも、ルサンチマンの人間にはそんな余裕なんてないんだ。自分を肯定できないからこそ、だと思うんだけれど、自分を肯定できているような者、強い者、支配者、うまくいっている者については、毒々しいまなざしを向けるんだ。ここで敵とみなされる者なんて、もう邪悪な存在それ自体になってるんだよ。

 ここで想像力がはたらくんだ。支配されている者にとっては、支配者なんてもう血も涙もない怪物みたいな存在に仕立て上げられるんだ。いまだってそうなんだよ。ルサンチマンの人間の不健康な想像力によって、勉強のできる子が「先生におべっかをつかっている性格の悪い子」にされたり、モテるヤツが「軟派」、モテる子が「アバズレ」にされたりする。

 それでさ、こうやって、自分の憎む相手を怪物にしたうえで、その怪物に比べればおとなしい自分は幸せだ、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」とやるんだ。「性格の悪い子より自分のほうがいい子」とか「軟派に比べて自分は硬派」とか「アバズレに比べて自分は清純」とかもそうだよ。

 でもさ、こういうやり方ってすごく自分勝手だよ。だってさ、みんな自分の想像で勝手に作り上げてるんだよ。相手を怪物にするのも、自分を幸せだとするのも、ぜんぜん根拠がないよ。自分の心のなかではそうなのかもしれないけれど、だれがどうやって確かめればいいのかな? 勝手な他者の歪曲と勝手な自己正当化だよ。

 貴族的人間はこんなことしないよ。自分できちんと他者や世界にかかわっていく能動的な人間なんだ。つまりさ、幸せというものは、ルサンチマンの人間のように心のなかでとりつくろうんじゃなくて、現実の他者や世界にかかわって行動することで得られると考えるんだ。苦しくてもライバルと競い合ったり、なかなか動かない人間関係や社会に向かってそれでもはたらきかけるとき、そうした行為を通じて、勝利したり、なんとか自分の力で動かせたと感じたときに、自己肯定やよろこびってものがあるんじゃないかな。

 でも、ルサンチマンの人間はそういう行動をしないんだ。受動的な人間なんだよ。幸せというものを、行動しないで得ようとするんだ。現実の他者や世界とかかわろうとしないんだよ。なるべく自分の外側にわずらわされずに、自分のなかだけで、他者を怪物に練り上げて、自分をすてきな存在にする。こうやって幸せをとりつくろうんだ。

 こうしたい気持ちはわかるよ。だって、現実の他者や世界にかかわるのは苦しいことだもん。でもさ、これって、ルサンチマンを大事に育てているようなもんなんだよ。想像上でのルサンチマンの埋め合わせって、ようするに、現実ではルサンチマンは解消されていないってことだよね。だからさ、ルサンチマンの人間は、憎しみや恨みや妬み、反感をずっと持ちつづけることになるんだ。こうして、心のなかにルサンチマンを隠し持って、復讐の機会を待ちながらも、それでいて、自分が敵とする者の前では自分を卑下するような、そんな抜け目ない人間が生まれるんだ。裏表のある人間になるんだよ。

 でも、これって、ルサンチマンの人間だって貴族的人間のように自分を肯定したいということなんじゃないかな。だって、いつの日か復讐してやる、というねじくれたかたちでも、やっぱり、ルサンチマンの人間も他者や世界にかかわりたいと思っているわけだから。だから、心のなかで、強い者を怪物にしたり、自分を正当化するのは自分に正直じゃないってことなんじゃないかな。

 貴族的人間は、自分に正直だよ。自分のより強く大きくなろうとする本能、これって力への意志っていうんだけど、それに忠実なんだ。苦しいけれど、他者や世界に立ち向かって、すぐに行為していくんだ。こうした人間は率直さや素朴さをもっているから、もし他者に対してルサンチマンをもったとしても、わっと現実の行為でもって発散するんだ。ルサンチマンの人間のように、憎しみや恨みや妬み、反感の感情をずっと持ちつづけるようなことにはならないんだよ。

 それにむしろ、貴族的人間は、より強く大きい自分となるために、自分と同等あるいはそれ以上の優れた敵、尊敬できる敵を求めさえするんだ。強力なライバルと争うことは苦しいよ。でも、貴族的人間はわかってるんだ。自己肯定や幸せ、よろこびというのは、苦しいものを乗り越えなければ得られない、ってことをね。

 それでさ、まとめとして言えば、ルサンチマンの人間の問題というのは、つぎのことをやる点にあるんだ。まず、「悪い敵」、「悪人」をねつ造して、つぎに、そういう怪物とは反対の「善人」を考え出して、さいごに、その善人こそ自分です、ってね。ここに、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」という価値評価の問題があるんだよ。この問題をつぎから細かく見ていくよ。

11

 まずはさ、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」っていうのの、「強い者は悪い」から見ていこうよ。ここで、ルサンチマンの人間が「悪い」と呼んでいる者が誰なのかあらためて考えてみようよ。それって、貴族的人間、高貴な者、強力な者、支配者のことなんだよ。これって、かなり問題だよ。だってさ、貴族的人間は自分のことを「よい」と肯定する人間なんだよ。その肯定的な人間を、ルサンチマンの人間は「悪い」とするんだ。つまり、「よい」者たちは「悪い」者へと意味を変えられてしまうんだ。なんでこんなことが起こるんだろう? つまり、ルサンチマンの人間の「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」という価値評価の「強い者は悪い」っていうのは、どういう理由で起こるんだろう?

