ず・ぼん6●特集:児童書は元気かい? 文庫のひと

特集:児童書は元気かい?
文庫のひと

1970年代半ば、全国に広がっていった地域文庫は、子どもたちに本との出会いの場を提供してきた。
一口に文庫といっても、その形態・内容はさまざまだ。
今も文庫活動を続ける五人の大人と、子ども時代に文庫を体験した元・子どもにそれぞれの思い出と現状を語ってもらった。

庄野宏美[文庫で育った子どもとして]自分を認めてくれる親以外の大人に恵まれた

吉田正彦[香川県子ども文庫連絡会]おじさんも混ざっているから面白い?嗚呼、気まぐれ文庫連

伊藤公代[たんぽぽ読書会]やっぱり「おはなしのおばさん」はやめられない

伊藤倭子[かえで文庫]本を借りに来るだけの場所じゃない

富本京子[山の木文庫]資金づくりに始めた「市」が「文庫まつり」になって地域に定着

宮崎淳子[藤の台子ども文庫]一人の母親のつぶやきから始まったバスの図書館

[文庫で育った子どもとして]●香川県
自分を認めてくれる親以外の大人に恵まれた

文◎庄野宏美
しょうの・ひろみ●1977年生まれ、21歳。現在、島根大学生物資源科学部で森林環境学を専攻。日本の林業の可能性を追求したい。

 子どもの頃、家の中に「なないろ文庫」という部屋があった(今もあるが)、山ほど本があったので、好きな本をいつでも読めた、マンガ以外は自分で買うなんて思いつかなかった、欲しい本は容易に手に入った、本は値段が高いという感覚がなかった、引っ越しが大変だった、もし大地震が起きてたら本に埋もれて死んでいた……脈絡のない思い出が次々に浮かぶ。
 本に囲まれて、何がよかったかはわからないけど、そして、読んだ本のほとんどを忘れてしまった気がするけど、本の面白さ、ページをめくる楽しさは十分に味わったと思う。昔好きだった絵本が、今つまらなくなっていたりすると、自分がずいぶんひねくれ者になったようで心配になる。本を捨てたり売ったりは、とてもできず、人一倍大事にする自分に気付く。絵を見たり、文章を読んだり書いたりが、いつのまにか好きになっている。
 ずっと前、幼稚園時代、絵本が家にあまりなかった頃(文庫に無縁だった頃)、同じ絵本を何十回も開けて、もっともっとと飢えていた感覚を思い出す。でも反面、いくら本がたくさん増えて、私が成長しても、お気に入りの本は何度でも手に取るところをみると、本の数は関係ないという気もする。
 文庫をしていたので当然だが、私の家には、子ども、大人、いろんな人が来た。いや、文庫の部屋に関係ない人も訪ねて来た。そのうえ、他の文庫や家に遊びに行くことも多かった。ただ……子どもの私としては、出かけたくない気分の時もあり、仕方なく母親に連れて行かれた事もあったが……。

 「文庫で育った子ども」の私が、今21歳になって思うことは、他の子どもより大人と接する機会が特別多かった点である。私のことを認めて、大事にしてくれる親以外の大人達にめぐまれていたことだ。又、母親の方も文庫をすることで、よそのいろんな子どもを見たりすることが何かとあったから、自分の子どもだけに専念してしまわず、私は自由に子ども時代を過ごせたのである。
 私が出会った「親以外の大人達」、文庫のおじさん、おばさんをここに紹介しておきたい。私の偏見に満ちたイメージになるが……。
 なかよし文庫・松崎のおじさん—いいところはすごくほめてくれるし、よくないところは、けっこうズバッと言う、正義感の強い人。おじさんの前で、緊張する時もあるけど、声をかけてくれるとうれしい存在。
 なかよし文庫で、私はいつも『はだしのゲン』(マンガ)を読んだ。本や絵本はあまり読まず、自分の家の文庫にないものを見つけた時に、ちょっとみる程度だった。その他には、絵を描いたり、めずらしいおもちゃやゲームで遊んだ。何かに夢中になって時間を忘れるか、早く帰りたくなって退屈するかのどっちかだった。そんな時、松崎のおばちゃんがいて、とてもありがたかった。今では、第二の我家に思える。
 なかよし文庫といえば、松崎のおじさんが中心になって、もう16年も続いている「文庫合同キャンプ」がある。春と夏、キャンプでは、幅広い年齢の子と一緒に過ごし、夜中遊べるのが楽しかった。外で寝たり、徹夜して星を見たり、夜中の陣取り合戦で走りまわったり……なかなか普通の子どもができない事を自由にできた。
 それに、「文庫のキャンプ」としては、小学2年の時、ひとりで北海道の「ひまわり文庫」のキャンプに参加した事も大きい。自分の事を自分でする生活の大変さと独りということの不安、自然の恐さと美しさを体験できた。

 つばき文庫・吉田のおじさん——ナゾめいた話や意見を言う人。自分の考え以外を認めてくれなかった印象が強い。でも、芸術家ならでは(?)のワケのわからないリクツに、一所懸命耳を傾けた。誰も知らない事を話してくれたし、口調が好きだった。
 つばき文庫は、行くのが楽しみだった。家の中を冒険するのは、恐いけど最高に面白かったし、庭でもいっぱい遊べた。なんとも言えない異質な空間がそこにはあった。照明つきで、いたるところに置かれたオブジェ、アジアの音楽、カガミの破片、昔の青いベッド、ひとつひとつをくっきり思い出せる。つばき文庫で私は、『バーバパパシリーズ』の絵本を読んでいた。
 初期のなかよし文庫・大薮のおばさん——この人に、「なっ、そうやろ?!」と言われると、コックリうなずき、すべてを納得させれられてしまう。「あんたはどう思うん?」ときかれると、頭をフル回転させて答えなければならない。難しい問題も、「それはナ、こういうことなんヤ」とおばさんが言うと、「そうかァ」と解決してしまう。逆らえないし、そんな気も起こらない。おばさんの人間の深さのようなものから語られる話は、いつも強烈な内容で、圧倒させられた。話をきく度に人間って、人生って、すごいものなんだナと思った。
 なかよし文庫は最初、「アイボリー」という喫茶店の2階にあった。広い板の間で、手づくりあそびに熱中していた。折り染め、デンデンだいこ、万華鏡、風ぐるま、ヘビ、わりばし鉄砲、ビュンビュンごま、などを作って遊んだ。そして、自分で作ったものを自分で売るという「こどもまつり」のイベントが楽しみだった。
 ふるさと文庫・松川のおばさん——ミカンとビワをよくもらった。直接松川さんの山に穫りに行ったこともある。おばさんなのに、人との接し方がとても純粋な人。一所懸命話してくれる。会話や行動に特徴があり、少しズレたり、間が合わないことがあっても、ニコッと笑顔を向けられると、たちまち松川さんペースに引き込まれてしまう。普段は空気のように、やさしく目立とうとしない人なのに、感情が意外に激しいのでは(?)と思う時があった。
 さまや文庫・矢野のおじさん——文庫は、おばさんが始めたそうだ。私の母親によると、「文庫をするような人は恐い」がおじさんの口癖で、当然、矢野のおばさんも含まれているそうだ。

