2010-03-05
談話室沢辺 ゲスト:竹田青嗣 第2回 「資本主義と国家の市民的制御」
●資本主義に替わる経済システムはありえない
沢辺 発展途上国も前より部分的によくなっているけれども、先進国の上がり方がすごいから、その距離に問題を感じるわけですよね。だからルサンチマンも生まれやすい。ある意味イスラムや911に通じる。
竹田 いま宗教的原理主義がルサンチマンの受け皿になっているんだね。
沢辺 貧しい国を引き上げる以外に、ルサンチマンの解消の道はないですね。
それから、たっぷんたっぷんになってしまった我々の欲望はどうしたらいいのでしょうか。いま若い人達が就職せずフリーターに流れているのは、社会が悪いと言われることもあるけど、たっぷんたっぷんの状況のなかで、なにも無理してやることないんじゃないの、と考えているのではないでしょうか。
竹田 それは社会批判の思想の新しい大きな課題です。これまでの社会批判の代表的な思想として、保守系を別にすると、資本主義批判を軸としたマルクス主義系のものがあり、これは徐々にポストモダン思想系のものに移ってきた。
しかし、現在資本主義のオルタナティヴとなる経済システムはありえません。でもそれは、いまの資本主義をそのまま認めるほかないということではぜんぜんない。繰り返すと、これまで資本主義はいろんな矛盾があっても、経済成長があればなんとかそれを修復してきたし、これからもそうだろうと考えてきた。しかしこれからはそれが効かない。でも経済システムとしては資本主義の代替策はない。そこで、資本主義の国家間的な調整ということが必ず必要となる。
大量消費と大量廃棄、格差の拡大を続けていくとどこかで絶対的な希少性が現われ、カタストロフィが生じる。そういう基本の展望がまだそれほど意識されていない。それで私は『人間の未来──ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書、2009年)を書いたのだけど、残念ながら多くの知識人は、まだ国家と資本主義に替わるものをどうやって考えられるかという線でやっている。国家と資本主義の根本的批判は、二十世紀の批判思想のメインストリームだったけど、早くこれにふんぎりをつけないとたいへんまずい。ここには原理と可能性がないからですね。
沢辺 格差の問題にしても、昔のように、資本家が悪いんだ、自民党が悪いんだ、と説明をつけて、簡単にわかった気になれた時代は幸せな時代でした。いま民主党政権が何々手当をくれると言っているけれど、日本国民は「税金は本当に大丈夫なの?」とか、「その税金って自分たちが出さない限り増えないんでしょ?」ということは基本的にわかっていますよね。手当をくれるから民主党に一票いれたというわけじゃありませんし、手当をよくするためには結局自分たちも一部負担しなければいけないよ、ということを前提にしていると思うんですよね。
竹田 いまの民主党に対する国民の期待のありかたは、とりあえずいままでの自民党の政治構造を大きく変えてほしい、ということです。長く政権交代が起こらないと、政治権力と特権階級、官僚との癒着は必ず固定化してくる。その度合いが大きいほど政治の権益は特殊利害に流れて、一般福祉に回らない。そのことをいまはもう一般の人が感覚として知っている。
なぜ小泉さんの郵政改革になぜあれだけ支持が集まったかというと、直感的に、長く続いている権力と官僚や公共事業の癒着をなんとかしよう、と言うような人間が首相になったことがまず新しかった。経済的な構造改革はじつはいろいろ問題があるが、構造改革という言葉に多くの人が反応した。民主党がそれを変えるとは思わないが、自民党の構造が変わるなら可能かもしれないと感じたのだと思う。で今回は民主党が支持された。結局、自民党ではそこまで行かないということがはっきりしてきた。そういう流れだったと思う。要するに、人びとは、一般福祉に配慮するのは誰かという意志をはっきり示すようになってきたんだと思います。
「一般福祉」というのは、私の言葉で言うと、普遍資産再配分の問題です。この社会が作り出している富は、全体としては社会の成員みんなで作ったものなので、特殊利害や大きな偏りがあるとしたら、それは正当性をもたず改変されないといけないという感度ですね。もうひとつは、日本の将来、若い人が大勢の年寄たちをどう養うか。そういう問題もあった。誰がそれをより多く配慮するのか、二党制の体制で政権が大きく変わるというのは、国民が地方の特殊利害ではなく、そういう一般的な問題への配慮を重視して政治権力を選び始めたということだよね。ある意味、今回はじめて日本の政治で二党制が機能したとも言えるわけだけど、民主党がどこまでできるかはともあれ、そのことは、戦後の日本社会がまた一つ新しい局面にまで入ったと言えると思います。
●人類が向かうべき次の目標
沢辺 いまお話になった社会学が抱えている新たな課題というのは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言う「ある一定の社会の成長の先にニヒリズムが現われる」ということと結びつくんでしょうか? それとはまったく違いますか?
