ず・ぼん6●[境界人、菅原峻の途中総括]助言者という選択
[境界人、菅原峻の途中総括]助言者という選択
菅原 峻
[1999-12-18]
菅原峻という人の生き方が気にかかっていた。
敗戦後の再建期から日本図書館協会に25年勤務した。この間、協会は1963年の『中小レポート』、71年の『市民の図書館』という提言をまとめた。
住民みなが使いやすい、役に立つ図書館はどう実現するかを説き、来るべき図書館振興策のありかたを暗示した。それが職員の職場改善のみならず、時代の要請もあり、全国の自治体・住民を動かし、図書館を見直したり、新しく図書館を始める自治体が急増した。現在も読まれる『市民の図書館』の増補部分は菅原氏の執筆という。
73年、協会は世田谷区太子堂に図書館会館を建設し、本拠とした。協会が図書館界をリードし、図書館が全国の住民に押し上げられた時期であった。
ところが菅原氏は、協会の戦後の骨格づくりに関わり、当時、総務部長職にあったにもかかわらず、78年に協会をやめてしまう。転身先は、現場の図書館長でも図書館学の教授でもなく、日本で初めての図書館づくりコンサルタント業であった。
自治体の図書館計画・施設づくりを助言し、日本では未開拓だった「図書館建築」を若手の建築家とともに拓いた。一方で81年以来、図書館づくり住民運動を繋ぐ情報紙『としょかん』を季刊で刊行し、住民のよき助言者であり続けた。
図書館界の義務設置化要望等を批判し、“役所くさい”図書館の復活を危惧し、住民とともにある事を願ってきた菅原氏に、50年を振り返ってもらった。
図書館は今や、図書館員と行政と利用する住民だけで成り立っているのではない。良質で多様な出版産業が必須なのはもちろんだが、装備するカバーフィルム、備品、家具、コンピュータデータシステム、そして建物。関連業者と物品の支えと供給があって初めて成り立つ事業分野に成長した。
菅原氏は凡プレーヤー(図書館員)の思いが及ばない場所で、せっせとグラウンドを整備し、スタジアムを建設し、その範型を示してきた“境界人”でもあった。
(堀 渡◎本誌編集員)
話◎菅原 峻
すがわら・たかし●1953年3月文部省図書館職員養成所卒、同年4月から社団法人日本図書館協会に勤務。1978年3月に退職して図書館計画施設研究所を創設。また、アメリカ合衆国、北欧、東欧の図書館事情を視察し、1975年フィンランドで開催されたユネスコ図書館建築会議にも参加した。
研究所創設後、全国にわたり数多くの計画を手がけ、また設計のコンサルタントとして、すぐれた図書館建築の誕生に手を貸している。(写真提供/佐賀新聞社)
図書館人生五〇年の初めに浪江虔の『光村々に』があった
—『ず・ぼん』、ご存じでしたか。
いや、はじめて見ました。この第五号は浪江さんの特集ですね。正月に浪江さんから年賀をいただいたとき、なにかずいぶん弱々しい感じを受けて、ちょっと気にかかっていたのですが、とうとう亡くなられて……。
—浪江さんとはお親しかったのですか。
普通のおつきあいでしたけれど、思い出はいくつかありますよ。1966年4月に叶沢清介さんが協会の事務局長になられ、やがて「公共図書館振興プロジェクト」をはじめました。その研究会を別所温泉で開いた折、叶沢、浪江、私の三人、それに石橋(幸男)君もいたかな、上野から列車に乗ったのです。1つのボックスに陣取って、お酒が入ったのでしょう。そこで浪江さんの一代記、『ず・ぼん』にある話を上野から上田までずっと聞いたのです。叶沢さんもはじめてだったらしいし、もちろん私もはじめて。以前にも断片的には聞いていたような気がしますけれど。
—叶沢さんはお元気ですか。
元気は元気だけれど、昨年11月に突然奥様を亡くされたでしょう、それですっかり弱られたみたいで、心配しています。叶沢さんはなんといっても私の恩人ですから。
—恩人というと?
そのことはあとで話すとして、浪江さんのことをもう少し話すと、私が図書館とかかわるようになったはじめのはじめに『農村図書館』『光村々に』(柏葉書院)と出会ったのです。あれは昭和22年、23年の発行ですね。その頃わたしは、北海道八雲町の役場に勤めていて、新しくできた教育委員会の職員に回され、そこで公民館づくりをやりました。公民館といっても日常的には図書室の仕事です。いま考えると冷や汗の出るようなことをやっていましたね。ひと口に言うと、本は大切な財産で、きちんと整理し、読みたい人は公民館まで出かけて来なさい。そこで読む。貸出のことなどはこれっぽっちも頭になかった。また部屋の壁に棚をしつらえ、たぶんガラス戸があったと思うけれど、棚に並べた本の前に私が坐る。お客さんは遠くから本を眺めて、「あれお願いします」と言う。いまは当りまえの開架なども、なにか特別のことでしたね。これはあとで図書館職員養成所に入ってからもそうでした。しかし私の友人などは昼間みな勤めているから公民館に来れない。そこで、その友人たちに相談して、夜9時頃まで図書室の当番をしてもらうことになりました。
—ボランティアによる夜間開館のはしりですか……。
そう、ボランティアなんて言葉はありませんでしたけれど。でも図書室をはじめた頃職員は私ひとりでしょう。席をはずすこともあるから、いつの間にかなくなる本もあって、それが分かったときは、がっくりでしたね。
もう1つ、図書室の仕事は、本の整理が本命と思っていました。図書室をはじめるとき、何も分からないから、近く……といってもその頃3時間くらい列車に乗ったかなあ……、函館図書館へ勉強に行ったのです。司書の岡田弘子さんがいて、この方が養成所の先輩ということはあとになって知りました。函館図書館がすごい図書館だということを知ったのもあとのあとですが、いま『岡田健蔵伝』(坂本龍一著・講談社出版サービスセンター)があってくわしく知ることができます。その岡田弘子さんが、「図書室をやるので勉強に来ました」という少年に、迷惑だったかもしれないけれど、いろいろ教えてくれました。本にはカバーがかかっているし、パンフレットなどは別に厚表紙をかぶせてあったりして、なるほどこうするものかと思ったのです。私なら、そんな1時間や2時間で何を教えられるかって追い返すところですけれど……。
—それで『光村々に』のことは?
ああそうか。いまでは何を書いてあった本か記憶にありませんけれど、とにかく感激したのです。教育委員会の職員といっても20歳すぎたばかりのひよっ子でしょう。それが社会教育係になって、いろいろ講座を企画しては人を集める。いま思うと空おそろしいことをやっていましたね。でもそんな仕事に『光村々に』は勇気を与えてくれたのです。その頃はアメリカ軍の占領中でしょう、そして日本を民主化しようといろいろなことを言ってくる。その中で、フォークダンスを教えよう、バドミントンをやらせようといっては講習の案内がくる。もちろん主体は北海道の教育委員会、講師はアメリカの人。そうすると、「お前行ってこい」となるのです。覚えてきたフォークダンスで、普及講習会を開く。私が講師。やがてクラブを作って毎週のパーティ、それは楽しかったですね。そんなことで、「文化国家」だ、「社会教育」だという掛け声に乗って、本気でいろいろのことをやった。私の町は、明治11年、旧尾張藩士15戸が入植し、原生林を切り開いて、農業によって町を作ったところです。早くから旧制中学校もあって、いわば文化・教育の中心地みたいなところがあった。でも広い地域で山の奥まで集落がある。そういうところにこそ灯を点さなければと考えたのです。それを力づけてくれたのが『光村々に』でした。いや、こんな古い話をしてもしようがありませんね。
—浪江さんのことは、『ず・ぼん』で「破天荒な図書館人」というタイトルで紹介しましたが、浪江さん抜きに戦後の図書館を語ることはできません。菅原さんが戦後早くに浪江さんの思想に触れておられたとは知りませんでした。
文部省図書館職員養成所2年間の貧乏暮しで前川恒雄に出会う
—ところで菅原さんは養成所(文部省図書館職員養成所)出身でしょう。同期に前川(恒雄)さんとか砂川(雄一)さんがおられたとか……。
そう、養成所へ入ったのは1951(昭和26)年です。公民館の図書室も閉塞状態で、やはり勉強しなくてはと思ったのです。自宅は公民館へ歩いて3、4分のところ、毎日下駄ばきで通っていた。養成所のことは、さっき言った函館の岡田弘子さんに聞いていたのだと思います。私は戦争中の旧制中学校卒業後、半年兵隊にもいってきた。やがて新制高校ができ、定時制も設けられたので、役場につとめながら、夜は学校へ。そして高校卒となっていました。しかし勉強からずっと離れているでしょう。いったい入学試験に通るものかどうか全然自信がない。そこで一計を案じて北海道立図書館の金田一館長の推薦状をもらうことに成功し、それをつけて願書を出しました。役場をやめて上京するのだから、万一落第したらたいへん、それでもう一つ法政大学も受けました。ところが幸か不幸かどっちも合格してしまった。本命は養成所だけれど、せっかく受かった法政をキャンセルするのも残念で、そちらは2部にかえてもらうことにした。そうして夜、昼の学校通いがはじまったのです。
—養成所の入学試験は難しかったですか。
もう覚えていませんね。面接のときに武田虎之助先生がおられたのですが、私は顔を知らなかった。で、志望の動機をきかれたときに、『公民館月報』といったと思うけれど、そこで武田先生の書かれたものを読み、本式の勉強をしなければと思ったのですと言うと、「武田はわたしだよ」とおっしゃる。びっくりしましたね。
学科試験は養成所の近くの台東区立上野中学校で受けました。1科目終わると廊下に出て休むのですが、そこで偶然に前川君に出会う。もちろんお互いにどこの誰とも知らない。すると、「今夜泊まるところがないんだ」と言うのです。そしてこれもまた偶然にそばに佐々木鑑さん、卒業後中央大学図書館に入りますけれど、その佐々木さんが「泊まるところがないなら、うちへ来なさいよ」という。不思議ですね。2人とも無事養成所に入りますが、「新4期」といいました。1年前に石井敦さんらがいた。養成所は2年ですが、僕らの学年には、いろんな人がいた。沖縄から琉球民政府派遣で5人でしたか来ていましたし、北海道立図書館の職員の三浦信一君、ご主人がシベリア抑留から帰っていない広瀬ツルさん。高校卒ですんなり入ってきたのは半分くらいでしょう。それで養成所の2年間、前川君とは一番親しい仲でした。休み時間には外へ出て、ロシア民謡や労働歌を歌ったり、授業中も最後列に坐って、先生の目を盗んで碁を打ったりです。彼は苦学力行、なにせ酒屋でアルバイトをしたから文字通りの力行ですよ。