 矢野さんを訪ねるのは、椿や梅を見に行く時で、年中行事のようなもの。つばき山やろうばいの山をおじさんが案内してくれる。全部自分で植えたもので、とにかくすごい人。ふところが大きいって感じで、あったかい。専門的な、難しい木の話をしてくれた。
 ぼちぼち文庫・高重のおばさん——上品な雰囲気、思いこみの激しい人。すべてをキッチリやろうとするのに、けっこうヌケていたり……味わいのあるホホえましい人。何に関しても、ほめるかけなすかを口にし、ワタシはこう思うワッと主張する。ささいな事でも、人のことを気にかけてくれる。
 あゆみ文庫・藤井のおばさん——落ち着いてて、やさしそうで、私からみてもかわいい人。常に子ども達に囲まれて、元気にやって来るイメージ。一番常識をわきまえている人。何かに腹を立てているような話し方は、自分の意見をちゃんと持っているからだろう。
 きりがないくらい、他にもたくさんいる。ぶんこれん(正式には、香川県子ども文庫連絡会)の人達は、ある意味、あくの強い個性派ぞろいだ。少なくとも、学校での友達の親とは全く違った人達だった。子どもに対して、ちゃんと向き合ってくれたし、世間一般とか常識とかを持ち出すことなく、子どもはこうすべきだなどと押しつけなかった。それぞれの人が、それぞれの価値観で、ほめてくれたり、おかしいと言ってくれたりした。ぶんこれんの大人達の生き方を見て、いろんな人や意見があることを知り、私なりにそれらを受け入れていたと思う。
 又、そんな人達の中で、自分の母親が、どんな関係を築いているのか、仲間を求めているのか、家の中とは違う母親の姿をながめていられたことも、貴重だったと思う。
 では、私自身はどんな子どもだったのか。母親がそうじゃないぶん、まわりの目をけっこう気にするところがあった。とにかく、客の多い家だったので、自分の方から積極的に人間関係を持とうとはせず、ひとりの時間を意識してつくろうとするところがあった。文庫に来る近所の子ども達とも、あまり仲良くならず、線を引いていたように思う。

 大人同士の話を面白がって、じっとそばで聞いている子どもだったので、学校の友達には、マセた子と思われていたかもしれない。或いは、サメた子に映っていただろうと思う。例えば、友達には、理屈っぽいアドバイスができるのだが、自分が体験したわけじゃないので、いざ自分の身に問題が起きた時、虚と実のギャップにぶつかってしまうのだ。他の子と、結局、同じ子どもだったんだな、と今つくづく思う。
 それにしても、思い返してみると、自分で言うのもおかしいが、子どもなりに一人前に感じたり考えたりしているものだなあ、と感心する。今後、私自身が、子どもと出会いつき合う上で、そのことを忘れないようにしようと思う。子どもを軽んじたり、あなどったりしては後がこわい。子どもの存在を認め、対等に向き合う姿勢を持ちつづけたい。
 現在、私は、大学四回生になり、就職活動と卒業論文と自由な時間の有効利用にあけくれる毎日だ。私の目に社会という海が、日によって変貌する。荒波ばかり広がって見えたり、又、キラキラ明るくまぶしかったり……。とにかく、今、必死にこぎ出そうとしている。
 たっぷり本があって、たっぷり人がいた、そんな「文庫で育った子ども」の私が、どんな大人になっていくのか、私自身も、しっかりみつめたい。

[香川県子ども文庫連絡会]●香川県

おじさんも混ざっているから面白い?嗚呼、気まぐれ文庫連

文◎吉田正彦
よしだ・まさひこ●1947年、宮城県生まれ。彫刻家、つばき文庫主宰、文庫歴20年。

 「あ、吉田クン? なかよし文庫の松崎です。5月20日午後1時から、文庫連の世話人会を、高松市図書館の3階和室でやりますので来て下さい」
 5月18日から始まる個展の準備で忙しい夕方、アトリエから帰宅すると、食卓の上の留守番電話が点滅していた。
 松崎さんは香川県子ども文庫連絡会(以下、文庫連)の事務局長で、途中から会長職を置かなくなっているので、実質的な会の代表である。高松で、間口一間、奥行半間のタコヤキ屋をやっていて、その味は市内一と聞いている。長髪にヒゲ、そして細身のスタイルは昔から変っていないが、50代後半になって白いものが目立ちはじめた。離婚歴アリ。その当時、まだ小学生だった一人息子をかかえて、「愛暮里」という喫茶店も経営していたのだけれど、おとなしすぎる息子のために、なんとかしなければと開いたのが「なかよし文庫」の出発だった。喫茶店の2階にあった板の間のその文庫は、いつも大勢の子どもたちであふれていた。15年も前のことである。

 その後再婚して、良太と昌平という名前の2人の男の子が生まれたが、2人とも「立派な」登校拒否の子どもになったとこが面白い。「立派な」という意味は、今の学校の方がおかしいと、親も子も考えているという意味である。これからも全国的に、登校拒否は増えはしても減ることはないと、私も考えている。あまりにも管理が強く、あまりにも自由が少ない。
 文庫連の毎月の会報を編集している”鬼の編集長”庄野さんの次女ともみちゃんも、中学生になって登校拒否を始めた。現在は前出の良太と2人で、岡山の通信制の高校に通っている。会報の表紙の絵は良太、本文のカットはともみちゃんで、この2人のコンビは会報購読者から好評を得ている。また、会員の中には、毎月会報が届いたら、一番最後のページ、庄野さんの編集後記から読むという隠れたファンも多いらしい。四国学院大学図書館の東條さんの長期連載エッセーと人気を二分しているのではなかろうか。
 ちなみに、庄野さんは自称「手抜き専業主婦」で、抜いた時間のほとんどを、読書に当てる本好きで、完全な夜型人間である。彼女が会報を編集するようになってからは、発行部数はかなり増えて、1999年5月号で、172号となり、発行部数は330である。文庫連ができて、もうすぐ15年目を迎えることになる。

文庫連の出発
 そもそも、文庫連のできたきっかけは、県内の図書館整備が遅れていたので、雨後の筍のように県内各地に生まれた文庫が、文庫を開いてはみたものの、やってくる子どもの数にたいして、あまりにも手持ちの絵本や童話が少なかったので、県立図書館の団体貸出し制度を利用することになり、そこで各文庫の世話人が初めて顔を合わせたのだった。