竹田 ニーチェの場合は、ヨーロッパのキリスト教の権威の没落ということが大きな指標だった。これはもうドストエフスキーの小説が典型的で分かりやすい。『罪と罰』にしても『カラマーゾフの兄弟』にしても、もし絶対的な超越性がどこにも存在しないということがはっきりしたら、一体人間は、ぎりぎりのところ、何によって自分の倫理のルールを支えうるのか、というのが大テーマですね。キリスト教はヨーロッパの人間の生の意味の絶対的な配給源だった。それがこけたら当然ひどいニヒリズムが現われる。だからこのニヒリズムとそれにともなうルサンチマン(誰も悪や不合理を決済しないのだから、社会のルサンチマンの総圧力は当然高まる)に抗う思想がどうしても必要になる。これがニーチェのモチーフですね。でも実際は、二十世紀の近代社会は、ニーチェが考えたほどの倫理の総崩れは起こらなかった。
それを支えた最大の思想はマルクス主義です。マルクスの「類的人間」の観念は、いま考えるとなかなか驚くべきことだけど、未来社会の理想的構図があって、それが若いインテリ層のハートをつかんだ。つまり、倫理性の軸になったんです。時代は厳しかったが、みな希望をもっていたんですね。それがここ2、30年ほどで、根本的に変わってしまったと思う。人間の未来がどこにゆくのかという像がもうどこにもありません。すると、キリスト教の没落のせいではないが、新しいニヒリズムが出てくる。こんどはヨーロッパのニヒリズムではなくて「世界ニヒリズム」です。はげしい社会競争が、それでも経済成長をもたらすような感度があれば、社会の中で仕事をすることにもなんらかの「意味」が感じられる。しかしいまはただ没落しないために普遍競争があるだけですね。だから、一人ひとりの労働や仕事の意味も、個人の実存の意味も見えないし、だれも保証してくれていない。貧しい国では絶望が深くなって原理主義や救済思想がでてくる。ただし断片的で総体的な力にはならない。そうして先進国では、市民の社会意識のニヒリズムがじわじわ進行していく。
ただ、ここ数年で言うと、さすがにポストモダン的社会批判はもう終わりつつある。日本でのいちばん最後の火が柄谷行人の『トランスクリティーク──カントとマルクス』(批評空間、2001年)かな。ある意味でこれは創造性があったが、あとはいろいろあってもバリアント(variant/変型、変種)ですね。そのあと動物的ポストモダンとか、国家論とか少し出てきて、いまは、アメリカリベラリズムかな、最新思潮は。社会正義の「公準」をどこに定位できるか、という議論ですね。
ともあれ、労働の話からだいぶはずれてしまいましたが(笑)、アレントには、ひとつの大きな展望の可能性がある。アレント的な前提で言えば、未来社会の可能性は、「人間の条件」として必要労働の要素を小さくしていって、<仕事>の要素がふえ、この要素の上に人間的「活動」というものの領域を徐々に拡大してゆけるか、というのが基本の構図ですね。国家や資本主義の廃絶という方向性の中心は、「権力」や「格差」のない世界というイメージですね。これはじつはルソー的な「自然と調和する人間像」を根に持っている。しかしこれは本質的にロマン主義です。アレントの方向はちがう。人間の「自由」の本質が、人間的「活動」がさまざまな多様性をともなってあらゆるところで沸き立つというイメージです。そしてこれは、ヘーゲルの近代社会像と基本的に同じ方向なんです。必要<労働>を上手に削減していって、<労働>を<仕事>に変え、<仕事>を<活動>に変えてゆく、というのと、社会的な関係を、「よい営み」を競い合う普遍的な「事そのもの」ゲームになしうるというヘーゲルのアイディアが最も近親性があります。わたしは彼等の考えが現実的でもあり、かつ本質的だと思います。
沢辺 そのアイディアの芽は、何かありますか?
