2010-11-22
女をこじらせてその3・暗黒のスクールライフ高校編
私は学区内でいちばん偏差値の高い公立高校に進学しました。田舎の話ですからとくに自慢ではないです。県内で言うといちばん偏差値が高いわけではないですし、全国区ではたかが知れてます。なんといっても私の学年で初めて一人東大合格者が出たために学校の名を冠した賞があわてて設立されて授与されたというこっけいな事件があったぐらいですから、東京で学校名を言っても誰も知らないでしょう。私はその学校にらくらく受かったわけでもなく、学習塾に通って受験前は終電補習というハードな補習をこなしたりして、それでも受かるかどうか微妙なところを賭けで受験して合格できました。と、今となってはどうでもいい偏差値の話を自慢でもないのに書いてるのには理由がありますのでちょっと覚えておいてくださいね。
高校に入ったら、ヤンキーなんか一人もいませんでした。もう、ちょっとしたことで「目をつけられる」とか「呼び出される」(=女子トイレとか屋上とか部室とかに呼びつけられて女のヤンキーにボコられる)とか、そういう暴力におびえなくても良い、というだけですごい解放感がありました。中学校には女子プロレスラー並みの超ごつくて怖いヤンキーがいたので、教師よりもヤンキーの決めた規律を破るのが恐ろしく、ヤンキーの決めた第二の校則を破る人間なんていなかったんです。破って「目をつけられ」れば、ヤンキーたちのいじめの対象になる。そうなればかばってくれる人間なんていません。
高校では、教師の決めた校則だけを守ってればいいし、教師の体罰なんかたかが知れてます。ヤンキーの体罰に比べたらぜんぜん怖くない。当時はまだ、田舎では教師の体罰なんて当たり前でした。新聞やニュースで体罰の是非が議論されていても、体罰がなくなることがあるなんてまったく信じられなかった。私の高校は学区内では一番「自由な学校」と言われていました。それは「靴は黒紺茶白ならなんでも良い」(学校指定の靴がない)「鞄は自由)(学校指定の靴がない)という程度の「自由」でしたが、ほかの学校では髪型も整髪料禁止とかもっと厳しい校則があり、ギッチギチだったのです。うちの弟はもっと厳しい高校に行ったため、ジェルで髪をじゃっかん立たせただけで「お前、元気な頭しとるなぁ〜!」と気温零下の冬空の下、頭を水道に突っ込まれてジャブジャブ洗われるという目に……。弟よ、よく耐えて卒業したなぁ。あんたすごいよ。
そこまでのことは私の学校ではありませんでしたが、自由な学校とか言われてても遅刻したら職員室の前に正座。体育の授業に遅刻したらグラウンドに生脚ブルマで正座が常識でした。ほんと、東京に来て「私服の学校がある」とか「単位制の学校がある」と知ったときは気絶しそうになりましたよ。私の学校、なぜかマフラーが禁止で、生徒会で署名集めても絶対にマフラーの着用、認められなかったんです。理由は「校訓が『質実剛健』だから」。バカバカしくてやってらんないです。福岡、九州といえども東京とあんまり気温変わらないし、雪も積もります。ちなみに学校には暖房器具は一切なく、ストッキングやタイツの着用も禁止だったため、私は冬場アルミ製のシャープペンシルが冷たくて手が震えて持てず、プラスチックのを買い直した記憶があります。これ平成の話だよ。狂ってんなーマジで!!!!!!!!!!!!
