ず・ぼん3●新刊屋から見た古本屋

新刊屋から見た古本屋

宍戸立夫●三月書房

[1996-09-05]

「思想」という言葉がいまよりずっと重い意味をもっていた時代、「三月(さんがつ)」 を知らない京都の学生はモグリだといわれたろう。場所は寺町二条を上がったところ。『檸檬』の「私」がレモンを買った八百卯はすぐ近く。立命館(今は移転)、同志社、京大からも歩いて行けた。十坪ほどの小さな店の奥にパイプをくわえた中年のご主人が座っていられた。立夫氏のお父上。知る人ぞ知る三好十郎の研究家で骨太な思想家。
だからかどうか、店内の棚はいまもユニーク。図書館員としては、一度はやってみたい蔵書構成。
棚が一種の「図書群」(中田邦造)を形成している。一見見映えしない空間が、あるテーマを思い描くとそこだけ浮かび上がってくる感じで、思わずうれしくなる。
(編集委員●東條文規)

宍戸立夫●三月書房
ししど・たつお●1949年生まれ。某大学文学部中退後、何となく家業に従事することになってからおよそ25年。いずれ三代目店主に就任の予定。
三月書房●1950年3月、母方の祖父(初代店主)と父親(現店主)が共同で始めた個人商店。売り場面積10坪。京都市寺町通りの商店街にあり、近所に梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台として有名な果物屋がある。
〒604 京都市中京区寺町二条上
TEL 075-231-1924 FAX 075-231-0125

 うちの店はささやかな新刊屋ですが、通りがかりの人からは、よく古本屋と間違えられます。古本屋だと思って入って来た人は、やがて、値段はどこに書いてあるんですかと聞く。聞いてくれる人はまだよいほうで、古本と信じたままカウンターまで持って来る人も多い。こういう人たちは、たいていの場合、古本屋は本を定価より安く買える店、としか考えていないので、新本で定価だと知ると、じゃいいです、とか言ってそのまま帰ってしまう。古本をどっさり持ち込んで、買い取りを要求する人も珍しくない。さらに先日は、新しいタイプが現れて、ポケットから文庫本を一冊取り出すと、交換してくれとおっしゃった。さすがにこんな人は、まだひとりだけだが、手数料を払えば交換してくれる、リサイクル本屋というようなものが、すでにどこかで繁盛しているのかもしれません。
 かくのごとく、うちの店は古本屋と間違えられ続けていますが、その原因ははっきりしていて、あんまり新刊書店らしくは見えないからです。多くの新刊書店は、自店名よりも出版社の広告の文字のほうが目立つような、スポンサー付きの看板を出しているが、うちのは店名のみ。また、多くの新刊書店には、入口のガラス扉などに、出版社のはでなポスターや、絶賛発売中などのポップ類を、中が覗けないくらいに貼ってあるが、うちは何も貼ってない。ちょっと店の中を覗いて見たら、カラフルな雑誌はほとんどなくて、渋目のハードカバーや雑誌のバックナンバーばかりが目につく。まあ早い話が、小汚い店に、薄汚れた本ばかりが並んでいるように見えるから、古本屋に間違えられるのだ、と言ってしまうと、これは古書店さんに失礼でしょう。
 では、古本屋に間違えられて迷惑か、間違えられないようにしたほうが、いいのではないかというと、けっしてそんなことはないのです。うちの店は、他の新刊書店とは少しでもちがった特色を出すために、中小書店はもちろんのこと、大書店でも見落とされていたり、冷遇されたりしているような本の中から、店に合ったものを探して、重点的に揃えるようにしています。よーするに一種の隙間狙いなわけですが、その結果として、旧刊書や雑誌のバックナンバーの比重が増えてしまい、棚の雰囲気が新刊屋と古本屋の真ん中あたりの感じになっています。ゆえに、古本屋によく間違えられるという現状は、他の新刊書店との差異が、こちらの意図した通りに、十分現れているということであって、ちっとも困ったことではありません。
 なぜなら、本当に本の好きな人たち、あるいは本を必要としている人たちは、現在のふつうの新刊書店、とくに売れ筋しか置いていないような中小の書店には、ほとんど何も期待されなくなっています。そういう人たちは、古本屋と間違えるからこそ、うちのように小さな店にわざわざ入ってみる気になってくれるのです。また、そういう人たちは、入ってから古本屋でなく新刊屋だとわかっても、かえって珍しいと喜んでくれて、たくさん買ってくれることも多い。そういう良いお客になりうる資質の方が、たまたま通りがかりに、うちの店の発見をしてくれて、以後は常連客になってくれたら、というのがこちらの期待なのです。