 私はその頃、高松市の隣町・牟礼町に古い大きな家を借りて住んでいた。牟礼町は、隣の庵治町と並んで「石の町」として有名である。石の彫刻家になりたくて移り住んだが、彫刻家としての先ゆきは不透明であった。「それなら一つ、田島征三のような絵本作家にでもなるか!」などという不遜な考えで、1ヶ月に数10冊の絵本が借りる事ができる団体貸出しを、文庫を開くという条件で利用しはじめたのだった。結局、絵本は1冊もできず、地域の子どもたちと、一緒に絵本や童話を読んだり遊んだりしているうちに、すっかり子どもの魅力にとりつかれてしまった。ミイラ取りがミイラになったわけである。スタート時の不純な動機を隠して、私は他の文庫の主宰者たちと県立図書館で出会い、すぐ文庫連を結成した。若くてヒマな私が会長、副会長に大陸育ちで、最近、還暦をすぎて大学で学びはじめた大藪さん。事務局には松崎さんと国分寺町の(現在は福岡で図書館運動を、今も精力的に続けている)力丸さんがなったと思う。
 会結成直後、新任の図書館長とぶつかった。団体貸出しをするに当たって、各文庫の子どもたちの親の印鑑が必要だといいだしたからだ。この時は、知り合いの県議会議員を動かして事なきを得たが、横にいた大藪さんは後日、「吉田さんの不退転の姿を見て、この人の副会長をやろうと意思を固めたのよ」といって私をホロリとさせてくれたが、事実は、全共闘世代の、体制(古いナ)に対する憤りが甦っただけなのである。力丸さんは力丸さんで、「あの時誰かが、テーブルの上のガラスの灰皿を館長にぶつけそうになったので、両手でしっかり押さえていたの」というではないかキ イヤハヤ、とんだ文庫連の出発だった。

文庫連サマーキャンプ
 文庫を始める人は必ず読まなければならない1冊の本がある。それは、石井桃子『子どもの図書館』(岩波新書)で、子ども文庫のバイブルといってよいだろう。私もこの本の中の、就学前の女の子が、絵本を小脇にかかえて、笑顔で走ってくる1枚の写真に感動して「つばき文庫」を本気でやり始めたようなところがある。
 それから、香川の文庫連にとって、特別忘れることのできない先達が2人おられる。1人は瀬林杏子さん。高知の本山町に住んでいた時に文庫を始めて、現在は神戸におられる。文庫歴40年という大先輩で、瀬林さんの影響を受けて文庫を始めた人がたくさんいる。現在90歳。以前、「丸亀子どもの本を読むお母さんの会」でお呼びした時に、一度お話しをうかがったことがある。

 もう1人は、これから詳しく書くつもりの、「文庫連サマーキャンプ」に多大の影響を与え続けている北海道の「ひまわり文庫」の徳村夫妻。現在も、北海道の滝上町の森の中で「子どもの村」を主宰している。大自然の中でのハードなサバイバルキャンプが有名で、香川の文庫連のキャンプなどは遊びと同じで、楽勝だというのが、香川から北海道キャンプに参加してきた子どもたちの一致した感想である。
 1984年から始めて、今年で16回目になる文庫連サマーキャンプは、子どもは子ども、大人は大人だけのテントを張り、食事も別々につくる。自分のことは自分でする。大人は手も口も出さず、子どもの自主性を育てることを最大の目的にしている。2泊3日と1週間の2つのコースがある。
 キャンプ場が、高松市街を真下に見下す峰山公園ということもあって、子どもとお母さんが一緒に参加した家族のなかには、ついでにお父さんも参加して、背広姿でテントから朝の出勤ということもあった。また、キャンプ場にある展望台から見る昼の瀬戸内海、夜の街のネオンの美しさは絶景である。
 星空の下のコンサートや映画会、おばけ大会、ミニ運動会、キャンプファイヤー、花火大会、そして最大のイベント「ふわり大会」などの行事は盛りだくさんだが、行事のない自由な時間こそが一番すばらしい「行事」だろう。親や学校から完全に開放された子どもたちは、徹夜をして遊びまわり、朝になって眠る。楽園?そんな言葉がピッタリの光景がキャンプ場に展開するのだ。
 ただ、キャンプを15年も続けてくると、寄る年波には勝てず、世話役の大人は気がつくと、子どもはいつも子どもなのに、大人はいつの間にか中年から初老になっている。その人数も1人減り2人減りして、残っているのがたったの3人(松崎・吉田・松浦)だけになってしまった。学生時代は山岳部、料理の段取りは、前にやっていた喫茶店仕込みという、キャンプ運営にはまり役の松崎さんの双肩に文庫連キャンプの運命はかかっている。(その肩も、タコヤキ用の重い鉄板で、だいぶガタがきているようなので心配なのだが……)。北海道の「子どもの村」のように、後を継ぐ若者が育たなかったのが香川の誤算といえば誤算だった。
 誤算といえば、キャンプを支える柱の1本だった「のんのん文庫」の河瀬さんの文庫廃業と文庫連脱退も痛かった。有機農業に専念したい、というのがその理由らしいのだが、高校教師を辞めたあと文庫を始め、いつの時だったか、初めて文庫連の例会にやさしいヒゲ面を見せた頃がなつかしい。農業にのめり込む前は、非常勤で近くの高校で地理を教えていたが、授業時間中にル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)を高校生に読み聞かせていた。

 農作業に出かける時も、絵本を2、3冊持ってゆき、いつも通りかかる小学生たちに、畑の畦に腰を下ろして読んでやっていたという話も聞いたことがある。文庫連は惜しい人に逃げられたものだ。「来る者は拒まず、去る者は追わず」が、文庫連に限らず、「連」というグループ活動の基本であるから、仕方ない。それにしても、河瀬さんが作ったお米はおいしかったなァ!

気まぐれ文庫連
 さて、冒頭に書いた、5月20日の文庫連世話人会は、高松市図書館の三階和室で午後1時半頃から30分遅れで始まった。私が定刻1時に到着すると、和室の中では、これからみんなで遅い昼食だという。「こりゃいかん、30分はかかりそうだ」と判断し、1階の雑誌コーナーで時間をつぶすことにした。これを”さぬき時間”という(笑)。
 いつもこうなのだ。文庫連の集まりは世話人会も、総会も、飲み会も気まぐれに始まる。会員が県全域からやってくることと、年に数えるほどしか集まる機会がないために、積もりつもった世間ばなしが一通り済まないことには、本題にすぐ入るわけにはゆかないのである。また、入っても面白くはないのだろう。この日の参加者は14名。私と松崎さんを除けば、他はすべて中・高年の女性だけ。唯一の例外は、20代の若い横山さんがいることだが、基本的に、女の集まりであることに変りはない。
 本題の(一)、親地連(親子読書・地域文庫全国連絡会)の全国大会に誰を送るか。30周年の記念大会なので、代表の松崎さんが、東京で版画家になるべく生活している長男の様子を見がてら?参加と決定。

 本題の(二)、夏のキャンプは8月9日から1週間、例年通り決行する。往年の、子どもの参加者150人というのは無理で、その半分ぐらいの規模になるだろう。
 本題の(三)、県の半額助成を受けて、読書を進める事業として何をするか。ボディ・ペインティングと伝承手づくり遊びで申請する。
 本題の(四)、2年ほどパスしている「子ども文庫まつり」をいつ、どこでするか。秋の読書週間に、新しくできた「さぬき子どもの国」ではどうか。内容は、人形劇(庵治町職員で、文庫を自宅で開きながら「岩子座」という人形劇団をたった1人で主宰している岩崎さん[男]に出てもらう)、大型紙芝居、絵本の展示、手づくり遊びなど……。と、ここまであちこち話しが横道にそれたり、脱線したりして進んできた頃、市内の屋島西町で集会所を使ってバリバリ活動している今西さんから「もうすぐ3時になるし、議事をもっとテキパキ進行せんかい!」という叱責の声が飛び、一座がシーンとなった。
 議長の松崎さんをはじめ、参加者の中には「丸亀子どもの本を楽しく読むお母さんの会」の会長を20年もやっている大成さんなど、ベテラン会員がたくさん出席しているので、テキパキ話しを進めるのは簡単なのだが、あえて脇道や横道にそれているのには、それなりの意味があるのだ。が、会員歴の浅い人には、その辺が気まぐれにやっているようで許せないらしいのである。
 今西さんの「一声」のあとは、5分もかけずに話をまとめ、3時きっかりに閉会したのだった。