—先生にはどんな方がおられましたか。
専任が服部金太郎先生、途中で病気になられて長く休まれました。
図書館プロパーの授業はNDCの千区分を暗記させられたりで、全然面白くない。でもこれをエスケープしては就職できないでしょうから、辛抱しましたね。面白かったのは、朝比奈貞一先生の自然科学史とか、三石巖先生の生活科学、日本美術史とか西洋美術史もあった。柿沼介先生は図書館史でしたか。秋岡梧郎先生の講義もありましたね。
勉強はともかく、僕や前川君は生活が苦しかった。夏休みになると私は帰郷する。いまでも彼のハガキがありますけれど、僕がいないので借金もできず大変だと書いてくる。僕は法政で育英会の奨学金を受けていたので、少し余裕があったのでしょう。でも昼めしはコッペパン1つ。小使のおばさんが注文をとってくれる。僕はパンだけ、これは10円。たいていの人はジャムとかバターを間にぬってもらう。そうすると15円。この5円が問題だった。それで小使室の火鉢に網をのせ、そこで開いたコッペパンをあぶる。すこしこげ目がつくでしょう。その味がジャム代りなのです。2年生になってからは、先輩の関美恵さんの勤めていた三井金属鉱業の図書室で1年間アルバイト、助かりましたよ。
偶然に入った図書館協会事務局で25年の生活がはじまる
—そして協会に勤めるのですね。
就職は、所長の伊東正勝先生の胸三寸。求人がくると、君ここへ行きたまえ、というわけ。私はどこでもよかった。郷里へは帰れない事情ができて、東京であれば大学でも公共でもよかった。ある日、日向ぼっこをしていると三浦信一君が、「図書館協会の事務局で来年1人採用したいけれど誰かいないかって事務局長の有山(たかし)さんが言うから、君を推薦しておいたけれど、よかったら行ってみないかい」と言うのです。図書館協会のあることは知っていたけれど、事務局なんてのぞいたこともないし、もちろん会員でもなかった。私はどこでもよかったわけですが、上野なら夜に法政に通うのも不便ではないし、いいかなと思って、さっそく挨拶に行きました。月給は7千円。当時石井敦さんが、神奈川県立(図書館)へ行くことが決まっていましたが、建物もできていないし、1年間の予定で協会で働いていた。その石井さんの代りなのです。しかし石井さんはもう1年協会にいることとなって、これは私にはたいへん幸せでした。
—前川さんが図書館協会に来られたのはいつですか。
前川君が協会に来るいきさつを話すには、もう少しさかのぼる必要があるでしょう。それは協会そのもののことですけれど、私が事務局に入ったのは1953年、その3年前に新しい図書館法ができました。図書館法ができる経緯は小川剛さんの『図書館法成立史資料』(小川剛、裏田武夫編・日本図書館協会)にくわしいけれど、ようやく協会も協会らしい体裁をととのえようとしはじめた頃といっていいでしょうね。私は昼間は与えられた調査部の仕事をし、5時になると法政へ出かけていく。図書館界の動きなどには触れることもなかったし、役員会にも出なかったと思います。ほとんど武田八洲満君、虎之助先生の息子ですね、彼が担当していた。しかし協会、ことに事務局が有山商会と呼ばれたりして、なにか有山さんに風あたりの強いことは知っていました。あとで有山さんが協会に私財を投じたように言う人もいましたが、それはなかったでしょう。でも有山さんは人に頭を下げないし、いやなことにはウンと言わないし、理事の地方の県立図書館長などは皆有山さんより先輩でしたから、目の上のタンコブに思っていたかもしれません。殊に関西、西日本の空気はそうでしたね。それが高じて、反有山が表だってくる。その時、いま記録を見ると1960年3月ですけれど、武田君が事務局を退いてしまうのです。突然ある日から出勤しなくなった。やめたのだと聞かされても、その理由の見当もつかない。普通は前もって分かるし、挨拶もするし、送別会だってするでしょう、それが神かくしにあったみたいにいなくなったのです。
彼はその後、長谷川伸の新鷹会の幹事をしたり、戦国小説も何冊か出しました。今では時代小説家としてのみ記憶されているかも知れない。私は、彼が小説を書こうとしてやめたのかと思っていましたら、すこし前、事務局のOB会で会ったK君から、「武田さんがやめざるを得なかったのは、関西の役員から、有山さんをやめさせて、つぎの事務局長にという働きかけがあったからですよ。それでは協会にいられないでしょう。それで、やめたのですよ」と聞かされた。私はエッと思ったり、なるほどと思ったり。そう言われると、その頃有山さんは、われわれに武田君がやめたことに何も触れませんでしたし……。
七尾市立図書館の前川恒雄が協会事務局に入る
—そんなことがあったのですか。協会なんて利権に関係ある団体でもないし、事務局長といっても金の苦労の方が先に立ったのでしょう。それからどうなりましたか。
それからがたいへん。事務局の古手といえば藤田(忠雄)さん、ところがこの人は図書選定専任。総務から調査、編集・出版すべて私の肩にかかるようになった。こんなこと1人でやれるわけがない。どうしようかと考えて浮かんだのが前川君です。養成所を卒業して彼は故郷の石川県小松市の図書館につとめ、やがて七尾市立(図書館)に移っていた。1度七尾市立を訪ねたことがあって、何してるのと聞いたら、辞書体目録づくりをしているという。この図書館は梶井重雄館長の下に笠師昇さんがいました。そうだ前川君を協会に引っぱろう、そう思って有山さんに相談したら、君がいいのなら、と言う。さっそく手紙を出した。東京に出てもいいという返事。それで協会の給与はこうだけれどと書いてやると、それではとても生活する自信がないとくる。いま細かいこと思い出せないけれど、ネックは給与なのです。有山さんにそのことを報告すると、そんな月給のことぐずぐず言うんだったらやめろというのです。やめろったって、上京してもいいと彼は言っているのですから、何とかしたい。事務局の給与、といっても本当に低かったのですよ、その職員の間のバランスを崩さないようにと、頭をしぼりました。例えば住宅手当を新設する、全体に若干の嵩上げをする、そうしてとにかく彼の不安を解消することにつとめた。一方有山さんは、前川ってどんな男? というわけで石川県立図書館長の市村新さんに電話する。もちろん市村さんは太鼓判を捺しましたから、やがて有山さん、金沢へ出かけていって前川君に会うのです。
—そんなことがあったのですか。前川さんが協会に来ていなかったら、図書館の歴史は大きく変わっていたでしょうね。こんな話は前川さん自身か菅原さんからしか聞けないことですよ。武田八洲満さんのことは殆どの人は知らないでしょうけれど、何か今につながっているものもあるような気がしますね。
武田君は、ジャーナリスティックなセンス抜群で、図書館雑誌の誌面なんかも刺激的でした。図書館の中立論争なども彼が仕掛けたのです。そのころ事務局があった建物は、地面の上にコンクリートを流したタタキが剥き出し。冬は石炭ストーブ。そのストーブにあたりながら石井、武田3人でしょっちゅう議論しましたよ。年格好もほぼ同じ、3人とも左がかっていたし。若い図書館員の団結を図らなければというわけ。図書館問題研究会の芽はここで出たのです。会の結成の呼びかけは54年3月、石井、中村光雄(豊橋市立図書館)、武田3人の連名ですね。3月には石井さんはまだ協会におられた。それを4月から神奈川へ持って行って神奈川県立(図書館)が根城になったのです。
—それで、菅原さんはどうなさったのですか。
私は、さっき話したように昼は勤め、夜は学校でしょう。とても時間はないし、もう1つは、短歌に熱中していたのです。時間があれば青山の佐藤佐太郎先生のところへ出かける。もう1つは貧乏暮しで内職に励んでいましたから。いま考えても、よく生活していけたなあと、われながら感心します。
—そうでしたか。ところで、すこし前の『図書館雑誌』に「中小レポートから市民の図書館へ」を書かれましたけれど、書き残したことがたくさんがあるのではありませんか。
『中小レポート』(日本図書館協会)には、私は直接はかかわらなかった。あれは、社会教育法が改正されて、社会教育関係団体に国庫補助金を出せるようになった。文部省は、こういう団体がある、そこにこれこれの補助金を、といって予算をとっているから、1つひとつ団体を呼んで、補助金を受けさせようとする。ところが日本図書館協会だけが素直でない。役員会に図らなければ、受けるか受けないか決められない。事務局長の有山さんは、ずいぶんせっつかれました。理事会では、そういう補助金をもらうべきでないという意見が強い。ずいぶん議論したようですが、もらうなら有効につかえる事業にもらおうということに落ち着き、それではじまったのが「中小公共図書館の調査」なのです。補助金は100万円ですけれど、協会も同額の100万円を負担する。合わせて200万円の事業、その予算を作って補助申請をするのです。いいように使えといって100万円くれるわけでない。そして協会の負担する100万円にしても、そう右から左へと出るお金ではないのです。この辻褄合わせには前川君と私も苦労させられましたね。そしてこれが3年続く。3年同じ仕事で補助金が出たのです。他の団体は知りませんけれど、図書館協会はずいぶんいい仕事に使ったと思いますよ。全国図書館大会の費用の一部にしたこともありますが、海外図書館事情調査も3年続けて補助事業としました。これは私が直接担当したアメリカの公共図書館システムの調査。その報告書が『5つの公共図書館システム』『アメリカ大都市の図書館』『小公共図書館のシステム』(いずれも日本図書館協会)と3冊出ました。しかし、こういうレポートが出されっぱなしなのですね。読まれているのかどうか心もとないし、その後の図書館協会の仕事にも反映していない。これは私なども反省しなければならないところです。
一杯のコーヒーから生まれた公共図書館振興プロジェクト
—お話しのはじめに別所温泉の研究会の話が出ました。あれは何だったのですか。
『中小レポート』が1963年3月に出ました。これがどう迎えられたか、どんなふうに批判されたかは、当時の図書館雑誌を見れば分かりますね。ひと口に言うと賛成もあれば反対もある。そして若い図書館員の血をかきたてたものの、実践となるとそう簡単ではなかったのです。それにあれはけっこう頁もありましたから……。そしてその年の10月から翌年にかけて前川、鈴木(四郎)両氏がイギリスの図書館へ勉強に出かけた。その前川君が65年の4月に図書館協会から日野市に転出してブックモビルから図書館サービスをはじめる、そして有山さんが8月に急に日野市長になるのです。