 その理由は、被害者の意識というところにあるんだ。

 ここで、ちょっと歴史的な話をしてみるよ。征服民族、貴族的種族っていうのは、共同体内部でのことを考えたら、平和に暮らしてるんだよ。お互いの力のバランスがうまく保たれている。けれども、侵略を行ったりするとき、戦争の場合には、それまで共同体に閉じ込められた種族の力がわっと解き放たれるんだ。彼らはもう野獣のようにふるまうんだよ。でも、貴族的種族自身の視点から見れば、彼らはこのふるまいを誇るはずだよ。だって、この侵略こそ自分たちの存在を拡大し、自分に「よい」という自己肯定感を与えるものだからね。

 でも、侵略されたほうはたまったもんじゃないよ。野獣に蹂躙された被害者の目には、貴族的種族は「野蛮人」、「悪い敵」といった悪い存在にしか映らないよ。この被害者の視点が、「よい」者を「悪い」者に変えてしまうんだよ。

 起こったことは同じなんだ。侵略者の暴力があったんだよ。でも、視点がちがうんだ。貴族的人間はこれを英雄的な「よい」ふるまいだと誇り、被害者であるルサンチマンの人間はこれを冷酷で残忍な「悪い」ふるまいだと忌み嫌うんだ。

 いまはルサンチマンの人間の視点のほうが優勢で、あの貴族的種族のもっていた野獣のような恐ろしい本性を人間からなんとか取り除こう、人間を家畜に仕立て上げよう、とみんながんばっている。それが文化のやることだとも考えられているんだ。でも、それが有効なことなのかな。これって、人類を進歩させることではなくて、文化とは正反対の試みなんじゃないのかな。

 人間から恐ろしいものを取り除こうという方向よりも、人間を恐ろしいものにしたほうがいいんじゃないかな。だって、いま身のまわりを見てみると、恐ろしいものをもっている人間なんていなくなってしまったんだよ。そのかわり、おとなしくて、まあ、蛆虫のような人間がより高い人間のような顔をしている。これは問題じゃないかな。

 こういうのは過激な話かな。でもちゃんとした理由があるんだ。ちょっとまとめてみるよ。

 そもそも、貴族的種族の侵略ということは、どんなに野蛮なことに見えようと、より強くより大きくなろうとする力、力への意志のあらわれなんだ。だから、貴族的種族は自分の野獣のようなふるまいを「よい」と誇るんだよ。

 もちろん、そのふるまいに蹂躙された被害者の視点から見たら、このふるまいはたまったもんじゃないよ。自分は被害をこうむった、自分は傷つけられた、という意識からすれば、「よい」者は「悪い」者となるんだ。これは、「こんなわたしに誰がした? オマエがした!」という非難でもあるんだ。

 いまだって同じだよ。

 これほど過激な例ではないけれど、たとえば、自分よりすごく勉強や仕事のできる人が目の前にあらわれたとする。この相手をライバルとして肯定的にとらえて、競い合うなら問題はないと思うよ。むしろ、それだったら強い者、貴族的人間になれるよ。でも、この相手のことを、それまでの自分のプライドをひどく傷つける憎むべき相手だと考えたとしようよ。

 そのとき、ルサンチマンの人間として、被害者の意識が生まれていると思うんだ。もちろん、勉強や仕事のできる当人のほうは自分を「よい」と誇っていると思うよ。だいたい、こういうとき、相手はこっちの気持ちなんか考えてないんだ。それで当然なんだよ。でも、プライドを傷つけられた被害者であるこっちとしては、「とんでもない!」ということになるよね。勉強や仕事のできる相手は「悪い!」、「自分が苦しんでいるのはオマエのせいなんだ!」となるんだよ。

 だから、被害者の意識なんだよ。「強い者は悪い」と言わせてるのは。

 それで、この被害者としてのルサンチマンの人間は、もっと先に進もうとするんだ。

 侵略者の力は侵略される側にとって恐ろしいよね。支配者の力も支配される側にとって恐ろしい。それから、勉強や仕事のできる人の力はそれに脅かされる人にとって恐ろしい。ルサンチマンの人間は、そういう恐ろしい力をなしにしようと望むんだ。これも被害者の視点からだよ。自分に被害をおよぼそうとする力、自分を傷つけようとする力をなしにしようとするんだ。苦しみの原因を絶とうってわけなんだよ。

 けれども、恐ろしいからといって、そうした力をなしにしていいのかな。だって、それをなしにすることは、人間からより強く大きくなろうとする力を奪うことになるんだよ。そうなったら、人間は、争い競うことなく、みんな同じ顔をした、それこそ差異のない平等な存在になってしまうんじゃないかな。

 ルサンチマンの人間はこうした人間を理想にしていると思うよ。でも、そもそも、人間から増大しようとする力を奪うことは可能なのかな。被害者の意識は、この恐ろしい力が発揮されないことを望むけれど、それは、それこそ想像上の願望じゃないかな。だって、征服者に征服しないこと、支配者に支配力をふるわないことを望めるのかな。勉強や仕事のできる人にそれをがんばらないことを望めるのかな。みんな平等なんてありえるんだろうか。

 こうした問題はつぎからじっくり見ていくよ。

12

 ほんと、わるい空気だよ、いまの世のなか。「強い者は悪い、弱い者こそ善い」という価値評価が支配しちゃってるんだ。さっき見たけど、「強い者は悪い!」と言わせているのは、弱い者の強い者に対する被害者の意識だったよね。自分を傷つける恐ろしい強い者なんていなくなってほしいと思うし、みんな自分みたいに弱い者になってほしいと思うんだ。