竹田 「原理」だけなら、だいぶはっきりしてきたと思う。「資本主義と国家の市民的制御」ということがキーワードです。市民国家の権力は、ほんらい市民の一般意志だけを根拠とする。そうであるかぎり経済システムも同じです。十九世紀と二十世紀の国家と資本主義が、特定階層の独占支配の形になっていたいちばん大きな原因は、国家間の競合原理を抑制緩和できなかったことです。普遍闘争の原理は、国家権力の集中を最大化させるように働くけど、まったく同じ原理がここでも働いている。力のある先進国の民主化と市民的成熟が、市民国家間の協調的成長のルールを整備してゆくための第一歩です。それだけが資本主義の無益で不合理な競合原理の加速化を抑制してゆくための大前提です。
それから、世界大では人口を削減すること。私のプランだと、二、三世紀くらいかけていまの1/3から1/4くらいまで持続的に人口を抑制してゆくことは可能です。これがうまくいけば、エネルギー革命が起こるたびに(これはどこかで必ず起こる)、飛躍的に人間の一般的生活条件は上がってゆく。もし国家間の協調で人口抑制の課題をすすめられなかったら、エネルギー革命は生産性も飛躍的にあげるが、同時に人口爆発も起こす。これだと結局、いたちの追いかけっこです。
この課題をクリアできれば、一般生活条件があがることで、社会的な<労働>と<仕事>の質が変わってゆく。必要<労働>は完全にはなくならないかもしれない。しかし労働時間をもっと削減するための<仕事>、そして人間の楽しみやエロスを拡大するための<仕事>の領域は拡大してゆく。その上で、文化的な表現と相互承認承認のゲームとしての<活動>の領域も拡大してゆく。そのあとはもう人間にとって未知の領域になると思う。また新しい矛盾や問題が現われるかも知れない。しかし、少なくとも、文明発生以来はじめて、普遍的支配構造が終わり、普遍消費が実現する可能性は存在する。これはとりあえず人類が向かうべき決定的なつぎの目標となる。
●社会の流動性を確保するためのアイディア
沢辺 労働に関して別な視点から言うと、最近、肉体労働と知識労働の問題も解決しなければいけない課題だと思えるんです。知識労働の比率が増えてきていて、それはたぶん、これからも増えざるを得ない。肉体労働は機械化に取って代わられるわけで、たぶんそういう方向になるでしょう。そのときに、100人のうち90人くらいが知識労働をやるほど広く、人間は知的能力を持っているんだろうか?という疑問があります。
もうひとつ、こっちのほうが大きい問題なのですが、知識労働と肉体労働の比率で言うと、圧倒的に肉体労働は少数になっています。このとき、肉体労働者に対する他者からの承認、生き甲斐といった価値観を我々は生み出せるんだろうか? 肉体労働者の自己了解を俺たちはつくれるんだろうか? そういうことが最近、もう一度気になっているんですよね。
竹田 知的労働と肉体労働は、生まれつきの資質があるので、これを流動化するのはなかなか遠い課題です。美醜の格差のほうが、早くクリアできるかもしれない。考え方としては、社会のどういう矛盾から解決してゆくかについてのプライオリティに関して、できるだけ大きな合意を作り出すということです。とりあえずいま社会が解決しなければならない問題は、生活条件の格差、階層化、社会の先の展望と希望、老後の不安、ということですね。
でも若い世代が、未来社会の像についていろんな面白いプランを出すことはとても大事です。私の中心のアイディアは、何度も言うけど、まず週休三日制です。最低年齢別必要労働時間と、国民の年齢別最低年収。これは、マネーゲームをしたい人と、文化ゲームをしたい人とを両立させるための前提となるアイディアです。もちろん税金もいろいろプランがありうる。累進相続税の比率はとても大事です。もともと市民社会は、競争ラインの対等ということが理念的には存在する。いきなりやると恐ろしい抵抗が起こって、紛争になるかもしれないが、数世代かけて市民の競争のスタートラインがなるべく対等になるように変えてゆくことは、市民社会の成熟にとってとても大事なアイディアの一つです。