女の会は長く続く?
 男の会は観念的になり、すぐぶつかり合うため、あまり長続きしないが、女の会は長続きするというのを聞いたことがある。香川の文庫連が長く続いているのは、同じ理由によるとは思うが、他所から見て面白い会に見えるのは、たぶん、女の会なのにヒゲのオジさんが数人参加しているからなのではなかろうか。タコヤキ屋、彫刻家、農業、園芸家、図書館員、金融関係者……。このような多彩な職業のオジさんたちが、おばさんたちと一緒になって、「すべての子どもに読書の喜びを伝えたい!」「遊びの楽しさを知らせたい!」とガンバッている。これが、面白くないはずがない。やっている大人が楽しくなかったら、一緒に遊んでいる子どもたちだって楽しくはないだろう。また、その逆もいえる。大人たちこそ子どもたちから生きる力をもらっているところがある。
 子どもが楽しく遊んでいる姿を見ると、未来に希望が湧いてくる。香川の文庫連は、長島巨人軍ではないけれど、永遠に続くだろう。私も、生きている間は無理をしないで、気まぐれに、楽しく、文庫連の仲間たちとつき合っていくつもりでいる。

[たんぽぽ読書会]●東京都立川市
やっぱり「おはなしのおばさん」はやめられない

文◎伊藤公代
いとう・きみよ●1947年東京生まれ。立川たんぽぽ読書会会員。
2男2女を育てながら素話の楽しさを知る。語るのも聞くのも大好きで、仲間と共に「素話の上手なおばあさん」になるのが目標。

 今でも時々思い出す。「ねえ、おかあさん、ごほんよんでー。」という幼いこどもの甘い声を。
 そのころ、本にごをつけていたっけ。まるで、カゼひきみたい。よほど大切にしていたのだと思う。なぜならその本は、図書館から貸りている本だから。
 歩いて行ける所に図書館ができて、とてもうれしかった。

 同じ建物の中の公民館の「読みきかせの講座」に子育て真最中の若い母親はとびついた。
 今でもまだ絵本だ、素話だとさわいでいる。20年も前のことだ。その時、出会った仲間と今もまださわいでいる。
 ねむる前の幸せな時間。無事に1日が終わり絵本を読んでいっしょにねてしまう。
 あのころ自分でも絵本を読むことを楽しんでいたし私の喜びでもあった。次々に新しい出会いがあった。
 そのころの図書館のお兄さん、お姉さんも立派なおじさん、おばさんの図書館員となり、私のこどもも社会人となり、そして絵本を卒業していった。
 今では、ねむる前ではないけれど、学童保育室や図書館で絵本を読んでいる。

 ある日、夕食の買い物に行ったときのこと。6年生くらいの男の子と目が会った。
 彼は私に「ねえ、今でも学童に行ってる?」と声をかけてきた。顔は見おぼえがあるのだけど思い出せない。多分、近所の子だと思うけど声はもう立派な男性だ。
 私がキョトンとしていると「なーんだ。忘れたの? ボクが学童に行ってるとき、ボクにおはなししてくれたじゃない!」
「えっ、どんなはなしだった?」
「なんかねー、ワナしかけてさ、おかあさんが死んじゃったはなし」
「あっ、それって、ブツだ」

「おもしろかったけど、全部はおぼえてない」
「そう、おばさんうれしいな、おぼえていてくれて」
「おぼえてないってば」
「いいの、いいの、うん! 今も行ってるよ。たまにだけど」と、こんな会話をかわして、私はうれしくてスキップして帰った。
 「ブツ」は新潟の笠原さんから聞いた昔ばなしで、ちょっと頭の弱いブツという名前の男の子のはなし。落語みたいでそのころ気に入ってそればかりしていた。10年位前かなあ。
 思い出して見ると図書館のおはなしのおばさんは長く続いている。読みきかせの講座から自主グループになり、図書館を中心にあちこちへ行っている。最近は若い仲間もふえて活発になった。皆、それぞれの事情はあるけれど、細く長く続けたいと思っている。

 地域の「おはなしのおばさん」はやめられない。
 「おはなしのじょうずなおばあさん」を目標にはじめたけれど、実際には(孫がいるので)おばあさんにはなれたけど、おはなしの方はどうかしら。
 図書館もずいぶん変わった。変らないところもあるけれど、人がいつも変わる。やっと気心が知れたと思ったら、異動というのもさびしいね。カウンターごしに目が笑ってあいさつのできる人が少なくなった。昔の役所のおじさん・おばさんでは困る。うちの子たちは図書館員の顔をしっかりおぼえている。
 プライドをもって仕事して下さいね。
 だからライセンスはないよりはあった方がいいと思う。本のこと大好きで良く知っていてテキパキと答えてくれる職員だと「うーん、できる!」と尊敬してしまう。
 将来、孫たちが「さすがばあちゃんたち、いい図書館造ってくれた!」と言ってくれるように、私たちもちゃんと見守っていきたい。

