ず・ぼん4●「ピンクチラシ印刷拒絶」は「清潔なファシズム」だ 卑屈にして巧妙な検閲
「ピンクチラシ印刷拒絶」は「清潔なファシズム」だ
卑屈にして巧妙な検閲
前田年昭
[1997-12-10]
永井荷風がいま、生きていたら「人民の従順驚くべく悲しむべし」と嘆いただろうか。
中江兆民がいま、生きていたら「通読一遍ただ苦笑あるのみ」と書いただろうか。
文● 前田年昭
●日本語の文字と組版を考える会世話人
「日印産連」の声明に激怒の抗議文
事の発端はこういうことである。
昨一九九六年九月、日本印刷産業連合会(藤田弘道会長)は、いわゆる「低俗チラシ印刷拒絶」の声明を発表した。その内容は、同年十月二十二日付『印刷タイムス』によれば次のとおりである。
昨今、違法ビデオ販促用の低俗チラシが一般家庭に無差別に投げ込まれ、大きな社会問題となっている。このため市民団体では排除運動を起こし、また地方自治体でも、条例改正など規制対策を講じている。一方、警察当局はこれら低俗チラシ印刷は刑法百七十五条に抵触するとして、取り締まりを強化し、これまで印刷会社十一社が捜索され、二業者が摘発されている。このうち一社は会員団体の加盟企業であり、罰金の略式命令を科された旨新聞で大きく報道された。これは、印刷産業の社会的地位とイメージを大きく損なうものであり、極めて残念な事態である。
印刷産業人の使命は、印刷を通じ国民生活および文化の向上に寄与することである。これを機に印刷産業人綱領に掲げる「印刷産業人たるモラルを堅持し、常に有益な印刷物を提供する」という精神を改めて認識しなければならない。
われわれ印刷産業人は、低俗チラシの印刷拒絶をここに決意する。
また、十月十七日には大阪府印刷工業組合の井戸幹雄理事長らは大阪府庁と大阪府警察本部を訪問し、前日の理事会で議決したピンクチラシ自主規制の報告書をそれぞれ山田勇大阪府知事と廣瀬権大阪府警本部長に提出し、協力を要請した。その内容は、同年十月二十九日付『印刷タイムス』によれば次のとおりである。
アダルトビデオおよびデートクラブ、出張エステ、テレホンクラブなどの性風俗に関する宣伝広告物、いわゆる「ピンクチラシ」が一般家庭の郵便受けにまで直接無差別に配布される事態に鑑み、印刷業界におきましても、看過できる問題ではないと考え、ここに青少年健全育成の見地から、「ピンクチラシ」の受注に関し、自主規制として下記の各項をとりまとめ、組合員に対し周知徹底することといたしましたので、ご報告いたします。
一、売春斡旋やわいせつビデオ販売などの違法行為を幇助する宣伝広告物の印刷受注は一切行わない。二、アダルトビデオなど十八才未満の青少年への販売等が禁止されている商品に関する宣伝広告物で、一般家庭の郵便受けにまで直接無差別に配布されるなど青少年が否応なく目にするおそれが極めて高く、青少年の健全育成上好ましくないと思われる宣伝印刷物については、各社の良識において受注を行わない。
三、出張エステ、テレホンクラブなどの性風俗に関する営業で十八才未満の青少年の利用が禁止されている、ないしは十八才未満の青少年利用が社会通念上好ましくない営業に関する宣伝広告物で、一般家庭の郵便受けにまで直接無差別に配布されるなど青少年が否応なく目にするおそれが極めて高く、青少年の健全育成上好ましくないと思われる宣伝印刷物については、各社の良識において、その受注を行わない。
また、取材にきたテレビ局のインタビューに対する、井戸理事長の次のような発言もまた同紙は報じた。
……府下に印刷業者は約二千社あると言われ、大印工組は八百六十五社なので五割以上がアウトサイダーになる。ここは組合の力では規制できないので、府警の力も借りて徹底したい。また全国の印刷組合や印刷関連団体協議会を通して、運動を拡大していきたい。
くそったれ! ヘソで茶を沸かすたぁこのことだ、こんな卑屈な「犬」が「印刷産業人たるモラル」を云々するとは。私の腹立ちと憤りはおさまらなかった。一気に「抗議声明」を書いた。すぐ四、五日かけて、全国の印刷とページネーション関係者、関係団体、友人、知人に電子メールとファックスで送った。合計二千か所にはなろうか。以下がその全文である。
●日本印刷産業連合会(藤田弘道会長)は、九月十三日、先ごろ報じられた低俗チラシに関する印刷業者の関与・摘発の件にからんで、低俗チラシの印刷を断固拒否する声明を発表しました(「印刷タイムス」一九九六年十月二十二日付)。