 もちろん、うちの店のそんな経営方針が、最寄り商品[注●1]を求める、ご近所のふつうのお客の多くを、逃がしてしまう結果になっていることは確実ですが、せっかく入ってきていただいても、あまりお役に立てないこともまた確実です。それに、最寄り商品と買い回り商品[注●2]を、両方とも揃えようとしても、必ず中途半端になってしまいます。うちが町に一軒の本屋ならば、むしろ積極的に、中途半端を目指したほうが正解かもしれません。しかし、なにしろ京都市内は書店過剰なので、少しでも店の名前を覚えてもらい、商圏を広げるには、世間の売れ筋には頼らずに、出来る限り独自の売れ筋を揃えなくてはなりません。
 古本屋に間違えられてもいやでない、もうひとつの理由は、新刊書店よりも古本屋さんのほうに、何となく親近感を持っているからです。新刊書店にあまり親近感が持てなくなったのは、うちが従来どおりの本屋を続けているのに、ほかの多くの新刊書店がリニューアルだとか、ストア・オートメーションだとか、複合化だとか、郊外型だとか、超大型化だとかで、どこか別の方向へどんどん行ってしまわれて、もはや同業者とは思えないような店に、変ってしまわれることが増えつつあるからです。
 このような、うちの店の経営方針そのものは、新刊書店としては時代遅れかもしれません。しかし、並んでいる本の鮮度は、最上の部類のつもりです。その鮮度とは、言うまでもなく、発行日の新しさなんかではなくて、どれぐらい生命力が残っているかということです。本の生命力とは何かということについては、確たる理論を持っているわけではなくて、ほとんどヤマカンのようなものなので、また別の機会にでも、ゆっくり考えてみることにしたいと思います。古本屋の場合なら、それこそ生命力が金銭に換算されたような、販売価格を見れば一目瞭然のような気もしますが、古書価格には本そのものの価値以外に、希少価値なども含まれているために、絶版になっていない本ばかり扱っている、新刊屋の参考にはあまりなりません。
 

