ず・ぼん3●特集:図書館人が植民地でやったこと 植民地での全国図書館大会

特集:図書館人が植民地でやったこと
植民地での全国図書館大会

東條文規
[1996-09-05]

文●東條文規
とうじょう・ふみのり●1948年、大坂生まれ。1975年から四国学院大学・短期大学図書館勤務。本誌編集委員。

はじめに

 日本図書館協会は戦前、植民地で三度全国図書館大会を開いている。一九二〇(大正九)年、「満洲」と朝鮮での第十五回大会。この大会は当時「満鮮」大会とよばれた。続いて一九三五(昭和一〇)年に第二十九回大会を朝鮮のソウル(当時京城)で開いた。この大会は「京城」大会とよばれた。そして二年後、一九三七(昭和一二)年に、第三十一回大会を再び「満洲」で開いている。さらに図書館大会ではないが、日本図書館協会主催の全国図書館協議会を一九二九(昭和四)年に台湾で開いている。
 このように戦前、三度、台湾での協議会を入れると四度、全国的規模の大会が植民地で開かれている。だが、この国の図書館史は従来、これらの大会をほとんど無視してきた。[注1]
 たとえば、日本図書館協会が創立百周年を記念して刊行した『近代日本図書館の歩み 地方篇』(一九九二)と『近代日本図書館の歩み 本篇』(一九九三)という二冊の大部な図書がある。いわばこの国の近代図書館の正史であるが、これらの大会については触れられていない。わずかに、「地方篇」に附録的に旧植民地の図書館活動が当時の関係者によって書かれているだけである(台湾に関しては当時の関係者ではない)。
 けれども、全国的規模の大会を開催するほどだから、植民地の図書館活動は相当活発であり、満鉄図書館のように、日本国内の図書館活動を質量ともに凌いでいたところもあった。植民地図書館の実証的な研究も、岡村敬二『遺された蔵書——満鉄図書館・海外日本図書館の歴史——』(阿吽社、一九九四)をはじめとして、すぐれた諸論稿発表がされるようになった。さらに、当時の満鉄図書館の館報『書香』、『収書月報』、『北』、朝鮮総督府図書館報『文献報国』などが「日本植民地文化運動資料」として緑蔭書房から復刻され、植民地図書館の実態が明らかにされつつある。

 本稿では、これらの資料を手がかりに、日本図書館協会が戦前、植民地で開催した三度の全国図書館大会の内容を検討することを通して、当時の図書館人たちの植民地認識を考えてみたい。

「満鮮」大会

 第十五回全国図書館大会は、一九二〇(大正九)年五月二五日〜六月五日、「満洲」と植民地朝鮮で開かれた。十二日間に及ぶこの大会を全面的に援助したのは南満洲鉄道株式会社(満鉄)であった。
 満鉄とは、いうまでもなく、日露戦争直後に設立された国策会社、植民地運営機関である。一九〇六(明治三九)年、資本金二億円をもって設立され、翌一九〇七(明治四〇)年四月一日から営業を開始した。二億円のうち一億円は日本政府の出資、他の一億円は清国政府と日清両国の民間からの公募であったが、清国の民間からの出資はなかったという。初代総裁は後藤新平。
 鉄道と炭鉱の事業から出発し、以後敗戦までの四〇年間七〇の関連会社、傍系機関を擁し、社員は約二〇万人、社員外の従業員を含めると三〇万人に達し、敗戦時の全財産は当時の価格で二六億七千万ドルに達したという。

「まさに『満鉄』は国家そのものであった。それは、満州に棲む人々の“生きざま”に決定的な影響力を持っていたというだけではなく、国家の理念や意思や思惑をそのまま反映していたのである」(草柳大蔵『実録満鉄調査部』上、朝日文庫、一九八三)。