 そんな弱い者の願望が実現しちゃったんだよ。いま、世のなかのどこを見まわしても強い者なんて見当たらないんだ。

 ほかのことならけっこういろいろ耐えられるんだけど、このわるい空気には、もう耐えられないよ。だからさ、こっちとしては、叫ぶしかないよ。「強い者をひと目みたい!」ってね。やっぱりさ、いくら恐ろしくても、強い者って大切なんだよ。自然な強くなろうとする欲望を発揮して、自分を肯定すること。それは人間の幸福だと思うんだ。

 いまはさ、もううんざりだよ。強く大きくなろうとする人物、抜きんでようとする人物があらわれないように、みんなで足を引っ張り合ってるんだ。人間はどんどん小さくなっているし、平均的になっている。みんなちょぼちょぼでいいってね。それこそ、「弱い者こそ善い」が一般的な価値になってしまったんだ。

 恐ろしい人間なんてもういないし、みんなどんどんルサンチマンの人間の言う意味で善くなっているんだよ。でも、これって、人間に対する愛や信頼をどんどん失っているってことじゃないかな。

 人間の強く大きくなろうとする力を否定するわけにはいかないんだ。その力は、競争や勝者と敗者を生むシビアなものだけれど、でも、同時に、この力なくしては人間の幸福やよろこびというものはないんだよ。だからさ、いまの状況は、人間を大切にしていないし、人間の可能性を信じてない。これは、人間に対する否定、ニヒリズムだと思うんだ。

 こんな状況でも、なんとか強い者にあらわれてほしい。それに、このルサンチマンの人間の価値評価が支配する時代に、たった一人でもそれにあらがって強く大きくなろうとする人間があらわれれば、そういう人間は、みんな一緒の塊としての人間ではなく、ほんとうの意味で個人だよ。その人間に、他の人もはげまされると思うんだ。強い者があらわれることは、人間に対するニヒリズムの時代から、人間を救いだすことになると思うんだ。

13

 でもさ、なんで、弱い者の「強い者は悪い、弱い者こそ善い」という価値評価が世のなかを支配するようになったんだろう。「わるい空気」がなんで広まったか。その理由は、キリスト教道徳(奴隷道徳)の成立にあるんだ。

 ここで少し考えてみようよ。たとえば、「強い者は悪い、弱い者こそ善い」。こういうルサンチマンの価値評価は、それだけでは、弱い者がそう思ったり、そう言っているだけで、実際に世のなかを支配することなんてできないんだ。仔羊が猛禽にさ、「猛禽は悪い」と怨んだり、「自分たち仔羊こそ善い」と考えたとしても、それがとくに猛禽の行為をやめさせる力なんてもってないのと同じなんだ。

 だから、ルサンチマンの価値評価が勝利するには、弱い者の気持ちのレベルだけじゃだめなんだ。この価値評価がちゃんとしたシステムとして、人びとのあり方に広く浸透しなくちゃならないんだ。それがキリスト教道徳なんだ。

 キリスト教道徳は、弱い者のつぎのような推論からはじまる。強い者はほんとうは弱さも選択できたのではないか、自分たち弱い者はほんとうは強さも選択できたのではないか、ってね。弱い者は現実を否定したいんだ。恐ろしい強い者がいて、苦しく惨めな弱い者である自分がいる。こういう現実は、「ほんとは存在しなかったんじゃないか」、「ひょっとして別のふうにもありえたんじゃないか」と推論をはじめるんだ。

 この推論には意味がないよ。だって、あるがままの現実には、恐ろしい強い者がいて、苦しく惨めな弱い者である自分がいるわけだからかね。でも、弱い者は現実を否定したい。そこで、「主体」というものが信じられるようになるんだ。この主体への信仰がキリスト教道徳の核をつくっているんだよ。

 主体というのは、弱い者によってねつ造された原因みたいなものなんだ。強さも弱さも自由に選択できる主体があって、現実はその主体の結果だとするんだ。この発明は大きいよ。ルサンチマンの人間の「強い者は悪い」、「弱い者こそ善い」という価値評価が、いかにもそのとおりだと思わせるような理屈をもってしまうんだ。

 まず、弱い者の「強い者は悪い」という非難の言葉はさ、「自分を苦しめる強い者は悪い」ってたんに反感を意味するものじゃなくなるんだ。主体の理屈が入ると、「強い者が強いのは、ほんとうは弱さも選ぶことができたのに、強い者の主体が弱い者を苦しめる強さという悪を選択したから悪いんだ」となるんだ。強い者は、悪を選択した悪人、罪のある罪人にされてしまうんだよ。

 じゃあ、弱い者の「弱い自分こそ善い」のほうはどうなるだろう。これまでこの言葉は、「強い者の反対物としての弱い者である自分は善い」といっているだけで、理屈としてはおぼつかないものだったんだ。でも、主体の理屈が入ることによって、弱い者はかなり立派な善人になるんだよ。「弱い自分が弱いのは、ほんとうは強さも選ぶことができたのに、あえて自分の主体でもって強さを選ぶことにあらがって、弱さを選択した」となるんだ。

 現実にはさ、弱い者はぜんぜんよいわけじゃないよ。強くなりたくても強くなれない、ただ弱いだけなんだ。弱い者の弱さは、がんばって獲得した能力ではなく、たんなるみじめな現状なんだ。それなのに、主体の理屈を入れることで、弱い者は、自分の弱さをまるで自分の力で獲得した功績や徳のように偽ることができるんだ。

 こうした主体の理屈は、だれでもやっていることかもしれないね。たとえばさ、こんな場合を考えてみたらどうだろう。

 自分がうまくいっていないとき、うまくいっている人間にむかつくことってあるよ。勉強なり仕事なりでうまくいっていたり、モテていたり、など、うまくいっている連中のことが頭にくる。一方で、うまくいっていないみじめな自分自身をなんとか立派な人間だと考えたい。でもさ、これはまだ感情レベルのことなんだ。そこに主体の理屈を差し込むと、けっこうしっかりした自分の感情の正当化が可能になるんだよ。

