ず・ぼん4●特集:どうする、どうなる?大学図書館 [大学図書館の開放を考える-1]開放を阻むものは何か

特集:どうする、どうなる?大学図書館
[大学図書館の開放を考える-1]開放を阻むものは何か

大串夏身
[1997-12-10]

大学図書館には貴重な資料も多い。
だが、利用できる者は限られており、誰もが自由に利用できるわけではない。かけ声ばかりで、いっこうに進まない図書館開放。

大学図書館の開放を阻むものは何なのか。
大学図書館の実状を踏まえ、開かれた図書館になるための提言。

文●大串夏身
おおぐしなつみ●一九四八年生まれ。現在昭和女子大学短期大学部職員。図書館学担当。
早稲田大学第一文学部卒業後、東京都立図書館に図書館司書として勤務。主にレファレンスを担当。

大学図書館の利用体験

 大学図書館は社会人になってからよく使った。勤めはじめて十年位は、いつも大学図書館に通っていた感じがする。母校の早稲田大学の校友向けサービスを利用して、平日は六時すぎから閉館の九時まで、日曜開館日には昼すぎから五時まで。それぞれ学生の数も少なかったため沢山の資料を出納してもらって、平日は夕食を食べながら調べていた。検索手段はカードと冊子体目録であった。早稲田で他大学図書館への紹介状を書いてもらって出かけた。東京経済大学図書館の館員は親切にいろいろと教えてくれた。大学の施設でよく利用したのはほかに、法政大学大原社会問題研究所と東京大学法学部明治新聞雑誌文庫である。当時、といっても十年から十五年ほど前のことだが、どこものんびりしていて、係員は、アバウトだった。早稲田では昭和前期の新聞・雑誌を見ていたが、資料の劣化が進んでいて、茶色のゴワゴワの酸性紙の上に活字の部分が浮き上がって、指でさわると崩れるようなものもあったが、他の資料と同じように出納してくれた。かがりがとれて一ページずつ抜きとれる雑誌や図書があって、事実抜き取られたものもあった。それを示して、こんなことでいいのかと係員に聞いたことがあったがベテランの職員は早いものがちだからねえと動じた風もみえなかった。明治新聞雑誌文庫は、請求すると何年分もの未製本の雑誌を机の上に積み上げてくれて、係員はどこかに行ってしまい監視することもなく、自由に見てくれという感じで、いつでも一、二冊抜いて持って帰ってもわからなかった。事実そうした欲求にかられたことはあったが——。
 教育の場では、教員や職員が学生の問題を話し合う時、必ず出るのは性善説と性悪説で、どちらの立場をとるかによって対応が分かれる。性悪説をとる人は規則を厳しくして管理しようとする。それからみると大学図書館や研究所図書館の職員は性善説の立場にある人が多いように思われる。かつて千代田区立図書館におそろしく厳格な職員がいて、それを知らない利用者は、返却のため本をカウンターに置いたり、借りるためカウンターに置いた、その置き方が悪いと言っておこられたということがあった。私も一度おこられて、それ以来、その職員がカウンターにいる時は、カウンターにできるだけ近よらないようにして、カウンターの前を通る時でも一番遠い書架にそって歩いた。そして誰かがおこられているのを見て、遠くから新しい利用者だなと思って笑いをかみ殺していた。公立図書館の職員は概して性悪説を取る人が多いようである。私も都立図書館で雑誌を担当していた時、新刊雑誌が来てないとか、もう図書館に来ているのに書架になぜ出ていないのかと言って、何時間もねばられ苦情を言われた時があった。税金ドロボーだとか権力の手先とどなられる時もあった。性善説を私生活でとる人も、図書館の職員である九時から五時は性悪説にくら替えする人が出るのもやむを得ない事情があった。
 大原社会問題研究所では、袋に分けて入れられたビラなどをそのまま出して来てくれた。書庫にも入れてくれて、あの袋・この袋と言うとそのまま出してくれた。袋の中にどんな貴重なビラが入っているのか係員は知らない風だった。南麻布の古い校舎にあった時代だ。勤務先が近かったこともあって、昼休みに走って行って昼食を食べながらビラをめくっていた。早稲田大学図書館のマイクロフィルム室は、自分でコピーをとるシステムで、これもどんどんとって、あとでカウンターで精算する方式だった。枚数の申告は利用者の言う通りだった。早稲田大学図書館は今もかなりアバウトで、雑誌の書庫に入れてくれて、コピー機が何台も置いてあり、キャレルも並んでいて、キャレルで中を見て必要なところはすぐにその場でコピーできるようになっている。これは以前の出納方式からくらべると夢のようだ。
 ともあれ私は大学図書館が好きである。大学図書館のいいところは、利用者が自由に図書館の空間と資料を使える感じがあるところで、それは職員が性善説をとっているところが多いからだと思う。次にいいところはコレクションがかたよっていて、ある部分はマニアックに収集されているかと思うと、ある部分はスカスカで、おおよそ体系的でないところである。体系的にみえるところもあるが、よく調べてみると穴だらけである。資料を探す者には、このマニアックなところがなんともいえない。最近は坑道の整備も進んでいて歩きやすくなったようだが、以前は廃坑のようなところがけっこうあって、歩いているうちにまっ暗になって手さぐりで進んだり、崩れてきたりして、何十年分かのホコリをあびて、鼻炎がひどくなったりした。それだけに何が出て来るかわからない楽しさがあった。早稲田のように戦災にも関東大震災にもあわなかった上、よくわけのわからない個人文庫がいくつもあるとその感じが強い。時たま何十年も出納したことがないとみえて、背文字も見えなくてねえといいながら乾いた雑巾でふいて出してくれる資料もあった。