どんな立派な報告書を作っても、それを出しただけでは日本の図書館は動かない。目に見えるかたちで図書館のありようを示さなければ、『中小レポート』も生きない。日野市の実践はそうだったと思うのです。
それで協会はと言うと、前川君はいなくなる、有山さんも66年3月に、あとを長野県立図書館長を退かれた叶沢さんにまかせて去る、ということで、大きな転機をむかえました。そうして1968年の3月だったと思うのですが、協会の役員会が開かれた。終わってからコーヒーでも飲もうと、高知市民図書館長の渡辺進さんに誘われて、わたしと石橋君と、もう1人誰かいましたね。上野公園を下りたところにある、たぶん「世界」といったんでなかったかな、そこへ行った。いまならビールでもとなるのでしょうけれど、コーヒーだけでした。渡辺さんは、『中小レポート』のあと協会は何もしないのか、このままで終わってはダメじゃないのかと言われるのです。いや何もしていないことはない、『中小レポート』のあと今度は小図書館だ。これは『中小レポート』が望ましいサービスのために人口5万の規模を言っていましたから、それより小さい市や町村は切り捨てるのかとなって、小図書館運営研究委員会を作った。1964年です。でもこれは結局たいした成果を得られなかったと私は思っています。
—それで、コーヒーから何が生まれましたか。
そう、コーヒーからですね。結論は「何かをやらなければ」で、「何をするか」は、これから考えよう、すぐ名案が出るわけじゃありませんね。そのとき私は、高知市民図書館が、ユネスコ協同図書館事業に参加していたことを思い出していました。これは各国からこれはと思われる図書館を推薦する、それも発展途上にある国の図書館が主だったと思いますけれど、それらの図書館をプロジェクトのメンバーとして、情報交換やユネスコからは資料提供をして発展を援助しようとしたものです。
このユネスコの事業のことも頭に入れて「公共図書館振興プロジェクト」を始めようとしたのです。68年度に入ってからです。まず優れた活動や経験を交流する、その成果を全国に普及する。目的をそこに据えて、プロジェクト参加館を募集し、日野、平塚、七尾、上田、防府が加わった。内容は前川君に相談した。何と言ってもプロジェクトの牽引車は日野ですから。そして各図書館は2カ年にわたる発展計画を出し、別所での研究会となったのです。討議には、渡辺進、森耕一、浪江虔、そして栗原嘉一郎さんも加わっていますね。職員の交換研修の旅費もみたり、今でも何かやってもいい計画ですよ。そして、纏めに運営の手引きを、これは70年2月箱根で合宿。やはりみんな若かったのですね。資料提供は図書館の本質的な機能である、これは前川君の主張だけれども、いや本質的ではない、基本的な機能とすべきだ、そう主張する人、こっちの方が優勢だった。いま考えると、前川君に対する対抗意識も潜在していたでしょうね。
—そして、『市民の図書館』(日本図書館協会)の誕生です。
そう、プロジェクトの報告、これも国の補助金を受けていましたから、報告書を作り、全国に配布した。『市立図書館の運営・公共図書館振興プロジェクト1969』です。B5の焦茶色の表紙。ところが、どうも協会から送られてきたパンフレット、中身を見ずに何処かに積んでしまったところが多かったみたいですよ。みなさんもうご存じないかも知れませんが、愛知県常滑市の図書館長をされた原祐三さん。ユニークないい仕事をされた方ですが、図書館長を命ぜられると、方々へ出かけて勉強した。しかし、何処でも親切にはしてくれるけれども、「これからの図書館はどうあるべきでしょうか」という問いには、あまり明快に答えてくれるところはなかった。そうして何かないかと図書館の中を探している時に、このプロジェクトの報告に出会ったと言うのです。
この報告を、少し時間を置いて新書判にしたのが71年の『市民の図書館』です。報告の版をそのまま使えるように、工夫したのです。今度は、『中小レポート』とは違って手頃だし、読み易く工夫しましたから、大いに歓迎されましたね。これまでにどのくらい増刷したのかなあ。
瓢箪から駒の図書館会館建設事業
—叶沢さんがいらしてから、1973年の図書館会館の建設になりますが、会館建設は何がきっかけではじまったのですか。
協会の事務局は、長い間上野図書館裏の木造2階建を借りていました。2棟あったけれど、はじめは東京芸大に近い方、叶沢さんが来てから、図書館に近い方に移らせてもらった。その頃、若い職員が病気で亡くなったり、いろいろあって、引越すようなら御祓いをしてもらったらと私が言ったのです。叶沢さんが昔文部省にいた頃、迷信の全国調査をやったことがあるそうで、それはあとから聞きましたけれど、御祓いには反対しませんでしたよ。それで毎年家主の上野図書館と借家契約を結ぶ。そのたびに火災でも起きたらたいへんだから、どこかいいところ見つけて出てくれないかと言われる。なにも好きこのんで借りているわけじゃない、歩くといまにも床を踏みぬくかという建物でしょう。事業部など斡旋用の図書を2階に積み上げて仕事していたから、危ないことは言われなくとも知っている。でも、協会の実力からすれば、こんな借家住まいがふさわしいかなと思うことも事実でした。叶沢さんにすれば、文部省にしろ、長野県立図書館にしろ、鉄筋コンクリートのお城にいたのですし、協会に来たって独立の局長室があるわけじゃない。朋友の有山さんに頼まれたのと、図書館が好きだから来られたんでしょう。
—建設の計画はいつごろからですか。
いやあ、計画的に事業を準備したなんていうものじゃない。瓢箪から駒ですよ。あるとき大蔵省筋から『大日本貨幣史』を発行したけれど、どうやって売っていいかわからない。全8巻、定価で8万8千円もする本、武家の商法ですね。僕は関係していなかったけれど、とにかく図書館に買ってもらう方法を考え出して、相当数さばくことができた。このことに恩義を感じて、もし協会で何か困っていることがあったら言ってください、お手伝いしましょうと声がかかった。これが発端です。困ったことといえば事務所問題でしょう。それで実は……と話したところが、まず土地が先だろうから、国有地でどんなものがあるか調べさせようとなって関東財務局に照会がいく。候補地があがる、下見をする……トントン拍子でそこまでいきました。もちろん常務理事会に報告する。でもかりに国有地に手頃なものがあったとしても、タダでくれるわけじゃない。でも協会には全然お金がない。無手勝流というけれど、まさにそれ。財産の処分や何やで頭金をつくり、あとは年賦払いです。土地が手に入ればつぎは建築でしょう。お金がないから寄付に頼る。もう1つ船舶振興会か自転車振興会の補助金、これがもらえると金額が大きい。しかし会館をギャンブルの上りをもらって建てるのかと、反対する人もいる。いま考えてもよくやれたなあと思いますね。叶沢さんは辞を低くして、どこへでもでかける。ほとんどお金づくりの毎日だったでしょう。会長の森戸辰男先生にもずいぶん無理をしていただきました。企業の寄付金を免税扱いにするには大蔵省の認可がいる。指定寄付というのですが、この交渉に森戸先生を先頭に宮沢喜一さんを訪ねた。すると用向きをきいてすぐ大蔵省に電話してくれました。それできまり。電気事業連合会の寄付1000万円も、森戸先生と一緒に東電会長の木川田さんのところへ行って頼み、即決。こう話すとずいぶん楽みたいですけれど、叶沢さんや私が分担して回ったところもたくさんある。富士銀行へ頼みに行くと、そういう人たちがいっぱい来ている。どうも総会屋というか、そんな感じの人が多かった。そして気がつくと点字図書館の本間一夫館長も坐って順番を待っておられたのです。やがて私の番がきて総務の担当者に会い、そもそものはじめから趣旨を話す。私はここで寄付をもらうのでなく、銀行協会の会議のときにぜひ取り上げてもらうように頼みました。この時は、担当された方が、少し前まで名古屋の支店にいて、休みには家族で近くの図書館を利用していたというのですよ。そして図書館はいいですね、大切ですねという話になって、逆に励まされました。やあ緊張のほぐれたこと。もちろんどちらかと言えば、いや味を言われることの方が多かった記憶があります。
—そうですか。ずいぶんご苦労されたのですね。
苦労といえば、こんなこともありました。世田谷の太子堂の土地。あれにはちょっと問題があって売れずに残っていたのです。あのあたりは昔、陸軍の広大な練兵場のあったところで、そこに戦後引き揚げて来た人たちが入殖した。やがてその人たちに応分の土地払い下げがあったのですが、あの土地に何も権利をもっていないのに、区会議員から国会議員に手を回して横取りしようとした人がいる。それに異議を申し立てていたのが隣家のMさん。もし誰かに払い下げてそこに建物でも建てるようなことがあったら、放火する。罪人になって横取りしようとした人の非を訴えるというのです。そんなことで、財務局でも手をつけられずにいた。もしMさんが承知するなら、あそこを協会に売っていいという。それで叶沢さんと私とMさんに会いに行った。すると20センチくらいの厚さの書類綴を持ち出してきて、こうこうこうだと説明をはじめる。辛抱してそれをきいていました。一通り話の終わったところで叶沢さんが、実はこういうわけで、日本図書館協会という歴史のある文化団体が本拠地を作りたいのだ。70年も80年も歴史があるのにまだ借家住まい。ぜひMさんの理解を得てこの土地を手に入れたい、こっちもジュンジュンと話す。Mさんは金鵄勲章を2つももらっている、昔は部隊長だったという人。1度ではすまなかったけれど、それならと了解してくれて、あそこを手にすることができたのです。
図書館協会は今度八重洲に新しい会館を立てたけれど、世田谷の会館があったからそれもできたのでしょう。叶沢さんにちゃんと挨拶してくれたのかなあ。協会顧問だから新館完成の案内くらい送ったろうけれど、それだけではすまないですよ。そのあたりのこと多少は知っている職員もまだ何人かいるはずだと思うけれど……。
やりたいこともあったし、協会はもういいと本心からそう思っていた
—ところで、いよいよ、これがききたいところになるのですが、菅原さん、突然協会を辞められましたね。菅原さんが協会からいなくなるなんて考えてもいませんでしたから、えっとおどろいたのです。しかも、菅原さんなら、協会を辞めてもどこかの図書館長に迎えられるとか、大学で教えるとか、そう思っていたのが、独立して研究所をはじめる。2度びっくりでした。どうしてお辞めになったのですか。