まぁ、そんなささやかな校則に対するイライラはありましたが、中学に比べるとそのあたりはラクでした。ヤンキー支配下における生徒の力関係もなかった。ヤンキーに逆らうと学校社会の生命がおしまいになるとか、そういうのはなかったわけです。
しかし、じゃあ高校は楽しかったのかというと、そうではなかった。むしろ高校のほうが精神的にはキツかった部分がありました。
ヤンキーの支配する学校での階級は、あくまでもその学校の中だけで通用する、しかもその学校にいる間だけの期間限定の階級でした。しかし、高校にあった階級は「学力」と「モテ」の二つの階級で、その二つの階級は、学力のほうは「大学進学」につながるし、「モテ」のほうは学校にいようが校外だろうがカワイイ女のコの基準というのは変わらないわけで(ヤンキーファッションの場合、ヤンキーファッションの文脈の中だけで通用する「カッコいい」「かわいい」がありますが、ヤンキーの存在しない学校では「カッコいい」「カワイイ」の文脈はある程度外の社会と歩調を合わせてます)、学校内だけの問題じゃないわけです。しかも高校生の年齢は16〜18歳。もう「大人」になる寸前ですから、その二つの評価の基準は「大人の自分」の評価に限りなく近く感じました。18でブスでバカだったら、大学入学後にそれを巻き返すチャンスはない。大学の中で首席になるとかいう巻き返しはあるかもですが、普通は入った大学の名前がすべてです。容姿に関しては今思えばいくらでも巻き返す方法はあるのですが、そろそろ身長の伸びも止まりかける頃ですから、まぁ「も、もしかして私一生Aカップ……?」「中学校から胸だけまったく成長してないんだけど!」「そしてにきびも治らない!」「思春期っていつまで続くの!? そしてこのにきびはいつ治るの!?」「そんで胸はないのになんで脚だけ太いの?」と数々のコンプレックスに押しつぶされそうになっておりました。そんな状態で希望を持てと言われても、無理だ! と当時の私は断言したことでしょう。実際そのまんま今に到る部分もあるしな! え、Aじゃないけど……。でも……。みなまで言わさないでくれ……。
まず、学力の階級のほうから説明してみると、私はぎりぎりの学力で高校に入ったので、高校の中での成績は下から数えたほうが早いレベルでした。私の高校では8割ぐらいの生徒が九州大学への進学を目指していましたが、一年でも二年でも「諦めたほうがいい」とハッキリ言われました。この学校の中で九州大学に入れないというのは「落ちこぼれ」です。
担任の教師に落ちこぼれとみなされても、それはそんなに大したことではないです。そういうことを言わない人情味のある教師もいっぱいいました。けれど、生徒の間でこの「学力格差」についての差別みたいなものがはっきりあったんです。
それが露骨になったのは、私が三年生で「私立文系進学クラス」に入ってからでした。私立文系進学クラスというのは、国立大学への進学を視野に入れず、福岡、関西、東京の有名私大の文系を受験することを目的に勉強するクラスでした。なぜそういうクラスが特別に作られているかというと、大学受験を経験した人ならわかるかもしれませんが、私立大学の文系というのは、受験の課目が三つしかないところがほとんどなのです。国語、英語、社会の三教科で、要するに理系の課目を勉強する必要がない。三教科に絞って勉強するので効率が良いのです。私は成績は良くなかったものの、国語の成績は良かったのでそのクラスに入ることにしたのでした。
私は理系ができない、っていうかもうやりたくない、という消極的な理由からそのクラスに入ったのですが、理系の教科をやめたとたん成績はそこそこ良くなって、東京の私大受験が視野に入ってきました。クラス内では東京なら慶應、早稲田、関西なら関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)を目標にしている人が多く、私もなんとなくですが早稲田を第一志望にしていました。大学は実はどこでも良かったんです。家が厳しかったので「東京に行きたい」「親元を離れたい」という動機のほうが強くあり、親元を離れるためには親戚中が知ってるような有名大学に入らなければそういうことは許されないであろうことがわかっていたからです。
私の学力では、早稲田は正直微妙でした。担任の先生にも「早稲田を狙うのはいいけど、東京に行きたいならすべり止めにもうちょっと偏差値低い大学をいくつか挟んで、いっぱい受けといたほうがいいぞ」と言われました。青山学院大学とかオシャレで超いい感じなんですが、受かっても親戚はそんなシャレた大学のことは知らないんで、とにかく六大学の中からすべり止め受験の大学を選び、受験することにしました。地元の私大もひとつ受けることにしてました。