 もちろん最新の科学技術資料も同じように欠落落盤型非体系的資料構成、一部「超」マニア的資料群である点がいい。これは国立国会図書館や科学技術振興事業団情報館の資料群と比べてみればよくわかる。こちらは総花的、オールラウンドの資料群なのだが、「超」マニア的なところはない。まあ行けばあるさという感じで面白味に欠ける。
 こうした資料群をほっておくことはあるまいというのが大学図書館地域開放論の出発点にある。

大学図書館開放の実情と開放論

 最近の大学図書館開放論を聞くと、生涯学習社会、情報化が進んで大学も地域に開かれた大学にならなくてはいけない、大学図書館も地域住民に利用できるようにしなくては、という。しかし実態はかけ声ほどではない。
 文部省の平成五年度の調査によると、学外者の図書館利用について認めている大学は全体五二三大学で総数(五三四大学)の九七・九パーセントである。設置者別にみると、国立大学は九十六大学(九八・〇パーセント)、公立大学は四十六大学(一〇〇・〇パーセント)、私立大学は三八一大学(九七・七パーセント)である。この学外者に地域住民も入っている。それがどれ位のパーセンテージになるか、文部省の報告ではわからない。学外者のうち地域住民等を含むと明確に認めている大学は四四一大学であるという(『大学図書館実態調査』平成五年度)。日本図書館協会の報告では、昨年五月時点で、全国では国立大学で開放率五六・七パーセント、私立大学で三二・二パーセント、開放しているといっても館外貸出しまで認めている図書館となるとまだ全体の一割強にしかすぎないという。地域別にみると大学数が少ない地方ほど開放率が高く、逆に大都市ほど低い傾向にあるという。