 さて、うちの店が古本屋に間違えられても、喜んでいる理由はこの位にしておいて、古書業界の現在の状況はどうなっているのでしょうか。古本屋回りをするのは、新刊書店を見学して回るよりも、よっぽど楽しいので、京都市内の古本屋についてなら、少しは知っていますが、やる気満々の店と、やる気がさっぱり見られず、廃業寸前のように見える店とに、はっきりと二極分化してしまっているようです。古本屋の場合は、新刊書店のように、やる気があろうがなかろうが、最小限の商品は、取次店から毎朝自動的に配本される、というようなことがまったくないために、高齢とか病気とかで少し手を抜くと、たちまち店頭が寂れてしまいます。ただ、古本屋の場合は、公安委員会の許可要件だから店を構えてはいるものの、店頭販売には熱意を示さず、商売の主力を交換市や目録販売の方に置いている店もあるから、その経営状況は店頭風景だけでは解らないことも多い。裏通りなどには、店の表札はあっても、店売部門のないところも珍しくはない。その手の店は、必ずしも資金が不足しているから表通りへ進出できないわけではなくて、日本一の古書肆として有名だった、故反町茂雄氏の弘文荘などのように、あまりに高級過ぎて、フリー客なんか一切お呼びじゃない、という恐い店もあるので油断はできません。
 古書業界の文筆家として三番目位に有名な、青木正美氏の『古本屋四十年』(福武文庫)によると、一口に古本屋というが、主としてもとの定価以下のセコハン本を扱っている「街の古本屋」と、資料的骨董的価値のある古書を専門に扱う「古書店」に大別でき、無論このふたつの混合店もある。さらに、和本・古文書・書画・錦絵などを扱う店をとくに「古典籍業」ということもある。そして、これらすべてを包括しての全国二千数百軒の古書組合員の総称を「古本屋」という、とのことです。
 その青木氏が『新潮 』の九五年十二月号に書かれた「『古本買いません』時代の古本屋マル秘商法」によれば、「街の古本屋」という業種はもうだめで、先の見込みはほとんどないとのことです。もちろん、古書を扱う業界全部がもうだめというわけではなく、「古書店」と「古典籍業」は、まだまだ夢を持って語れる話題が多いのとのことですから、当分は安泰のようです。京都の古本屋は二極分化しているとようだ、と先に書きましたが、この青木氏の分類によるならば、もはや終焉が近いように見える店は「街の古本屋」であり、やる気満々に見えるのは、何らかの専門分野を持つ「古書店」であるということになります。うちがいつも間違えられているのは「街の古本屋」にではなく、「古書店」にだったらいいのだけれど、さてどちらなのでしょうか。
 それはさておき、青木氏は「街の古本屋」が成り立たなくなって来た理由として、若者の活字離れのほか、公共図書館の充実、ブックオフなどのチェーン店の進出、そして何よりも、マンガ、文庫、エロもの以外の、本と雑誌がさっぱり売れなくなってしまったことをあげておられます。活字離れということについては、出版業界の関係者のお得意のセリフで、いつも若干疑問を感じています。しかし、娯楽のなかに占める読書の割合は、娯楽の多様化によって、年々低下していることはまちがいありません。「街の古本屋」の場合は、娯楽としての読書をする人が、お客のほとんどだったということなのでしょう。若者の中で、娯楽以外の必要があっての読書をする人や、本当に本が好きで質量共にヘビーな読書をする人の数が、本当に低下していると言い切れるかどうかは疑問だと思います。
 青木氏の近所の区立図書館は、パソコン検索あり、他館から取り寄せは迅速、貸し出し冊数は無制限、カセットやCDの貸し出しありで、そのうえに、不要本の無料交換コーナーまであるという。だから、そのような官営の「無料貸本屋」には、とても対抗できるものではないということです。図書館が充実した結果、売れなくなる本というのは、やはり読み捨てに近い本でしょう。まだ今のところ、ほとんどの図書館がコミックを揃えることに抵抗感を持っているようですが、もしも本気で揃え始めたら、「街の古本屋」ばかりでなく、「街の新刊屋」にも影響があるかもしれません。

 しかし、図書館は本屋の商売の邪魔ばかりしているわけではありません。たまに、図書館の蔵書を持参したお客から、同じ本を取り寄せてほしい、と頼まれることもあるから、手元に持ち続けたい本の存在を知る場所という意味では、図書館の存在は、本屋にとっても有効でしょう。また、お客から漠然とした探書の依頼を受けて、手持ちの目録類や取次のデータ・ベースで調べ切れないときには、図書館のレファレンス・ツールを利用することも多いが、そんな時には、全国でも最低の水準を誇る、京都のお粗末な公共図書館でも、けっこう役に立つものです。ただし、調べあげた本が絶版で、商売にならないときの方が多いのは、いたしかたがないことですが。
 図書館は多数の市民の要求に答えることが最重要であり、その結果が読み捨て本ばかりになるのもまた、しかたがないことかもしれません。しかし、要望や利用は少なくても、個人では揃え切れないような、高価な専門書類の充実にも、もっと力を入れて欲しい。どんな専門書であっても、全国の図書館全体で、最低五百部ずつ位は購入してくれるようになれば、もっと専門書が出版しやすくなって、新刊業界も助かると思います。
 新しいタイプの古本店チェーンは、九五年末で約百五十店の「ブックオフ・コーポレーション」を筆頭として、各地にぞくぞくと増加中です。このブックオフのような形態の古本屋の呼び名は、リサイクル本屋とか、新古本店とかというように、いくつか試みられているようですが、まだ決定版はないようです。古書業界の方では、この手の店は古書組合非加盟なので、アウトサイダー扱いしておられるようです。古書組合の会員でなければ、各地の組合の交換市には参加できないが、仕入れを店での客買いと、本部からの供給に限っていれば加入する必要はまったくない。ほかに、故紙回収業者からの買い入れをする店もあると聞くが、よくは知らない。
 この手の店は、文庫、コミック、写真集、雑誌の最近号のほか、CD、ビデオ、LDなどが主力商品です。従来の古本業界が、店買いには極めて消極的になりつつあるのに比べて、実に積極的に買い入れをおこなっている。その特徴は、古本に古書としての付加価値を一切認めず、買い取り価格は原則として、新しいものほど高くしていることです。たとえば、あるチェーンの買い取り価格表では、コミックの場合、発売から三カ月以内、一年以内、それ以上の三段階になっていて、新しいものほど高く、汚い本は買い取らない。たしかにこのように単純化しておけば、バイトでもパートでも買い取りの仕事が可能です。したがってこの手の店では、高価な古書でも、汚いからと買い取らなかったり、捨ててしまったりする可能性もあります。そのかわり、目利きがいる古本屋と違って、堀り出し物が見つかる可能性もあるはずだがどうなのでしょう。サクラに堀り出し物をさせて、たとえば百円で買った手塚漫画が、「まんだらけ」[注●3]へ売りに行ったら五十万円になったというような話題をでっちあげれば、よい宣伝になるのではと思います。