 これが図書館応援団々長(のつもりでいる)おはなしのおばさんの素直な気持ちです。

[かえで文庫]●東京都町田市
本を借りに来るだけの場所じゃない

文◎伊藤倭子
いとう・しずこ●1979年より文庫のおばさん。まちだ語り手の会、町田の図書館活動をすすめる会の会員。

 昭和46年11月、町田の成瀬の地に越して来た頃、辺りにはのどかな田園風景が広がっていました。家の前方には右手に栗林、左手にはなだらかな黒土の畑が広がり、畑のそばには大きな柿の木があって、子どもたちはいつも柿の木に登ったりぶら下がったりして遊んでいました。しかし、わずか3、4年で区画整理工事が始まりました。田畑は埋められ小高い山は削られ宅地化していきました。大きな柿の木は子どもたちの見守るうちに、電動ノコギリの音の中にたちまち消え去りました。
 7、8年の間に都営団地が立ち並び、JR成瀬駅、小学校、中学校、高校も建ち、成瀬の地は大きな変貌をとげていきました。娘たちが通っていた小学校は100周年を迎える古い木造校舎が半分残っている建物で、それも児童数増加に伴い新築移転することとなりました。その小学校の跡地を、どう活用するかとPTAで話し合った時、「図書館に……」と言う声が出ました。当時、この辺りで一番近い図書館は歩いて30分はかかる所でしたし、交通の便もとても悪く子どもたちの通える場所とは言えませんでしたから……。しかし、図書館は町田旧五か村に1館ずつあり増設は叶わず、結局、地区センターとして、地域住民の学びの場・ふれあいの場としての構想が出来ていたようです。それならば、子どもたちの学びの場であった小学校の跡地に是非、子どもたちの図書室として一部屋使わせて下さいとお願いしました。PTAの学級委員で知り合った鈴木洋子さん(2年ほどで他市へ移転)が中心になり、センター準備委員会に働きかけ、市の地域対策課と市立図書館に相談にのっていただきながら、文庫開室を進めていきました。幸せなことに地域のセンター準備委員会も市や図書館の職員も協力的で、いろいろ力を貸して下さいました。
 町田にはすでに地域文庫がいくつかあり、親子読書会も活動していたようですが、正直なところ文庫というものが私にははっきり見えぬまま、でも子どもたちに近くで本に出会わせてあげられる場が出来たら……と言う思いで4人の仲間に入っていました。
 本は市立図書館から2000冊ほど長期貸出しを受けることが出来、それに寄贈本、持ち寄りの本で2300冊余りで開室を迎えました。学校跡地のグランドの傍らに立っていた大きなかえでの木から、迷わず名前を頂き「かえで文庫」としました。
 昭和54年9月26日(水)開室初日、雨にもかかわらず83人の子どもたちが訪れ162冊の本が借り出されて行きました。うれしそうに本を抱えている子どもたちの姿が眩しかったのを思い出します。次の週も雨。でも95人の子どもたちが来て次第に利用者も、私たち世話人の協力者も増えていきました。図書館の方が貸して下さった『子どもの図書館』(石井桃子著)を回し読みして、文庫と言うものの在り方を学び、『子どもと本の世界に生きて』(E・コルウェル著)で、子どもと本を結びつける仕事の大切さを思い知りました。
 古い日誌を繰ってみると、当時の子どもの利用の多さに驚きます。あの狭い部屋(当時は、学校の時の理科準備室として使っていた普通教室の半分)に150人〜200人の子どもたちが毎週来ていたのです。最高は55年の秋242人、447冊とあります。水曜日の午後になると子どもたちは待ちかねたように文庫を訪れ、廊下まで行列が並ぶほどでした。今のようにファミコンもゲームもまだなく、良き時代だったといえます。その日、その日によって多い少ないを繰り返しながら、開室当時のめずらしさも少しずつ引いてくると、利用者数は次第に下降線をたどります。60年頃は130人〜100人と……。

 62年6月から半年間、センターのホール増設工事が始まりセンターは休館。「文庫はどうする? 一緒に一時休室して世話人も充電期間としよう」との声も出ましたが、毎週楽しみにやってくる子どもたちのことを思うとなんとか続けられないかと考えました。そして、500メートルほどの所にある小学校の空き教室に移動することになりました。大きな書架八個と3000冊余りの本の運搬は市や図書館の職員の方達がやってくれました。私たちだけではとても出来なかったことです。受入れ側の学校でも校長先生はじめ先生方、子どもたちも歓迎してくれて、センターとはまた違った地域の子どもたちに利用されました。
 学校での仮住まいは62年12月いっぱいまでで、またセンターにもどり、63年2月からは一教室分の広々とした部屋を頂いて現在に至っています。今年で丁度20周年です。ゆったりした部屋で蔵書も市立図書館からの団体貸出し分と併せて4000冊余りとなり、水・土と週2回開室しています。が、残念なことにひところからみるとぐーんと利用は少なくなり月合計が200人位でしょうか。その分、子どもたちとゆったりした気持ちで向き合うことが出来、楽しいことですが……。
 文庫世話人も20年の間に出入りはありましたが、開室準備時から関わっている者が3名、15年近く関わっている者6、7名、他10年以内の者4、5名と、常に15名ほどのメンバーが毎週交替で当たっています。文庫運営費はどこからも何の補助もないので、自分たちで捻出しなければなりません。一周年の際バザーを開きその時得た資金を元に、毎年秋催されるセンター祭りに文庫を喫茶室として、その売り上げをささやかな資金としています。文庫の世話とその上資金作りと、考えてみれば大変なことですが、淡々とさりげなくこなしているのが長年付き合ってきた文庫世話人たちの姿です。
 子どもと本を結ぶ橋渡しの役目は常に心にとめながら、でもあまり力んだり、押しつけたりせず、それぞれが出来る範囲で協力し合う。本はあまり読まないと言う人もお手玉や折り紙を子どもたちと楽しんでいます。
 子どものために、良い本だけを置いて、幼い時から与える本をある程度決めて、レールに沿って読書指導をしていくという文庫もあるようですが、私たちの文庫は地域のすべての子ども対象です。子どもたちの自由な読書を見守りたいと思っています。「こんな本」と内心顔をそむけたくなるような本でも、どこかで子どもの心を捕らえている本、時代によって、子どもによって、それぞれの本の持つ価値も違ってくるのでしょう。溢れるように次々出版される本の中から、良い本の見分けは、子どもたち自身がたくさんの本に出会うことで自ら身につけていくことでしょう。本選びに迷っている子にはちょっと声をかけ、その子にあいそうな本を紹介し、自分で選ぶ子には黙って見守り「あー、おもしろそうな本だね」と声をかけています。子どもたちは自由に選び、それが実にその子にあった本であることが多いのです。
 開室当初の頃、毎週のように文庫にやってきていた当時四歳のR君は『さよならよざえむさん』という本が大好きで、毎回のように借りていきました。少しむずかしいのではと心配していたのですが、R君には何かその本を持つ意味があったのでしょう。

 また、3年生だったMちゃんは何故か『ノンちゃん雲に乗る』を毎回返してはまた、借りていくをなんと1年以上続けたのです。そのため1冊しかなかったその本を、古本屋で見つけて補充したものです。1人で少しずつ読んだのでしょうか……。
 20年と、過ぎてしまえばあっと言う間のようですが文庫で多くの子どもたちと出会い、すばらしい子どもの本にふれることが出来て幸せだと思います。20年前、一番利用の多かった2、3年生だった人は今は29歳位でしょうか、時々街の中できれいな娘さんや、かっこいい青年に、にこっとされて誰か分からなく失礼してしまうが、そのうち幼い彼等の面影を思い出し「あー、○○ちゃん」と、通り過ぎてから気がつく。その頃よく抱えていた本とともに。おはなしの途中でぐっすり眠ってしまった子、あまえっ子ですぐおぶさったり抱っこをせがんだ子。文庫は本を借りにくるだけではないのです。本は借りもせず、読みもせず帰っていく子もいます。おはなしの時間だけ過ごし、おばさんたちとおしゃべりして帰っていく子もいます。近頃は特にそんな子どもが多くなっているように思います。
 1月のある冷たい雨の降る土曜日、「今日は子どもたちも誰も来ないかも知れない」と思いながらも出かける。風も強くなって冷たい雨が吹きつける。文庫についてほっとしているとすぐにKちゃん(小3)がやってくる。「寒かったでしょう」と聞くと「うーん」と言って泣き出してしまう。15分はかかる車の多い街道を歩いてきたらしい。むきだしの手足が真っ赤になって、髪もぐっしょり。Kちゃんは父子家庭とか。学校から帰っても1人だけで友達ともうまく遊べない。土曜日は1人で何かお昼を食べて、それからかえで文庫にきてスイミングに行く、と、時間割りが決まっているらしい。本も重いから1冊か2冊と自分できめている。ぬれた髪をタオルで拭き、温かいミルクティを入れてあげるとすぐご機嫌になってしばらく休んで「じゃあね」と出かけていく。
 Sちゃんも鍵っ子、水・土と毎週文庫に来るすごい読書家で5冊ずつ借りていき、それを全部読んでしまうらしい。が冬の寒く暗い日はなかなか帰りたがらない。家に帰っても7時過ぎまで1人だと言う。本を読むことで寂しさを耐えているのです。文庫で何かを求め、自らを癒し励ましている子どもたちの存在が私たちの文庫を存続させているのだと思います。気張らずに、さりげなく子どもたちと付き合い、子どもの本も読み続けたいと思っています。