 もっとも地域開放ということに対する理解の差もあるらしい。これは過去の調査でも回答にバラつきがある原因となっている。やはり最低、「大学関係者(卒業生や他大学の構成員)を除く地域住民等が直接来館しても、図書館資料の利用が可能なこと」(吉田憲一「大学図書館における『公開』の位置づけ、および、公開をめぐる課題」『図書館学会年報』vol.38,No.2 八八頁、一九九二年)くらいにしておいてもらわないと困る。インターネットで所蔵資料を検索できるようにしています程度では、公開といえない。
 地域住民が利用する意義としては、生涯学習社会の進展、図書館資源の有効活用などの社会的要請、大学としての地域への貢献などがあげられている。他方大学図書館が地域開放、とりわけ地域住民への資料の貸出しをいやがる理由は、「(1)教育・研究のための常備資料で、学内活用者との競合が予想され、支障を来す恐れがある。(2)学術資料で将来にわたる保存・利用が必要であり、汚破損・紛失の恐れがある。(3)学問分野によっては複写によって要求が満たされる。」(吉田前掲論文、九一頁)である。要するに地域住民利用者迷惑論なのである。私にいわせれば大学図書館員はいつから性悪説にくら替えしたんだと言いたくなる。だいたいどこの大学図書館だって、学生が利用しようとすると教員が借りていて利用できないというものがある。その上、一部教員は借り出したまま返さない。その数が尋常な数でない。退官の時リヤカーに乗せて返しに来たという猛者もいるというし、競合はいまでも競合状態で、これ以上競合が増えるとかなわないということらしい。(2)はなくなっては困るというのである。これだって某大学図書館は学生が無断で持ち出して、その数があまりに多いのでブックディテクションを設置しいつも係員をそのそばに配置し警告音が鳴ればすぐに追いかけられるようにした、それでも本はなくなると聞くし、私のような学外利用者には、無言の圧力を加えているように思える。学費を払っている者は、そうまでして持っていくのは仕方がないが、地域住民はダメだというのかと気になる。だが、要するにイヤなのだということはよくわかる。大学の大衆化で学生の数も増えて対学生サービスでかなりの図書館員が九時から五時までの性悪説に宗旨がえをしつつあるのだから、仕方がないと言える。それに大学図書館職員はいそがしいのだが、大学当局からはヒマだと思われている。これは公立図書館と市役所との関係に似ている。公立図書館員はヒマで、読書に日々いそしんでいる、自分もそうなりたいと異動希望を出して、いざ図書館に来てみるとその労働量にたちまちネをあげて、図書館はヒドイ、いやだと悪口を言う職員が跡をたたない。要するに図書館内部の労働が理解されていないのである。大学の職員には、いまだ本は自分で買うものだと思っている人も少なくないし、ましてレファレンスサービスなどやる必要がない、調べものは自分でやるものだ、あんなことやるから学生は自分で調べなくなるのだとおっしゃる時代錯誤(そういえば大学図書館員性善説をとる私も時代錯誤かもしれないけれど)の方もいらっしゃる。学術情報システムの整備などは夢のまた夢、もっともそういう人は研究室にこもって夢もみないのだけれども……。

日本の教員が問題という意見

 私は、大学図書館の資料は誰でもが使えるようになった方がいい、公立図書館のコレクションと大学図書館のコレクションはそもそもが違うのだから、地域住民が利用できるようになった方がいいと思っている。大学の関係者は、地域住民の一人として公立図書館を使っている。大学関係者は公立図書館も使い大学図書館も使える。事実学生たちは、公立図書館、レンタルショップ、大学図書館を使い分けている。地域住民が大学図書館を使えるようにすれば、地域住民の読書・調査・情報ニーズはさらに発展するだろう。
 これは大学図書館職員は誰でもが認めているところである。それではなぜ大学図書館の地域開放が進まないのだろう。それは大学図書館が閉鎖的だからである。その閉鎖性は尋常の閉鎖性ではないのである。