 ところで満鉄の図書館事業は、設立の翌年(一九〇七年十月)に、大連本社の一室で開始される。その後、一九一〇(明治四三)年、社会教育事業のひとつとして、図書館事業を独立させ、沿線附属地に図書館を次々に設置していった。この附属地図書館は、一九三四(昭和九)年まで、年々増え続けて、その数は二三館(他に六分館)に達した。
 とはいえ、一九一八(大正七)年一月の調査課の機構改革まで、大連の本社図書室は調査課図書係、沿線附属地図書館は地方課教育係に属し、それほど重要な位置にはなかった。しかし、調査部内の強化をはかったこの機構改革以降、満鉄の図書館は大きく発展することになる。

●豪華な観光旅行

 日本図書館協会が全国図書館大会を「満鮮」大会と名づけて、朝鮮と「満洲」で開いたのは、ちょうど調査課の機構改革により、満鉄の図書館が整備されはじめた直後であった。大連図書館の初代館長島村孝三郎(前調査課長)は、一九一九(大正八)年、東京市立日比谷図書館にいた柿沼介と東京帝大附属図書館にいた衛藤利夫を満鉄に引き抜いた。当時、日比谷図書館の館頭は今澤慈海、東京帝大附属図書館長は和田萬吉。両者とも日本図書館協会の幹部であり、柿沼、衛藤は帝大出(衛藤の場合は選科)の秀才であった。以後、柿沼は大連の、衛藤は奉天の図書館長として、二〇年余、満鉄の図書館を築いていく。二人の入社が以後の日本図書館協会と満鉄との結びつきをより強くしていったのである。

 さて、第十五回全国図書館大会である。出席者は八十五名。そのうち日本(内地)からの出席者は、釜山までの往復船車賃と少額の宿泊料のみで、十二日間の「満洲」、朝鮮旅行を楽しんだ。釜山からの専用車、各地での車馬、弁当、ホテル代の割引等、すべて満鉄の負担であった。この大会旅行がいかに豪華なものであったか、当時の『図書館雑誌』(第四三号、一九二〇年十月)から日程を抜き出しておこう。
 第一日目、前夜から釜山に宿泊していた一行は、満鉄図書館長神田城太郎、館員柿沼介らの出迎え人とともに列車でソウル(当時京城)に向かう。夕方「京城」に着き、満鉄、朝鮮総督府、李王職らの出迎えを受け、人力車で旅館に分宿。
 第二日目、総督府を訪問、満鉄管理局招待の昼食会、市内観光、夜は教育会主催の講演会に出席。講演は、今澤慈海「公共図書館の使命」、喜田貞吉「民族の同化」。夜行で大連へ。
 第三日目、夕方、奉天着。満鉄奉天図書館の衛藤利夫と、満鉄の招待を受けた「支那」側の有力者二十余名も同乗。
 第四日目、朝、大連着。ホテルで朝食後、大連図書館へ、館内見学後、大会開会。来賓として「支那」側より中華民国教育総長代理、東三省巡閲使張林氏代理、教育庁長謝蔭昌氏ら数十名。大連側から、満鉄社長、副社長、民政署長、商業会議所長その他満鉄及び教育関係者十数名臨席。午後、満鉄中央試験所等を見学。夜はヤマトホテルでの満鉄の招待会。管弦の奏楽、少女歌劇あり。
 第五日目、満鉄図書館で協議会。

「国際図書館大会の件」を協議。すでに今回の大会は国際的大会であるが、さらに欧米諸国の図書館当事者も糾合して、より大規模なものにするため、特別委員を設ける。日本図書館協会に一任。後、ヤマトホテルで東亜図書株式会社招待の昼食会。午後、大連市内見学の後、講演会。今井貫一「改造に際して」。早々に切り上げ、夜、民政署市役所商業会議所主催の招待会。「支那」料理に「支那」芸妓の余興付。
 第六日目、旅順へ、戦蹟の見学。表忠塔下で記念撮影。市内見学。大連に戻り、日本図書館協会会員有志と満鉄関係者らの懇親会。
 第七日目、列車で奉天へ。
 第八日目、奉天市内見学。午後、中学堂で大会と講演会。各界からの祝辞の後閉会。講演会は、渡辺徳太郎「図書館創立者としてのフランクリンとカーライル」、喜田貞吉「日本民族の起源」、和田萬吉「図書蒐集と図書整理」。聴衆百余名、大連の大会に劣らず盛況。夜、奉天総領事主催で盛大な官民連合招待会。「支那料理の饗応あり、日華両国の佳伎酒間を斡旋し、支那奇術の余興」。
 第九日目、奉天市内、北陵、宮殿、東三省立女子師範学校等見学。
 第十日目、「京城」へ、安東で乗換え。