どうしてというと困りますが、叶沢さんは有山さんのあとをついで1966年4月から事務局長になられた。叶沢さんは長く協会の役員もされたし、有山さんとはたいへん親しい仲でした。事務局の職員旅行も信州へ、そして長野県立図書館の職員と野球をやるとか、叶沢さんを知る職員も多かったのです。叶沢さんを知らない職員の中には、役人の古手が来る、しめつけがきびしくなるのではなどと、公式論で緊張する人たちもいましたけれど、叶沢さんはむしろ職員には自由に仕事をさせてくれて、尻ぬぐいは俺がやるからということではなかったでしょうか。私のことも信頼して下さって、やりたいことをやらせてもらいましたよ。叶沢さんは役人だったことは間違いない事実ですけれど、官僚臭はなかった。誰にでも丁寧に応対される腰の低い方でした。その点有山さんは、人に頭を下げるところを見たことがありませんね。日本人は握手とおじぎを一緒にするけれど、有山さんはむしろ背をそらすくらいでした。訪問者があっても、「やあ!」くらいは言ってもおじぎしたことはない。出自がそうさせたのでしょうか。
それから、僕たちは名刺を作っても肩書きのところは「社団法人日本図書館協会」とあるだけ。叶沢さんはこれはおかしい、世間に出ても協会自体が軽く見られる、と言われて、何人かの職員は例えば「総務部長」というぐあいに部長を入れろとなりました。総務部長といっても、せいぜい4、5人の職員のキャップにすぎないわけですけれど。
—そうでしたか、事務局の空気もだいぶ変わったわけですね。
そう、待遇のことなどもいろいろありました。叶沢さんの功績は図書館協会としてみると、公共図書館振興プロジェクトを推進して、『市民の図書館』を世に送ったこと、それと図書館会館の建設、この2つですね。とくに図書館会館の建設は叶沢さんでなければできないことでした。その会館が人手に渡ってしまうなんて、叶沢さんに申し訳ないから、僕は新しい会館へなど行く気になれませんね。叶沢さんの時代は森戸(辰男)会長、斎藤(敏)理事長そして叶沢さんと、このトリオといっては失礼ですけれど、とても息があっていました。森戸先生には私も信頼していただいて、全国大会のおともをしたり、奥様とは今でもおつき合いさせていただいています。会館建設のときも、率先していろいろのところへ足を運ばれたし、名前だけの会長ではありませんでした。
やがて斎藤先生が任期途中の七七年九月に理事長をひかれた。記録を見ると斎藤先生は六三年から理事長ですから、一四年も勤められたのです。すると叶沢さんも、七〇歳を過ぎたから事務局長を今期で辞めるとおっしゃるのです。叶沢さんは、会館竣工の七三年にご子息を亡くされていました。まだ借金が残っていたのですが、その悲しみを乗り越えて残務整理に全力を傾けられたのです。もういいと思われても無理がありませんね。そして、叶沢さんは内心ではあとを私にと思っておられ、そうも言われましたけれど、私は叶沢さんが辞めるなら、いっしょに私も辞めます、もう二五年も協会にいたのだからいいでしょうとお断りしました。叶沢さんはご自分が辞めると申されたときに、後任について誰がどう動くか周囲の空気も計っておられた。そして、私を無理に推すことはされず、じゃあ一緒に辞めようとなったのです。
そうですね、一つには、いいかげん私もくたびれていたでしょう。それに、辞めようという気持ちの方が先に立っていたのかも知れません。私は本心から、もう協会はいいと思っていた。というのもつぎのやりたいこと、私ならできるだろうこと、つまりいまの研究所ですが、この構想をずっとあたためていたのです。でもそれは誰にも言いませんでした。
すでに図書館運動は崩壊している
—そうでしたか。図書館運動の連続性ということは考えられなかったのですか。お辞めになったあと、八〇年には協会の定款改正、そして八一年には図書館事業基本法要綱案が推進されるなど、急激な変化が生まれていますね。お辞めになってからの図書館協会には、OBとして言いたいことがたくさんあるのではありませんか。
そう、あるとも言えるし、ないとも言えるし。ない……というのは、もう何を言っても仕方ないのでは、という思いですね。それと老人の出る幕ではないなあという思い。なるようにしかならないし……。でもこの五月に立川市で有山さんの没後三〇年の記念集会が開かれたでしょう。前川君が石井敦さんのところへ、何か記念にやらなければと言ってきて、石井さんから相談があった。日野市立の森下(芳則)君が世話役をやってくれるというので、じゃあ一度話し合いをしてみましょうと、ここ(研究所)に集まった。六人くらいかな、大部分は僕の知らない人。あれあれ、時代は移っているんだと思いました。その時僕の話したのは、有山没後三十年で、前川君の話をきく会を開くだけなら簡単。しかし、それだけでは三〇年記念にならない。やるなら、いま図書館の置かれている状況、あるいは図書館運動がいまどうなっているか、それをしっかり考える中からこれからの方向をつかめるような会にしたい。そのために、集まれる人に声をかけて、月に一回皆で議論する会を重ねてみたらと言ったのです。私は二回くらいしか出られなくて、あとは石井さんにまかせ、とにかく五月二四日の集会となったのです。
その時僕の言いたかったことは、図書館運動はすでに崩壊しているということです。崩壊が言いすぎなら、衰弱に向かっていると言い換えてもいい。図書館協会は果たして運動体なのか……です。
—ずいぶんきびしいですね。
ひとりくらい思いきったこと言ってもいいでしょう。また『中小レポート』に戻るけれど、あれは図書館運動の所産だったのです。単なる協会の事業ではない。図書館運動というのは、図書館の未来像を見つめながら、一人ひとりではできないことを、多くの図書館員の力を合わせ知恵を出し合うことによって実現していく、これだと思うのです。『中小レポート』は、まとめはたしかにロバーツ・レポートなどの恩恵を受けているけれど、図書館の実地調査には、延べで二〇〇人近い図書館員が参加した。そうして現状を見据え、どこにどんな問題があるかを議論し合ったのです。こういう「参加」が運動の一つの形でしょう。公共図書館振興プロジェクトもその流れをくんでいる。『市民の図書館』の原形の報告をまとめるときには、もちろん原案は前川君が執筆したけれど、序文にあるメンバーが一字一句検討を加えながら成案をまとめたのです。手前味噌になるけれど、図書館会館建設も、私は図書館運動としてやったから成功させることができたと思っています。でなければ、寄付金や会費の前納に当時あれだけの会員が応じてはくれなかったでしょう。
—で、いま図書館運動が崩壊したというのは?
それはすこし言葉がきついかもしれませんが、そして逐一協会の動きを承知しているわけではありませんけれど、協会は図書館運動のためにある、この原点を忘却しては、日本の図書館の未来はないと思うからですよ。なぜこうなったのか、それは一口では言えないだろうけれど、僕はこう思っている。
それは前事務局長で、いま理事長の栗原均氏は、かつて反有山の旗を振っていたのです。ここに『図書館雑誌』があるけれど、一九六五年一一月に熊本で開かれた全国図書館大会の公共図書館部会で、栗原氏が緊急提案といって発言しています。その年八月に有山事務局長が日野市長に当選、就任した。事務局長はそのままです。両立できないことは誰が考えても分かることですが、なぜ辞めないかというのですね。そして「局長の個人的努力で一千万に及ぶ買掛金を処理し、あるいはその給与を抛って局員に均てんすることもある由だが重大問題だ」といっています。「ある由」というのは伝聞でしょう。その時わたしは、総務部長という肩書きはなかったけれど、その部署にいました。有山さんが局長としての給与は受け取らなかったとしても、その分で職員の給与を嵩上げするほどは出ていませんでしたよ。こういう個人の名誉にも関することは、伝聞で言ってはいけないと思うのです。なにか為にする発言としか言いようがない。
これは前に言った西の方の反有山の動きを代弁しているのでしょう。その後叶沢時代を経て栗原氏が協会に来たことは、有山—叶沢路線からの離脱を意味すると思うのです。継承などしては自己撞着ですからね。それはそれでいいのです。新しい図書館運動が始まるのなら。
—なるほど、そうですか。
このことでもう一つ言うと、有山神話とでも言うか、戦後の協会再建時代に、有山さんが協会のために私財を投じて苦労されたと思われていました。私が事務局に入った頃もそうだったようですが、給料日になってもお金が足りない。そこで企業なら銀行から借りたりするのでしょうけれど、有山さんはお家から借りてきて運転資金にする。これはしばしばだったようです。でも、協会に注ぎ込んだ訳ではない。利息は取らなかったから、その分は寄付に当るかも知れませんね。有山さんとしては、ここまで育ててきた協会からなかなか手を引けない、いわば子離れできない母親みたいなものだったかも知れませんね。
運動ということで付け加えると、六〇年代七〇年代、多摩の図書館の興隆期、優れた仕事をした館長が何人もおられたけれど、協会の役につく人は殆どいない。自分の図書館の経営に全力投球していたのでしょう。これは多摩だけではない、いまもそうですね。そしてその人たちの代弁というわけではないでしょうけれど、八〇年代の図書館協会を心配する人たちが、前川君を説得して協会の理事に推しました。その結果はご存じでしょう。もう前川君を必要とする協会ではなくなっていたのです。運動の崩壊のもう一つの例としていえば、『市民の図書館』をどうしていつまでも放ってあるのでしょう。一九七〇年五月に第一刷を出し、七六年五月に増補した。この部分は私が書いたけれど、それ以来単に増刷を重ねているだけ。初版から数えると間もなく三〇年ですよ 時代は動いている。公共図書館をとりまく情勢はどうですか。そして進んだ図書館と、遅れ停滞している図書館との差はひらく一方です。八〇年代に入ったときに新たな見通しをたてて図書館運動を進めるべきではなかったでしょうか。一〇年を単位につぎの手をうっていく、そのようなサイクルがつねに図書館運動に求められているのです。
—それだけですか、まだありますか。
もう一つは図書館員教育でしょう。図書館のかかえる大きな、そして基本的な問題が人づくりにあることは多くの人が認めています。人づくりには時間がかかる。いま計画を立て、運動にとりくんだとしても、成果の現れるのは五〇年、一〇〇年の後です。その一〇〇年後を見据えた人づくりのプラン、これこそ図書館運動のとりくむにふさわしい課題だと思う。
地方分権そして図書館法の改正、基準の問題、委託もそうですね。その一つ一つに、問題が起きれば対応をする、要望書を出す、それを雑誌に載せる、それもいいでしょう。しかしそれらを協会のアリバイ作りだと批判する人もいるのです。
—アリバイ?