 何年も前、イギリスの若い研究者を案内したことがあった。日本の九州の国立総合大学大学院に留学に来ていて、東京の社会福祉関係の資料所蔵状況を調べに来たと言って、紹介状を持って来た。二人で国立国会図書館、東京都立中央図書館などをまわって、古本屋に行ってみたいというので神田を案内した。案内しながら資料について話をしたが、イギリスと日本の図書館事情についても聞くことができた。
 彼は日本の大学図書館はヒドイという。非常に閉鎖的で隣りの学部図書室の資料を借りるのにも二〜三日かかる。イギリスでは考えられない、イギリスでは全国どこの大学図書館所蔵の雑誌でも、依頼すれば一週間で送ってくれるという。それも一冊でも、製本されていなくてもだというのだ。もちろん大変古いものは別だが、とにかく現物でなければコピーを送ってもらえるという。日本の大学図書館は一部の図書を貸してくれる程度でそれも時間がかかる。コピーは時間がかかる。その原因はどこにあるのだ、イギリスの図書館は図書館員の社会的地位が高いのでそうすることができているのかと聞くと、いやイギリスも日本も図書館員の社会的地位や大学での権限などは変わらない。大学の図書館が日本とイギリスとでそれほど違うという原因はどこにあると思うか、と重ねて聞くと、彼は断言した。大学の先生の問題だと断言した。日本の大学の先生は自分の身の廻りにある資料や研究論文でしか研究しない、せいぜい資料を発掘に行く程度だ、イギリスでは大学の先生が目録・索引をよく調べて先行研究や類似の研究を読み込んでいるし、研究状況の把握にも熱心だ、日本の先生はあまり熱心ではない、他の人が同じような研究をやっていても知らないでいることがある、日本は大学の先生が変わらないかぎり大学図書館は変わらないだろうという。
 これはきわめて正確な指摘だ。日本の大学の教員の知的なあり方を示唆している。大学の教員の頭の中が閉鎖的にできているのだ。昨今のネットワークに熱心なのは大学図書館員で、教員は依然としてあまり関心がなく、大学図書館員が予算や機器などで苦労して実現した成果の一部を活用しているように思える。教員自身が大学内部に委員会を作って図書館のあり方を根本的に変えようとしたということは、ごく一部で聞いたことはあるが、どこもここもというわけではない。電子図書館にしても熱心なのは民間企業と通商産業省であって、大学図書館の一部がプロジェクト開発として参加しているにすぎない。図書館情報大学で電子図書館フォーラムが開かれているが、参加者の多くは民間企業の社員だという。大学図書館は、大学当局と教員の理解がなければ動けない構造になっている。資料を収集するにしても、絶対的に大学教員の方が優位に立っている。学問的には圧倒的優位に立っているので発言力も強い。ところが本当にそうかと言うとそうとばかりは言えない。学問研究の方法と資料に日常的に接触してそこで学んだ資料の内容と体系化に関する理解とは違うからだ。広い範囲の資料に日常的に接している者の方がある部分は強い。大学図書館としての資料収集の独自の考え方はあって当然だし、それをいかに活用するかについて独自の考え方があっていい。むしろあるべきだ。大学図書館員が資源の有効利用を考えるなら、公立図書館との相互協力や地域開放を進めるべきである。地域に有力な公共図書館が存在する地域ではその実現性が高いように思われるが、やんわりとことわるのは公立図書館の方であろう。まともに相互協力すれば、公立図書館の方の持ち出しが多くなることが目に見えているからである。大学図書館の仕事量として、それ程増えることは考えられない。要するに大学図書館側の政策であり、考え方なのである。それを形成するのは大学教員の知のあり方である。研究室、学内にとどまらず広く資料・研究論文を渉猟し、手に入れようとすれば、おのずとネットワークが必要となるし、開かれた大学図書館サービスが必要となる。しかし、知のあり方が今すぐに変わることはない。地域開放も含めた大学図書館の変身は、大学図書館員に頑張ってもらうより他にないのである。おおいに大学図書館員の努力を期待している。それも利用者性善説に基づくサービスの提供を期待したい。

地域開放への遠い道のり

 大学図書館には設置の目的がある。その中に地域住民への利用とか地域への貢献とか書いてあるのは、きわめてまれである。目的の枠内でサービスを提供している図書館にとってみると、地域開放はいわば外圧なのである。生涯学習社会が進んだからといって、情報の時代だからといって、理由はどうであれ新しくサービスを増やさないといけないのは明らかだ。それに図書館の内的な論理とは無縁だ。図書館のサービスは、意義づけがどのようなものであっても、図書館の内的な論理とリンクしなければ、サービスとして展開されない。さしあたってやっていますけど……というレベルで終ってしまう。これでは何のために地域開放をやっているかわからなくなる。