 まず、うまくいっている連中については、こんなふうに悪人に仕上げることができる。「ほんとうはつつましく生きることもできたのに、人を傷つける成功という悪を選んだんだ、だから、うまくいっている連中は罪深き悪人なんだ」ってね。こうやって、うまくいっている連中への「強い者は悪い」っていう自分の非難の感情を正当化することができるんだ。

 一方で、うまくいっていない自分については、こんなふうに善人に仕上げることができる。「ほんとうはうまくいくこともできたのに、人を傷つけないつつましくうまくいかないことのほうを選んだんだ、うまくいっていない自分は功績のある善人なんだ」ってね。こうやって、うまくいっていない自分に「弱い自分は善い」と言える立派な理屈をつけて、正当化することができるんだ。

 くり返しになるけど、じっさいには、いいことなんてちっともないんだよ。うまくいっていないことはよくないことなんだ。みじめなことなんだ。でも、うまくいかない経験が積み重なると、自分にうまくいく可能性があるなんて信じられない。それでも自分をなんとか肯定しようとして、主体の理屈にすがるんだ。弱い者やうまくいっていないときの自分っていうのは、みじめな自分をなんとか救いたいと思うから、主体の理屈があるんだ。

 主体の理屈があると、強い者を悪人にして、たんなる自分の弱さは、つつましさや謙虚といった美徳に変えることができるんだ。仕事できるやつを競争社会の鬼にして、仕事できない自分を清らかな人間にすることもできる。モテるやつを欲望の塊にして、モテない自分を欲望に打ち勝つ硬派のヒーローにすることもできる。弱い者は、自分をなんとか守りたいんだよ。

 それに、キリスト教っていうのは、あまりいい方向とはいえないけれど、すごくよくできていて、ちゃんと弱い者がいつか救われる物語になっている。主体っていうのは不滅でもあるんだ。これは、魂の不死のことだよ。だってさ、弱いことが功績や徳だったら、弱い者は、ずっと弱いまま、もっと言えば、どんどん弱くならなくちゃならないんだ。そうしたら、そんな人間は、この現実ではけっして報われないよ。ずっと不幸だよ。だから、魂の不死が信じられるんだ。

 魂を不死である、とすることで、弱さを選んだ善人(弱い者)の主体には来世の幸福(浄福)が待っている、とできるんだ。これだったら、いくら現実で弱くみじめでもその苦しみに耐えられるよね。それに、魂が不死なら、強さを選んだ悪人(強い者)の主体には最後の審判における罰が待っている、とすることもできるんだ。これだったら、強い者に対する積年の恨みも未来で晴らせることになるよね。

 主体の不滅を信じることで、あの世というゴールで、弱い者の幸せと復讐の両方を信じることができるんだ。こうして、「強い者は悪い」という憎悪も発散することができるし、「弱い自分こそ善い」という自己肯定も可能になる。ルサンチマンの価値評価は、キリスト教道徳として、きちんと完成されるんだよ。このありさまをつぎの14節で詳しく見てみるよ。

14

 まずはさ、主体への信仰が弱さを功績や徳とするんだから、キリスト教の理想は弱さを徳として積極的に追求することなんだ。

 ここでは、たんなる弱さでしかないものが徳に転換されるんだよ。たとえばさ、報復しないで無力でいることは「善良さ」だと言われたり、強い者に対して挑まずびくついていることは「謙虚さ」だとされたり、憎悪を抱く強い者に屈従することは「従順」と呼ばれたり、攻撃しないことは弱さや臆病であるはずなのに、それが「忍耐」になるんだ。

 有名な「汝の敵を愛せ」なんていうのもそうだよ。おかしなことなんだよ。これって、強い者に苦しめられることを、「自分の愛でもって敵を受け入れている」ってすることなんだよ。ほんとは弱い者はただ弱くて反撃できないだけなんだ。けれども、反撃できないことが、敵を受け入れる愛という徳になっている。

 それで、この考え方だと、いっそう敵から苦しめられることによっていっそう愛が増すんだから、さらなる暴力を受けることを求めることになるんだよ。まさに「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ」だよ。
ようするに、キリスト教道徳は、弱さを徳にして、どんどん弱くなることをめざすんだ。これはほとんど倒錯だよ。大変なことだよ。だってさ、これって進んで不幸になろうとする態度じゃない。

 でも、だからこそ、「貧しい者こそさいわいなり」があるんだ。キリスト教はよくできているんだよ。現世でがんばって弱さという徳を積むこと、これは普通に考えれば不幸な者となることだよ。だけど、キリスト教は、「そういう不幸な者には、神の国における幸福(浄福)が約束されている」とするんだ。だから、地上で幸福を享受している強い者よりも、未来の浄福を約束された弱い者のほうが、「より幸福」なんだよ。これを信じることで、弱さという徳を追求する者は、いくらこの世で不幸であっても大丈夫なんだ。

 けれども、それだけじゃないんだ。キリスト教には「最後の審判」もある。これは、地上で幸福を享受する強い者、弱い者に言わせれば、「強さを選んだ悪人」が罰をうける場面なんだ。このことを、キリスト教では「正義」とか「神の正義」と呼ぶんだよ。でも、この正義って、ふつうに考えれば、弱い者の強い者に対する報復だよね。