 第十一日目、朝、「京城」着。奎書閣、博物館等、市内見学。
 第十二日目、総督府、満鉄管理局職員らの見送りを受け釜山へ。午後七時五十分釜山着。「第十五回全国図書館大会は空前の盛況裡に無事終了」。
 以上、十二日間の日程を追っていったが、満鉄おかかえの豪華な大名旅行以外の何ものでもない。官民あげての至れり尽くせりの接待と毎晩の日中両国の芸妓を伴う饗応。一流ホテルでの宿泊。大国策会社満鉄にとっては、そんなに大した負担でもなかったかもしれないが、日本図書館協会の幹部に満鉄の力を誇示するには十分であったであろう。

●植民地図書館を巻き込んで

 満鉄の全面的援助を受けた、この第十五回全国図書館大会の成功は、満鉄、そして植民地の図書館と日本図書館協会との結びつきを深めた。この大会は、見てきたように視察と講演会中心の一種の「お祭り」であったが、翌一九二一(大正一〇)年の奈良での図書館大会で、衛藤利夫は早くも「図書館事業に於ける日支提携の実行策如何」(『図書館雑誌』第四五号、一九二一年八月)を提案している。

 衛藤によれば、日本と「支那」は千百年の文化的交流のある隣国で、その影響は永遠の生命あるものである。金と人とに不自由がないと仮定すれば、両国共同で、東亜文献の一大集積所たる大図書館、研究所、大学などをつくる。東亜文献の総目録を作成し、四庫全書の改修復刻、続四庫全書類似の大出版編纂事業、相互交流などを提案する。
 比較的容易なこととして、日本図書館協会を広げて、東亜図書館協会のようなものをつくり、図書館員同志の輪を広げる。手始めに協会の「満洲」支部、「満鮮」支部をつくることはすぐにでも可能である。
 そしてこの提案趣旨説明の最後を、「精神的の荒蕪地を開拓して行く」われらは、「困難な文化戦における前線の闘士であり、肉弾である」。「内地」のみなさんは、「大本営または参謀本部の地位」にいる。自分たちは必死だからぜひ後援して欲しいと結ぶのである。
 衛藤の大言壮語気味な提案は、あながちたんなるアジテーションに終わったわけではない。この大会の翌年(一九二二=大正一一年五月)、満鉄奉天図書館が新築落成されると同時に館長に就任した衛藤は、以後一九四二(昭和一七)年一月まで、その強烈な個性で奉天図書館だけでなく、満鉄の図書館全体を領導していくのである。

「京城」大会

 植民地での二度目の全国図書館大会は、一九三五(昭和一〇)年十月、朝鮮の「京城」で開かれた。この年の十月一日は、「朝鮮施政二十五周年記念日」及び「朝鮮神宮鎮座十周年」ということもあって、朝鮮各地でいろんな記念行事が開催されたという。
 第二十九回全国図書館大会もこれらの行事の一環として催されたものであり、したがって、朝鮮総督府も宇垣一成総督自らが図書館観を講演するという力の入れようであった。大会は十月八日から十日まで、実質的には三日間であったが、朝鮮内鉄道運賃は半額であり、一九二〇(大正九)年の大連、奉天でのいわゆる「満鮮」大会と同じように、多分に物見遊山的要素が含まれていた。じっさい、大会終了後、日本からの参加者の多くは五日間の朝鮮内視察観光旅行を楽しんでいる。大会参加者は一八六名。そのうち朝鮮からは九五名(日本人七三名、朝鮮人二二名)。「満洲」、台湾からの参加者は二一名。日本からは七〇名であった。