で、誰がどこ志望かって小さいクラスなのでなんとなくわかるものなんですが、推薦とかでいきなり慶應に行く人とかもいるわけです。逆に、別に高偏差値大学の受験を目指して私立文系に入ったわけではなく、音楽がやりたいとか違う目標を持っていて文化服装学院とか日大とかを受験したりする人もいる。
そんなの人の自由なんですけど、クラスの雰囲気は「慶應・早稲田に落ちたら人生の落伍者」でした。私だけが劣等感ゆえにそう感じていたわけではないと断言してもいいです。私は明治とか法政とか受けましたけど、いわゆる六大学以上の偏差値の大学に受かっていても「慶應・早稲田に入れないなら浪人する」と言って浪人を選んだ人が何人もいました。エリート志向の強い人が多く、そういう人から見ると私みたいなのは「人生設計を何にも考えてない」人間だったんです。私は慶應・早稲田に入らなければ開かない人生のドアがあるということすらよくわかっていませんでした。まぁ、自分がそんなエラい仕事をやる人間だとも思えませんでしたしね……。高校生なのに、いい大学に入らなければいい企業に就職できないんだ、ということを考え、もう絶対にいい企業に就職できないことが確定した同級生を見下すような態度を取る人たちのことを、私はあまり好きにはなれませんでした。
とはいえ、当時はそんなに冷静にものごとを考えられたわけではなく、テストの度に自分の点数を見ては落ち込み、勉強のできない自分に焦り、どこにも合格できないんじゃないか……としばしば絶望的な気分に陥っていました。学力で先生が生徒を差別することはない。でも生徒同士の間では、剣豪同士の気の読み合いみたいな感じで成績による「デキる奴」「デキない奴」といった視線の交わし合いがあり、デキない私は完全に見くびられていました。
では、学力ではない部分ではどうだったか。これは今回告白するのがいちばん恥ずかしい部分なのですが、私は学校で「不思議ちゃん」でした。不思議な受け答えとかはしてないんで、別にそこは恥ずかしくないんですけど、校則とかに地味にムカついてたのと、ヤンキーの抑圧がなくなった解放感で変なふうにハジケていたのです。具体例を出すと、その……ランドセルをしょって学校に行ったり(黒いランドセルは黒いバッグなので校則違反ではないのです。叱られませんでした)……黒いバカデカいリボンを頭のてっぺんに結んで学校に行ったり(黒い無地のリボンは校則違反ではない以下略)……定期入れを首から下げるなとは生徒手帳のどこにも書いてないので、文化屋雑貨店で買った緑色のお花のついたエナメルのパスケースを首から下げていたり、伊達メガネにチェーンをつけて首から下げたり、そういった軽い「奇行」を繰り返してました。そんなことする人がほかにいなかったので悪目立ちしてしまい、私の学校内での扱いは完全に「イロモノ」でした。
当時はまだ「サブカル」という言葉が一般的ではありませんでしたから、少しマイナーな文化や80年代の音楽などに興味を持っていた私は「変な人」だと思われてました。あやしいものとか変なものなら何でも好きだと思われてた。『CUTie』を読みふけり、岡崎京子を読みあさり、図書館に一冊しかない澁澤龍彦を読む私の趣味は、当時のサブカル少女としてはものすごくありふれたものですが、田舎の学校の中では珍しかったんです。
どのくらいイロモノ扱いをされてたかというと、女のコの仲良しグループがいたんですが、一年生のバレンタインデーにそのコたち全員が、仲良くしていた男子グループ全員にチョコを渡すということがありました。みんなで前の日曜日に買いに行ったようでした。私は毎日そのコたちと一緒に学食行って昼ご飯食べて、教室移動も一緒だったのに、チョコを買いに行くのには誘われなかった。別にいじめられていたわけではありません。ただ「あいつは恋愛には興味ない」と思われていたんです。私はあまりにもいたたまれなくてそっと教室を出て図書館に行きました。泣きたかったけどなんで泣きたい気持ちになるのかそのときはよくわからなかった。誰と誰がつきあってる、なんていう噂も、友達のはずなのに私だけが知らなかったりしました。ショックだったけど、ショックでないふりをして、イロモノで平気なふりをする。それが私の学校内でのキャラクターでした。
目立つのが平気だと思われてたので、生徒会に立候補しろという話を先生にされて副会長に立候補し「ドキドキでエキサイティングな学校生活」を公約に全校生徒の前で演説し、「そ、それってもしかして女子のスカート丈が短くなるとかそういうこと……?」と噂されつつ当選して生徒会とかやってました。もうやることなすことすべてが黒歴史といっても過言ではないです。万が一これを目にした私の高校の人がいたら「あの副会長、エロライターになったんだ」と感慨にふけりながらそっとブラウザを閉じてください! mixiの高校コミュとかに、は、貼らないでね……。