そう、何もしなかったのではない、その時その時の問題にちゃんと対応しているではありませんか、要望書も出していますよという、これをアリバイ作りと批判しているのです。つまり対症療法、熱が出れば解熱剤、のどが痛ければ抗生物質というわけです。まあ言い古されたことだけれども病気になる前の体力づくり、これを協会はいま何もしていませんね。これもよくお話するのですけれど、フィンランド、いまこの国は世界のトップレベルの図書館国です。北欧全体と日本とを比べても百年の差があるのだけれど、このフィンランドでも経済の停滞で図書館への皺よせがきている。自治体連合などは、これまで図書館法で無料とされているのを、有料にしてもいいのではないかと言い出した。その時図書館はあくまでも無料、この原則の堅持を国会に訴えるのに、国民の一〇分の一、五五万の署名を集めた。もちろんフィンランド図書館協会が中心となってです。マスコミもあげて応援するし、署名集めは書店の店頭でも行われた。日本でそれができるでしょうか。国民の一〇分の一は一二五〇万ですよ。その一〇分の一だって難しい。いや、できるでしょうかではない、やらなければならないけれど、根本には目がその方向にむいていない。
『日本の図書館』を開くと、いま公共図書館の個人貸出登録者が三三〇〇万人、半分が成人として一六五〇万人。この人たちを「本が読めて、やれ嬉しや」だけでない、図書館そのものに関心をむけてくれるようにしたい。これは一例だけれど、日本の公共図書館の情況に対して図書館運動として何をすべきか、それが問われるべきです。有山さんの記念集会の準備会でも話したのですが、図書館運動の再構築、それを一人ひとりの図書館員の声を積み上げながら求めていこう、上の方から何かがおりてくるのを待つのでなく、自分たちの問題として取り組もうというのです。
多摩地域で図書館運動を始めたい
—なにか具体的な提案がありますか。
提案と言うとなんですが、僕の夢は、多摩図書館学校運動です。いまもお話したけれど、人づくりが日本の図書館の最大の課題です。それに対して多摩から運動として始める。別に学校を作ろうというのではありません。勉強したい人、しなければならないと考えている人が集まって学ぶのです。運動としての学校です。一〇人でも二〇人でもいい。まず運営委員会を作り、プログラムを練る。テキストを選んで読み合う会もいい。講師を呼んで勉強するのもいい。見学会も勉強です。世界に目を開き海外に行ってみましょう。年間幾つかのコースを作り、多摩の志のある図書館員に加わって貰う。費用は皆で出しあう。人に頼らない。会場は図書館の施設を利用できるといい。勉強の記録をしっかり作って、それを共通の財産にする。このことも大切ですね。
また、これからの運動は、図書館員だけではダメです。この図書館学校運動でも、図書館の主人である住民と手を繋ぎましょう。それから、その時の議論でも出たのですが、図書館の職員の間にも世代間の溝というか、話の通じないことが多くなっているそうですね。この運動がすぐ溝を埋められるとは思わないけれど、何か見つけられなければ、図書館そのものが終わってしまいます。
—なぜ多摩なのですか? すっかり運動性がなくなってしまって、多摩地域にとっては確かに総括や第二革命が必要な時期だと思いますが、日本の図書館の中で、多摩地域のもつ意味のようなものがあったら教えてください。
それを私に言わせるのですか? 残念だなあ。まあ手初めとして、多摩の図書館の五〇年の総括を始めてみたらどうでしょう。事柄の羅列の歴史でない、流れの意味をたずねる作業です。六〇年代七〇年代の多摩がなければ、日本の〈いま〉はない。私はそう思っています。だから多摩からなのです。
もう一つは、ライブラリー・システムへの取り組み、それも多摩から始めて欲しい。まず研究会づくりです。これも勉強から始めなければなりません。アメリカなどは関東地方くらいの広さというか規模というか、システムの単位は大きくなる一方ですけれど、まずシステムとは何か、アメリカや北欧ではどうなっているか、その勉強から始めたい。そうしているうちに、何かが動き出すでしょう。
こういったことを、一人ひとりの図書館員の知恵と力によってやっていく、それが図書館運動なのです。
アメリカへの旅がその後の生き方を決定づけた
—ところで、お話を菅原峻さんご自身のことに移しましょう。協会を退職してすぐ研究所設立でしたか。
研究所のことはそんな簡単なことではありませんでした。私のこの計画は最初、西川馨さん(和設計事務所)に相談し、意見をききました。彼とは和設計が調布市立図書館の設計をした時に相談にのったのが縁で、ずっとつき合ってきました。昭島、町田、福山などの七〇年代はじめの図書館の設計を一緒に勉強したのです。西川さんには協会の施設委員会の委員にも入ってもらい、調査などもやりました。私は施設委員会では幹事ということでしたが、建築家の人たちともつき合って、いわば門前の小僧式に図書館建築のことを勉強したのです。協会には、新館建設の際の照会や相談が来ます。いちいち委員会にはかるのはたいへんですから、私で分かることは受け答えしていました。そのうちに、何か私のやるべきことが見えてきたのです。西川さんは原則賛成、しかし誰もやっていないことだからお互いに不安はある。しかし協会を辞める決心をしているなら、全面的に応援しよう。そう言ってくれて、私も決心が固まりました。やめる前の年の暮ですね。
退職の日付は一九七八年三月三一日。このときグループで北欧の図書館視察に行っていました。どこでこの日付になったのかなあ? 冬の北欧を経験しようとしたのです。三月といっても冬のさ中でした。ヘルシンキ湾は凍結し、雪の積もった上をトラックが往来しているのです。この時の旅は、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークと欲ばりました、
このビルに入ったのはその年の一一月。それまでは失業保険やあちこちのアルバイトで食いつなぎ、研究所として正式に動きはじめたのは翌年からですね。そして二〇年があっという間にすぎたのです。
—北欧といえばそのあとにも何回かいらしてますね。
そう、そのあと三回。その話に入る前にどうしても抜かせないのが、一九六九年六、七月のアメリカ四〇日の旅です。日比谷図書館の講堂を借りて協会の総会を開いているとき、アメリカ文化センターのウェルチ図書館長から斎藤理事長のところへ、人物交流計画で図書館から一人推薦するように電話がありました。先生は叶沢さんと相談されて、「菅原君。君、行ってこいよ」とおっしゃるのです。青天のヘキレキとはこのことですね。アメリカはもちろん、外国へ行くなんて考えてもいなかった。一生のうちにですよ。英語もできないし、こうなるんだったら少しは、などと思ってももう遅い。いや、むこうではちゃんとした案内がつくから心配はいらん、とおっしゃるし、事務局長も君しかいないと言って、もう返事済のようでした。運命というものでしょうね。この四〇日の旅が、私のその後を決定づけました。いまのこの生き方も含めてですね。
—四〇日の旅はどんなでしたか。
いやあ、アメリカに足を向けては寝られないという至れり、尽くせりの旅行でした。費用は一切むこう持ちだし、神田亮一さんという通訳兼案内の方がつきっきり。彼は大阪出身ですがニューヨークで貿易商をしており、いまでもクリスマスカードを交換しています。このときの視察記は『アメリカの図書館四十日』として協会から七一年に出版してもらいました。私は二つ考えていたのです。一つは銀座通りを案内されるのは仕方ないとして、できるだけ田舎へも行ってみたい、もう一つは、アメリカの図書館を見るのだけれど、アメリカの図書館を窓にして日本の図書館を考える旅にしたい、こう思って出かけました。幸いスケジュールも私の希望を入れて組まれ、田舎へも行きました。そして結果として最も大きな収穫はパブリック・ライブラリー・システムの実際に触れたことなのです。ライブラリー・システム、つまり図書館をもつ自治体の連合、これが何であるかをこの目で見たのです。ライブラリー・システムについて理解を深め、これを日本でも真剣に考えなければならない、そう思って『アメリカの図書館四十日』に書きました。その後も折にふれて話したり、『新版/これからの図書館』(晶文社)にも書きました。それでも足りないので、今年の一〇月に出した『図書館の明日をひらく』(晶文社)にも一章をたてています。これから日本の図書館を考える人たちには、ぜひ読んでほしい、真剣にです。それに、今ではインターネットで、アメリカにしろ北欧にしろ、その実際が瞬時に手に入ります。
—ライブラリー・システムは、言葉は誰もがきいています。しかし実態は知らないというのですね。
そう、四〇日の旅を終えて帰ってから、これを私一人の経験にしておくだけではいけない。図書館界の共有財産にしなければという思いで本も書きました。そして書くだけでなく、もっともっとたくさんの人たちにアメリカの図書館を経験してほしい、ライブラリー・システムのことを知ってほしいと考えてやったのが、先にも話した、一つは協会としての調査団の派遣です。この時の三冊の報告は、図書館に配付資料として送られていますが、先にも言ったように、だいたいは行先不明かもしれない、悲しい話ですけれど。しかし時代は移っていますから、もう一度、やってもいいのですね。もう一つは、希望者によるアメリカ図書館の視察ツアーです。これは四回ですね。研究所としてやったのは八二年、九○年、九二年で、これはきちんとレポートを刊行しています。
そして北欧も私自身五回になりました。最初が一九七五年で、ユネスコ図書館建築セミナーがフィンランドで開かれ、これに長倉美恵子先生と出席し、終わってから別コースを回っていた人たちと合流してデンマーク、チェコ、ハンガリーへ行きました。まだ冷戦時代でしたね。つぎが七八年で、団長が天理大学の高橋重臣教授でした。最近の九三、九五、九六年は研究所の主催で、報告は『白夜の国の図書館』(リブリオ出版)三冊にまとめましたが、北欧の図書館をこんな風に報告しているのは、例がないのではありませんか。いや図書館だけでなく、北欧を知る資料としても欠かせないと思いますよ。ただ残念なのは、こういう労作も図書館の書架に並んでいるだけなのですね。それと、図書館によっては何千円以上の本は原則として買わないというところがあるそうで、いったい図書館員は何を手だてに勉強するのだろうと、唖然とする話もありますね。
—北欧でもライブラリー・システムですか。
そう、例えばデンマーク。この国はいま世界で最も図書館が進んでいるといってよいでしょう。面積は九州より少し大きい。人口は五〇〇万ちょっと。そこが十四のカウンティにわかれ、ライブラリー・システムが確立している。九六年の旅で、向こうの図書館員組合の機関誌の編集者からインタビューを受けることがありました。「デンマークと日本と図書館の何処が違うか」と聞かれる。インタビューを受けたのは図書館員と建築家、それが異句同音に「日本にはライブラリー・システムがない」なのです。どっちにしろ、このライブラリー・システムについての取り組みこそ、これからの図書館界の本命の仕事にならなければならないでしょう。
戦後の図書館建築に関わるなかから生まれた本当の仕事
—さて、菅原さんの仕事は、これまで誰もやったことのないものですね。具体的にはどんなことなのでしょう。
研究所の仕事は、自治体の図書館計画づくりの手伝いにつきるのです。協会にいたころ、図書館を建設するようになったと相談がくるのですが、計画とよべるものは何もなく、同じくらいの人口のところで新しく図書館を作ったところはどこか、それを聞いてくる。設計事務所もB4一枚に室名を書いたものをわたされて立往生している。面積が与えられているので、とにかく輪郭だけは書いたが、その先どうしていいか分からない。そしてその輪郭図面を書架や家具のメーカーにもちこむのです。
実際にあった話だけれど、ある区立図書館で、図書館とはひと言の相談もなしに新館が作られ、完成してから、さあ引越せとなった。いまはさすがにそんな話はきかれないけれど、それに近い話はあるのです。
—どうでしょう、すこし図書館建築の歴史をふりかえってみていただけますか。
協会の施設委員会のことを少しお話しましょう。委員会が設けられたのは一九五五年、秋岡梧郎先生が六三年まで委員長をされた。しかし、特に活動らしいものはありませんでした。そのころ日本建築学会が若手の登竜門として設計競技をやっていましたが、五八年の課題は「市民の図書館」、それに栗原嘉一郎さんと佐藤仁さんの案が入選しました。協会も副賞か何か出し、発表の席で私はこのお二人に会うのです。佐藤仁さんにはやがて施設委員会に入ってもらいましたが、当時国立国会図書館の建築部(いまの赤坂の迎賓館にあった頃)にいて、新館建設で忙しかった。その忙しい中、施設委員会が八戸市立図書館の設計を引き受けたのです。一九六〇年ですね。委員会といっても混成部隊でしょう、チームを組むのもたいへん、またそれが外部にも聞こえて、いろいろ批判にもさらされた。
—批判というと、やっちゃいけないとか?