あと、たとえば、隣の韓国では、二年間の徴兵制がある。19歳から29歳くらいまでの間、好きなときに二年間兵役に服する。戦争のためではなく、市民社会の平等なシステムとして、若いときのどこかで二年間とか三年とか、休みとかもきちんととって、公的労働制度でみんな社会のための必要<労働>をする、というものです。老人の介護とか、人手不足の教育要員とか、私は三十過ぎまでフリーターでずっと働いていた。社会的な承認はそのあとでOK。その間に<仕事>のためのスキルを上げるといい。肉体労働と知的労働の分業は競争原理だけに任せると、なかなか流動化するのが難しいから、世代的に若いときは、できるだけ肉体労働するようにすればいい。いまは大学入試と、新卒時の就職で、社会階層がほとんどきまってしまう。これは、きわめて固定的な希望のない社会のシステムですね。さまざまな多様なゲームがあり、なるべく多く敗者復活やリセットの可能性がある社会のほうがよい。
アレントによれば、ギリシャでは、いちばん下に奴隷労働があって、つぎに家事労働があって、その上に少し<仕事>があり、いちばん上に自由市民の<活動>がのっかっていた。<活動>の中に精神の自由が発露する可能性があった。だけどいちばん上の人間の「自由」は、はっきりした階層支配によってはじめて支えられていた。これは市民社会では、固定的階層構造ではなく、年齢階層としてやればいい。これだとみんな対等だものね。若いうちはみな奴隷労働(笑)。二十歳代はみんな肉体労働をやる、という了解。労働をたくさんして公共に奉仕するその度合いにしたがって少しずつ「自由」を享受できる度合いが上がってゆく。これがいちばん不満をもつ人間が少ないシステムだね。若いうちに死んだやつはかわいそうじゃないかということになるけど、そこまではなんともできない(笑)。
ともあれ、そういう成熟したシステムのアイディアをいろいろ考えるだけでも意味がある。でも、資本主義、国家反対とか言っているうちは、いつまでたってもそういう方向に社会意識はすすまない。いかに気の利いた言い方で、いまある国家や資本主義を辛辣に批判するか、これがいま若い人が知識人として成功することの秘けつになっているとしたら、なかなか悲しい現状です。
沢辺 でも、奴隷が下にいるから自由な市民が乗っかっていられるという一部の人たちだけが自由を獲得できるようなやり方は、人類がこれまでになくならせてきたものではないですか?
竹田 近代社会は、そういう固定的階層構造を取り払おうとするプロジェクトだった。ただもちろんそう簡単にいかない。たとえば、十九世紀、二十世紀始めの、ロシア、イギリスの文学、トルストイ、ドストエフスキー、オースティンなどは、プチブル階層のインテリがまず「自由」に目覚めるんだけど、自分たちの自由・文化・教養は、完全に虐げられ自由の自覚もない蒙昧な下層階級の<労働>の犠牲の上に立っている、という矛盾の意識をはっきりもっている。漱石にも強くあるね。とくに貴族階級に生まれたトルストイは、このことで晩年深い意味の意識にとらわれた。人類にはいつかそういう階層のない社会に進んでいける知恵はもっていると思う。平等な社会の実現は難しいけど、流動性の高い社会なら原理がちゃんとある。
沢辺 そういう意味の階層は、いまの日本ですら少し残っているかもしれませんね。たとえば東大生の親の年収が高い、といったような。
竹田 それは大事な課題で、身分ではなくて、教育の程度で階層が決まる、このことがじつは市民社会が階層の流動性を確保する基本のシステムだったわけです。教育のコストがこれ以上かかるようになると、階層の固定化が加速度的に進んでいく。すると市民社会の根底があやうくなる。お金ではなくて、努力と能力で教育が決まるようなシステムを確保することは、とてもプライオリティの高い問題です。
沢辺 流動性がなくなりますもんね。
竹田 せっかくの市民社会が、実質的に、無限に階層社会、階級社会に近くなる。教育と競争経済のシステムは支え合って市民社会を支え合っているので、平等な教育も平等な経済もありえないが、それが流動性を確保できなかったらすべては水泡に帰す。アイディアとしては、お金と時間のコストをかけるほど成績点があがるようなメモリ能力評価中心の教育システムを組み替えて、討論や論理思考などの能力を中心的に評価できるシステムに変えるだけで、かなり流動性は確保できるはずです。実際に企業が競争に必要とする能力も、メモリ能力は半分でしかない。メモリ能力を上げていくことにたくさんのコストをかけるのは、社会の普遍資産の無駄遣いで、失業状態が多いのと同じです。何がじっさいに社会活動や人間関係にとって必要な能力なのかを研究する教育学がなくてはいけない。この意味でも社会的のコストの効率をあげるほど、人びとの一般福祉があがるはずです。教育は政治権力、軍事、警察、医療と並んで、単に競争原理だけに任せておいたら、市民社会の土台を壊してしまうような重要な領域で、まさしく「市民的制御」が必要なんです。