まだ見た目がかわいければ、そんな不思議キャラであっても別にしゃべることは普通だし、会話はちゃんとできるので好きになってくれる男子もいたかもですが、見た目もねぇ……。多くは語りませんが卒業アルバムを卒業後一度も開いたことがないくらいのものですよ。やけになってベリーショートにしたら男顔がいっそう際立ってぜんぜんかわいくなかったり、くせ毛もはげしかったのでどんな髪型にしてもはねてみっともないし、制服だったけど鞄や靴や靴下も個性的であることだけを追求してたものですからエナメル靴に安全ピンをびっしり刺したりしてもう女子力検定不合格どころか受験する資格すら剥奪されてるような状態で、どうにもしようがありませんでした。道に倒れて「誰か私に受験票をください!」と叫び続けたいような高校生活です。
すごく鮮明に記憶に残っている出来事があります。あるとき、母が社員旅行で家を空けることがありました。私と弟と父でその間の洗濯当番、食事当番を決めてそれをやることになったのですが、父親が洗濯当番の日に言ったんです。「お前の下着は自分で洗え」。
私は、そのひとことが頭に来て頭に来てしょうがなかった。父は、女は汚れてるとかそういう考えでそれを言ったのではないんです。女の子だから、自分の下着は自分で洗うのが女の恥じらいみたいなもんだ、というニュアンスでそれを言った。私はそれが耐えられなかった。
お前の娘はな、お前はどう思ってるか知らんが、夜道に人気のない道路にほっぽりだしておいても、誰も襲わないようなそんな容姿の女なんだよ、そんな女が女らしいとか恥じらいとかそんなもん関係あるか! 私の下着なんて、誰も盗まない、誰も価値を感じない、ブルセラショップでも絶対に売れない、そんなゴミみたいなもんなんだよ、それを何、自分で洗えとか何言ってんの? こんなゴミみたいなもん、誰が洗おうがどうでもいいじゃん。洗濯機だし!
果てしなく気持ち悪かったです。父親が当時の私のことをどう見ていたのかはわかりません。でも、その、私から見たらまったくのムダにしか思えない「女教育」をされることが、私は耐えられなかった。なんか、情けなくて情けなくて涙が止まらなかった。父親に大事にされていることは、わかっていたと思います。ただ、その大事にされかたがズレているというか、学校での自分の扱いとあまりにも差がありすぎて、私はそれを受け入れることができなかった。父親が自分を大事だとかかわいいとか思ってくれていたとしても、そんなこと学校では一切意味がないし、学校で意味がないということは、世間で意味がないのと同じことでした。父が私に女としてこういうふうに育ってほしいとか思ってても、私はそもそも「女」として誰にも認められてないんだよ、と叫び出したかった。それまで私は、家では男とか女とか関係なく「子供」でいられると思っていたんでしょうね。家でも「女」扱いかよ、でも私は「女」失格で、「女」じゃないんだよ、誰も私のこと「女」なんて思ってないんだよ、そういう教育がもう的外れすぎるんだよ、と思った瞬間、すべてがいやになりました。
父は、単に娘の下着を洗ったり干したりするのが照れくさかっただけなのかもしれません。でも私にはそのことも気持ち悪かったんです。何の価値もない、女としての付属的な価値のない私の下着に対して「照れくささ」なんて感じる必要はまったくないと思っていたから、お前なに自分の娘に価値があるとかカン違いしてるわけ? バカじゃないの? なんの価値もないんだよ! って、大声で叫びたかった。
父の愛情を、わかっていなかったわけではないです。わかっていたからこそ、大事にされているのに自分では自分を大事に思えないことや、自分に何の価値もないとしか思えないことが悲しかったし、両親の愛情や自分に対する評価を素直に受け取ることのできない自分に対するどうしようもない悔しさがありました。両親の望むようには育っておらず、変な方向に育っている自分を責める気持ちもあった。この年の夏休み、私は家を出て祖母の家に行きます。そして受験勉強を理由にそれから家には一度も戻らなかった。両親と暮らしたのはそれが最後です。
「自分はかわいくない」「女として価値がない」。その一点が、私を「個性的」な行動やファッションに駆り立てていきました。女として価値がないなら、せめて人として何らかの価値が欲しかったんです。もちろん「個性的」であろうとして演出した個性なんて、個性じゃない。そのこともわかっていたけど、そうせずにはいられなかった。当時の私の救いは、テレビで大内順子さんのやっていた『ファッション通信』を観ることでした。
そこではパリコレクションやミラノコレクションの映像を観ることができました。ファッションの世界は美しく、きらびやかで、まぶしかった。暗黒の高校生活とはまったく違う世界でした。