そう、設計というのは、ちゃんとした事務所がやるべき仕事で、寄り合い世帯でいったい誰が責任を負うのかとか、そもそも図書館協会のようなところがやるべきことではないだろうとか。
その批判には目をつむって、とにかく進めたのです。若い建築家が集まってケンケンゴウゴウやりました。いまは皆そうそうたる建築家になっています。船越徹、広部達也、大場則夫、新雅夫という人たちですね。施主と相談しながらというのではない、施主つまり八戸市役所の人も、餅は餅屋をきめこんで任せっきりでした。
はじめは、あんな小さい図書館なのに、誰もが中央書庫式を考えて怪しまなかったのです。国立国会図書館がそうだったでしょう。しかし本と人をもっと近づけたい、それにはどうするか。やがて書庫の壁をガラスにしてガラスの箱の書庫にしよう、いやそれならいっそ壁がない方がいい、そんな議論を重ねていってプランを固めたのです。いわば安全接架式ですね。それから保存書庫の要求もありましたけれど、なんといっても面積が限られているので、それは別棟にゆずりました。それまではどんな小さい図書館でも書庫は必備のものでしたから、施設委員会なんかに頼むと書庫のないものが作られてしまうなどの風説も流れました。
この図書館もやがて十勝沖地震で大きな被害を受けるのですが、その原因の大きなものは手抜き工事だったのです。神戸の地震でもそれがたくさん露見しましたね。
八戸では柱の鉄筋が設計よりも少なかったり、浜砂を使ったため水道管が腐食して、長い間に大量の漏水があったのに、それが発見されなかったりと悪条件が重なりました。
建築の方はそうでしたけれど、委員長の秋岡先生、それに国立国会図書館の古野(健雄)先生や私たちは、地域計画の案を作りました。八戸市に一つ図書館を作ればいいのではなく、サービス網をどう広げるか、その提案もしたのです。しかし当時はあまり省みられませんでした。
—それが七〇年代に続くのでしょうか。
いや、七〇年代以前に多摩平児童図書館があるでしょう。日野市の都電のお古の図書館が寿命が来て、新しく子どもの図書館を建てた。開館は七一年三月。設計は佐藤仁さん、山田弘康さん。仁さんは母校の横浜国大に移って教鞭をとっていました。この図書館もユニークな、図書館建築史に残るものですね。
建築とは別ですけれど、いや大いに関係があるかな、六五年の『中小レポート』ですね。それから、「基本計画」と呼べるしっかりしたものが出たのが、六八年の平塚市、七〇年の町田市の計画です。
こうして、一挙に七〇年代の幕が開らく。日野市立中央、町田市立、昭島市民、千葉市立北部そして福山市民と、続々と図書館が生まれました。やはり『中小レポート』によって公共図書館のあるべき姿が明確になってきた、そのことと、これらの図書館の誕生は直接に結びついているのです。そして『市民の図書館』でしょう。七四年には佐藤仁、西川馨共著の『公共図書館』(井上書院)も出ました。
—いよいよ図書館建築の黄金時代来たるの感を受けますが、七〇年代、八〇年代の図書館建築を総括するとどうなるでしょう。
七〇年代に生まれた図書館で、いまも顧みられるのは日野市立中央図書館でしょう。あとはいつの間にか色あせて、九〇年代の図書館の陰にくすんでいますよ、いちいちあげないけれど。
それは日野市立中央図書館の建築がなぜ成功したか、それをはっきりさせ、そこから学ぶものを学ぶ、そうしなかったからです。それと、建築はサービスの器、かんじんのサービスがガタガタでは建築もやがてダメになるのです。
簡単にいうと、図書館長に前川君がいて建築計画書を書き、この人と思う建築家(鬼頭梓氏)を選び、計画書という土俵で真剣勝負を闘った、それが日野を成功させたのです。このことは何度も何度も繰り返して言い、書いてきたことです。建物を見て回ってもそれはそれだけのこと、建築を成功させる条件を学ばなければ何年たっても同じなのです。
—一九八三年の浦安市立図書館はいかがですか。
日野から浦安までちょうど一〇年、一直線ですね。いまから見ると、立幅跳で一挙にとんだみたいに、日野と浦安は続いています。建築の思想も変わっていないし、最初、
二階に学習室みたいなものがあったのが中途半端ではあったけれど、館長に竹内紀吉さんが来て、建築家とがっちり取り組んだでしょう。設計者は図書館は初めてだったけれど、図書館側が館長をはじめとしてしっかり取り組んだから、あのくらいの建築になったのです。
このこと、つまり建築家と図書館長の果たすべき役割については、北欧の旅で、いやというほど聞かされた。図書館長と建築家がいかに闘ったかをですね。
図書館を評価するのはオープンしてから数年後にすべき
—そしていま注目される図書館というと?
建築としては、苅田町(福岡)と伊万里市(佐賀)、そして湖東町(滋賀)でしょう。僕は大阪市立中央図書館も評価しています。苅田と伊万里をやった寺田芳朗君は、和設計時代からの友人ですが、「設計は格闘技」だというのです。つまり施主とくんずほぐれつの関係によってこそ優れた図書館が生まれる、この主張を実践するのです。湖東町を設計したのは藤原孝一君、ちょっと言葉が悪いけれど、彼は鬼頭梓さんの子飼いでした。一九八八年に独立した時、たまたま全くの偶然ですが、このビルに事務所を構えた。いつの間にか意気投合して、私の仕事もずいぶん手伝って貰いました。そのなかで、僕流の公共図書館論を吸収してくれたと思います。湖東町は、木造で巧みに煉瓦を使い、ディテールの鮮やかな建築ですね。同じ滋賀県の日野町の図書館も藤原君らしさが溢れています。しかし彼に限らず、小さい、一人か二人の事務所で設計の仕事をとるのは、容易じゃない。もっともっといい仕事をして欲しいのですが。
—大阪市立は誰ですか。
大阪は石本建築事務所の設計ですが、コンサルタントをしたのは、島雄康一郎君という和設計のOBです。皆さんご覧になったと思うけれど、三鷹の駅前図書館は彼の設計です。
—ああ、小さいけれどアットホームな感じの図書館ですね。書架もユニークですし。
それで、大阪は設計事務所から図書館計画施設研究所にコンサルの依頼があり、私と島雄君で出かけました。図書館、市の建設部、そして設計事務所、この三者の打ち合わせなのですが、図書館は例によって、総務とか庶務とか図書館のなんたるかとは関係のない人たちが顔を並べる。それは仕方ないとして、そこで問題は出されるけれども、決定できない。持ち帰って組合と相談するというのです。そんなことが二度あって、僕は降りました。「島雄君うまくやってよ!」というわけ。彼は神戸の出で、向こうの水に合っているのかなあ。とにかく根気よくやったのですよ。旧館には広い学習室があったし、ホームレスをどうするかも大問題。あの図書館をひと口で説明するのは大変、ぜひ一度見て下さい。書架もいろいろ工夫していますし、家具も三鷹と同じですね。
—図書館建築と言うと、鬼頭さんとか和設計がたくさんやっていますね。
そう、相当の数でしょうね。鬼頭さんは建築家としては、建築家協会の会長もされたり、一流中の一流ですね。だけど、どんなに力のある人でも施主に恵まれないといい仕事はできない。これを私は「一人相撲はとれない」といっています。日野市立を超える図書館がなかなかできないのは、前川君と鬼頭さんが取り組んだようなことは、日本ではまだ例外なのだということですね。
—でも、長岡とか吉祥寺とか、図書館建築賞を受けていますよ。
あれは、図書館が貰ったのですよ。鬼頭さんはあの賞には批判があって、鬼頭さんとしては応募していないでしょう。話が建築賞にいったので、ちょっとそのことを話題にしましょうか。
今年はどこか知りませんけれど、昨年までに公共図書館が三九館受賞しています。一つひとつの図書館の評価は、個人の志向もありますからいいとして、私の一番言いたいのは、図書館サービスの評価をどうしているのかです。図書館建築賞でしょう、単なる建築賞ではないのです。図書館としてどうなのか、それを問わずにこの賞は成り立たない、私はそう思う。とすると、オープンしてから三年とか五年経過してから評価すべきですね。補助金目当てに司書館長を連れてくる、オープンのために本は揃えたけれど、次からは図書費は辛抱、司書もどんどん異動させられてしまう、それが実際です。それに、初めから司書館長でないところに賞を出すなんて、なんですか。館長には専門職を、そう協会は言っているのでしょう。佐藤仁さんの言った「建築だけがよくなるということはない」を煎じて飲ませたいですね。
—『としょかん』六一号に「図書館建築賞の〈宴のあと〉」を書いておられます。
そう、その三九館がいまどうなっているかを『日本の図書館』(日本図書館協会)で調べてみたのです。すると半数以上が司書館長ではない、住民一人当たりの貸出が一冊〜二冊という所がある、四冊未満で言うと九市町、住民一人当り資料購入費で一〇〇円〜二〇〇円台が九市町もあるという惨憺たるありさまです。そこで、館長は司書、職員の司書率が六〇パーセント、貸出は八冊、資料費八〇〇円の線をひいて、それを超えるところをみると、浦安市、苅田町、あと滋賀県の甲西町、八日市市、湖東町の合わせて五つ。まあ、日本の公共図書館の縮図かもしれません。五つのうち三つが滋賀県、この意味は大きいでしょう。
図書館は「作る」のではなく「始める」もの
—菅原さんから見て、いま図書館建築の喫緊の問題はなんでしょう。
何と言ったって、計画作りですよ。計画書は、相撲の土俵、土俵がしっかり作られなければ、いい勝負は期待できない。いま多くの場合、原っぱに棒切れで円を書き、そこで相撲をとっている。計画書を作るのは、図書館長の仕事、あるいは準備の中心になる人の仕事です。かつては計画書とはどういうものか分からなかったこともありますが、いまは下敷きが幾らでもあるし、勉強すれは外国の例も参考にできます。ただ、下敷きだからと言って、丸写しは困りますよ。
—そんな例があるのですか。
あって、あって。ある町での話ですが、町民の願いが叶って、建設懇談会が設けられた。そこに町から「基本構想」が出されたのですが、「これ以上のものがないくらい素晴らしいものが提案されました」と、大喜びの手紙がきました。「それはよかったですね、できればコピーを送ってください」と言ってやったのです。コピーが来て驚いた。なんと研究所が何処かでやったレポート丸写しなのです。著作権もヘチマもない。でも、町民ががっかりするといけないからそのままにしましたけれど。