[山の木文庫]●東京都世田谷区

資金づくりに始めた「市」が「文庫まつり」になって地域に定着

文◎富本京子
とみもと・きょうこ●1936年生まれ、新潟県出身。1972年山の木文庫開設、現在に至る。

 文庫に来るこども達とのふれあいを1回1回積み重ねて28年、すぎてしまえば短いように思えます。
 祖母はこども図書館を開く事が夢でした。その祖母が亡くなった時、残された400冊あまりの児童書を前に私はその夢の実現を引きつぐ決心をしました。そしてその夢を形に、と力を借してくれた義母、私の子育て仲間、友人達との話し合いの中から夢を現実のものとして動き出したのが「山の木文庫」の出発で、1972年の夏のことでした。文庫の所在地は世田谷区の中でも図書館空白地帯に位置していた為に、開館当初は1日に135名ものこども達が来て長い列が出来、中には気分のわるいこどもも出てしまうこともあったりして、夏休みを返上しながら頑張ったことを思い出します。そんな活動の中で私達が文庫をつづけていく上で重要なことの1つに運営資金の問題があります。
 毎年出版される本の購入や行事のために資金はどうしても必要なのです。文庫を始めるにあたり仲間と話し合った事は、どの子でもいつでも気軽に入会できるように、そしてどうしてもやっていけなくなるまでは無料で開放しようと決めました。それは今でも守られております。

 資金づくりのために毎年「のみの市」「こども市」を開いております。
 「のみの市」……家庭でねむる不用の新品を提供して頂き市価の半額以下で売り、売上の二分の一を提供者に返金する。これも九五年以後はバザーの形に近くなって来ました。
 「こども市」……こどもが主役。使わなくなったオモチャ、お母さんの作ったクッキー等のお店を出す、売り上げの2分の1を文庫に提供してもらう。
 この様にしてはじまった資金づくりの行事は今でも続いており、1980年頃より「文庫まつり」として地域に定着しました。
 文庫活動をつづけて思うことは、大勢のお母様方や図書館職員との出会いを通じて仲間の輪が広がり、その中で私は育てられ、それらが私の現在の生き方にもつながって来ている様に思います。
 こまわりの利く文庫活動は、何でも思いつくこと、よいこと、をドンドンとり入れますし、また出かけても行きます。ですから地域では図書館の利用者として「砧図書館利用者懇談会」を仲間達と作り、その他に「世田谷の図書館を考える会」で団体貸出し制度を、配本車や団体貸出しセンター、そしてもっと図書館を、と願い、自動車図書館を先頭に世田谷区の図書館は現在15館になりました。これが私の地域とのつながりのはじまりです。

 当初図書館の職員は専門家だと思いこんでおりましたので、開館時にお世話になった熊田冨士江さんの「司書の資格がなくても職員になれる」という一言に驚いた事をよくおぼえておりますが、それが現在も制度化されていない状況です。「司書の資格とは」「私達のほしい職員とは」何か、と考えながら文庫の活動をつづけております。
 山の木文庫では本の貸出しの他に本は楽しいものだと感じてもらうために「手作り遊び」や「おはなし会」「出張おはなし会」もとどけています。「手作り遊び」の折り染めは75年より当時横浜にいたひまわり文庫の徳村さんに教えて頂き、現在では文庫の定番になっています。その他に折り紙、マーブリングも人気があります。
 「おはなし会」は85年より定例の「おはなし会」として1回30分程通常の貸出しを中断してやるようになりました。それまではいつでも世話人の膝の上で読みきかせをしたりこども達のリクエストによって読むという形でしたが、1980年より世話人が勉強会をはじめました。よりよいサービスをこども達と共有することが出来るようにと「絵本のくらべよみ」「子どもの本の歴史」「グリム」「昔話」「わらべうた」「児童文学」「パネル」等々手さぐりではじめました。その他スタッフは「本の整理」「入庫図書カード作成」と頑張っております。
 28年間の文庫活動をつづけていて大変困った事は、家の都合で文庫を移動、改築しなければならなかった時(1979年)、私が病気(1987年)になった時の2回です。そんな時も山の木文庫の活動を支えてくれるスタッフの熱い思いと夫の影の力がどんなに私を支えてくれたか、言葉では云いあらわせない程です。とくに病後は身体が思う様に動けないのに、思うこと、やりたい事があり、すぐかけ出しそうになる私にブレーキをかける夫、その事で云いあいになったりしながら、それでも文庫活動をつづけられる事に心の中は感謝で一杯です。親地連代表の広瀬恒子さんがある席で私のことをこの本のような人と云われました。『おもいついたらそのときに!』(西内ミナミ作、にしまきかやこ画、こぐま社)。
 なるほど、と思いました。走り出したらとまらない自分の気性をどうしたものかと考えるしだいです。まだ答えはでていません。
 1990年代になって、こども達のおかれている社会状況がだんだん変化して来て、読書以前の問題があまりにも悪化して来ている事に思わず始めたのが「ひよこ」グループの誕生です。午前中の文庫をつかって親子でおさなごのための「おはなし会」と貸出しを始めました。子育て最中の若いお母さん方と子育ての終わったおばさん達と本を通じての交流が多くの仲間づくりになっています。

 山の木文庫のまわりには次々に区立図書館や児童館が出来ました。それらの条件がととのったからという訳ではないと思いますが、高学年の子が来なくなり、そのかわり幼いこども達がお母さんと一緒に来る様になって来ました。こんなことも「ひよこ」をやりはじめた1つの原因だと思います。子育て先輩のスタッフと若い母親(時々父親やおばあちゃんも)との仲間づくりが文庫へ来るこども達の減少を止めてくれたように思います。今年で8回生となりました。第1回からの卒業生は今でも文庫に来ていて、98年度には「こどもが語る昔話」の会で活躍しました。4歳の女の子の『こぶたはなこさん』の詩の暗唱、5歳の男の子達の『三びきのやぎのがらがらどん』『大きなかぶ』のおはなし、大勢の前で上手にまちがわずに一生懸命語る姿は素晴しく、こどものもつ力をあらためて確認致しました。
 文庫活動をささえてくれる数多くのおとなやこども達、家庭文庫としてこまわりが出来、地域文庫として仲間と一緒に読書環境を考え、またこどもの本を仲立ちにして、こどもとおとなが共に育って行くために文庫の場を上手に使ってもらうことが私の幸せにつながることだと感じております。
 私の読書体験の初めは新潟県新発田市立図書館でした。実家は商売をしていましたから、こどもの相手もしてくれません。引き揚げて来ましたので友人もなく、本のおもしろさを知ったのは、小学4年生の頃だったと思います。図書館は大きな玄関、暗い部屋、ガラス戸のついている本棚、閉架式で、毎日毎日つづきを読みにかよいました。受けつけのオジサンと口を聞いたおぼえもありません。唯「静かに!!」のはり紙がありました。
 文庫に来ているこども達がおとなになった時、自分の家の近所の文庫やおばさん達のことをどう思い出してくれるのか、たのしみです。
 今年の「ひよこ」に参加している親子のお母さんが10数年前に文庫に来ていた卒業生だとわかりました。最初に28年は短くあっという間だった様に思えますがと書きましたが、この原稿の依頼で自分達のあるいた道程を確認出来ました。前進だけでなくその場をかためる必要もあるのではと思う様になりました。これからはこの地域での山の木文庫を考えなければならない時が来たと思います。
 それは年をとるということです。人は老年期に入った時若い時と同じ様な活動は出来ないと思ってます。