かわいくない私がそんな世界に希望を見いだすのは奇妙なことに見えるかもしれません。でも、夢中になる理由がありました。パリコレの世界では、私の学校の中でちまちまちまちまやっている女子力検定みたいなものは一切、無効です。むしろ学校でやってたらイタイ女扱いされたり、イロモノ扱いされたりするようなとんでもない服装や髪型やメイクが「美しいもの」「すばらしいもの」として認められていた。私がそこに希望を見たのは当然であり、必然でした。今いるこの世界ではぶさいくでイタイ女扱いされてる私でも、どこか別の世界では、オシャレだとかかわいいとか言われるのかもしれない、と、私はその番組を観ながら夢想しました。『流行通信』や『ハイ・ファッション』『MODE et MODE』などの雑誌も買い込んで、飽きずに眺めました。好きなデザイナーもできたし、買えはしなくても美しい服の数々を見ているだけで幸せでした。
その一方で、学校に行けばすぐに髪型をチェックされ、靴下や鞄を見られ、同級生の女子に「フーン」って顔をされる。学力の面でも、容姿の面でも、自分はバカにされている、見下されていると感じる瞬間が多々ありました。進学校ならではのことなのかわかりませんが、そういう人たちがいたのです。そういう人たちは、露骨に仲間外れをしたりはしません。仲いいふりをして近づいてきて、友達のふりもしてくれる。でも、心の中では見下しているんです。自分には絶対に勝てない駄馬だから安心して身近において友達のふりができるんです。自分に勝つかもしれないライバルと仲良くなんて、よっぽど人間のできた人でなければできないですからね。しかも学力でも女子力でも両方学校でトップ! みたいな人がいたりするんですよ、そりゃ、ナチュラルに見下しもしますよね。だってあきらかにあらゆる点で「自分のほうが上」なんですから。誰が悪いとか性格が悪いとかいう問題じゃなく、明確に差がそこにあるんだから、見下すのは仕方ないんじゃないかという気すらします。
受験に力を入れている進学校の中は、ハードな競争社会です。点数で先生から待遇を差別されたりはしないものの、生徒同士の間では差がはっきりとわかっている。その上、モテるとかモテないとか、カワイイとかカワイくないとかも、見ればはっきりわかります。制服にすっぴんですから、演出でごまかす術もない。いくら人は平等だとか差別はよくないとか言われても、そこにあるあきらかな差を意識せずにいられる人間が、10代でどれだけいるでしょうか。私がその中で劣等感を感じずにいられなかったように、上に立つ人間も自分の優位を感じずにはいられなかったのだと思います。
そういう視線が耐えられなくて私はときどき学校をさぼりました。不良というのではありません。何も悪いことをするわけじゃない。ただとにかく学校に行くのが憂鬱で、今日はあの視線に耐えられそうもない、と思うと泣きそうな気持ちになり、学校のある駅で降りずに先まで行って、広い動植物園に一人で行きました。人間のいないところに行きたかったんです。人が自分を見るときの、不快そうな視線を感じたくなかった。植物園には私の好きな温室があって、私はそこに何時間でもいました。気が楽だった。家に帰れば帰ったで、親に「また変なカッコして!」と嫌な顔をされるんですから、誰にも何にも言われない時間がとても貴重だった。人の目を気にしなくていい、誰にも見下されたりしない、そういう時間が欲しくてたまらなかったのだと思います。
きれいじゃなくても、絶望的に顔がクレーターだらけでも、きれいになりたくないわけなんかないです。きれいになって同級生を見返したいわけでも、モテたいわけでもない。私はただ、人に不快感を与える容姿じゃなく、自分で鏡を見てうわっと思うような容姿じゃなく、普通になりたかった。普通に髪がサラサラで、肌がなめらかで、脚がすっと伸びていて、そんなふうになりたかった。そんなふうには絶対になれないという絶望から「個性的」なファッションに走っただけで、正攻法できれいになれるんだったらそんなことしなくてもよかった。私は自分が本当に変わったものを愛しているわけではないことを知っていたし、だから自分のしている変わった行動のすべてが虚しくてたまらなくなることがありました。
おさえつけておさえつけてねじまげてきた欲望が、ある瞬間に自分の中から噴き出してきます。それは文化祭があることを知ったときでした。私はクラスの中の、目立ったりモテたりしているわけじゃなかったけど実はすごくセンスがいい女の子にいきなり初めて電話をして「文化祭でファッションショーをやろうよ」と言いました。「二人でデザインして、服つくって、学校の中でモデル集めて、やろうよ。図書館の渡り廊下をランウェイにして、やろう。音楽も選んでかけよう」。
