ず・ぼん9 ●栗原均ロングインタビュー 特別寄稿 栗原均さんの力

文●益田忠夫 奈良県川西町立図書館長
ますだ・ただお●一九四四年生まれ。奈良県川西町立図書館長。

親しみこそ

 初めて栗原さんにお目にかかったのは、一九六九年の夏でした。私は、当時、大阪にあった桃山学院大学図書館の司書講習事務室に勤務していました。栗原さんは、大阪府立中之島図書館の閲覧課長で、講習では参考業務を担当されていました。講師はいろいろな図書館や大学の方がされていましたが、事務室に入ってくる時、いつもニコニコ顔で、「こんにちは! どうかね、元気でやっているかね」と気軽に声をかけてくれるのは栗原さんだけで、親しみやすく元気なおじさんという雰囲気がありました。
 翌年から、私は司書講習事務室を離れ大学図書館の仕事を本務とするようになりましたが、司書講習が廃止になるかも知れないから、今のうちに司書講習を受講するようにと上司から言われ、私も栗原さんの授業を受けることになりました。講義はいつもおもしろい世間話から始まり、いつになったら本題に入るのやらと思っていると、いつの間にか核心に触れられていました。いきなり参考業務のサの字からでは、初心者にはつらいものがありますが、誰でもが関心を持っている事柄から本題へと進む展開の妙、そして受講生を退屈させずに自分の側に引き込む力の見事さは、そのあとも衰えることなく今日まで続いておられるように思います。
 司書講習の受講を終えてからは、栗原さんと直接的な関係はなくなり、私は大学図書館の仕事に熱を入れていました。当時、大学紛争の影響もあって、学生に役立つ図書館をめざして、開架レイアウトの工夫や指定図書制度の確立、そして学生向け機関紙の発行などに努めていました。しかし、目的を達成できないことも多く、特に指定図書制度では、自著しか指定しない教員の利己と試験期のみに指定図書に群がる学生に愕然としました。また、図書館がいくらがんばっても、主導権はいつも教員が握っていて、しょせん図書館職員は下働きなのかと落胆していました。教員と学生との間でもがき、理想に走る若さも手伝って焦燥感にさいなまれていたように思います。
 そんな日々が続いていた一九七三年の春、司書講習事務室の親しい先輩職員から「益田君、堺市立図書館に来ないか、と栗原さんが言われているがどうかなぁ」との電話が入りました。この間に、栗原さんは新築移転開館間もない堺市立図書館に館長として出向されていたのでした。約三年ほどお会いしていないのに、よく憶えていてくださったことと少々驚きました。そういえば、司書講習事務室時代に、栗原さんが「益田君は、図書館職員らしいねぇ」と何の脈絡もなく言われたことを思い出しました。どこを見てそのように言われたのか、今になっても分かりません。図書館のことをゆっくりと話し合った記憶もなかったからです。新しくなった堺市立図書館については、いかにも「日本的あまりにも日本的!」との見出しでミニコミ誌に評されていたことは知っていましたが、栗原さんが館長なのだから、大学でのうっぷんも晴らすことができるだろうと、女房にも相談せず、その場で「よろこんで!」と即答しました。栗原さんへのイメージから、開放的な公立図書館の世界を想像しました。サービスの対象が、大学の固定された対象から、不特定多数の市民・住民に変わると思うと、なにやら爽快な気分で大学から帰宅しました。

