2012-02-17

お部屋2342/2月19日、杉並で目撃せよ!

脱原発杉並デモはいよいよ明後日2月19日(日)です。


12時30分:集合
13時:集会開始
13時30分:デモスタート @蚕糸の森公園(丸の内線東高円寺)


 
 
先日の会議、また、昨日のDOMMUNEで見えてきたことを私なりにまとめておきます。先に言っておきます。ムチャクチャ長いです。短くしようと思ったんですけど、まあいいか。
 
 
東京は住み心地がいい場所です。たいていのものがありますので。商品が溢れているって意味ではないです。

たとえば「東京には自然がない」なんて思い込んでいる人がいるわけですが、「どこを見てんだ」って話。新宿の高層ビルだけが東京じゃないです。

その高層ビルの下には新宿中央公園があって、そこにはヘビがいます。その近くには神田川が流れていて、そこにもヘビがいます。新宿駅の反対側には新宿御苑があって、そこにはヘビがいっぱいいます。

東京23区内に棲むヘビのマップを作り続けているものですから、ヘビには詳しいです。

御苑にはさまざまな鳥もいて、カワセミまでいます。新宿駅南口から徒歩十分ですよ。

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御苑のカワセミ

東京に自然がないなんて言う人たちは見ようとしていないだけです。とくに東京の西側は自然がいっぱい。ウソだと思うなら、神田川の中を覗いてみ。なかでも井の頭公園から高井戸あたりまではビオトープによって川が再生しています。

こういった自然と高層ビルが同居するのが東京です。

もうひとつ、東京についてよくある間違った意見は「人が冷たい」ってことです。これも同じく「どこを見てんだ」って話です。

たしかに地縁は薄い。これもとくに東京の西側。隣に誰が住んでいるのかもわからない。「カボチャを煮付けたものですから」なんてお裾分けをしたら気持ち悪がられるだけです。人によっては恐くて捨てます。

しかし、同時に、自分に合ったコミュニティを簡単に探せるのが東京です。オタクだったら秋葉原に行けばいい。ゲイだったら二丁目に行けばいい。上野や新橋でもいいけど。マゾだったら、六本木に行けば仲間がいっぱいいます。音楽が好きならライブハウスやクラブに、演劇が好きだったらゴールデン街や下北沢に。

そういった趣味嗜好、あるいは思想でも宗教でもいいですけど、行くところに行けばコミュニティがあるし、なければ自分で作ればいい。

気づこうとしなければ東京には豊かな自然があることに気づけない。ヘビは東京のいたるところに棲息しているのに気づけない。東京には多様なコミュニティが多層に存在していることに気づけない。

「東京は冷たい」「都市は冷たい」と感じる人はその努力をしていないだけです。昨日、本番前に、この話をしていたら、DOMMUNEの宇川君は「趣味がない人たちでしょ」と言ってました。それもありましょうね。自分の中の何で他人とつながればいいのかもわからない人は行き場がないかもしれない。

そういう人たちは黙っていてもかまってくれる人がいる場所の方がいいんでしょうけど、だったら東京の東側に住めばいい。下町が今も残っています。すりガラスの戸を開けると、そこは道路。外から家の中で丸見えで、近所の人が気楽に声をかけていく。そういう場所に住むべき人が新宿のマンションに住み、コンビニで買い物をして、「人が冷たい」とボヤくのは間違ってます。新宿にだって、古い町並み、古い商店街はいっぱいあるんですけどね。

私は、探そうと思えばなんでも探せる東京は居心地がいいと思っていて、むしろ地縁は面倒なものと感じていたりします。そこは思い切りクールでいい。

そういう意味では土地に対する執着が薄くて、薄くていい東京だから居心地がいい。

そう思ってきたわけですけど、昨年の震災以降、自分の中で、土地に対する意味合いが少しずつ変わってきています。

私にとっての原発の恐さは自分が生きてきた土台になっている社会が根こそぎ壊れる恐さです。事故を起こさずとも、地域のコミュニティが壊される。事故を起こせば、その土地に住み続けることさえできない。

いかに放射線量が高くても、そこから離れられない人たちの気持ちは理解できる。土地そのものだけでなく、土地に密接に関わる家族、知人、隣人、仕事、歴史、記憶のすべてから切り離されることをそう簡単には受け入れられない。