●近代哲学の深い理解から新しいすぐれた思想が生まれる
締めくくりにもう一度言うと、こういう社会的展望は、資本主義と近代国家自体を批判する発想からは出てこない。まず二十世紀の批判思想がはやく解体して新しい展望へ進み出るべきなんだけど、そのためには新しい世代が、ほんとうに知的能力を身につける必要がある。若い人は、いきおい最新流行の思想をやりたがる。そのほうがカッコもいいし、ある人たちには身を立てる上での早道でもある。しかし、できるだけ知的にどん欲であるべきだけど、私としては、志のある者は、なによりまず哲学を五年やってほしい、だね(笑)。
最新流行思想ももちろん大事だけど、近代哲学をちゃんとやっていると、その歴史的な意味と位置づけがきわめてクリアに分かるし、個々の思想がどの程度原理的な有効性があり、何が根本的に欠落しているのかということも、すぐに理解できる。自分が専門なので、我田引水になってしまうけど、近代哲学を欠いたまま流行思想をやると、どうあがいても日本の思想はアメリカとヨーロッパの知識人の後追いしかできない。十九世紀以来の日本の思想を見れば一目瞭然です。むしろこの半世紀、欧米では分析哲学とポストモダン思想のおかげで、近代哲学に対する関心度が下がっていた。いまこれをしっかりやると、そのうち知的体力で勝ってくるかもしれない。
沢辺 なるほど。たしかに忘れられてる感じですね。
竹田 哲学や思想というのはそういうところがあって、つぎのすぐれた思想は、前の思想の深い理解を土台にしてはじめて出てくる。いまやマルクス主義やポストモダン思想が一般教養でいいんです。デカルトとホッブズ、啓蒙思想から全部やり直すのがいい。するとマルクス主義もポストモダン思想の存在理由もはっきりしてくる。どこからどの程度の深さで掘り直すかによって、新しい思想の強度がきまってくる。それは自然の理なんだよね。
沢辺 昔、呉智英さんが本で書かれていたんですが、中国にすごく頭のいい百姓のせがれがいて、貧乏だったから上の学校にあがれなかったんだけど、卒業式に先生が、「きみは上の学校にはいけないけれども、勉強というのはどこでもいつでもできるんだよ。勉強は続けなさい」と言った。その何十年後かに、その先生が偶然、その頭のよかった生徒に会ったら、「先生、こういう問題が解けました」と見せてくれた。でもそれはもうすでに誰かが解いた方程式で、それを百姓をやりながら、自分一人で何十年もかけてやったのか、とびっくりした。学校へ行かせて、武器としての方程式を手渡してあげればよかった、とその矛盾にがっかりした。そういう話を呉智英さんが引いてたんですよ。竹田さんが、「五年哲学をやりなさい」と言うのは、そういうことですよね。
竹田 その通りです。わたしも経験があるけど、若いときは何か独創的な見方をしたいんです。だからできるだけ新しいものを食べたがる。でもほんとうに視線が上がるのは、ちょっと土台を積んでいくことによってです。するとあるとき気がつけば、視線が高くなり、視野と地平が広がっていることに気づく。地平が広がることではじめて思いつきの考えをすべて殺すことができる。ほんとうに独創的な考えはそういう条件から出てくる。近代哲学は土台の煉瓦なんです。いま世界の先端の思想は、アメリカリベラリズムでも、ポストモダン思想でも分析哲学でも解釈学でも、二十世紀思想の後退戦です。自分はその先に出ようと思う人は、まず近代哲学からやって欲しい。それが結局いちばん効率的でもある。
沢辺 早く効率的にいけて、自分のオリジナルを生み出す時間が増えるということですよね。(了)
これまでの回
プロフィール
竹田青嗣(たけだ・せいじ)
1947年大阪生まれ。哲学者、文芸評論家。
早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。
『低炭素革命と地球の未来』発売中
『低炭素革命と地球の未来』─環境、資源、そして格差の問題に立ち向かう哲学と行動
著●竹田青嗣、橋爪大三郎
定価1800+税
ISBN978-4-7808-0134-7 C0036
B6判 / 192ページ /並製
[2009年09月刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。
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