課題の発見、解決の糸口は現場から

 一九七三年七月、私はお話をいただいた堺市立図書館に転職しました。最初の日、栗原さんは職員を前に「益田君は大学図書館での経験もあり、なんでもよく知っているので、頼りがいのある人だ。」と紹介され、すっかりその気になっていたのですが、すぐに鼻をへし折られました。ある日、「益田君、館長室に」と呼ばれました。「一カ月が経ったが、この図書館の課題は何だと思うかね」何にも考えてなかった私は、身近な職員のあり方がどうもなってない、などと答えました。すると「それもそうだが、私の聞いているのは、図書館サービスの課題なんだ。この一カ月で何かをつかんでくれたかと思ったが……。仕事というものは自分なりの大きな課題を持ってやらなきゃね。」私は、課題を見つけ出す分析力を要求されました。またある日、「益田君、館長室へ」と栗原さん。今度は何を聞かれるのかと不安顔で館長室に入りました。「目録カードの編成を変えて、誰にでも分かり易いようにしたいと思う。君にそのリーダーをやって欲しいと思っているが、現状を見て何が問題だと思うかね」取りあえず得意分野の目録体系理論で答えたように思います。栗原さんは間髪を入れず、「通り一遍のことはもういい。君が現実をどう考えているかを聞きたいんだ」またまたがっくりです。栗原さんにとっては、自分なりの実践的な考えをしっかりと持った職員でないと役立たずなのです。負けず嫌いな私は翌八月、それなら巻き返しにと、現状分析・評価・目的・効果・態勢・費用を十分に練り、それを「計画書」としてプリントして、「堺関係新聞記事索引を作成したい」と館長室に勇んで提案に行きました。今度は何も言われることはないだろうと、やる気満々で趣旨を述べ終えました。その間、栗原さんはうなずくこともなく、聞き終えると冷静に言われました。「結構なことだね、やってみたまえ。だが、これに限らず、これからはやりたいことができないこともある。君は、大学図書館時代あれこれやったと自慢していたが、本当はものごとが何の障害なく、できたこと自体がおかしいのかも知れん。突っ走るんじゃなく、周りを理解させて、結果として思うことの五〇%でも達成できるようにすることの方が全体もよくなるということだ。本物の仕事ができるということはどういうことかを考えてみたまえ」。勇んで行ったものの、また諭されて帰ってきました。若さ特有の一本槍な行動は砕かれ、説得と調整そして定着へという手法を教えていただきました。栗原さんはこの「記事索引」に『さかいのひと月』と命名され、同年九月に創刊されてからは機会ある毎に外部に宣伝してくださいました。

 月末には職員会議があります。栗原さんは一カ月間の出来事の報告とともに、課題にも触れられます。そのとき、必ずでてくるのがいろんな数値です。図書館事業日数は一年間五〇週二五〇日と数えたらいいということから始まって、今では当たり前になっている貸出冊数・登録者数など、図書館活動を大まかにとらえる指標が何であるかを教えられました。若さとやる気だけが旺盛だった私たち青二才が、客観性をもった仕事ができるようにと、実践的な知識を惜しみなく教えてくださいました。新しい堺の図書館を目指して、諸改革を進めるために、その担い手である職員に考え、課題を発見させ、解決していく力を付けさせようとされていました。
 栗原さんは、本庁に出向いては予算のこと、人事のこと、運営のことなどについて、当局との折衝で外に出られることが多く、日曜日以外は館内で職員と顔を合わすことはあまりありませんでした。ある日、私たちが事務室で、なんだかんだと議論に花を咲かせていたそのとき、運悪く栗原さんがその場にやってきました。開口一番「君たちは、今、外(開架室)で何が起こっているか知っているのかね!」と一喝されました。みんな一瞬にして沈黙。論議よりももっと大切にしなければならないことが、今あるではないか、というお叱りです。事務室の外がサービスの現場であること、いつもその状況把握をしなさいという教えでした。栗原さんは、滅多に怒られませんでしたが、この一喝は、以来、今日でも揺らぐことなく図書館運営の基本となって、私の心にしみついています。