土地に執着がないと思ってきた私は私なりの社会の中で生きてきて、その社会がすべて断ち切られることは恐いです。場合によっては、肉体的な死よりも恐いかもしれない。

地に根ざしているのか、そうじゃないのかの違いだけで、人は何かを介在にして人とつながっている。過去ともつながり、未来にもつながっている。人は遺伝子の伝達のためにだけ生きているのではないのです。

考えてみれば、地に根付かないコミュニティがこうも成立しているのは東京だからであって、そこには私も執着している。「東京も汚染されているから逃げろ」「東京に直下地震が来るから逃げろ」と言われても、そうそう逃げられない。ここには私が必要な社会がありますので。

そのことを私は強く自覚するようになりました。地に基づかないコミュニティを成立させているのは、やはり東京という地なのです。
 
 
コミュニティを破壊する原発と対峙するように、新しいコミュニティが生まれてきています。私は「デモコミュ」と呼んでいますが、デモに行けば友だちができる。こんなことがなければ知り合えなかった人たちと知り合って、デモと関係なく、メシを食べたり、カラオケをしたり。

「東京は冷たい」と思っている人でも、趣味がない人でも、ここに行けば同じ思いをしている人たちと会える。『デモいこ!』も、そんなデモコミュから生まれた本です。

「原発反対」という思いで、千という単位の人が集まり、それが毎月何度も繰り返されることでコミュニティを生み出している。東京は人口が多いし、しがらみが薄くて、人の目をあまり気にしないで済む。実際には神奈川だったり、埼玉だったりに住んでいたりもするのですが、そんなことはどうでもいい。

むしろ、デモが起きない場所でこそ人は孤立する。

これに限らず、東京で人と知り合っても、相手がどこに住んでいるのかは通常気にしない。何年も前から知っているのに、どこに住んでいるのか知らないことはザラです。聞いたとしても、そこに重大な意味など見いだせないので、すぐに忘れる。近所であればまた別として。

そんなことより、ツイッターのアカウント名やアイコンの方が大事です。「どんなアイコンですか」「性病科の」「ああ、性病の人」みたいな。性病の人じゃねえよ。

「素人の乱」のデモだって、TwitNoNukesだって、右デモだって、そういう人たちの集まりです。根無し草たちがつながれる東京はいいなあとつくづく思います。
 
 
で、話はやっと杉並デモです。ロフトの平野さんや梅造君らから、「会議はカオスで面白い」と聞いてました。そこから、「素人の乱」の延長、あるいは再現なのかとも思ってました。カオスと言えば「素人の乱」ですから。

「会議に出ようよ」とも誘われていたのですが、先週は風邪をひいていたので、うちでUstを観ていたのですね。

始まってすぐに「あ、違ってた」と思いました。「素人の乱」の延長と言える部分もありつつ、まったく違う領域に入った有象無象の集まりでした。たしかに「いろんな人が集まって、主催団体もないまま、それぞれの人がそれぞれに動いている」という意味ではカオス。でも、ムチャクチャではない。

と同時に「行かなくてよかった」とも思いました。杉並区民ではないので、デモの当日行けばよい。

あの会議のよさは、多くの参加者が杉並区民であることです。発言者は「高円寺二丁目の××です」「成田西の××です」「荻窪の××です」と名乗ります。丁目まではいらんのじゃないかと思いますが、これは「素人の乱」じゃない、祭りだと。

お祭り騒ぎのデモという意味ではなく、地名を名乗ることで了解されるという意味で祭りの人間関係、町内会の人間関係です。杉並区は広いですから、浜田山の人が下井草の町並みをすぐに思い浮かべられるわけではなく、行ったこともない場所だってあるはずですが、だいたいどの辺にあるかは把握でき、地名で人を認識できる。

言っていることはバラバラなのに、会議がおそろしくスムーズなのは、司会が絶妙であるとともに、祭りだからなんだと思います。地元のためでもありますから、「じゃあ、私がやります」「金は私たちが集めます」「お菓子はうちが提供します」と次々と名乗り出る。

地元で下手なことをすると、のちのち面倒です。バラバラなのに統制がとれているのはそのためでもあるのでしょう。

デモコースの周辺の家には、告知のビラをすべて配布し、店には対面で説明をして回っているらしい。これも自分が住む町だから、徹底したくなるんだと思う。顔が見えている人たちだから、迷惑をかけたくないと思うし、理解して欲しいと思う。