 それはともかく、三カ月以内のものは高いとは言っても、ブックオフの場合は定価の一割が上限だというから、少し安すぎるようにも思いますが、競合店がもっと増えれば、いずれはもう少し上昇するかもしれない。それでも、従来は捨てるか、ちり紙交換に出すかしていたのが普通なので、売りに来る人はけっこう多いようです。そして、そのようにして集めた商品を、拭いたり磨いたり消毒したりして、化粧直しして並べるのだから、商品構成も見た目も、ほとんど街の新刊書店と変わりません。店は広くて明るいし、店員の応対はマニュアル化されていて余計なことは言わないし、「街の古本屋」のように、店番の親父に睨まれたり、ハタキをかけられたりもしないから、ゆっくりと気を使わずに選べるので、従来の古本屋は苦手だった人たちにも、入りやすいでしょう。これからは、この手の古本屋に間違えられる新刊書店が増えるにちがいありません。
 「街の古本屋」は図書館や新しいタイプのチェーン店に、文庫、コミック、写真集などの売れ筋商品を奪われてしまったが、ではそれ以外の本や雑誌はどうなのかというと、値打ちがあるのは、戦前の黒っぽい本がほとんどで、最近二十年くらいに出た白っぽい本などは、とても買い取る気が起こらない位に、価格が低下しているということです。先日の、毎日新聞記事に登場した、ある古書組合理事氏は、古本屋に本を売る場合「歓迎されるのは文庫と漫画。文庫でも剣豪小説、日本人作家のミステリー、性描写の多い小説」で「店頭に並べても今はそれしか売れないから」と話されています。このことは、新刊書店にとって見れば、換金目的の万引きの減少、というようにプラス面もないことはないが、ショタレ[注●4]の処分は断られるし、蔵書を処分できなくなったお客が、増え続ける蔵書の置き場所にも苦慮して、新刊書を購入する意欲を失いがちになるというように、やはりマイナス面のほうが多いようです。
 さて、「街の古本屋」さんの将来が、かなり暗いらしいことはわかったとして、「古典籍業」と「古書店」はどうなのでしょう。ほとんど書画骨董商の同類のように思える「古典籍業」のことについては、まったく知識に乏しいのでパスしておきますが、専門分野を持つ「古書店」の実力はたいしたものだと思います。たとえば建築書にしろ、美術書にしろ、演劇書にしろ、どの分野でも専門書店として一流なのは、新刊書店ではなくて古書店です。「まんだらけ」の隆盛を見れば、コミック専門店ですら例外でないことがわかるでしょう。専門書店の看板を出すには、新刊書籍だけでは不十分で、古書と新古の雑誌のバックナンバー、さらには新古の輸入本もあつかう必要があります。もちろん、古書を扱うには、古物商の許可証が必要だから、必然的に新刊書店では不可能で、新刊も扱う古書店になるしか、一流の専門書店になる道はないわけです。それにしても、コミック専門店はともかくとして、ときたま、なんらかの分野の新刊専門書店のうわさを聞くが、よく棚が埋められるものだなと感心してしまいます。
 さらに言うならば、古書店は書店としての将来性も新刊書店以上でしょう。いつの日にか、現在の我々のまったく知らないメディアが誕生して、紙の束としての、新刊書がまったく製造されない社会になることは確実です。その時には、新刊書店は自動的に消滅して、古書店イコール書店ということになるのは自明のことです。このことについては、ハイライン博士の近未来史でも読んで勉強していただくとして、現在の新刊書業界で最大の難問である、再販制度がもし廃止となったときのことを考えて見よう。

