2007-03-05

お部屋1231/今日のマツワル24

先々週で風邪は終わったと思っていたら、ちいとも終わらず、頭の痛みがひどくて、2年半ぶりに病院に行きました。

結果、風邪以外の病気が発覚。事情により、ここには書きにくい病気で、「どうもおかしいと思っていたら、そういうことだったのか」と納得。先週はこの話を詳しく配信してました。たいした病気ではないんですけどね。

それ以外に「ストップ!いじめ報道」シリーズの補足編も4本配信。3か月ほど前に書いてあったものを手直ししただけです。先週配信していたのは具体的な「いじめ論」を取りあげて批判するものです。

「いじめ」という言葉から、暴行、傷害、恐喝に類する言動をイメージしてしまう人っているんでしょうね。そういういじめもありますけど、そうじゃないいじめこそが論じられている中で、こういう文章を堂々と書いている人を見ると脱力してしまいます。

なお、来週から新規購読者募集を始めます。いつもより期間が短いため、お見逃しのないうように。それと同時にしばらく休んでいた「松沢式売春史」を再開する予定です。

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< ストップ!いじめ報道・補足編20>

昨年暮れから今年の初めにかけて、いじめ問題を取り扱った雑誌の特集をいくつか見ましたが、納得できるようなものがまったくない。

では、納得できない典型的な例をひとつ挙げておきましょう。「月刊現代」1月号の特集「いじめ自殺の連鎖を止めろ」の冒頭に、重松清「きみに今日、死んでほしくないから」という原稿が出ています。「緊急寄稿」とあるくらいで、あんまり時間をかけていないのでしょうが、それにしてもって内容です。

9ページもの文章は、このような出だしで始まります。

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 まず最初に確認しておきたい。とても大切で、とても単純で、ほんとうは誰もがわかっていることだ。
 暴力をふるわれること、カネをせびられること、持ち物を奪われたり壊されたりすること、悪口を広められること……それらを「いじめ」と呼ぶのは、もう、やめないか。

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では、なんと呼べばいいのか。

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 あいつらがやっていることは「犯罪」だ。暴行であり、傷害であり、恐喝であり、脅迫、窃盗、器物破損、名誉毀損……さまざまな罪が適用される。生徒手帳の校則には登校時間や髪型や制服のことしか出ていないかもしれないが、社会には、あいつらのやっていることを厳しく禁じ、罰するためのルールがある。

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「いじめは犯罪であり、いじめられるのは犯罪の被害者である」ということらしい。「ストップ!いじめ報道」を読んできた方々は、「いったいどこの国の話か」と訝しく思うことでしょう。これは重松氏の頭の中にある「日本」という仮想の国の出来事としか思えません。この国では大変なことが起きているのですね。

では、この国では、どうしたらいいと言っているのでしょう。

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想像してみてほしい。きみの家に空き巣が入ったとしよう。お父さんやお母さんはすぐさま警察に連絡するだろう。被害届を出すだろう。そのときに「一ー〇番するのは恥ずかしい」などとは決して思わないはずだし、警察も「あんたの家の戸締まりが悪かったせいだ」と捜査を放棄することはないはずだし、両親も「自分の手でドロボウを捕まえなければ」と街を歩きわったりしないはずだ。

(略)

遺書を書く前に、被害届を出してほしいのだ。

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子ども向けの雑誌ではないのに、子どもたちに向けて「きみ」と呼びかけるのって嘘くさくないですか? うまく説明できないのですが、こういうことを書くことによって、書き手は何らかの「快」を得られるのだと思います。わかっていない人に講釈垂れることの「快」であり、大人の読者に向けて「オレは子どものことを理解できている」というアピールをすることの「快」です。子ども不在。

重松清氏の書くことは、一貫して子ども不在、かつ現実不在です。重松氏には高校1年生と小学4年生の子どもがいるそうです。「いじめは犯罪である」と信じている親には、自分の子どもがいじめられていること、あるいはいじめていることを十分に察知することはできないでしょう。多くの場合、そんなわかりやすい形でいじめは起きているのではないのですから。

このところ、「いじめの範囲拡大」の動きが盛んですが、おそらくこれを推進する人たちは「見えにくかったものをいじめの領域に入れ込むことで見えやすくしたい」という思いがあるのだと思います。重松氏のように、「いじめは犯罪の領域で起きている」と信じて疑わない人たちに対して、「そんなわかりやすいものではなくて、誰もが見逃している些細なことでいじめは実践されているのだから、より早い段階で対処すべき」ということです。

私はこの動きは危険だと見ています。重松氏のような人たちがいるからこそ危険だとも言えます。彼らは、いじめという形容をされた途端に、その行為はいかにも悪質な犯罪めいたものとしてとらえてしまい、またも「いじめた生徒」と「それを見逃した教師」を叩くだけでしょうし、的確な対策がとれなくなると思います。

ここまで見てきたように、メディアもまたいじめとは言い難いものまでを「いじめ」とフレームアップしていて、「加害者」叩きをしたい衝動を共有している人たちは、そこに容易に共感してしまう。その範囲が拡大してしまうだけです。

それでも報道の中身を吟味すれば、「犯罪」によって子どもらが自殺しているわけではないことくらいわかるはずですが、現にわからない人がいる。この人たちはたぶんどこまでもわからないし、わかろうとしないでしょう。

その典型である重松氏の文章を見ることで、「どうしてこういう発想が出てきてしまうか」「どの程度わかっていないのか」を知ることができます。そういう意味でいい文章です。

(略)

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