 図書館の児童サービスがよりよいものであれば、図書館が2キロ以内に1館づつ出来れば、文庫活動をストップ出来るのでしょうか。
 こどもの読書環境がととのえば、こども達が本を楽しく読むということを知ったおばさん達は、これからもまだ頑張っていかなければならないのでしょうか。

[藤の台子ども文庫]●東京都町田市
一人の母親のつぶやきから始まったバスの図書館

文◎宮崎淳子

みやざき・じゅんこ●1980年から子ども文庫のおばさんになり、地域に目覚める。町田市立図書館協議会委員。

 ここに黄ばんだ更紙の冊子があります。油紙の原紙に鉄筆で書かれた「バスの図書館=誕生から1年=子ども文庫の記録」(昭和50)。これは先輩から受け継いだもので、挫けそうになった30代、40代に何度も私を励ましてくれた、私の”宝物”です。
 藤の台子ども文庫はバスの図書館でした。子ども達がジャンボ公園とよんでいる広場に、バスが入ったのは、昭和49年の夏のことで、私はまだ団地の住人ではありませんでした。しかし、私は『バスの図書館=誕生から1年=藤の台文庫の記録』を何十回と読み返し、感動し、励まされ、あたかもその場にいて、汗を流しながら、子ども達と、仲間達と感動を分かち合ったのだと錯覚しているほどです。バスの図書館誕生には次のようなプロローグがありました。 公団藤の台団地は3500世帯の中規模団地で昭和40年代半ばに入居が始まりました。団地あげてのふるさとづくり、青少年対策藤の台地区委員会(以下、地区対)が中心となり学校、PTA、自治会、商店会等の協力で、昭和49年春「第1回親子まつり」が計画され、団地南側空き地一帯にくりひろげられるおまつりに必要な経費一切を自分たちで作り出したのです。
 当時はオイルショックの後遺症で、買い占め、物不足のあおりがまだそこここに残っていて、子どもも大人も不安を拭いきれない社会状況にありました。藤の台には、このオイルショックを予言した人がいました。
 その彼H氏は政府の命を受けて、中東の石油事情に関して調査団を率いて視察に赴き、帰国してから見た、日本の国家、政府、子どもから大人までの過剰な浪費、消費を憂えたのです。「食料から燃料に至るまで輸入に頼らざるを得ない日本での、限りある資源に対しての自覚が足りないと、近い将来必ず、国家の規模で、しっぺ返しが来る」とした視察報告に耳を傾けなかった政府機関を辞め、夢を子ども達に託したH氏。
 現在、”リサイクル”、”資源回収”と叫ばれるようになりましたが、30年近く前にそんな言葉は知りませんでした。当時から、H氏は「ゴミは立派な資源」として扱いました。親子まつりの費用22万円は、たった1日、団地の親子総出で行った”廃品回収”の結果でした。翌日搬出のためジャンボ公園にうず高く積まれた廃品は”宝の山”。その夜、雨になり、宝の山が濡れないようにと覆いのためのテントやビニールシートをもって、申し合わせたように集まった大人が何人もいたということです。その中にお米屋さんのS氏もいました。H氏とS氏、このお二人の息のあった実行力は、数年後、団地住民となった私に地域活動の理想像と映りました。S氏は「怪我と弁当テメエ(手前)持ち」の持論で、子育て中の私たちに「人のせい(所為)にしないで自分で責任を持つこと」を教え伝えてくれました。さて、1万2000人が集まり、大盛況だった親子まつり。「藤の台共和国」とまでマスコミにさわがれた、団地1期生・地域活動の先輩達。伝説のごとく語り伝えられているこの「親子まつり」の反省会で1人の母親が「子どもの図書館が欲しい!」とつぶやきました。同じ思いの母親がもう1人いて、その2人がみんなの心を動かしていったのです。何でも受けとめてくれる懐の深さがこの会にはあったのです。図書館という施設は自分たちの手に負えないのではないか、しかし子ども達のために、とあきらめきれないでいたとき「バスの図書館のことを聞いたことがある」という声。トントン拍子に話は弾み、都交通局の廃バスがジャンボ公園に入り、父親達の手で椅子がはずされ3000冊入る本棚が取り付けられました。真夏の炎天下、母親達もペンキ塗りやら開館準備で大忙し。

 「えるふ文庫」と「ぐるんぱ文庫」、反省会で出会った2人の母親を中心に、本集め、人集め、PRが始まりました。当時、町田市はすでに市立図書館の団体貸出し制度があり、500冊の貸出しを受けました。しかし実際バスの本棚に並べてみると、余りにもわずかで、後日、500冊追加となりました。活動実績のある、玉川学園ありんこ文庫、他を見学、市立図書館のアドバイスをもらい正式に管理委員会がスタート。
 
 「昭和49年9月7日、夏の名残の太陽が、じりじりと照りつけている中を、12時前から出来はじめた子どもたちの列が、開始時間の午後1時には、児童公園を埋め尽くしてしまった。(略)この日、1時から4時までの3時間で、利用者469人、貸出冊数823冊(1人2冊)と言う盛況だった。(略)」(『バスの図書館記録』より)
 話し合いから2ヶ月、バスの購入から開館まで20日。
 わずかな準備期間でやり遂げた要因が分析されています。
1、文庫の必要性・全住民の支援

2、地区対が市や公団をリードし対処する速さ
3、管理委員の熱意
4、町田市と市立図書館の支援
 しかし一方、杭一本打つことも許されない公団の土地、駐車厳禁の公園に常駐・無人のバス。地区対が幾度となく公団に足を運んだ結果、”公団が町田市に土地を貸与し、バスの図書館を市の施設として扱う”ことで契約を交わすにいたったのでした。次に、バスの図書館を市の施設として、社会教育課が認めてくれるかどうか。
 「これだけの団地に、市立図書館分館は必要な施設である」「分館づくりの足がかりとなる子ども図書館」「子どものために」「責任はすべて藤の台地区対で」こんな条件と熱意に町田市側も大変協力的でした。事務手続きが終わったのは、なんと、図書館がオープンして2ヶ月後のことでした。
 バスの購入から、開館までかかった費用が20万円。親子まつりで実績のある藤の台は驚きませんでした。9月22日、小雨の中、親子で2度目の廃品回収を行い21万円余りの収入を得たのです。この体験は、廃品回収による利益を団地の子どもたちの教育環境を整えるために使おうと言う主旨の「子ども基金」づくりへ発展していったのです。リサイクル運動の先駆と各方面から注目を浴びながら、現在も続いています。