 再販制度が廃止になると、曲折があったとしても、やがては委託制度も崩壊して、買切制度が取引の主流になるだろう。そのとき、大量生産の読み捨て本は、スーパーや大書店のワゴンで、安売り競争されることだろうが、小部数の専門書に関して言えば、新刊書店の競争相手に、古書店も含まれることになるだろう。そして、むしろ彼らのほうが、うんと手ごわいだろうという気がする。古書店は戦中の一時期を除き、自由価格の自由販売だから、非再販本を扱うことに戸惑いがあろうはずがないし、ゾッキ本[注●5]ならお手の物です。仕入れた本の値段の付け方はいうに及ばず、安く仕込んでから相場を吊り上げるとか、寝かしておいて値上がりを待つとか、売れ残り品を見切って叩き売るタイミングの見極め方とか、業者間の転売品の足元を見てバッタ買いするとか、競合店の小売価格を調査することとか、いずれも新刊書店なら一から勉強しなくてはならないことばかりだが、古書店ならすでに習得済みの技術です。それに、委託取引が買切取引に移行すれば、資金繰りも変わって来て、買い取り用の多額の資金を手持ちする必要もあるし、在庫を仕舞って置く倉庫も必要になります。古書店というものは、一見小さな店であっても、必ずその数倍から、十数倍の広さの倉庫を確保しています。現在の新刊書店では、店頭在庫以外のストックを持たないのが、正しい経営とされていますから、ストックルームがあったとしても、店売面積のせいぜい数%で、物置や更衣室と兼用みたいなものです。うちの店も、再販制度が廃止された場合には、古書兼業にすることを、考えてみる必要があるかもしれません。
 とここまで、古書店を持ち上げて来ましたが、実のところ最近の古書店はあまり面白くありません。店頭も目録も古書展も品薄でマンネリ気味です。これには、いろいろな理由があるようですが、それゆえに、多くの古書店は、作家の自筆ものや、映画のポスター、チラシ、絵葉書など、書物以外の雑多なものに力を入れるようになってしまいました。このような状況は、本が好きなものにとってさびしいことです。その意味でも「まんだらけ」や、松沢呉一氏[注●6]が『鬼と蝿叩き』で紹介されていた「上野文庫」[注●7]のような、個性ある古書店がもっと現れて、新刊書店をも刺激していただきたいと希望しています。

(追記)本文執筆後、アルメディアから「古本屋ビジネス:大量出版時代のビジネス」という、現在の古書業界の最先端を知るには最適の本が出版されました。残念ながらというか、予想通りというか京都の古書店は一件も登場しませんが、「まんだらけ」「上野文庫」他の特色ある古書店が、全部で十一店紹介されています。本文中に「よくは知らない」と書いた、故紙回収業者からの仕入れのこともよくわかり、初耳のことも多く、とてもおもしろい本ですからご一読をおすすめします。

(1995/12/31記)

 

注●1 最寄り商品/週刊誌やベストセラー本のように、どこの書店でも買うことのできる商品と、実用書などのように代替可能な商品のこと。最寄りの店でたいてい間に合うことからこう呼ばれる。
注●2 買い回り商品/専門書などのように代替が不可能な、指定買いの商品のこと。何軒も回らないとその商品が買えないことが多いからこう呼ばれる。ただし、ある人にとっては代替可能な本であっても、別の人にとっては代替不可能な場合もありうるから、その区別は必ずしも厳密ではない。
注●3 まんだらけ/まんが専門古書業界のパイオニア。古川益三著『まんだらけ風雲録』(太田出版)に詳しい。本店は東京JR中野駅より4分、ブロードウェイセンター3F・4F。
TEL03-3385-6459

注●4 ショタレ/売れ残ってしまったが、もはや返品も不可能な本のこと。書店の見込み違いの場合のほか、お客の注文流れの場合に発生しやすい。
注●5 ゾッキ本/新本特価のこと。はじめからそのつもりで出版される「つくり本」と、本来は再販本だが、出版社が換金目的のために不正規に処分したものとがある。出版社が正規の手続きによって非再販を選んだ本は、ゾッキ本とは呼ばれない。
注●6 松沢呉一/『松沢堂の冒険 鬼と蝿叩き』(翔泳社)
注●7 上野文庫/「史・誌・録・芸の雑書」を指針としたややいかがわし気な「おもしろ本の小宝庫」。東京、JR御徒町駅より5分。TEL03-3831-6853