 図書館の内的な論理に基づいて大学図書館員がやろうという気にならない限り、地域開放はむつかしい。図書館の内的な論理に沿って考えてみると、それは収集資料の有効利用にたどりつく。せっかく努力して収集したものだからできるだけ多くの人に、自分が生きている間に活用してもらいたい、ひとりでも多くの人に利用してもらいたい、こうした大学図書館員の気持ちである。収集したものがあまり利用されないのでは空しい。実際書庫で何十年もホコリをかぶっただけのものも少なくない。大学の中の利用者はそれぞれの視点で図書館の資料を活用して、資料に価値を与えている。資料は利用されなければ何の価値もないのである。利用者の手にとって読まれてこそ価値が生まれる。そうした意味で地域住民の多様な視点からの資料へのアプローチと活用が、新しい価値を資料にもたらすのである。新しい価値は、新しい需要を生み、大学図書館の蔵書構成へ一定の刺激を与えるだろう。蔵書構成を見直すきっかけになる。
 大学図書館のサービスで一番弱いのはレファレンスサービスであろう。文部省がまとめた『大学図書館実態調査』にレファレンスサービスの統計が掲載されているが、その区分は、文献所在調査、事項調査、利用指導、その他となっていて、所蔵調査と文献調査が未分化なのである。つまり、この本がありますか、はいあります、という「所蔵(在)調査」とムツゴロウの生育に関する文献がありますか、調査報告書や雑誌論文がほしいのですが……、という質問に回答する「文献調査」では根本的に違うのである。公立図書館の管理職に言わせれば所蔵(在)調査などレファレンスに入らないと広言してはばからない。所蔵(在)調査は単なるカードやOPAC(利用者検索用オンライン目録)を調べればすむ。事実八割方はそうだろう。レファレンスに入れるかは検討の余地がある。余地があるものと文献調査をひとつにしていては、レファレンスサービスの発展はない。レファレンスサービスの生命線は文献調査である。極端に言えば、ある特定のテーマに関して、全世界を対象にして文献を調べて紹介するのがこの調査なのである。もちろん、全部をリストにして提示することはしないが、本学図書館ではこのように調べたところこれだけある、雑誌記事索引を検索するとこのようになる、外国のオンラインデータベースでは、これとこれを、このキーワードで調べるとよろしいでしょう、アメリカ政府の報告書ですか、ちょっとお待ちください、という具合に調べる。大学図書館員こそ「書誌的世界観」を持たなければならない。この書誌的世界観こそが大学図書館員のアイデンティティである。こうした世界観を持ってこそ、勤務先の大学図書館のコレクションの価値が計量できるし、世界の中での位置を相対化できる。これは学問の権威と拮抗するものであろう。
 したがって、大学図書館はコレクションの複合体の形成とインデックス機能の総合化をはかり、まず文献調査を徹底的にできるようにならなければならない。この点、日本では公立図書館の方が一歩リードしている。特に総合的インデックス化は早急にすすめてもらいたい。大学の研究者が国立国会図書館や都立中央図書館に行って、自分の研究方法・文献情報探索法を改めて反省するのは、書誌・索引類の書架の前に立った時である。これは和書も洋書も同じだ。荒俣宏が大英博物館の膨大なリストを都立中央図書館の一階の書架の奥で発見して感激したのと同様の感動を、文献情報に対する検索の必要性を感じている者なら膨大な書誌索引類を前にして持つものなのである。大学図書館はごく一部をのぞきインデックス化が遅れている。書誌索引類は、インターネットの中のものもあわせて徹底的に収集して、すぐにアクセスできるようにしておいてもらいたい。これをやらないと、図書館員は資料群、コレクション、資料の書誌情報を知る機会が相対的に少なくなり、草の根をわけてでも探し出して来るという積極的な姿勢を失い、図書館員としての誇りを持てなくなり、結局、学問の権威に負けてしまうのである。収集などでも教員の意見が過度に尊重される傾向におちいってしまう。サービスについても同様で、しかし、その意見が継続的な図書館サービスの発展としてふさわしいものであるかどうか疑問なものが少なくなく、ますます現場の図書館員は精神的にも袋小路に追い込まれてしまうのである。
 こうした循環は断ち切らなくてはならない。大学図書館員の元気が出ないのである。それに予算が少ない、人手がない、研修の機会がとれない、外からはヒマだと見られているというのでは、ますますサービスの活性化はむつかしい。地域開放など余分な仕事が増えるだけということになってしまう。結局、コレクションや資料の活用への意欲が生まれない。これはネットワークについても言える。大学図書館員の活力の源泉が枯渇している以上、サービスの向上ははかれない。せいぜい整理事務などの合理化のために学術情報センターのネットワークに参加するか、インターネットのホームページにOPACを出すかなどの程度である。
 私は大学図書館員にここ一番の奮起をうながしたい。主体性を確立するために努力をしていただきたいのである。大学図書館員の専門性の第一歩は、全世界の資料を書誌情報のレベルで把握することからはじまる。ひどく遠まわりになるが大学図書館員の主体性の確立がなければ、何ごともはじまらないのであり、地域開放も仮にやったとしても内実のあるものにはならないのである。しかし、主体性を持つことや大学教員の知的あり方を変えることは百年の時間を要する。としたら、実際に来年から地域開放をはじめるためにどうしたらよいだろうか。