●図書館の発展を図るが

 物見遊山的な要素が多分に含まれていたとはいえ、この大会をたんなるお祭り的な大会と見なすべきではない。
 宇治郷毅が指摘しているように、朝鮮図書館界は、この大会を朝鮮図書館運動の一大契機にしようという意図をもっていた(宇治郷毅「近代韓国図書館史の研究——植民地期を中心に——」『参考書誌研究』第三四号、一九八八年七月)。

 朝鮮総督府図書館長荻山秀雄は、「朝鮮図書館の将来(上)」『京城日報』(一九三五年十一月七日)で次のようにいう。

「朝鮮の幼稚なる図書館界を振興せしむべき手段方法は数多くあるであろうが、その最も効果的なるものの一つは全国図書館大会を京城に誘致することである。由来文化事業には国境なしとの諺さへあるが、内鮮の図書館はほとんど没交渉といっても差し支えない程の隔たりで何等の聯繋もなかった。我等は内外地の権威者を迎へ図書館思想の啓培をはかると共に胸襟を開いて振興の対策を講じ、以て朝鮮の館界は内地の延長であるてふ時代の一日も速からむことを熱望していた」(宇治郷、前掲論文より引用)。

 朝鮮図書館界のこのような意図に、日本図書館協会理事長松本喜一も呼応する。

「今回施政二十五周年の祝典をエポック・メーキングといたしまして、更に一大躍進を試みんとする朝鮮に於きましては、必ずや将来文化的の諸施設が計画せられる事と存ずるのでありますが、私は之が記念事業の一つとして、鮮内各地に於いて図書館の建設が計画せられ、一段と精神文化の向上を招来して、由て以て来るべき五十周年祝賀の基礎を築かれんことを念願いたすものであります」(「第二十九回全国図書館大会式辞」『図書館雑誌』第二九年第一二号、一九三五年十二月)。

 荻山秀雄の希望的展望や松本喜一の願望は、しかし実現することはなかった。事実、朝鮮の図書館数は一九三二(昭和七)年の五二をピークに、一九四三(昭和十八)年には四二に減っているのである。この図書館大会が開催された一九三五(昭和十)年には四六。[注2] すでに減少過程にあった(宇治郷、前掲論文)。

 だからこそ、荻山秀雄ら朝鮮の図書館界幹部にとっては、この大会を図書館躍進のテコにしようと意気込んだのである。大会三日間の討議内容がその意気込みを十分証明している。
 朝鮮総督諮問「朝鮮ノ図書館ヲシテ一層発展セシムヘキ方策如何」に関して、一般協議題とは別に、朝鮮部会を開き、活発な議論が展開された。提出された議題は、
 一、朝鮮に図書館令を制定すること。
 二、社会教育専任の指導官を設置すること。
 三、教育功績者の選奨規程を図書館員にも実施すること。
 四、優良小図書館に奨励金を下附すること。

 五、地方に小図書館を設置すること。
 六、初等中等学校に図書館を附設すること。
 七、毎年一回、朝鮮で図書館講習会を開くこと。
 以上、七項目について討議し、最終的にはほぼ原案どおり建議されるのであるが、一と二とは大会討議のなかで図書館側と総督府側の意見が異なっていた。図書館側としては、総督府の権限によって、図書館を発展させることを必死に目論むが、総督府側は、図書館側の願望に十分対応するだけの意欲も財政的余裕もないというのが実情のようであった。
 そもそもそれ以前に、図書館側と総督府側とでは図書館に対する考え方が異なっていた。図書館側は、少なくとも図書館を図書館として充実、発展させることを目的としているのに対し、総督府側は直接、図書館を「思想善導」の機関、植民地イデオロギーの注入機関として位置付けていたのである。[注3]