 ところが、キリスト教は、これを報復とは言わない。だって、キリスト教道徳っていうのは、弱さを徳とするんだよね。強くなろうとして自然な力を発散するような復讐はいけないんだ。だから、キリスト教は、「敵を憎まず、復讐せず、愛のうちに生きる」と言っていたりする。
けれども、そうやってつつましく生きる先にある、最後の審判という場面って、弱い者の強い者に対する報復そのものなんじゃないかな。その場面の意味は、弱い者がこれまで憎しみつづけてきた強い者に復讐し、勝利することなんじゃないかな。これって、弱い者が、あれだけ自分自身で否定してきた、強さを求めることなんじゃないかな。じつは、弱い者も強い者になりたいと願っているんじゃないかな。

 ほんとはさ、キリスト教は、ひとつのまぼろしみたいなものだったと思うんだ。じっさいにあるのはずっと「強い者はよい」、「弱い者はわるい(劣悪)」という、貴族的人間の価値評価だけなんだと思うんだ。やっぱり人間は自然な欲望を発揮したい。強い者になって自己肯定したいと思ってきたはずなんだよ。

 なかなかうまくいかない弱い者のルサンチマンをもとにしたキリスト教は、貴族的人間の価値評価を反転させて、「強い者は悪い」、「弱い者は善い」とする壮大な物語をつくった。けれども、そのキリスト教だって、あの世で自分の強くなりたい思いを実現しようとしている。この点をつぎの15節で詳しく見ていくよ。

15

 キリスト教道徳ってのはさ、現世ではどんなに苦しくても、「信仰、愛、希望」のうちに生きる、っていうけれど、なにを希望しているんだろう? それってどんな信仰だろうか? よく考えてみれば、キリスト教は愛の宗教なんて言えないんじゃないかな。

 まずはさ、キリスト教は弱さを追求しているように見えるけれど、じつは、最終的には強い者をやっつけて、いつかは勝利したいと思ってるんだ。最後の審判っていうのは、強い者への復讐の場面なんだ。だから、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」っていうのはほんとは欺瞞なんだよ。ほんとうにあるのはやっぱり「強い自分はよい」なんだ。キリスト教はそれを来世に延期しているだけなんだよ。

 来世で復讐を期待しているんだから、そこから、永遠の生命という考えが出てくるんだ。これは、弱い者だけじゃなくて、強い者にもなくちゃいけないよ。復讐の相手も来世にいなくてはいけないからね。

 けれども、ダンテもそう考えてたようだけど、みんながよく考えるように、善人(弱い者)は天国へ、悪人(強い者)は地獄へ、ってわけじゃないんだ。天国と地獄は別々にあるわけじゃないんだよ。キリスト教の天国っていうのは、トマス・アクィナスも言っているけれど、悪人が罰を受けて地獄の苦しみを味わっているのを、善人がそれを見てよろこぶ場面なんだ。善人も悪人も同じ場面にいなくちゃいけない。それが神の国なんだよ。だから、弱い者の浄福も強い者の最後の審判も神の国というひとつの場面で起こっているんだ。 

 テルトゥリアヌスはそれをものすごいスペクタクルで描いてるよ。コロッセウムのような場所で、異教の神やそれを信じる皇帝、ローマの地方総督や永遠の生命なんてないという哲学者たち、腕っ節の強い健康な肉体をもった戦車競走の馭者や槍投げ選手、そういった自分たち弱い者を苦しめる連中、現実の世界で強く楽しく生きてそうなうらやましい連中が、最後の審判の永遠の炎で焼かれているんだ。それを自分たちキリスト教徒は観客として見て楽しんでいる。これが浄福というわけなんだ。

 お互い永遠の命をもっているわけだから、強い者は永遠に苦しめられ、弱い者はその様子を永遠に楽しむことができる。神の国っていうのは、強い者にとっての永遠の地獄、弱い者にとっては永遠のこのうえない楽しい見世物なんだ。だから、テルトゥリアヌスはキリスト教徒に現世の見世物の快楽を禁止したんだよ。来世にはもっとものすごく楽しい見世物が待ってるんだから、ってね。

 キリスト教の「希望」っていうのは、こういう神の国での復讐のことなんだ。キリスト教の「信仰」ってなにかといえば、現実の世界で弱くみじめなままを生きて、想像のなかでこの神の国の復讐を思い描くことなんだ。だからさ、キリスト教っていうのは、「愛」の宗教じゃなくて、「憎悪」の宗教としかいえないところがあるんだよ。

 もちろんさ、神の国なんてまやかしなんだ。これはなかなか現実の世界でうまくいかない者のルサンチマンが創りだした想像上の産物なんだ。うまくいっているヤツは地獄の炎で焼かれろ、それを想像するのはなんてうれしいことなんだろう、ってね。

 ところでさ、テルトゥリアヌスは、イエスを辱めたユダヤ人が永遠の炎で焼かれるのを見るのがなによりうれしい、って言っている。キリスト教のなかには、ユダヤ人に対する憎悪がどこかあって、これがやっかいなんだ。

 テルトゥリアヌスの時代にはキリスト教とユダヤ教との対立があったんだ。もともとさ、キリスト教っていうのは、けっこう賢かったパウロが理論を与えて組織したユダヤ教の分派みたいなもんだよ。でもさ、こういう動きが出てくると、本家のユダヤ教としては面白くないよ。だから、ユダヤ教の側としては、この分派を攻撃したんだ。聖母マリアなんか淫売婦みたいなもんだ、イエスは母の姦通の末に生まれた子だ、とか言ってね。処女受胎なんかなかったし、イエスが神の子なんてとんでもない! って言うんだ。

 でさ、テルトゥリアヌスとしては、「福音書」を引用して、こうしたユダヤ教の攻撃に対抗するんだ。あんたらが神の子イエスをユダから買ったんだ! とかね。そもそも、福音書には、ユダヤ教勢力(律法学者のパリサイ派や神殿で祭祀を行うサドカイ派)への対決の姿勢があるんだ。