地域の中へ、人の中へ

 堺市は、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵、中世の自治都市として有名ですが、人物では与謝野晶子をはじめ、詩人・河井酔名、仏教学者で探検家の河口慧海、茶人・千利休などとも関係の深い地です。また、名著と名高い『堺市史』も発刊されており、市民の郷土意識には強いものがあります。そんなことを背景にして、栗原さんが館長に着任してから、いわゆる郷土史家といわれる人たちが、郷土への思いをさまざまな事業で実現しようと来館される姿をよく見かけました。熱心さのあまり無理難題を言ってくる郷土史家たちにも、常に希望を抱かせて帰らせる笑顔での応対ぶりは真似のできない栗原さんの真骨頂でした。私たちの知らないところで、堺についての勉強も随分されていたようです。「与謝野晶子の会」では講演もされ、その道の愛好家たちを聴き入らせ、郷土の詩人で「てふてふが一匹
韃靼海峡を渡つて行つた」(『軍艦茉莉』)で有名な安西冬衛の命日に執り行っていた毎年八月の「韃靼忌」では、大阪文学学校を創設し、校長だった詩人・小野十三郎ら錚々たる方々を招かれ、冬衛について論じておられました。ちなみに「韃靼忌」は、栗原さんが館長になられてから、図書館が行うことで復活されたように記憶しています。
 栗原さんの堺時代には、実にさまざまな多くの事業が展開されました。児童奉仕研究会発足(一九七三年四月)、姉妹都市バークレー・コーナー設置(一九七三年六月)、図書のリクエスト制度開始(一九七三年七月)、目録編成作業(一九七三年八月)、堺市図書館友の会の発足(一九七三年八月)、自動車文庫増設(一九七四年四月、二台に)、館内第二奉仕係の新設(一九七四年四月、児童サービス専門の係を新設)、津久野分室の創設(一九七四年五月)、解放会館図書室の創設(一九七四年一〇月)、大阪公共図書館大会を堺で開催(一九七四年一〇月)、泉ヶ丘図書室の創設(一九七五年四月、泉北ニュータウン内に設置)、貸出冊数制限を廃止(一九七五年四月)、図書館創立六〇周年記念事業(一九七六年五月、講演会、六〇年記念館報発行)、河井酔名詩碑除幕式(一九七六年五月一六日)、堺の出版文化を語る会の開催(一九七六年夏、郷土人で本を著した人たちの交流会)、また年月が思い出せませんが、子どもカーニバルの実施(おもに、全堺の文庫関係者のイベント)、登録者分布図の作成、図書館報の復活、郷土史連続講座等々です。栗原さんは、私の「記事索引」作成の時のように、職員からの提案については留意点を付して、ほとんど「やってみなさい」と後押ししてくださったのです。サービスポイントを増やし、特に係を新設して児童サービス態勢を強化されたことなどは、将来の図書館を見据えた方策であったと思います。少ない予算の中でよくここまで実現できたと思います。「お金がないから」ということで何もしないことは、栗原さんの下では許されませんでした。特に、泉ヶ丘図書室をつくるにあたっては、栗原さんと同じく大阪府立図書館から出向されていた南口氏が、職員をリードしながら住民の中に入り込んで、手作りで頑丈な木製のカウンターと椅子を製作して提供されるなど、工夫と献身的な働きで設立に貢献されました。お二人は、いわばあうんの呼吸で通じ合い、栗原さんも館内のことは南口氏にある程度任せていました。私たちは、何かにつけて、バイタリティ溢れる南口氏の影響も多く受けたように思います。いずれにしても、事業の大半は、図書館から外へ、そして市民のいる地域への浸透であり、同時に市民の中へ図書館が入り込む事業であったと思います。

詩碑建立、そして「周りの人」

 一九七六年五月一六日の河井酔名の詩碑建立では、その実現のために、栗原さんは関係者たちとの折衝に日夜奮闘され、その姿には、近寄りがたい研ぎ澄まされた信念と強固な意志を感じていました。しかし、すべてが順調に進んだ訳ではなく、事業を敬遠され相手にされないこともあったと思います。館長とはいえ当時課長級の図書館職員がなぜ詩碑建立の先頭に立つのか、教育委員会の文化関係部局がやることではないのか、いろいろな横槍や雑音があったと想像されますが、それにたじろがず、見事に詩碑建立を実現されました。おそらくすべての場面で、相手を「なるほど、のってしかるべきか」とその気にさせていたのだ、と思います。それは、話術ではなく一〇〇%、栗原さんのお人柄、ほとばしる熱意によるものです。
 今でも図書館前に建っている希望に溢れた碑文「年ごとにゆづりゆづりて譲り葉の ゆずりしあとにまた新しく」が刻まれた河井酔名詩碑は、図書館がその地域で生きなければならないという栗原さんの思想を集大成した一大事業です。郷土史家の出入りはますます多くなり、その影響は私たち職員の間にも広がりを見せ、身をもって詩碑建立を実現された栗原さんの姿から、郷土資料への取り組みの大切さを教え込まれました。もし、あれだけの事業をやってのけたのが私だったら、いい気になって、郷土資料の重要性あるいは図書館が地域に密着することの意義を論じたりすることでしょう。しかし、栗原さんはそのようなことはされません。職員には「ちゃんと私の姿を観ていなさい」と無言で語り、何も感じない鈍感な職員は無用であったのです。職員は鋭い感覚と学ぶ姿勢を要求されました。この意味から言えば、栗原さんは昔タイプの仕事人だったのです。
 「図書館は人である」とよく言われます。その場合の「人」は、職員が果たす役割の重要性を指しています。しかし、多くの郷土史家、市民、文庫の人、文化人たちが栗原さんに会いに来られるのを見ていると、「図書館は、周りの人で決まる」という意味も追加したくなります。「周りの人」の理解や支持を得ることがいかに大切かを思い知らされました。
 栗原さんはそれまで図書館を支えてきた人々も大事にされていました。堺市立図書館の専任初代館長で憲兵から蔵書を守り、反骨精神心旺盛だった田島清氏は、当時、嘱託として私の隣の席で郷土資料の整理をしておられましたが、栗原さんは、よくその労をねぎらわれていました。また、お身体が不自由な身にもかかわらず、『堺鑑』などを現在の私たちにも分かり易いように注釈を加えてひたむきに書き写され、図書館に寄贈されていた田島氏と同世代の先輩職員、河野文吉氏宅にも忙しい合間をぬって訪ねられ感謝の意を伝えておられました。お二人は私に「いい館長さんが大阪から来られましたね」と喜びを吐露されていたのを憶えています。

標的艦に?