●思想の観測所

 宇垣一成朝鮮総督の大会での講演「図書館界に望む」は、そのような総督府側の意向を率直に表している。

「即ち図書館を通じて、社会の思想の流れ、その動きの前途を予測してみたい。即ち図書館は思想の観測所である」。
「出版物の多いその中には、所謂曩に申上げた無益なもの、或は劣悪若くは低級で、寧ろ有害のものも相当に含んで居るやうに思はれまするから、これに厳正な批判を加へて多くの人間に無駄な浪費、無駄な時間を費やさぬやうに、又有害な出版物に触れさせないやうに、図書館を通じてさういふことが出来ないものであらうかといふ考へを私常に持つてをるのであります」(『図書館雑誌』第二九年第一二号、一九三五年十二月)。

 要するに、図書館は第一に、「思想の観測所」としての役割をはたすべきであり、第二に「良書」を選別すべきところだという。
 このような宇垣一成総督の露骨な意向に対し、図書館側も疑問を呈するどころか、すすんで迎合したのである。答申のなかに、わざわざ「(乙)図書館員ノ努力に俟ツベキ事項」を加え、その一番目と二番目に以下のような項目を入れるのである。

 一、良書蒐集紹介ニ力メ設備ノ充実完成ヲ期シ一層其ノ機能ヲ発揮セシムルコト。
 二、常ニ読書ノ傾向ニ留意シ国民ノ思想善導ニ力ムルコト。
 図書館側としては、この大会での総督府との討議の過程で図書館の要求が容易に受け入れられるものでないことを知った。だから答申に「(甲)当局ノ施設ニ俟ツベキ事項」と抱き合わせて、諮問もされていない項目を答申に加えたといえなくもない。
 この時期、すでに中央図書館制度(一九三三=昭和八年)は確立し、日本図書館協会は文部省の補助金を得て、「良書普及事業」(一九三一=昭和六年)を行なっていた。この大会でも「当局は図書館事業を自治的にせんとする傾あり、我々は国家が強制的にすることを望む」(吉岡龍太郎青森県立図書館司書)というような声が参加者から挙がっていたのである。
 要するに、図書館を発展させるためには学校教育と同じように、国家の強力な指導と財政的援助が何より必要である。その実現に向けて、図書館は国家の意向に沿っていこう、というのがこの大会の基調をなしていたのである。

●「国語普及」とは?

 ところで、この大会で注目しなければならないことがもう一つある。討議の過程で間宮不二雄(間宮商店店主、青年図書館員連盟書記長)から答申書に、「道府邑面立図書館ニ成人教育ニ適スル係員ヲ置キ文盲者ヲ教育シ、彼等ヲシテ図書館利用能力ヲ深クセシメルヤウニ適当ナル施設ヲサレタシ」という一項を加えるべしという提案があったことである。
 具体的には、成人の非識字者のために、「図書館の閲覧室を開放して、その館が文盲者を集めて、唯今申しました国語教育者がゐて、図書館事業の邪魔にならない時間に国語を教へる。又各地に出張して、或いは学校その他を御利用になって、図書館員の中、国語教育者が出て行つて教へる」(『文献報国』第一巻第二号、一九三五年十二月)という。
 結果は、賛成多数で何の疑問もなく、答申書に付け加えられることになった。
 この提案は、当時植民地朝鮮では、人口二千万人中、約七割が非識字者であるという状況を踏まえてなされたものであった。そして間宮がその提案の根拠にしているのが、朝鮮総督府図書館報『文献報国』の創刊号(一九三五年十月)に載った李在郁[注4]の「躍進朝鮮と公開図書館」であった。

 李はこの論文で、朝鮮の非識字者の割合が七二・六パーセントと圧倒的に高い現状を憂い、それを克服するために図書館が積極的な役割をはたさなければならないという。

「この事実(非識字者の割合が圧倒的に高いこと——引用者)は民族文化の根本的病根であり、この病根を徹底的に誅去せぬ限り社会の進展、民衆の向上は到底期せられないことは厳然たる事実である。それは『知るは力である』からである。そこで、文盲打破、民衆啓蒙運動は今や、朝鮮に於いては更生への根本的課題であり、躍進への基礎的工作である」。