それから、計画作りを役所だけでやる時代ではありませんね。住民と共に図書館を作る、この姿勢が何よりも大切です。姿勢だけではない、実際にどう運ぶか、それも住民の知恵を活かしながら考えるのです。
それから「作る」と言いましたけれど、本当は「図書館を始める」と言うべきですね。「作る」は建物を建てることに頭も目もいってしまいますから。そしてしっかり建築家を選ぶ。これが一番難しいかも知れませんね。これらのことは、私だけでなく、何人もの人が書いたり言ったりしていますから、いまは勉強の材料に事欠きません。要は勉強するか、しないかですよ。
—建築そのものについてはいかがですか。
吉武泰水先生は、かつて「図書館建築は難しい」とおっしゃったことがあります。難しいからいい図書館ができないのも事実でしょう。しかし、素晴らしい図書館が生まれるようにもなったのです。
でも、毎年百近くも建てられる図書館のうち、あそこへ行ってみようというものがあるかないか、これも現実です。その原因は幾つもありますが、施主の姿勢というか、問題意識がぜんぜんダメ。設計料の入札で安い設計事務所を選ぶ、コンペやプロポーザルといってもインチキが多い。「安物買いの銭失い」と昔から言うでしょう。分かっていても止められない。図書館や、図書館準備当局も設計者の選定には発言できない。
仮に図書館を設計するのが初めてだとしたら、勉強するのです。勉強すると、施主の計画に対して注文も出てくる。しかしあれこれ言うと施主に嫌われるから、「触らぬ神に祟りなし」というわけで、施主の言いなりの設計をする。なかには、私たちの言う通りに設計してくれましたという図書館もあるけれど、いいものはない。それは、このアメリカの本にも書いてあるのですが、ちょっと読んでみましょう。
「建築計画書が建築家に伝えるべきは、あくまでも何がなされねばならないかであって、いかにそれをすべきかではない。計画書は概念・情報・データを扱うべきで、平面図を描いたり、設計者に特定の回答を押し付けるような試みは一切してはならない。図書館建築のひどい例のいくつかは、計画者がこの戒めを守ることができず、建築計画者によって、自分自身のデザイン・コンセプトを建築家のそれとすりかえてしまったものである」(R・M・ホルト『図書館建築と設備の計画』)
最近もあったのですが、準備室の担当者が、「こう設計しろ」と言うのです。それなら自分でやったらいい。もう一つ言うと、せめて図書館員は、建築家を業者呼ばわりしないで欲しい。司書も建築家も、社会的地位の確立を求めている仲間なのです。建築という創造的な仕事に情熱を燃やせるように、図書館員の対応も大事ですよ。
—でも、はじめから図書館の現場の意見はお呼びじゃないという話も少なくありませんね。殊に有名な建築家が設計した図書館でその話を聞きますよ。
そう、お呼びじゃない。そして全然ダメな建築ばかり、いや建築としてはどうかしらないけれど、図書館建築として評価されるものは、殆どありませんね。県立図書館だと、知事に設計者として選ばれたので「どんな建築にするかは自由にさせてもらう」というのでしょうね。図書館側が何か言おうとしても、大先生が言っていることに口など出すな、というわけですよ。建築家としての才能は抜群なのでしょうから、図書館、そして計画者とじっくり取り組んだら素晴らしい図書館が誕生するだろうにと、残念ですね。
—それからこの頃、書架に照明をつけたものを見かけますけれど、あれは流行ですか。
流行かも知れませんよ。この冬に北海道へ行きましたけれど、小さい図書館にも書架照明がありました。私は、書架照明は止めようと言っているのです。その理由は今度出た本に詳しく書いたので、是非読んで下さい。私は、これからの図書館建築は、太陽の恵み、つまり外光を限りなく受容する、それを目指すべきだと考えます。太陽がさんさんと降り注いでいる日中に、書架照明もないでしょう。書架照明は北欧のものです。一年のうち半分は冬と言ってもよい国々、そこでの生活は、必要な処に必要な明りなのです。北欧の冬の経験がなくてこんなことを言える道理はありませんけれど、ちょっと見てきただけでマネをする建築家は信用できませんよ。それに、これからの人類の課題は環境です。日本は四季を通じて比較的安定した自然光に恵まれている、それをさておいて、格好に走る、その例が書架照明です。この問題は施主である図書館もしっかり考えなければなりません。一方的に建築家に押し込まれてはダメです。
—そうですか、でもいろんなことをやっていますね。この頃は車椅子でも使えるようにと、五段書架が主流のようですが、あれに照明をつけたものを見て、これは一体何だと驚いたことがありました。
もう一つ、図書館員にぜひ言いたいのは、サービス・デスク。その中でも貸出や案内のデスクは、職員と住民が同じ目の高さで向き合うように、高さを高くすべきです。図書館員はなにが何でも坐ろうとする、あれには参りますね。
図書館がよくなるもダメになるも住民次第、
図書館づくり運動との関わりにわが生き甲斐を
—今日は、いろいろお聞きすることができました。やっと菅原さんの口を開かせたという感じですが、菅原さん七〇歳をこえられたのでしょう?
こえたなんていうものじゃない。この本が出るころには七三歳。目も耳もうといし、物忘れも一人前だし……。
—でもこうしてコンピュータに囲まれて、やっておられるのでしょう。菅原さんのやっておられること、余人をもって代え難し、ですよ。で、図書館づくり運動との関わりはどうして始まったのですか。
どうしてと聞かれてもこまりますね、いつのまにかですよ。思い出すと、東村山市の図書館建設で、これはまだ協会が上野にあったころでしょう。当時の社会教育課長さんが相談にみえて、私も専門委員会議に加わることになりました。そこで川島恭子さんはじめ東村山の皆さんと会った、そのあたりに源があるかもしれません。東村山のことは『母親のための図書館』(晶文社)に書きました。
—ここに『としょかん』がありますけれど、これは六八号ですね。季刊でしょう。四で割ると一七、もう一七年になるのですね。この号は一六頁、そして第三種郵便物。このことを少し話していただけませんか。
月刊でなくとも第三種がとれるようになった。そこでさっそく認可を申請したら、申請料が一〇万円ですよ。これにはおどろいた。私は昔から「泣く子と郵便局には勝てない」と言っているのですけれど、一〇万円。しかも不認可でも戻してもらえないらしい。そこで計算してみると、たしかに第三種は低額だけれど、一〇万円のもとをとるのに五年はかかりそうなのです。郵政省もやりますね。
—『としょかん』を出そうとされたのは?
斎藤尚吾先生の始めた日本親子読書センター。そこが、毎年高尾山で泊まり込みの夏期集会をやっていました。その集会に一九七九年から続けて参加し、各地の文庫の人たちや図書館員の分科会に加わりました。図書館づくり運動で悪戦苦闘している話がいっぱい出る。いい知恵をもらったり励まされたり、また一年やっていこうという元気ももらえる。しかし、この集会のことを知らない人、出たいと思っても出られない人、そういう人も多いにちがいない。それと年に一回でしょう。情報交換の機会をもっと増やせないか、日本中に広められないか、そう考えて思いついたのがこの『としょかん』なのです。多くの人の手にわたすには、安くしなければならない。創刊号は一九八一年八月一五日。私としてはこの八月一五日に意味をこめたつもりですが、それは私だけのこと。印刷費はスポンサーを頼んで広告費でまかなう。皆さんには送料だけお願いする。少なくとも一〇部とって下されば、トントンにいく。その頃図書館づくり運動も大部分は文庫の人たちです。図書館づくり運動のグループもあるにはあったけれど、極く少数。皆さんの努力でとにかく創刊できました。協力して下さったのは、関千枝子、古賀清子、川島恭子、桃沢洋子、千葉治、本田明の皆さん。毎号集まって知恵を出して下さったり、顔ぶれが顔ぶれだから図書館づくりのさまざまを議論したりしました。そう、毎号イラストを無償で書いて下さった絵本作家、わかやまけんさんのご好意も忘れてはいけませんね。ニュースのまとめや実際の編集は私のところでやりましたが、なんといっても遅刊、欠刊なくここまでやって来られたのは、支持して下さる方々のたまものですね。
—いまでも皆さん集まって……?
いやだいぶ前から私のところだけになりました。ちょっとしたこともあって……。
—何です?
それは、私が『月刊社会教育』(一九八九年二月号)に書いた「図書館づくり運動のいまとこれから」の中に、「図書館引受株式会社を作って、図書館を預かろうかと話したことがある」とか「もしどうしても民間委託というなら、それも結構。民間である『図書館づくり運動』が図書館を引き受けたらよい」と言ったものだから、とてもそんな考えにはついていけないって、言われちゃったのです。それで、お手伝い願っていてご迷惑かけてはいけないからって、いまのようにしたのです。
—でも、それは委託肯定ととられるのではありませんか。
いま言った言葉だけではそうとられるかもしれませんが、この文章をよく読んで下さい。今日その議論をしていると夜が明けちゃうから。わたしの言いたいのは、図書館の主人は住民なのだというに尽きるのです。それを知って貰うための、逆説なのでしたけれど、ちょっと舌たらずだったかなあ……。
ともかく、この『としょかん』をもっと普及したい。その普及度が図書館づくり運動のバロメータになるでしょう。図書館の雑誌架に並んでほしいとも思うのですが、これも簡単じゃない。だいぶ前ですけれど、きっと試しにとってくれた図書館なのだろうと思うけれど、次からはいりませんと言ってきた。理由はひと口でいうと「危険な印刷物」。住民運動を励ます内容でしょう、こんなの町の人の目にふれていろいろやられたらかなわない、いまでも図書館づくり運動をその程度に考えているところたくさんあるでしょうね。それから、積極的にPRしない。私のところで知らないグループの活動もいっぱいあるらしいけれど、いずれ気がついてとってくれたらなんて思っているので伸びないのかもしれません。これはもう少し考えていっていいですね。これは内容をふくめてですけれど……。なにせ皆さん忙しいのですよ。生活をそっちのけにしてるくらい運動に忙しい人もいるけれど、世の中なんとなく忙しいですね。
—さっき送料の話が出ましたけれど、購読料は幾らですか、採算はどこで合わせているのですか?