祭りを成功させるのが第一義であって、ここでは脱原発というシングルイシューが成立しやすい。祭りの神輿を担ぐのに、「あいつは自民党支持だからイヤだ」「あいつは赤旗をとっているからイヤだ」なんて言ってられない。

思想でつながっているコミュニティだったら、こうはいかない。「日の丸排除だ」「代々木は排除だ」となる。つながる基準になるものにおいて、コミュニティはしばしば排他性をもつ。ゲイバーにおいては女人禁制になりやすいようなものです。

TwitNoNukesは、ツイッターでつながっています。そこに限界もあって、ツイッターをやっていない人は知る機会が少ない。知ったとしても、やっていない人には敷居が高い。

そして、杉並デモは地でつながった。地でつながるコミュニティはそれ以外の場所の人、新参者を排除することがありますが、杉並という場所は排他性が薄いのです。

昔の東京を色濃く残す東側ではなく、杉並であることに意味があって、現在の杉並を含む武蔵野は戦前まで雑木林が広がる田舎であり、昭和初期までは郡です。つうか、新宿駅のすぐ西側だって豊多摩郡だったわけですが。

これについてはDOMMUNEでも話に出ていましたが、高円寺が栄えるきっかけになったのは、関東大震災です。焼け出された人たちが、下町から中央線沿線に移り住んだ。吉祥寺あたりまではこれで人口が急増します。中央線沿線の商店街の基盤を作ったのはこの人たちです。

現在の杉並区とは限らないですが、文人、画家なども多く武蔵野に住んでいました。たぶん地代が安かったんでしょう。

太平洋戦争後、中央線沿線は飛躍的に発展し、東京の重心は西にずれる。繁華街と言えば、銀座、浅草、上野だったのが、新宿、渋谷、池袋になります。

「代々杉並です」と言っても、たいていは戦後移り住んで来たよそ者です。地域によっては、下町のコミュニティがごっそり移植されたわけですが、それから100年経ってない。それ以前から住み続けている人の子孫は探すのが難しいかもしれない。

外から入りやすい場所なのです。地方から出てきた学生だって、最初に杉並に住むのが今も多いでしょう。私も大学入ってすぐは杉並でしたし、就職してからしばらくも杉並でした。

DOMMUNEでもそういう話になっていたように、これが下町だと、たぶんもっとしがらみが増える。町内会会長、商店会会長が力をもっていて、話が進まない。同じ小学校の出身かどうかが大事になって、外から人が入り込みにくい。

秋山理央の動画を観ていても、地方都市のデモはどうしても既存の組織が中心になりやすい。あるいは活動をやってきた個人が強い発言力ををもち、それを超えるコミュニティを作ることが容易ではない。

しかし、地のつながりと、外からの流入、新しいことを受け入れる体質が杉並ではちょうどよくバランスをとっているんだと思います。

マンションもたくさんあるけど、古い木造アパートも残っている。スーパーもあるけど、古い商店街が残っている。畑が今も残っていて、広大な公園もある。ちなみに善福寺公園にもカワセミがいます。ヘビは言うまでもなく。

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知名度が高くはないですが、善福寺公園はいいですよ
 
 
新しいものと古いもの、新しい人と古い人がいいバランスで存在している。

「素人の乱」が高円寺であのデモをやり、今回もまた杉並区であることには必然性がある。あるいは、原水禁運動がこの地から始まったことにも必然性があり、人のつながりはなくても、その背景にあったものは、今もこの地に息づいている。

これ以前にも、東京ローカルと言えるデモはありました。吉祥寺でもありました。これもまた中央線であり、武蔵野です。そういった布石もありつつ、それ以外の都内でのデモのネットワークもありつつ、今回の杉並がある。
 
 
そういった場の力に加えて、今だから地でつながる理由が存在しているのだと思います。すでに書いたように、原発事故以降、多くの人が地を意識するようになっていると思います。

それは福島県に、当面入ることができなくなった広大な場所ができてしまったことにも由来しますし、そこから放射性物質がまき散らされて、地図を繰り返し意識するしかなくなったことにも由来します。