声明は、「これまで印刷会社十一社が捜索され、二業者が摘発されている。このうち一社は会員団体の加盟企業であり、罰金の略式命令を課された旨新聞で大きく報道された。これは、印刷産業の社会的地位とイメージを大きく損なうものであり」として、「われわれ印刷産業人は、低俗チラシの印刷拒絶をここに決意する」と結ばれています。
●結論からいって噴飯ものであり、印刷産業人の誇りを損なうものと思います。
第一に、チラシの内容が低俗であったとして(だれがどういう基準で判断するのか、聞きたいものだが)、それは現代社会のひとつの反映であって、印刷会社には責任はない。印刷会社は、納期と金額がおりあえば、お客さんの思想・信条、印刷物の内容にかかわらず、その表現物としての印刷物のよりよい製品をつくるために全力をつくすのです。そうすることによって、表現の自由と民主主義のために貢献するのです。もちろん、受注するかしないかの選択は個々の業者の判断にまかされるべきであって、組織的に「拒絶」を決めるなどというのはおかしいと思います。
第二に、警察に摘発されたから「印刷産業の社会的地位とイメージを大きく損なう」というのは本末転倒です。低俗風俗こそは、現代社会の反映であって、連夜の官僚や警官どもの低俗な生態こそを取り締まるべきであって、誇りある印刷人は、自分に責任を転嫁しようとする警察に抗議するならまだしも、逆に「これから印刷はしません」と声明することによって、だからこれからは逮捕しないでください、と泣きついているのです。怒りの向けどころが逆なのだ。結局、ああいうことをされたら、今後は「取り締まり」を黙認しますよ、ということを業界団体自体が自らお墨付きを与えたことになってしまいます。
第三に、弁護士が、弁護を依頼してきた人の思想・信条、職業、門地や事件の内容によって「弁護活動を拒否」したり、印刷産業人が、印刷を依頼してきた人の思想・信条、職業、門地や印刷物の内容によって「印刷を拒否」するようでは、それはファシズムとなんら変わるところはありません。ヒトラー統治下のナチス・ドイツと、戦前の沖縄にはアウトロー組織は存在しなかったそうです。国民総スパイ化による監視体制と、ソテツ地獄が示す飢餓状態のもとではアウトローが生きる余地はなかったわけです。私はそのどちらも、イヤですね。
●印刷業界の片隅で生きる私などは「拒否」などとお気楽なことは言ってられないです。だから日本印刷産業連合会(藤田弘道会長)の、この九月十三日付の声明には、反対と抗議の意思表示をするものです。前田年昭 MAEDA Toshiaki
[web site] http://www.linelabo.com/
「日印産連」「大印工組」の声明を大々的に報じた業界各紙には、反論を載せる場をつくるよう申し入れたが、いずれも「拒絶」された(ここには名前は出さないが、歴史的汚名として残るであろう)。ごく一部には、業界として警察のお先棒をかつぐような声明には個人的には疑問なんですが……、と意思表示した記者もいた。大半は「事を荒だてたくない」という理由できっぱりと断ってきた(事を荒だてているのはいったいどっちかね!)。
ファックスや電子メールではさまざまな意見が寄せられた。
デザイナーのKさんは「ホントに腰ヌケばかりでいやになりますね。そういうことならついでにエロ本まがいのろくでもない雑誌も自主規制するのなら面白いのにね。そのへんはガッチリしてますね」。
デザイナーのSさんは「仕事を引き受けるかどうかは印刷人個人の問題であって、団体や組織の話ではまったくないという意味で、前田さんの声明に賛成です。きつい納期、理不尽な直し……、もっと印刷人が拒否権を発動すべきだという思いもあります(個々が)。
英語に、「プリンテッド・イフェーメラ」ということばがあるのを思い出します。「かげろうのような印刷物」とでも訳すのでしょうか、ちらしやチケット、札(ふだ)などのようにすぐに消えていってしまう印刷物。それらにこそ、デザインや印刷の原点があることも確かです」。
弁護士のKさんは、「表現の自由は、脆く崩れやすいものですし、また、当該発行者(ここでは印刷者)本人の利益より、本来表現されていたらそれを認識したであろう人たちの権利を冒すものですから、自己の利益にとどまらず、社会のことをよく考えて態度を決める必要があります。この点で大印工組の処置はまったく残念です。