どうせイロモノでしたから、人にどう思われてもかまわないという気持ちが私にはありました。そういう意味ではこわいものなんてなかった。学校の中ではもう浮いてるんだし、これ以上自分の評価が下がることなんてない。だったら誰もやらないことやってびっくりさせてやろう、と思ってました。ノンノとかジュノンとか読んで若いクセにコンサバファッションやってる学校のやつらの感覚をぶち壊してやるという暗い復讐の気持ちもありました。当時はアニエスベー&ナイスクラップ全盛で高校生がさぁ、モノトーンとかを小賢しく着こなしてるわけですよ。もうそういうのむかついてしょうがなかった。若いくせにちんまりまとまっちゃってさぁ、なんなのそれ!? って思ってたんですよ。自分もガキのくせにね……。
私がファッションに興味を持ったのには、実は背景がありました。祖母が昔洋裁をやっていて、服が作れたのです。祖母の家にはミシンが足踏みと電動、両方合わせて五、六台あり、ロックミシンなどもありました。祖母は『装苑』を定期購読しており、付録の型紙で私の服を作ってくれていたりもしました。服は作れるものだ、という認識が私にはあったんです。
それで学校にファッションショーをやる許可を取りました。私はちゃっかりしているので、モデルは学校で人気のある、自分を見下している人も含めた女の子や男の子にお願いし、先生にもお願いしました。自己満足じゃイヤだったんですね。いっぱい人が見にこなければ意味がないと思ったし、そのためなら魂なんかいくらでも売ってやるという気分でした。そういう人気者の子たちを客寄せに出しといて、自分がほんとうにきれいだと思っている女の子や、男の子にも出演を頼みました。そして自分も出ました。二年間、合計二回やりましたがその瞬間だけは私は人気者になれました。舞台の上は違う世界だった。自分ではパリコレを真似たつもりの、奇抜な衣装でほとんど仮装のようなかっこをしている自分は、自分ではないようでした。いつものぶさいくな自分ではなく、派手で、ださい制服なんか着てなくて、髪は全部ヘアターバンでまとめて、ネガフィルムを髪のかわりに頭につけていて(その前の年はたしかコム・デ・ギャルソンのコレクションの真似をして頭にアルミホイルをぐるぐるに巻いていました……)、とにかくそれは「学校のいつもの自分」ではなかった。はてしない解放感がありました。
私のデザインはすべてパリコレのパクりだったので、自分にデザインの才能がないことははっきりわかっていました。デザインの才能どころか、他にも何の才能の萌芽も感じられませんでした。絵はヘタだし、勉強もできないし、運動神経はひどいものです。アートの世界に憧れていたし、文学の世界にも憧れていましたが、とても自分にそういった才能があるとは思えなかった。勘違いできるような出来事もなんにもなかった。「自分になんらかの才能があってほしい」という気持ちと「自分にはなんの才能もない」という気持ちのあいだを、私は常に行き来していて、そういう気持ちがまた私を変わった服装に駆り立てたりしていました。誰かにそのセンスを褒めて欲しかった。認めて欲しかった。本当はただ、それだけのことだったのだと思います。
そういう私の行動は、クラスメイトからは「またあんた、変わったカッコして〜。ウケる〜!」という感じで受け入れられてましたが、年上の先生方から見ると、おそらくいろいろお見通しだったのでしょう。私は文学のことで国語の先生に質問をよくしていたので、仲の良かった国語の先生に真剣な顔で「あんたは東京に行きなさい」と言われました。担任だった別の国語の先生は、卒業アルバムに「あなたは何か、ものをつくる仕事をしなさい」と書いてくれました。それは、うわべの言葉ではなく、自己顕示欲と劣等感でぱんぱんになった私のことが先生には見えていて、それを歪んだ形でなく、なんとかして吐き出して楽になりなさい、と言ってくれたのだと、今でも思います。
私は東京の大学に合格し、親ともめにもめて進学することになりました。クラスメイトからは「人生終わったヤツ」とみなされる大学でしたが、東京に行ける、一人暮らしができる、というだけで私は有頂天でした。東京も一人暮らしも、とても怖かったけど、きっと東京が私の過剰な自意識をこてんばんに叩きのめし、けずりとってくれるであろうという期待がありました。学校では変わってるとか言われてても、東京では私みたいなのなんか掃いて捨てるほどいて、全然変わってもいなければ、サブカルについて詳しいわけでもないのだと、そういうことを思い知るいい機会だと思いました。
そして、私の東京での大学生活が始まります。もちろん花の女子大生ライフなんてどこにもありません。そんな大学生活について、次回は書いてみようと思いますが、暗すぎて読むのをやめないでくださいね……。
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