福島第一原発、あるいは第二原発にしても、だいたいどこかはわかっていても、東京から何キロかまでは私はわかっていませんでした。そこを通る風がどう流れるかも考えたことがなかった。福島市や郡山市の位置はなんとなくわかっていても、いわき市も二本松市も伊達市もどこに位置しているのか、正確にはわかってませんでした。知らなかった地名もたくさん覚えました。事故以降は福島県に三度行ってますが、それまで一度しか行ったことがなかったですし。

放射線量が高いということから、柏市や葛飾区に住む知人のことを考える。そこにもともと住んでいた人も、たまたま住むことになった人たちも、その地に住むことの意味を考える。寝るだけだったとしても、その地に住むことを意識せざるを得ない。

これは東京のあらゆる場所で起きていることです。親たちは「あの公園は線量が高い。子どもは遊ばせていいのか」と意識する。子どものことは妻に任せっぱなしだったお父さんも、子どもの給食のことが心配になって、学校という存在を強く意識する。そう思う親たちが学校を通してつながる。

自分の実家と今住んでいる場所を比べて、東京を離れ、そちらに戻ろうかとも考える。

あるいは、東京だけじゃなく、関東だけでなく、多くの人が地を意識する。福岡市に住む人は、玄海原発から、50キロもないことを意識する。京都市に住む人は、高浜原発や大飯原発から60キロもないことを知る。それぞれの場所で、それぞれの場所を意識する。

考えずに生きていける人たちは「考えない」という共通項でつながれるわけではないですが、考える人たちはその地に住む意味を共有する。そして、それぞれの地の人たちがデモで、そしてインターネットでつながることも容易になってきている。

今までの地域コミュニティが動き出しただけではなくて、新たな人とネットワークを巻き込んで、今までとは違う地域コミュニティが作られている。その壮大な試みが今杉並で行われようとしていて、おそらくこのやり方が他の区にも広がっていくんだろうし、他の道府県にも広がる。それぞれがつながって、根無し草のデモともつながっていく。
 
 
2月19日、杉並で目撃すべし。そして、そのあとは阿佐ヶ谷や高円寺の商店街で買い物をしたり、メシを食ったり、酒を飲んだりすべし。

このエントリへの反応

  1. 疲れてしまったので今年からデモには参加しません。
    ただ、杉並や浦安、湘南の地域・密着型?の運動は面白いと思います。

    フォークダンス大会もあるそうで、一体なんの意味があるんだ?って声も
    ありますが、見知らぬ人たちが手を繋ぐなんて素敵だと思います。
    簡単なことですが思いもよりませんでした、すごいアイディアだと思います。

    浦安はちょっと無理なんですけど、杉並はデモを見に行こうかな。
    たまには沿道からデモを眺めてみたいです。

  2. あちこちで「もう参加しない」なんて繰り返し宣言しなくてもいいんじゃないの? 行きたくなければ行かなきゃいいし、また行きたくなれば行けばいいだけのことで、言われた方も「ああ、そうですか」としか返事をしようがないっしょ。他人がどうこうする問題ではないんですから。世の中の99%以上はデモに行かない人なのだから、それで人が興味を抱くほど珍しい存在でもないんだし。

    とりわけ「行く」という意思を表示している人たちがいるところで、その宣言をすると、「あいつ、うぜえ」になるだけですよ。ミクシィでイベント告知をして、皆が「行きます」と書いているところで、「私は行かないです」と宣言する人ってうぜえっしょ。自分のブログなどに書くのはいいと思いますけど。

  3. ご指摘頂きありがとうございます。
    お誘いがあるのですが、一々断るのが面倒なので、私事もあり参加しませんと書いてたんですが、うぜえっしたか。困ったな、どうしよう、どうしようもないか。

    >言われた方も「ああ、そうですか」としか返事をしようがないっしょ。

    それが、行かないと言っても尚、結構お誘いがあったりします。
    デモ友は情が熱いなぁとしみじみ思います。

    気が向いたら、また行きますね。

  4. 初めまして。
    Twitterで紹介されているのを見て来ました。
    お話の内容というより、思っていらっしゃることをとてもわかりやすく書いていらっしゃるのを見てステキだなあと…

  5. 「内容より」というのは余分かと思いますが、わかりやすさが売りです。

    「都市におけるコミュニティの作られ方を踏まえたローカルデモの意義」「原発が破壊するもの」というテーマもそこそこ大事かと思うので、そこも読み取っていただけるとありがたいです。