 子どもに人気のバスの図書館は夏暑く、冬は寒さに耐えられず、月日が経って破損がひどくなり、昭和55年5月5日現在の”藤の台ホール”(木造平屋、舞台付き洋室、サロン、和室)へ引っ越しました。もちろん子ども基金の資金で出来あがりました。少子化、高齢化が進み、子ども基金の資金は高齢者のために、防災設備のためにと守備範囲が広くなってきました。
 文庫活動は毎週水曜、土曜の午後2時から4時、毎水曜は”お話ポケット”(お話会)、第3土曜は、1977年12月から途切れることなく”和光大学・児童文化研究会”の学生たちが毎月1度、実践の場として藤の台に来てくれます。ピックル・きたろう・フランク・コロッケ・なっちゃん・ごりっぱ……実名は知らなくてもサークルネームでみんなの顔が浮かびます。
 今年の4月まで、8年間、第1土曜は折り紙教室でした。これまでの作品の折り順を記したファイルが4冊、大人の部もあり高齢者の仲間もいましたし、ひな祭りには老人会からお汁粉の差し入れがあり、大鍋2つがたちまち空っぽに。残念なことに先生の都合でおやすみとなりました。
 6年目に入る0、1、2、3歳向けの”ぱたぽん”は月に1度、第3金曜です。毎回15〜20組の母子が参加。幼稚園に上がった子どもは友達どうしで来てくれます。学級崩壊とさわがれる中、文庫に通ってくる子どもたちは、20年前と変わらない子どもらしさがあります。はきはきしてる子、はにかみ屋の子、自分を主張する子、リードする子、一人ひとりの個性が面白いのです。
 少子化で年間の新規登録者が大幅に減り100人未満が続きます。けれども、卓球、お絵かき、折り紙、お手伝いなどそれぞれの楽しみ方があり、フリースペースになっています。移り変わりの激しい世の中、昔も今も変わらないところが少しあってもいいですよね。
 私が子どもと文庫に引き寄せられる元をたどってみると、阿部襄先生(明40〜昭55・山形大学名誉教授)がそこにいらっしゃいます。吉林師道大学教授だった先生は敗戦で獄中生活を体験し、その後、ご家族といっしょに引揚者として郷里・松山町山寺(山形県)に帰ってこられました。まもなく鶴岡市に農林専門学校(現・山形大学農学部)が創立され、準備期間からメンバーの1人だった先生は教授として迎えられました。同時期、東京女子専門学校の畑井校長からも、教授として迎えたい旨のお手紙があったそうですが、阿部先生は「東京のような都会はあまり好きでない、女生徒もにがて……。」(『柿の実』より)と恵み豊かな郷里に根をおろしました。こうして生活が落着いてくると、”戦争の起こらない平和な世界にするにはどんな運動がいいか”。先生は平和について深く考えるようになりました。阿部先生は『三太郎の日記』の著者・哲学者の阿部次郎の甥に当たります。平和問題をおじさんに尋ねたとき、ユネスコのことに触れたそうです。

 「戦争は人の心の中に起きるもの、……」で始まるユネスコ憲章。教育、科学、文化を通して平和を築くユネスコ精神。阿部先生は実践にとりかかりました。日本で初めての民間ユネスコ協会が仙台市に創立され、2番目に鶴岡市にユネスコ協会が設立されたのです。ユネスコは政治に左右されないよう、利用されないよう民間団体でなければなりません。次に先生は、子どもたちにこそ平和教育が必要であり、世界の文化を知り、差別をなくし、人権を認め、多くの友達が出来るようにと、世界初のユネスコ子ども学校を創立しました。学校といっても建物はなく、週1度土曜の午後に公民館を借りて、阿部先生はじめ、先生の友人、お坊さん、教え子達が話をしたり人形劇など上演してくれるのです。生物学が専門の先生の話は海辺の貝やサンゴ、野原やたんぼの生き物、吉林の昔話など……。夏には市立図書館の本をジープに積んで、子ども学校の子どもたちが作った人形劇をお供に山間僻地へ”緑陰文庫”となります。
 私は残念ながら子ども学校へ通う優等生ではありませんでしたが、妹がとてもはりきった様子で楽しそうに話したり写真を見せてくれたものです。私は上京してからOB会に入り、全国のユネスコ仲間を知りました。一時、帰省していたあいだに、子ども学校の子ども達(小、中、高、高専、OB)と自由に楽しく過ごさせてもらいました。先生はタバコを吸いながら、目を細め、多くを語らず見守っていてくださいました。帰りにはよくラーメンをごちそうになったものです。夏休みは海辺のキャンプ、山寺での合宿。冬休みは赤々とストーブの燃える大学の研究室を訪ねました。小、中、高、高専の生徒達に大学生、ここはみんなの研究室、先生の蔵書によるユネスコ文庫の一角もありました。吉林に住んでいた頃、先生は満州の学生たちに頼んで田舎の伝説を集めていました。「中国人が日本人よりももっと小鳥を愛し、草花を愛するのは伝説、信仰が根本にあるからではないでしょうか」(『柿の実』より)と語っています。その中から人形劇になったものもあります。
 先生は子ども達のため『貝の科学』『わたしの野生動物記』『サケの一生』『水田の世界』『パラオの海と珊瑚礁』『吉林の終戦』『自然とわたしたち』などたくさんの本を書かれました。後年、町田市の浪江虔先生の図書館が閉館し、蔵書の一部を子ども文庫に頂戴したとき、阿部先生の『サケの一生』を見つけ、その1冊はわたし個人としていただきました。
 阿部先生は、「こうしなさい、ああしなさい」とは口に出さず、おだやかな笑顔で私たちを包んでいてくださいました。もっといろいろなことを先生に訊ねていたら、私ももう少し思慮深い人間になれただろうにと悔やまれます。
 今、私があの頃の先生と同年代になって気づくことは、もの静かな先生に如何に多くのことを学んだかということです。それが多少なりとも藤の台子ども文庫の活動に生きていると感じるのです。
人間の力だけでは

人間は生きられない
人間は自然のもの
ひとつの生命だから
(阿部 襄)
 昨年夏、転勤でシンガポールに移り、文庫を開いた仲間のところへ、出張お話会で応援としゃれ込み8人も乗り込んだのは、つい昨日のことのよう。
 学校では、文庫の仲間が中心になって読み聞かせの会が定着しました。子どもには読み聞かせと本の紹介、母親には学校図書館の問題を知らせる機会になっています。

 「バスの図書館」の記録にあったように”子ども文庫は町田市が「市立藤の台図書館」を建設する足がかりとして、教育委員会が認めた市の施設”。25年来の夢”町田市立藤の台図書館”を実現しようと、”建設を進める会”を設立し、団地近隣にも呼びかけ運動中です。
参考文献=『柿の実』(阿部襄・柿の実を刊行する会)、『庄内の四季』(阿部襄・農山漁村文化協会)