 そして、学校教育は、「原則として一定の資格を附し、特殊階級者にのみ開放される」が、図書館は、「特別の資格を附せず、凡る階級の者が自由に勉学修養する様提供され」ているので、図書館教育の方が学校教育より、「積極的であり、能動的であり」、「より効果的役割を演ずる」。したがって、「文盲打破運動、啓蒙運動は朝鮮に於いての当面の重要課題であり、本課題の解決については図書館がその主要なる役割を演ず可く運命づけられてをる」という。
 李の提言は、ここまで読めば、先の図書館大会で間宮が答申案に付け加えるよう提案した内容と同趣旨のものであると考えられる。じっさい、間宮も大会の討議のなかで、この李の論文を読んで、先のような提案をしたとのべている。
 けれども、李の論文をよく読めば、同じ提案がまったく異なった内容を語っていることがわかる。

 李は、同じ論文で続いて、最近朝鮮人の篤志家が何人も非識字者の解消のために図書館を建てたり、学校に寄附したり、土地を提供した事実をあげる。そして朝鮮の出版界も近年、活況を呈してきた事実を指摘する。

「その主要なるものは、諺文雑誌類の千百五十種、朝鮮族譜文集の三百五十種等である。又、最近に於いて民間各方面の有志の決議に依り、朝鮮文化の向上を計り、有志の記念図書出版事業の助成を目的とする朝鮮記念図書出版館の創立を見たことは注意す可き現象であらねばならぬ」。

 要するに、李は、慎重に言葉を選んでいるけれども、朝鮮民族の自立のための「文盲打破運動」を提起しているのである。だから当然にも、この「躍進朝鮮と公開図書館」から読み取らなければならないのは、朝鮮語の読み書き能力の獲得なのであって、日本語のそれではないのである。じじつ、李在郁は、同時期に、同趣旨の『農村図書館の経営法』という朝鮮文で書いた小冊子を出版しているのである。[注5]
 ところが、間宮は、意識的にか無意識的にか李の提案を受けて、図書館で「国語教育」をするべきであるという。国語とは、いうまでもなく当時にあっては日本語のことである。そして、この大会に集まった図書館人のだれ一人疑問を呈することなく、間宮の提案に賛同し、答申案に先の「道府邑面立図書館ニ成人教育ニ適スル係員ヲ置キ文盲者ヲ教育シ、彼等ヲシテ図書館利用能力ヲ深クセシメルヤウニ適当ナル施設ヲサレタシ」という一項目を加えたのである。
 当時、植民地朝鮮の教育制度は、第二次朝鮮教育令(一九二二=大正一一年)の時期であり、朝鮮人の学校として六年制の普通学校を置いていた。だが、義務制ではなく、授業料も取ったので就学率は二〇パーセント程度。教科書は日本語で、一年生の場合、週に日本語一〇時間に対して朝鮮語四時間、六年生では日本語九時間に対し、朝鮮語三時間であった。そして一九三八(昭和一三)年の第三次教育令では、わずかにあった朝鮮語の時間も必修ではなくなったのである(姜在彦『朝鮮近代史』平凡社、一九八一)。