 なんでこんな物語ができあがったか考えてみる必要があると思うんだ。福音書はパウロの影響をうけてできたといわれてるけど、これはやっぱりパウロの発明だと思うんだよ。それはさ、『反キリスト者』って本に詳しく書いているけれど、自分の社会のなかの強い者に攻撃性を向ける、ってことなんだ。

 土台になってるのは、やはり、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」というルサンチマンの価値評価だよ。ユダヤ教はもちろんこれを土台にして「強い支配民族は悪い、弱いユダヤ民族こそ善い」という考えをつくりあげた。でも、そこ止まりなんだ。タキトゥスというローマ時代の歴史家が言っているけれど、ユダヤ人は自分の社会の外側には攻撃性を向けたけれど、内部では助け合い仲良くやっていたみたいなんだ。けれど、パウロは「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」を自分のユダヤ社会の内部に持ち込んだんだ。

 それはこういうことなんだ。ユダヤ教イエス派という新しい分派を立ち上げたとき、パウロたちはまだ弱い立場だったんだよ。このとき、ユダヤ社会のなかで強い者とは、すでに権力をもっているパリサイ派やサドカイ派だったんだ。だから、パウロは、この強い者たちを悪人とする物語をつくったんだ。神の子イエスを辱めたんだ、ってね。

 これがキリスト教のなかにある反ユダヤ的傾向のはじまりなんだ。もちろん、パウロはユダヤ人だったから、これがそのままユダヤ人憎悪には結びつかない。あくまでも憎悪はパリサイ派やサドカイ派に向けられている。けれども、この考え方のなかにある、自分の社会の内部の強い者を敵として攻撃する考えが、テルトゥリアヌスのユダヤ人憎悪やその神の国のイメージに受け継がれるんだ。「自分の社会のなかにいる強い者は悪い」。この内側に向かった攻撃性が問題なんだよ。

 テルトゥリアヌスの闘いの舞台はローマ帝国の内部なんだ。そこで、攻撃の矛先が真っ先に向けられるのが、ユダヤ人なんだよ。なんといっても本家だからね。ユダヤ人は、神の子イエスをけっして認めず、キリスト教を攻撃してくる強力な人びとなんだ。

 でも、他にも強い者たちがローマ帝国内にいるんだ。皇帝も役人も哲学者もいる。古代の文化に誇りをもってローマ人にも一目置かれていたギリシア人もいる。闘技場で戦う人のように腕っ節の強い連中もいる。

 福音書のなかで攻撃されているのはユダヤ社会内部の強い者だよ。テルトゥリアヌスの神の国のイメージは、ユダヤ人を筆頭に、ローマ帝国内部の「強い者はみな悪い」とするんだ。テルトゥリアヌスは、パウロが考え出した社会の内側の強い者に向けられた攻撃性を拡大したと言えるんだ。

 もちろん、テルトゥリアヌスの神の国のイメージは、想像上の復讐だよ。でも、結局、キリスト教はローマ帝国の国教になって、勝利するんだ。「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」というルサンチマンの価値評価は、「強い者はみな悪い、弱い者はみな善い」というかたちで、ローマ帝国全体を覆って、その内部に強い者をけっして認めない社会をつくって勝利するんだ。じつは、そのなかで甘い汁を吸ってたのは教会なんだけれど、それはさておき、神の前の万人の平等ってやつだよ。

 もっとも、ローマ帝国がキリスト教化したとき、ユダヤ人だけはキリスト教社会の内部の敵として残ってしまうんだ。ユダヤ人のほうはキリスト教を自分たちの社会の外部の敵としてしまうので、お互い相いれない構図が出来あがってしまう。

 お互いなかなか決着のつかない関係があるんだけれど、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」という価値評価をどれだけ広げるか、という点だったら、キリスト教のほうがユダヤ教よりすごかったんだ。やっぱりパウロかな。十字架の物語でユダヤ教の律法というしばりをなくしたのもそうだし、社会の内部に強い者を認めないという態度もそう。よくできてるんだよ。キリスト教があってはじめてルサンチマンの価値評価は勝利できたんだ。

 でも、キリスト教の勝利が全面的な勝利とはいえないんだ。キリスト教に支配された社会の内部から、「強い自分はよい」という価値評価の反乱も起こってくる。歴史っていうのは、貴族的価値評価とルサンチマンに根ざした僧侶的価値評価との相剋なんだと思うんだ。それをつぎに描いてみるよ。

16

 そろそろ、話をまとめなきゃいけないね。「強い自分はよい、弱い者はわるい(劣っている)」という貴族的価値評価と「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」という僧侶的価値評価の対立はずっとつづいているんだ。これまで見てきたようなローマとキリスト教の戦いだけじゃないんだ。

 たとえば、いまなんてさ、僧侶的価値評価が優勢になって、強い者なんてどこにもいなくなってしまった。ほんとわるい空気だよ。でも、それでも、みんな一人ひとりのなかには、きっと僧侶的価値評価に対抗しようとする貴族的価値評価ってあると思うんだ。いまや戦いは一人ひとりの精神の場面で行われるんだよ。意識の高い人っていうのは、自分のなかに、どんどん自分を弱くしようとする道徳の抑圧に抵抗して、より自分を強く大きくしようとする力への意志がうずうずしてる、ってことを感じ取っているはずなんだ。

 けれども、こういう精神の場面での戦いの以前には、貴族的価値評価と僧侶的価値評価は、社会のなかで抗争していたんだ。ヨーロッパの歴史は、この抗争の歴史として考えられるんだ。歴史っていうのは、二つの価値評価の対立として考えられるんだよ。