ピンクチラシとか差別などをとりあえず目の前から隠して、それで問題が解決したかのような風潮には目を覆いたくなります」。
デザイナーのTさんは、「それだったら、モラルの成熟を待たずに精密な技術やテクスチャーを供給し続けるエレクトロニクス産業も糾弾されて然るべきですね。こんな御仁には
E-Printでニセサツを刷っている Back to the Future III を見せてあげたほうがいいでしょう。
現在稼働している製版・印刷機器が、交替の時期を迎えるのに、どれくらいの猶予があるのか。そのときの代替システムとして、あまりにも個人に負荷のかかるプラットフォームとソフトウエアで、現在と同等の印刷情報を処理しきれるのだろうか? こんなコメントを吐いている場合ではないのに……。メーカーさん業界、お役所ぐるみで次の仕組みを生み出さなきゃいけないときに……。この会長さんには「それどころではない!」と怒り返して欲しかったね」。
自主規制が隠蔽を引き起こす
最近、再処理工場の火災・爆発事故を起こした動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の事故隠蔽工作が暴露され、第一勧業銀行の大蔵省検査に対する隠蔽が暴露されている。新聞などのマスコミは「正義」の旗をふりかざして「不正義」を声高に断罪している。しかし、そんなに根性の曲がった性格の人ばかりがそれぞれの部署にいたのだろうか。隠蔽は個々人の性格に起因するなどということはないと思う。マスコミ自身にしても自らの「組織」の事故や不正に直面した時、隠蔽にまわる人びとが多数とは思いたくないが、逆に隠蔽する人がいないなどとはとても思えない。つねに隠蔽はただ上司の命令や強制によってでなく、一人ひとりの、納得ずくの、自主規制であったのではないか。
「先進国でここほど組織的自己検閲が行われている国はない。日本は自己検閲研究家のための理想郷」との、一九九一年に開かれた国際新聞編集者協会(IPI)京都総会での、在日経験の長い外国人記者の発言を紹介しているのは、原寿雄さんである(『ジャーナリズムの思想』一九九七年、岩波新書)。「言論・表現の自由とは常に、少数派の異端の自由を保障すること、多数が憎む思想・言論の保障でなければならない」という原さんは、戦後の日本のジャーナリズムの自主検閲のゆがみの始まりは占領軍検閲からではないか、という。日本軍部のやらなかった事後検閲制度のもとでは、危険ラインをみずから決めなければならず、より安全なほうへ安全なほうへと自主規制意識が強まったというのである。
この国の人びとのDNAには、権力に逆らうことよりも権力に媚びへつらう性格が刷り込まれてしまっているのだろうか。ファシズムとは人びとへの画一的強制だというが、総力戦を可能にした社会的要因として、国策に賛同せざるをえない非常時の社会的風潮があった、つまり、いわば広く浸透していた「常識」によって支えられていたといえないか。もちろん、その時代時代に幅をきかせている思想は、その社会で幅をきかせている階級の思想であって、庶民の本来のものではないはずである。しかし直接、牙をむくのもまた庶民なのである。
松本サリン事件の「第一通報者」であった河野義行さんは、警察とマスコミによって犯人にきめつけられた。自宅には「お前は殺人者だ」などの脅迫状が来た。深夜まで鳴り続けた脅迫、無言などの嫌がらせ電話は、二か月で百件を超えた。応対に出た未成年の長男に対し「人殺し」「街から出ていけ」など、すさまじい罵声が浴びせかけられ、家族の生命、身体すら危険な状態に陥った。
狂暴に河野さんに襲いかかったのもまた庶民だったのである。
魯迅は、暴君の臣民は暴君よりも狂暴であり、チンは飼い主に命じられずともキャンキャン吠える、という。
ヒトラーが宣伝の対象としたのは幅広い大衆であった。ヒトラー自身が『わが闘争』のなかで率直に書いていることはたいへん興味深い。「幅広い大衆とは、強者の勝利と弱者の抹殺、無条件な服従を望んでおり」「敵対者への容赦ない攻撃をする中で自分の力が立証されたと感じる」。こうした大衆を獲得するために「大衆の弱点とか大衆の獣性が、考慮されなければならない」、と。
浅野健一さんが現代をメディア・ファシズムの時代といい、岡庭昇さんと本多勝一さんが「情報バブル」の増殖機能といっている。そうだ、と思う。かつての「三浦事件」からこんどの「オウム事件」にいたるまで、市井の喫茶店では、つくられた「事件」に対して「あんな奴は死刑にしてしまえ」と庶民は、刑事や検事、判事になって、狂暴さをふるう。この国の庶民は何一つ進歩していないとさえ思えてしまう。