 当時の同僚の話から想像するのですが、栗原さんは堺に来られて、自分は標的艦になろうと、心に決めておられたのではないかと思います。何事にも向かい風は吹くもの、それを乗り越えたところに到達点がある、それを当然のこととして受け止められていたのではないかと思います。課題を克服する過程は、図書館の評価を上げる過程であり、その渦中に身を置くことにむしろやり甲斐を感じておられたのかも知れません。お陰で市民の利用も飛躍的に伸び、五年間に職員も叱られながら徐々に力を付け、他の図書館職員とも対等に論議できるようになっていきました。

ずっと憶えてくれている

 一九七七年に、栗原さんは職員をはじめ、郷土史家、文庫関係者、図書館友の会会員、そして市民から惜しまれながら、大阪府立中之島図書館に戻られました。少し経って、日本図書館協会の事務局長、理事長となられていくのですが、この間私はご無沙汰ばかりでした。しかし、実に約一七年ぶりの一九九四年五月、勤務中に思わぬ電話をいただくことになります。「堺を変わるつもりはないかね。取りあえず履歴書を送って欲しい」どこの図書館に変わるのか分からないこともあって、中途半端な答えをしました。しかし、栗原さんが紹介されるところに間違いはないし、堺よりもやり甲斐のあるところなら変わりたいという気もあって、すぐに履歴書を出しました。実は、栗原さんがいなくなったあとの堺の図書館は、施設数で三倍の一一館、職員数も四倍の一二〇名ほどになり、課は部となり、組織は巨大化していました。栗原さんに育てられた私たちは、館長代理級や係長級になっていました。多人数になった組織はトップの権限が強固になり、ものごとがぎくしゃくし始めました。私は若い職員との間に世代の違いを感じ、上司とは何かにつけて衝突し、消耗と孤立を繰り返し、先の見通しがないまま、惰性へと流れかけていた時でした。履歴書を出してから二カ月くらい経って、「奈良県の川西町が図書館をつくるといっている。準備が間もなく始まるそうだ。行ってみないか」とのご連絡をいただきました。長年のご無沙汰にもかかわらず、気にかけていただいたことに感謝をし、今度も、女房にも相談せず、二つ返事で喜んでお受けすることになった訳です。これで、私は行き詰まっていたときに、二度とも別の図書館に移るというかたちで、栗原さんに助けていただいたことになります。川西町でどんな図書館をつくるか、こんどはうっぷん晴らしではなく、じわじわと町民に浸透していくような図書館、そして町民から支持される図書館をつくりたいと心に決めました。栗原さんに紹介していただいた限りは、ちゃんとした結果を出さねばならぬ、と思い今日まで努めてきました。一九九六年一一月の図書館の開館式典には、快く来賓としてお越しいただき、人口一万人弱の小さな町のお祝い事に花を添えていただきました。でもそれは、お祝い以上に、「しっかりせえよ、益田君、これからだよ」という励ましになりました。

強固な実務・現場主義

 栗原さんの名を聞けば、誰でも「日本図書館協会の栗原さん」と言い、続けて「大阪府立図書館の栗原さん」と思うことでしょう。しかし、たった四年間という短い期間ではありましたが、一緒に仕事をさせていただいた私から言えば、「堺時代の栗原さん」だけが今なお続いているのです。何故なのか。それは栗原さんの強固な実務・現場主義に共鳴するからです。堺時代はもちろん、日本図書館協会の理事長になられても、栗原さんの凄まじいばかりのエネルギッシュな行動力に敬服しています。また、現実を切り開いていく力の源が、現実そのもの中にあるからこそ、どんな局面でも対応できるのだ、と思います。理論からことを展開し、それをもって現実の図書館を動かそうとするのではなく、今立っている現実から一歩進んだ連続性のある理論を生み出し、それを実現する態勢づくりに努める、これが栗原さんから学び、私の身についた思考方法です。この考えからすると、図書館の現場に一回も立ったことのない図書館学の学者さんが、あれやこれやとぶっている図書館論が、いかに無力なものか。私にとって、栗原さんの存在が大変身近に感じられるのは、終始、現実そのものにまみれている姿を見せてくださるからです。