 二つの価値評価のあいだの戦いは、象徴的にいえば「ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ」という標語でまとめることができるよ。いまは、まあ、ユダヤの勝利している時代かな。でも、そうはいっても、なにもユダヤ陰謀説みたいなことを言いたいわけじゃないんだ。問題にしたいのは、じっさいのローマ人やユダヤ人がどうこうではなくて、貴族的価値評価と僧侶的価値評価という価値評価の戦いなんだ。歴史はこの二つの価値評価の相剋として考えることができるんだよ。

 たとえばさ、歴史っていうのを、ゲームみたいに考えるのがいいと思うんだ。このゲームでは、プレイヤーはローマ側(貴族的価値評価)とユダヤ側(僧侶的価値評価)のどちらかに分かれるんだ。

 いちばん最初の古代ユダヤの段階では、プレイヤーは、ユダヤの戦士階級がローマ側、ユダヤの僧侶階級がユダヤ側になったと言えるだろうね。ここで勝つのは僧侶階級のほうだよ。ユダヤ民族全体が僧侶的価値評価を重んじるようになったんだ。

 つぎに、キリスト教が広まっていく段階では、プレイヤーは、ローマがローマ側、キリスト教がユダヤ側なんだ。ローマは「強い自分はよい、弱い者はわるい(劣っている)」という価値評価を全人類が認めるべき自然なものだと思っていた。けれども、キリスト教は「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」というまったく反対の価値評価を立てるわけだから、それはローマにとっては全人類に反抗する反自然なものに見えるよね。だから、ローマはキリスト教を迫害したんだ。これに対して、キリスト教は、『ヨハネ黙示録』で、ローマやローマ帝国が炎に焼かれるような陰惨なビジョンを描いて対抗したんだ。

 この戦いは、キリスト教のローマに対する勝利に終わるんだ。キリスト教には、これまで見てきたような巧みな道徳のシステムがあったからね。これでもって、ローマ帝国内で圧倒的多数の弱い者たちを組織してしまったんだ。こうなると、ローマの皇帝や上層階級もキリスト教を認めざるを得ず、やがて、ローマの国教とするんだ。ローマ帝国全体がキリスト教のもとに僧侶的価値評価の支配に入るんだから、ここでゲームはユダヤ側一色になるよね。

 でも、これでゲームが終わったわけではないんだ。ローマ側の反撃が起こってくる。なんでそうなるかっていえば、人間には強く大きくなろうとする力への意志っていうのがあるからなんだ。社会が僧侶的価値評価一色になればなるほど、それの抑圧をはねのけるように、力への意志にもとづく貴族的価値評価がよみがえってくるんだ。

 それがルネサンスという時代なんだよ。ルネサンスでは、なんと、ほんとうはユダヤ側であるはずの教会、ローマ教皇たちのほうがローマ側のプレイヤーになるんだ。この時代のローマ教皇たちなんてぜんぜんキリスト教的じゃないんだよ。ほとんど無神論なんだ。あの世の救済なんてそっちのけで、現実の欲望を追求するんだよ。教皇アレクサンドル6世の息子のチェーザレ・ボルジアなんて、もう戦国武将だね。血なまぐさい闘争にあけくれたんだ。戦士だよ。貴族的価値評価なんだよ。こうやって、ローマ教皇やそのまわりの人間たちが現実の欲望を追求することのなかで、芸術も奨励されて、あのすばらしいルネサンスの文化が花開いたんだ。

 けれども、僧侶的価値評価はだまっちゃいないんだ。宗教改革っていうのが出てくる。これが今度はユダヤ側のプレイヤーになるんだよ。ドイツという田舎からルターなんかが出てきて、ローマの都の教皇たちのことを、堕落だ、腐敗だ、強欲だ、って具合に非難するんだ。プロテスタントの登場だね。でも、これってどんな運動か、わかるよね。現実の生を謳歌する教皇たちに対して、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」ってやってるわけなんだ。ルサンチマンなんだよ。僧侶的価値評価なんだ。

 こんなふうに非難されて、ローマ教皇たちも大人しくなってしまうんだ。カトリックの側の改革が行われて、清貧、貞潔、従順の教会がまた復活する。こうなるとルネサンスも終わりだね。教会もまたユダヤ側のプレイヤーに収まってしまう。

 それでもまだ、ヨーロッパにはローマ側のプレイヤーが残っていたんだ。イギリスでは、清教徒革命や名誉革命というユダヤ側のプレイヤーが現れて、貴族制というのが骨抜きにされてしまったけれど、フランスではまだ貴族制が残っていたんだよ。フランスの貴族たちは、戦士のマッチョなイメージはないけれど、それでも、華麗な文化のなかで現実の生を謳歌していたといえるんだ。

 でも、そこでフランス革命だよ。もちろん、これがユダヤ側のプレイヤーだよ。貴族たちに対して、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」って攻撃して勝利したわけなんだ。ルサンチマンなんだよ。僧侶的価値評価なんだ。フランス革命は、多数者の特権と言って、いまの社会の悪い空気のもととなるような、平等主義、民主主義をやろうとした。これは、人びとの強く大きくなろうとする意志を押さえつけて、みんなを弱い者として平均化、凡庸化するような試みなんだ。

 ところが、そこでナポレオンだよ。ローマ側のプレイヤーの登場なんだ。皇帝になるなんて、ほとんど時代錯誤に見えたかもしれないけれど、この人は戦士だよ。貴族的価値評価の体現者なんだ。ナポレオンの遠征によって蹂躙された人びとにとってはとんでもない人でなしに見えるかもしれないけれど、人間の平均化、凡庸化を打ち破って、より強く大きくなろうとする人のモデル、超人とはそういうものなんだ。