柴谷篤弘さんは最近(一九九七年二月)、径書房から『われらが内なる隠蔽』という本を出した。そのなかで隠蔽を支えるイデオロギーを次のようにみごとにえぐりだしている。少し長くなるがここに引用する。
今おとな=「保護」責任者、補導者、指導者などは、自分たちが管理・制御する相手方としての、罪のない被指導者にとっては「有害」だ、と判断する表現物を、大衆、とくに若い世代の眼にはさらさない、これが道徳・倫理というものだ。そういう判断、というか、むしろ「欲望」なのである。もちろん、自分たちは自分でよしあしを判断できるし、実際判定して、自分たちで自律的に、それらの流通を制限・管理できる、というのである。さらに、差別書の出版・流通を放置すれば、差別的な発想・知識・語彙が広まることが予想されるから、そういう好ましくない影響をもった出版物は、人の眼には触れないようにして難事を避けたほうがいいのだ——何よりも被差別者に「心のいたみ」を感じさせない方法をもとめねばならないのだ——そういう親ごころ的・おためごかし的・温情/干渉/父権主義的(paternalistic)・老婆心的な考え方が、ここにきれいに出てしまっている。このような考え方は、一見現在当面している困難を取り除くように見えながら、それによって差別され、被害をこうむり、場合によっては、戦うのをも辞さない人びとの主体性と自立を不必要とし、さらにはそれをおさえこんでしまう、という、本来意図されていないはずの結果をもたらすだろう(あるいはむしろ、それをあらかじめたくらんで、なお「いい子」のふりをしよう、という「深慮遠謀」なのだろうか?)。このようにして、隠蔽のイデオロギーは、かかわった人びとの「あらわな」善意にもかかわらず、日本に根づき、すくなくとも一時は標準的なものとして居すわってしまったように見える。消極的には、うるさい議論などには、できれば巻きこまれたくない、という「国民性」(あるいは、政府・体制による「洗脳」の産物)が、これと予定調和の関係にあることは、たやすく読みとれる。こうした種類の差別表現抑圧への批判は、もちろんすでにいくつか発表されている。くりかえしていうが、そうした抑圧が、複雑な問題を棚上げし、それに「晒される」読者の側の主体性を無視するという、典型的な父権主義の実践であり、それが「差別の克服」に向かって、はたして有効なのかどうか、がまず問われねばならない。(同書、二〇八〜二〇九頁)
柴谷さんはまた、この本のなかで、差別文書の廃棄というかたちでの隠蔽に対抗する新しい動きをも伝えている。『タイ買春読本全面改訂版』(一九九五年、データハウス)をそなえた静岡市立図書館に対して、アジアの児童買春阻止を訴える会がこの本の廃棄処分を求めた。図書館側は廃棄せず貸し出しも続けるとした。その理由は、「図書館の自由宣言」その他の基準に個人や組織の圧力によって廃棄されることはないとあること、図書館は内容の評価にはかかわらず、本をどう読み、どう利用するかは読み手の自由であること、などである。抗議団体側の意見は、この問題の加害国である日本では、タイ被害者の人権擁護は、公共の費用による図書館の資料収集の自由に優先する、というもの。これに対し、静岡市の図書館をよくする会の反対意見は、廃棄は検閲になり、善悪の判断を管理者にまかせてしまってはいけないこと、抗議し廃棄を求める行動はこの本を読む自由を確保したうえでの行動であって、他の人びとにはその自由を制限しようという矛盾をかかえていること、廃棄しようがすまいがこの本が出版されたという事実は消せないはずで、廃棄は事実に関する歴史と記憶の抹殺、隠蔽になる、というもの。
私はこの静岡市の図書館をよくする会の見解を支持する。事実は覆い隠せない。事実を隠そうとするものは、むしろその事実を作りだした犯人なのだ。それゆえに、本能的に事実を隠蔽しようとする。
見せかけの自由のなかで
さて、私たちのこの社会は本当に自由なのだろうか。一人ひとりが自由に考え、自由に喋り、自由に表現しているのだろうか。「自由な社会」というが、格子なき牢獄に繋がれ、操作された「考え」をあたかも自主的な判断だと思い込まされているだけではないか。だれでもが?第二、第三の河野義行さん?として襲われる可能性をもたされている。可能性を現実性に変えるのは、ほんのちょっとした偶然のできごとにすぎない。あなたはこれまで、襲われたことがあるか。君は今、襲われているか。襲われていないなら、それはただの偶然にすぎない。
