2012-12-12
お部屋2468/たったの4年—–投票所へ
毎年11月は睡眠障害になるのですが、今年は例年より早く10月から始まりました。そのため私は冬眠に入ったのですけど、きれいに11月末に抜けました。
しかし、このところ力を入れていた風営法改正に挫折して立ち直れず。Let’sDANCEはまだ続いてますが、私はあれとは違う流れを作らないとまずいと思い続けてきたのであります。しかし、私の力ではどうにもならんことを悟って、いよいよ引き籠りに。
その間も、風営法については調べ続けてメルマガに書いてきたのですが、その過程でわかったことをちょっとだけ書いておきます。引き籠っていても、これだけは書いておかねば。
明治38年、精養軒がビヤホール「新橋ホール」をオープンさせます。これが2年後に「カフェー新橋」と改称され、ここからカフェーのブームが始まります。カフェーは誤解されているところがありますが、食事やコーヒーを出す店もありつつ、今のキャバクラやクラブ(ホステスがいる方の)の元祖のようなものです。
大正から昭和にかけて、文人や画家たちがカフェーに通い、ロマンスも生まれ、そこから作家や女優になる女給も登場。
カフェーは当初単なる飲食店として営業をしていて、法律の規制が始まるのは、昭和8年のことです。この年の1月に特殊飲食店営業取締規則が施行されています。原則として女給たちは住み込みとなり(それまでにも住み込みが多かったのですが)、客と外で会うことが禁じられ、一緒に車に乗っているだけで連行されるように。
磯部涼編『踊ってはいけない国、日本』に書いた通り、あるいはこちらで語っているように、それ以前からダンスホールやダンス教室を規制する法律があったのですが、やはりこの前後から取締が厳しくなっていきます。
戦後世代の我々は、しばしば戦前はすべて真っ黒だったイメージを抱いてしまうわけですけど、これは大きな誤解で、酒を飲んで女給をくどき、ダンスホールで踊り、路上でナンパをして、という時代がありました。不倫をする夫や妻もいれば、田舎は田舎で夜這いをしたりもしていたわけです。淡谷のり子先生だって、若い頃から下宿に男を連れ込んで遊びまくっていました(著書に出てきます)。
政治面を見ていくと見誤りますが、国民の生活レベルで当時のことを調べていくと、今とそれほどは変わらない生活をしていたのではないかとも思えたりします。
出版に関していえばその前から徐々に共産主義関係のものやエロ表現が厳しくなっていくわけですけど、なおエログロ系の記事は雑誌に出ています。
カフェーやダンスホールは出版にやや遅れて規制が厳しくなる。その転機が昭和8年です。それでもカフェーは営業できてましたし、ダンスもできていたわけです。
その4年後に日中戦争が始まる。ここから急速に表現も行動も制限されていき、さらにその4年後に太平洋戦争です。
その前から治安維持法が制定され、大陸では上海事変が起きるなど、着々と戦争に向けた準備が進められていたわけですが、おそらく多くの人たちはさしたる不自由は感じることはなく、相変わらず女給をくどき、ダンスをしていた。あとになれば、「ああ、あの年の1月にカフェーの取締が厳しくなって、2月に小林多喜二が虐殺されたのだな」と振り返って、時代の節目であったことを確認できますが、そこにいる時はなかなか気付けないものなのです。そして、気づいた時にはもう手遅れです。
今ならまだ間に合うかもしれない。皆さん、選挙に行きましょう。「どうせ選挙では変わらない」なんて言っているから、先のないジジババたちの票が政治を決定してしまう。若い世代の人口が減り、なおかつ投票率が低いため、圧倒的にジジババの力が強くなっている。数日前にあった鶴見済のトークイベントで数字を見て愕然としました。「誰が石原なんかに票を入れてんだよ」と思い続けてきたのですが、ジジババだったのです。
日曜日の予定が入っている人は期日前投票に行きましょう。私は昨日行ってきました。「ああ、あの時投票すれば」と悔いるのであれば、今日にでも投票に。