 けれども、負けたよ、ナポレオンは。イギリスやドイツといった周りの国によって足を引っ張られ、滅ぼされてしまった。こうして、いまのヨーロッパがあるんだ。そのヨーロッパがどんな様子かもうわかるよね。悪い空気なんだ。僧侶的価値評価が優勢になって、どこにも強い者なんか見いだせないし、一人ひとりの内側の強く大きくなろうとする意志も道徳によってしっかり抑え込まれている。みんながユダヤ側のプレイヤーになっていると言えるかもしれないね。

 でも、これでゲームは終わったのかな。まだだよ。まだ終わっちゃいないんだ。さいしょに言っておいたよね。いまや戦いは一人ひとりの精神の場面で行われる、って。精神の場面では、道徳のひどい抑圧のなかでも、強く大きくなろうとする力への意志がうずうずしてるはずなんだ。この力を発揮するとき、みんなはローマ側のプレイヤーになれるはずだし、貴族的価値評価が復活するはずなんだ。価値転換というのは、精神の場面、一人ひとりの欲望のとらえ直しがきっかけになると思うんだよ。

 なんで、こういうことが言えるのか。それは、チェーザレ・ボルジアだって、ナポレオンだって、ローマの教会やフランス革命といった、ひどく抑圧の強いなかから現れたからなんだ。なにも彼らのように生きろってわけじゃないよ。英雄崇拝じゃないんだ。そうではなくて、こういう歴史上の人物を見てみると、どんなに抑圧が強くても、あるいは、抑圧が強ければ強いほど、強く大きくなろうとする力は発揮できる可能性があるってことがわかる、っていいたいんだ。

 大事なことは、英雄の真似をするってことじゃなくて、いま一人ひとりが、自分の欲望のあり方を見つめ直して、道徳に対する強く大きくなろうとする力へ意志からの戦いをはじめることなんだよ。これまで長々と歴史について語ってきたけれど、それはひとつの解釈にすぎないんだ。この解釈は、いまの精神の場面での戦いをはげますために描いてみたんだよ。

17

 というわけで、ナポレオンで貴族的価値評価が勝利して終わり、ってわけじゃないんだ。だって、ナポレオンはヨーロッパ中から足を引っ張られて負けたよね。いまは僧侶的価値評価が支配している時代だっていうことも、さんざん言ってきたよ。でもさ、問題は、じゃあどうしたらいいか、ってことなんだ。それはここまでたどってきたことだけからはわからないよね。ナポレオンの敗北のあとに、この民主主義の支配の時代に、貴族的価値評価を復活させよう、闘いを再び、なんて言っても、どうやってそれができるのかはまだわからないはずだよ。

 もちろん、これからこの問題にちゃんと答えを出すよ。貴族的価値評価の勝利というところで決着をつけるつもりなんだ。けれども、チェーザレ・ボルジアやナポレオンみたいな人物がまた現れることを期待すればいいって、そういう簡単な話じゃないんだ。だって、いまはもう内面の隅々に僧侶的価値評価が入り込んでいる時代だよ。問題は歴史上の英雄的な人物がどうこうではなく、みんなの内面にあるんだ。さっき、これからの闘いは精神の場面で行われるって言っておいたけれど、問題は、一人ひとりが自分のなかにうずうずしている力への意志をどう自覚するかってことなんだ。貴族的価値評価の復活はそういうかたちであらわれるはずなんだよ。

 だから、第二論文は内面の問題をやるよ。「良心」とはどういうものかを問うんだ。良心というと、きっとみんなは、道徳的な善悪を自分のなかに身につけていることだと思うよね。でも、そういうかたちではない良心もありうるはずなんだ。「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」っていう僧侶的価値評価に根ざした良心ではなく、「強い自分はよい、弱い者はわるい(劣っている)」っていう貴族的価値評価に根ざした良心がありうるはずなんだ。

 前に書いた『善悪の彼岸』っていう本の「善悪の彼岸」っていう意味は、僧侶的価値評価にもとづいた道徳的な善悪を超えて、っていう意味なんだ。それは、貴族的価値評価にむかって、っていう意味でもあるんだけどね。

 もちろん、貴族的価値評価にもとづく良心なんてイメージするのは難しいよね。それがわかりにくくなっているのは、みんなが僧侶的価値評価をすでに内面化してしまっているってことなんだ。だから、どういうかたちでそういう価値評価が内面化されていったのか、その歴史をたどるよ。それと同時に、貴族的価値評価にもとづく良心というものがちゃんとありうることも示すよ。

 ところでさ、僧侶的価値評価にがんじがらめになったこの時代に貴族的価値評価を復活させるというこのテーマを、抑圧からの欲望の解放というイメージでとらえないでほしいんだ。そういうたんなる欲望の解放だったら、良心なんて必要ないんだ。良心とは、ルールを内面化して自分の欲望をコントロールするという意味だよ。人間が人間であるということは、そういうルールを身につけているってことなんだ。良心は必要なんだ。それは強い者でも弱い者でも同じだよ。問題は、そのルールの身につけ方が自分を肯定するものであるのか、自分を否定するものであるのかってことなんだ。その意味で、自分を元気にする良心と自分を元気にしない良心がある。貴族的価値評価に根ざす良心と僧侶的価値評価に根ざす良心のちがいはここにあるんだ。

 だから、これから、人間がどうやって良心を身につけて人間となっていったのかを歴史的にたどりながら、その良心には、自分を元気にする良心と自分を元気にしない良心のふたつがあることを見ていくよ。

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