地域開放の方法

 地域開放の外圧要因は、生涯学習社会、地域情報化、開かれた大学である。これを表に掲げながら実務的には図書館資源の有効利用を旗印に公立図書館、公開度の高い専門図書館と話し合い、相互協力の協定を結ぶことであろう。最初は、地域住民は公立図書館に紹介されて大学図書館へ行く。大学図書館では貸出券(利用券)を発行してサービスを全面的に受けられるようにする。二回目以降は利用券を示すだけですべてのサービスを受けられるようにする。公立図書館と専門図書館、専門図書館と大学図書館の間もそのようにすればいい。公立図書館のOPACを大学図書館に設置し、大学図書館のOPACを公立図書館に設置し、相互に利用者が検索できるようにする。貸出しは、取り寄せるか、直接来館するかは利用者に選んでもらえばよい。いずれにせよまず相互に所蔵資料がわかるようにすることが第一歩である。相互協力の協定が結ばれれば、利用方法に関するPRを行なう。この時、公立図書館はできるだけ来館を望むであろうし大学図書館は公立図書館を通した協力貸出しを望むであろう。
 実績が生まれた段階で、利用者の希望などを聞いて、次のサービス段階のための話し合いをすればいい。いずれにせよ基本は資源の有効利用なので、図書館の所蔵ができるだけ利用者にわかるように示して、それを探索、活用する方法を利用者に複数提示して選んでもらうことができるようにすることである。こうした要件を欠いた地域開放は、資源の有効利用につながらず単なる席借りやデートコースの休憩場所として終ってしまうだろう。もちろん、児童サービスを大学図書館が行なうなど積極的な大学図書館の開放の事例がみられるが、今のところ例外と考えておいた方がよい。サービスの一部重複は当然だが、むしろ蔵書内容を生かしたサービスを考えるべきではないだろうか。
 なお、これを書いている最中に、『週刊朝日』(一九九七年五月三十日号)にノンフィクション作家佐野眞一氏が、大学図書館利用について次のように書いておられる。
 

資料調べをする者にとっていつも腹立たしいのは、国公立機関の閉鎖性である。早稲田大学は開架式の書庫や、カードとセルフ式によるコピーサービス、コンピュータシステムのレファレンスなどが警備され、使い勝手がよいことにいつも感心させられるが、国立大学の図書館をはじめとする公共資料館の排他性には、いつも腸が煮えくりかえる。
 権高に紹介状をもってこいというのはまだいいほうで、ある国立機関では、閲覧中、ずっと保険証を預けさせられた。これは、もう完全な人権問題である。自治体や金融機関のディスクロージャーも急がなければならないが、いまだ情報を独占的に私物化し、結果的に情報の死蔵に手を貸している公共機関こそ、まず率先して情報を開示すべきである。

 まったくもっともな意見である。国立大学の図書館の多くには、まだ神が存在した時代の官尊民卑という遺伝子がはびこっていて、それがいまだに新しい官尊民卑の管理官を育てているらしいのである。地域開放の道ははるかに遠いという感を強くする。
 利用者の身元確認からはじまる管理の体質は、結局資料がなくならないのが一番いいというところへ行きつく。なくならないためには使われないのが一番いいのである。これは国立大学図書館だけではなくて私立大学にも大なり少なりあてはまる。私立学校法人には、金額の高い低いにかかわらず図書館購入図書は一部学習用図書、事務用図書をのぞいてすべて備品図書扱いとするようにという文部省の通知が出されており、それに悪のりした公認会計士用のマニュアルが発行されている。(『学校法人会計ハンドブック』平成七年改訂版 日本公認会計士協会東京会編 霞出版社・一九九五年、一二六〜一二八頁、「図書の管理の仕方」は一三三頁にある)このような図書の扱い方、管理方法は、実態にそぐわない。(東京都では図書は備品二万円以上、それ以下は消耗品としている。これも図書館の実態にあっているかどうか議論のあるところだが。)管理会計実務が実態から大きくズレていて、大学図書館員を萎縮させるに十分な処理方法なのである。こうしたことからひとつひとつ変えていかなくては、地域開放は実りあるものとはならないのである。かけ声だおれにならないためにも、図書館活動を萎縮させ、大学図書館の主体確立を阻害させているような条件は早急にとりはずしてもらいたいものである。