『としょかん』は一〇部以上とって下さいとお願いしています。一〇部年四回で二〇〇〇円、五〇部だと六〇〇〇円。これは送料ですと言っています。一部当り幾らかなあ。五〇円と三〇円か。一〇〇部以上だと二〇円、小笠原村の「小笠原・図書室をよくする会」が一七〇部もとってくれていますよ。印刷部数は三五〇〇、採算は私のこの仕事を応援してくれるスポンサーのお陰です。
図書館づくり運動の集会をかねての日本縦断古希記念会
—さて、これからの目標というか、まだまだやるべきことがたくさんあるでしょう。それをお聞きしましょうか。
もちろん、まだやりたいこともあるし、体力も残っていると思うけれど、七〇歳まで図書館、図書館とやってきてよかったなあとつくづく思ったのが、古稀を記念する集会。これが全国で七カ所も開かれたことです。あるとき法政の小川徹先生が「菅原さん、来年古稀でしょう、お祝いしなくちゃ」とおっしゃって下さったのです。ところが僕は反射的に「お祝いなんてとんでもない、あれは絶対いやですよ」と言ってしまった。そんな会にいくどか出ているけれど、僕の性に合わない。言ってしまってから、せっかくこうおっしゃって下さるのに、いやだなんて失礼ですね。先生にはお世話にもなっているのに……。それで「実は古稀とは別ですけれど、いずれ図書館づくり運動をやっている仲間たちの地方地方での集まりをやりたいと思ってきました。もし私の古稀をダシにそれがやれたら嬉しいけれど……」と申し上げたのです。そうしてさっそく実行委員会がつくられ、尾山(純一)君のライブラリー・アド・サービスに事務局を置き、津田ミナ子さんや南田詩郎君らの骨折りでプロジェクトが始まった。そうそう、この尾山君というのが不思議な人物で、私がいまこうして研究所やいろいろやっていられるのは、実は彼の存在に負うところが大きいのです。
かつて鶴見大学で司書講習に出講していたころ、講習の終わったある日、郵便局からの帰りかな、道で「菅原先生」と呼ぶ人がいる。「私、鶴見大学の講習で先生の講義をきいた尾山という者ですが、うかがっていいでしょうか」という。「どうぞ、事務所はすぐそこだから」といって、ここへ案内しました。まだワープロもコピーも置いていないころ、いまはこんなにゴタゴタですけれど。その頃はずっとスッキリしていました。彼はこう言うのです。「先生の講義をきいてとても感激しました。それでぜひ弟子にしてほしいのです」と。弟子入りなんてずいぶん古風だけれど、彼にはそういうところがありますね。しかし人を雇ってやるほどの仕事をしているわけじゃない。そしてもともと、もう人に月給をはらう心配なんかしたくないと思っていたので、申し出はありがたいけれど、困りましたね。それで、「いや、すこし考えるから、しばらく図書館でアルバイトでもしていたら」といって、ちょうど港区立みなと図書館が開館準備中だったので、そこへ紹介しました。そう、いま浦安市立図書館長の常世田良君も一緒でした。やがてアルバイトも終わる。さてというわけで、尾山君には、「この事務所にいて、君は君で何の仕事をしてもいい。研究所の仕事があればそれを手伝ってもらって、応分の分け前をする。ほかに自分の仕事をみつけて稼ぐ」そう言って、共同生活がはじまりました。彼はTRCのアルバイトもしました。研究所の水戸市や三田市の計画も手伝い、やがてライブラリー・アド・サービスをはじめるのです。
—「本を選ぶ」という、あれですね。
そう、あれは私が協会にいる時に発案したものです。出版社が個々ばらばらに図書館へ送っていた宣伝の資料を毎月一括して図書館へ送る。発案者は私だし、ここでそれをやっても悪いことはあるまいと、ちょうど協会を退職した村松年さんを誘い三人で始めました。このトリオはうまくいかずに、やがて尾山君が代表となって一人でやり、私は研究所に専念する。幸いオフィスも隣り合わせで何かと相談に乗ってくれるし、いまではコンピュータのエキスパート、すっかり頼りにしています。その尾山君を古稀記念の実行委員会に加えてくれ、僕の考えは一から十まで彼が知っているからと小川さんに頼んだのです。
—それで簡単にいうと全国七カ所で古稀のお祝いをしたというわけですね。図書館界でこんな例は聞いたことありませんね。たいていは一カ所ですよ。
そうでした。お祝いはいやと言っても、記念品もらったり、大きな花束もらったり、言うこととやることと矛盾していましたね。全国というのは、武雄市(七月二○日)、福島市(九月一六日)、鶴ヶ島(一○月一二日、一九日)、福岡市(一一月一日)、熊取町(一一月二九日)、札幌(一二月六日)そして仕上げの中央集会が一二月一二日でした。でも私は、私個人が祝われているにはちがいないけれど、図書館づくり運動の成長が目に見えるかたちで現れているんだと思ったのです。できれば集会の方は毎年でなくてもいいから続けてほしい。福岡では、菊池美智子さん(柳川)、力丸世一さん(福岡)、池口由美子さん(前原)、椎葉和子さん(志免)らががんばって、この二月には苅田で第三回のフォーラムを開きました
大きな花火をあげるのは五年に一回、一〇年に一回でいいから、図書館づくり運動そのものの交流は毎年でもやってほしいのです。三人だって五人だっていい。お茶をのみながら情報を交換したり、悩みを話し合ったり、新しい仲間をさそったり、そんな風に目線を日常のレベルにおろして集まる会こそ必要だと思います。これから始められるでしょうけれど。日本の図書館の現状を見ると、「図書館がよくなるもダメになるも住民次第」この考えで、めげずにやるしかないのですから。
今も思い出す人、建築家の佐藤仁と本田明
—今日はいろいろな人の、いろいろと生々しい話が出ましたが、どうしても話しておきたい方、ほかにおられますか。
いますよ、佐藤仁さん、本田明さん、ともに建築家ですけれど。
—佐藤さんの話は前に出ました。早くに亡くなったのですね。
癌でした。念願かなってアメリカ視察に出かけたのですが、その前からよく鼻血が出ていて、原因が分からないと言っていました。それが旅の途中のシカゴでひどくなったのですね。病院にかかったら、すぐ帰国しろといわれる。封をしていない診断書をのぞいてみるとキャンサー、つまり癌です。帰国後すぐ入院しましたが、もう手遅れだったのです。築地の癌センターに見舞いに行くと、アメリカで見た図書館の話、日本の図書館の遅れ、これからは施設委員会がもっとしっかりしなくてはと、情熱を傾けて話す。私は治る可能性を信じて、とにかく退院したらがんばろうと誓いあったのです。彼は酒豪、いや酒は好きでしたが、早く酔いましたね。図書館計画の調査で出かけると、夜は談論風発、酒もいっぱい入る。でもお葬式の時にいってみると、なんと彼はクリスチャンだったのです。クリスチャンだって酒を飲んでいけないわけはないけれど、葬儀の日まで彼がクリスチャンだったことは、これっぽっちも知らなかったのです。亡くなったのは一九七五年一〇月、もっともっと生きていて欲しかった。日本の図書館建築もずいぶんかわっているかも知れない、そう思います。彼は「図書館屋さんよ、しっかりしてくれ、図書館建築だけがよくなるということはないんだから」、これが口ぐせでした。
—本田さんの思い出は?
本田さん。この人を失ったのも、図書館建築はもちろんですけれど、図書館づくり運動にとっても、とりかえしのつかない損失でした。浦和市の図書館協議会の委員をしていました。そして亡くなったのは一九八八年二月二五日。なんと自転車にのって図書館へ出かける途中、車にはねられたのです。あの慎重な本田さんがと、誰もが信じられなかったでしょう。彼は都庁がふり出しですけれど、やがて大矢根建築事務所に勤め、一九七○年に豊島区立千早図書館の設計をするのです。私がどうして千早図書館にかかわったのかどうもアイマイですけれど、そこで本田さんと出会った。それまでに彼は杉並区の図書館を二つ設計していますけれど、一時代も前のものですね。そして七一年に宮前図書館の設計をすることになったとき、私につき合ってくれとなりました。主管は高円寺図書館。そこの庶務担当が窓口で、図書館のことなど何も分からない、いや分かろうとしない。どうして図書館にいなければならないのか、そのことばかり頭にある連中相手でしょう。あるときプランをもって打合せに行った。私にも一緒にということで、二人で出かけました。しかし、どうも雰囲気がよくない。こっちも悪かったですね。はじめに、設計事務所としてこういう方の知恵をかりることにしたので、今日は同席してもらいますと挨拶すればよかったのを、しなかった。説明が進んで、私もちょっと口を出すと、この人は誰なんだと言う。言われてから紹介したものだから、なんで図書館協会の人間がここにいなければならないのかと、すこし空気が険悪になってきた。むこうは小役人でしょう。いい図書館にしようなんて気持ちはさらさらない。役所のいうとおりに設計すればよいのに、何で余計な人間をつれてきたんだという顔です。あとで本田さんから「先日は不快な思いをさせてすみませんでした」と手紙をもらいました。
本田さんは事務室を二階に置く案を出したのですが、そば屋の出前が二階まで上らなければならないではないか、というのです。参りましたね。でも当時はどこの図書館もこんな風に設計が進められていたのです。
やがて本田さんは独立して「都市・建築連合」の看板を出します。名前は堂々としているけれど、友人の事務所に机を置かせてもらっての個人事務所。協会の施設委員会にも入ってもらいましたし、彦根市立図書館の基本設計をやったり、そう、この研究所ができてから、幾つか一緒にやった計画もありますよ。調査が綿密ですし、なによりも住民の立場にたって図書館を考えました。一緒にやった仕事では、鶴ヶ島の計画。これはいまの鶴ヶ島市の図書館サービスにきっちり結びついているものです。子どものスペースを考えるときは、いつも腰を落として、子どもの目の高さでものを見ました。そして、常に真実を求め、正義感にあふれ、それでいて大人でしたよ。
亡くなる直前、この事務所に引っ越してきなさい、一緒にやりましょうと話したのですが、本当に残念でした。佐藤仁さんにしても本田さんにしても、もっと生きておられたら、日本の図書館建築もずいぶんちがっているでしょうね。
菅原さん お元気ですか。養成所後輩の稲葉誠也です。直接の交際はありませんが、協会にお勤めのとき、出張先での瞥見、大会でのご活躍を拝見していました。ご令弟の1年後輩ですので、兄弟で養成所に学ばれたことは、一つの驚きでした。小生も、愛知県で定年を迎え、現在はボランティアに勤しんでいます。今後ともよろしくお願いします。
菅原峻さんは私の2年先輩、弟の勲さんとは同期でした。協会で氏の下で1955年4月から4年働きました。所属はBブロック、のちに調査部と改称、仕事は会員係でした。
養成所在学中は自治会活動、サークル活動が活発でした。弟勲さんの、褒めては乗せ、世話好きの性格にずっと付き合わされました。六期会(同期会)の世話役もしてくれました。養成所は就職率100パーセントなのに派手な活動をしたせいかI所長から睨まれ、どこにも斡旋してもらえず、やきもきしていたところ協会事務局長有山たかし先生(哲学、読書指導担当)から、よかったらうちで働かないか、と声をかけてくださり、お世話になった次第。初任給6000円でした。
当時の峻さん、仕事は冷徹そのもの、年刊統計『日本の図書館』の編集に従事、よく手動の計算器を廻しておりました。数字を通して日本の図書館の現状、問題点を洗い出していたようでした。太子堂の協会事務局を引退して図書館コンサルタント業に進出できたのも日本の図書館を通観していた経験が役に立ったのかな、と思います。そのほかに、施設委員会、出版委員会の事務を担当、館界、関連学界の重鎮との連携もこなし、事務局きっての、なくてはならない存在になっていたようです。
峻さん、稲葉誠也さんの本欄への投稿後17日経って逝去されました。筑波大学同窓会茗渓会会報秋号の訃報欄で初めて知りました。思い出は尽きません。
ご冥福をお祈りいたします。