2010-12-06

お部屋2143/著作権におけるダブスタ

初めての方は以下を先にお読みください。

2139/「メタ視力」リンクまとめページ

「ごっこ右翼」に続いて、これ以降も、具体的な名前を出していきますが、今まで同様、それらの個人を批判することが主眼ではなく、それらの人たちの特性を見極めることがこのシリーズの目的なので、それを理解していただくためにも、最初から通して読むことを望みます。
 
 
2141/著作権と「メタ視力」に追記しておきましたが、「愛される瀬戸ちん」の疾走が止まりません。私は見逃していたのですが、以下も笑いのレベルが高いです。

http://megalodon.jp/2010-1203-1634-51/blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52600599.html

コメント欄に書き込まれた本人の言い訳をご覧下さい。腹痛え。「ごっこ右翼」の中でも相手にされなくなってきた瀬戸ちんですが、これだから皆に愛されるわけです。瀬戸弘幸は議論ができない人間ですが、議論などしなくても、自分でバカを晒してくれます。

もちろん、誰しも間違いはありますが、間違い得る範囲ってものがあって、また、間違い得る頻度というものがあるわけです。瀬戸ちんは、この範囲と頻度を大きく超えていて、ここでなんら反省することなく、10日足らずのうちに、またやってしまったんですから、どんだけ笑われるのが好きなんか。

これをずっと繰り返してきたのが瀬戸ちんです。学習能力ゼロ。子どものまんま。憎めないです。

そのうち、「メディアリテラシーがない無能な人間が写真のパクリをやるとどうなるのかを子どもたちに教えるためにやっているんです。毎日見ている人なら、誰だって気づいてますよ。アホウなのはあなたの方ですよ」と言い出しそうです。

学習能力のなさも、「ごっこ右翼」には共通する特性です。「徳島県教職員組合襲撃事件」の判決が12月1日に下され、3名とも執行猶予つきの有罪。

結局はなーんも調べずにデマに踊らされたおっちょこちょいたちの暴走だったわけです。どうして誰一人、情報を検証しないのか。そんなことはやろうにもできない無能者集団だからですが。

運良く書類送検を逃れた「おつる」こと中曽千鶴子のこの文章を読んでくださいよ。「なぜこのような事件になったのか」を総括し、「なぜ自分らが犯罪者集団に堕してしまったのか」を分析し、今後のために「いかに情報を検証していくか」をこの事件から学ぶ姿勢は一切ない。よくもこれほど薄っぺらなことを書けるものです。この程度の人間たちが集まった集団だから、ああなったことは明らかですね。

自分に対する批判に向かい合う能力も勇気もないため、削除依頼することしかできないような人間がよくもまあ恥ずかしくもなく、天下国家を語り、選挙に出るような真似ができるものです。当然落選、ここから「自分が他者からどう見られているのか」を学習できればいいんですけど、無理ですね。

「ごっこの果てに前科者」というのがこの人たちのデフォルトコースになってきたようです。その結果、多数派は脱落し、それでも残った連中が先鋭化していくことになるんでしょう。

このくらい突出した人たちですから、「ごっこ右翼」を見ている限り、異例に能力が劣った人たちにも感じられるわけですが、ここまで見てきた「ごっこ右翼」の特性は、「ごっこ右翼」特有のものではありません。程度と頻度が違うだけで、あるいは他者にそう大きな迷惑をかけるわけではないだけで、いたるところで見ることができるものです。

ミスチルのファンにもいて、この人は「ごっこ右翼」ではないでしょう、おそらく。ミスチルのファンだからではなく、どこにだっているってことです。

今までもどこにでもいた、ある特性を共有する「普通の人たち」を拾い上げる受け皿ができた。それが「ごっこ右翼」の実態ではなかろうか。

著作権をめぐっても、この特性を露にしてしまう人たちがどこにでもいます。とくに自分の権利が関係すると、人はしばしば過剰な反応をします。

自分自身は他者の著作物を鷹揚に利用し、時に違法な方法で利用しているのに、いざ自分の著作物が利用される時には厳密な利用を求める。

法に則って厳密な適用を求めるのならまだいいのですが、「盗用とまでは言えないだろ」というケースであっても自分の権利が侵害されたと過度に思い込む。「モラルとしてはパクリと言えるし、好ましいことではないにせよ、訴訟にはなじまないし、負けるだけだろ」ということでも法に訴える。「それがダメなら、あんたのやっていることもダメだろ」というブーメランを飛ばしつつ、「パクられた」と攻撃する。

他者の著作物を鷹揚に利用する分、自分の著作物の利用に対しても鷹揚に構えるんだったら一貫しています。著作権はゆるやかに利用し合った方がいいという考え方もあっていいでしょう。しかし、自分の著作物に対してのみ厳密な利用を求めるのはわがままってもんです。

このダブルスタンダードは、中村克さんを想起していただけるとわかりやすい。さんざん他人の文章を盗用して本を出しておきながら、自分の文章は転載のみならず、引用やリンクまで禁止すると主張。

このダブスタは、彼の自己評価の高さに関係していそうです。他者から見れば、1点しかあげられないような人物ですが(買いかぶりか)、本人の自己評価は7点も8点もありそうです。つまりは自我の肥大が彼を突き動かしていて、それが「平気で他者の著作物を盗用しながら、自分の著作物は法を超えて、引用やリンクまでを禁止する」という極端なダブスタに表れる。

あるいはこれこそがブーメランの連発にもなる。自分に対する基準と他者に対する基準とが同一ではないダブスタの必然がブーメランです。

瀬戸弘幸がジャーナリストと自称し始めたのも同じでしょう。自己の正しい評価ができていない。そうでありたいという願望をそのまま出してしまう。

ここまで自我の肥大した人たちはそうはいないわけですが、誰しも自己評価が高くなりがちではあって、自分では客観だと思えていても、純然たる客観の視点を持つことは難しい。その程度が違うだけ。あるいは「自分がかわいい」と思えている自分を相対化できる能力の程度が違うだけで、その程度に従ってダブスタやブーメランを発することになります。

事実、「瀬戸弘幸の手前の人たち」「軽度な中村克」はよく見られます。屈辱的な表現ですけど、マスコミの中にでもそういう人たちがいるんですよ。

では、次回から、その具体例を出していきます。