だとするならば、襲いつづけている、または襲う側に立たされている、または襲うことを黙認していることを自覚し、襲うことをやめることから始めるべきではないか。
インターネット検閲で、あらゆるサイトをランク付けしようという企てがある。これは暴力、あれはポルノ、というわけだ。だが、ほんとうに自主的に考え、自由に表現できない社会で、見せかけの自由のなかで、いったい、だれが、どのような基準で、フィルターをかけようというのか。
冒頭の、低俗チラシ印刷拒否という奴隷の卑屈な声明を発表した輩は、臆面もなく「印刷産業人のモラル」を標榜している。
一九三〇年五月、徳永直は小説『約束手形三千八百円也』のなかで印刷労働者、とくに文選工の「指と神経は、時計の針よりも正確に、一秒といくらかのうちに、一万種類からの、複雑な国字の中から、誤りなくぬきとらなければならない」という熟練技術を要した彼らの誇りを次のように描いた。
彼等は幾多の出版屋を成金にし、数百人の小説大家を世に送った。コムニズムも、アナキズムも、軍国主義も、エロチシズムも、学校の教科書も、バイブルも、株式新聞も、おみくじも……凡ゆるものに彼等は彼等の血をそそいで作りあげる。
つまり、印刷屋は印刷物の内容や使用目的に関与するものではない、ということである。もちろん、職業倫理も道徳と同様に、時代をはなれて、階級をはなれては存在しない。しかし、その時代に、多数派の人びとが社会的に罪悪と認めるような問題(紙幣偽造! 「低俗チラシ」!など)をつうじて、印刷業に対して、事前・事後の、また直接・間接の規制を強める力がたえず作用していることに自覚的であれ、ということだと思う。
戦前も戦後も「印刷業の登録・届出・許可制」への動きが何回かあった。戦時下、それまでの特高警察による内容の統制に加え、流通の一元支配と印刷用紙の配給制により、すべてが「国家総動員体制」にくみこまれた。一九四〇年には新聞雑誌等用紙統制委員会が内閣情報部に設けられ、出版業者の組織を出版文化協会に一元化して統制、一九四二年には、出版文化協会は、企画内容による査定方式によるすべての出版物の発行承認制を導入した。(紅野謙介『書物の近代』一九九二年、ちくまライブラリー)
印刷労働者の歴史的責任として守り抜くべきモラルは、「自由な表現」を求める意志とともにあれ、ということではないか。もちろん、性表現や政治的主張をめぐって、主張当事者と権力との?攻防?はあるだろう。しかし、印刷屋に「幇助」という罪をかぶせる動きには断固として反対しなければならない。社会的に少数派であってもその表現の手段を奪うことは、結局のところ、その社会における表現の自由を自らそこなうことになるからである。「低俗チラシ」を印刷したとして摘発された業者に対して、仲間意識をもつどころか「印刷産業の社会的地位とイメージを大きく損なうものであり、極めて残念」とは何をか言わんや、こんな救いがたい奴隷根性の声明を出した日本印刷産業連合会の藤田弘道とは凸版印刷株式会社の取締役社長、同じく大阪府印刷工業組合の井戸幹雄とは不二印刷株式会社の代表取締役だ。諸君には、印刷産業人の歴史的責任への自覚はないのか。これを報じて、対する私の抗議声明を「掲載拒絶」した印刷業界紙。諸君には、印刷ジャーナリストとしてのモラルはないのか。嗚呼!
言論統制は必ずしも「上から」「外から」「直接の」圧迫としてはじまるものではない。「内なる隠蔽」としての自主規制・自己検閲によって言論・表現の自由が自壊させられること、ズルズルベッタリの状況追随主義がこれを支えていること、ここに問題の根がある。
過去の歴史的事実をなかったことにしようという「隠蔽史観」が最近、勢力をふるっているが、これも同根である。「良識」やら「健全な青少年育成」やらを高く掲げているところなど、瓜二つではないか。
異議申し立てを貫こうとする私を勇気づけた魯迅の「思いつくままに」(一九二五年)の一文でこの文章をしめくくろう。
もしもこの世に、本気で生きたいと望む人がまだいるとしたら、その人は、何よりもまず、思いきってしゃべり、笑い、泣き、怒り、罵り、闘い、このいまわしい場所から、いまわしい時代を撃退すべきである。(竹内好訳『魯迅文集』第三巻、一九七七年、筑摩書房)