 そもそも一九一〇(明治四三)年、韓国併合の年、初代朝鮮総督寺内正毅によって、朝鮮語の図書の押収、焚書が強行されていた。歴史書や偉人伝、教科書など、朝鮮人の民族意識や国家意識をなくすために、焚書された図書は二〇万冊にものぼったという(河田いこひ「一九一〇年の焚書」『季刊三千里』第四七号、一九八六)。
 総督府は、このナチスの焚書にも匹敵する蛮行とともに、一九一一(明治四四)年の第一次朝鮮教育令で、朝鮮語を外国語あつかいにし、私立学校を中心とした朝鮮人の自主的教育運動を弾圧していったのである。
 おそらく、このような事実は、図書館大会に参加した日本人図書館員は知らなかったはずである。無知による優越感とそれに基づいた「善意」が、李在郁の論文の真意を汲み取ることが出来ず、ストレートに図書館における国語(日本語)普及を答申案に付け加えることに何の疑問もなく賛同したのである。
 そしてその極めつけは、一九三九(昭和一四)年の創氏改名であった。総督府図書館は、これに協力し、関連書を集めて特別展示した。一九四〇(昭和一五)年の二月末から八月にかけて、朝鮮服に冠という平常図書館で見受けられない人びとが多数入館して、熱心に該当書を閲覧したり、借り出したりしたという。
 総督府図書館書記玉井徳重は、以上のような報告を記し、最後に「吾々の予想が的中して一般通俗の方面にも図書館利用の実際を如実に示したことを誠に衷心愉快に堪へない次第でありました」と結んでいる(玉井徳重「創氏設定と図書館」『文献報国』第六巻第八号、一九四〇年八月)。
 そして『文献報国』第六巻第一〇号(一九四〇年一〇月)に、創氏改名表として、李在郁以下、四九名の朝鮮人館員の日本名が「旧名」とともに発表され、以後、館報『文献報国』からは、わずかな例外を除き、朝鮮人名は消えていくのである。

「満洲」国大会

 「京城」大会から二年後、一九三七(昭和一二)年、日本図書館協会は、第三十一回全国図書館大会を「満洲国」で開いた。当時「満洲」は厳密な意味では植民地ではない。一九三二(昭和七)年三月一日から一九四五(昭和二〇)年八月十八日の皇帝溥儀の退位宣言まで、「満洲」は中国東北部に存在した国家であった。もちろん、「満洲国」は一九三一(昭和六)年九月、満洲事変を起こして中国東北部を占領した関東軍が、翌年、清朝最後の皇帝溥儀を執政(三四年皇帝に即位)に立て作りあげた傀儡国家である。中国の教科書や辞書には、その傀儡性や反人民性を示すために偽満洲国や偽満と書かれているという(山室信一『キメラ——満洲国の肖像——』中公新書、一九九三)。

●「皇紀二千六百年記念」

 さて、この第三十一回全国図書館大会は六月三日〜十日まで八日間、大連、奉天、新京、哈爾浜の各地で約二〇〇名の参加者の下に開かれた。満鉄の全面的援助を得たのは、第十五回「満鮮」大会と同じであり、「満洲」各地の見学や夜の招宴が連日行なわれたのも先の大会に倣っている。

 とはいえ、先の大会では講演会中心で、ほとんど討議らしい討議をしなかったが、今回は、文部大臣諮問「大東文化進展ノ為図書館ノ採ルベキ方策如何」をはじめ、いくつもの協議題が提出され、まがりなりにも討議されている。
 だが、文部大臣の諮問は、極めて抽象的なものであり、協議会の会場からも、「時間が少ないのに、こんな大問題を討議しても到底纏まらないから、別に委員会を設けて研究されんことを望む」(西海枝信一米澤図書館長)という声が出る始末であった(『図書館雑誌』第三一年第八号、一九三七年八月)。
 だから、提出された答申も、東洋文献の収集、その総合目録の作成、基本文献の複製刊行、その各国語訳の作成、講座や読書道場をつくって、大東文化の普及につとめるというものであり、最後に、そのためには、図書館職員養成機関の拡充と図書館の規模の拡大と充実強化を文部省に要請するという、まるで木に竹を接ぐような結論であった。
 ところで、この大会の協議題でとくに目につくのが「皇紀二千六百年」という文言である。「皇紀二千六百年文化記念事業」、「皇紀二千六百年に際し図書及び図書館に関する文化博物館の建設」、「皇紀二千六百年に図書館建設標準案の作成」といった協議題がならぶ。
 いずれも「皇紀二千六百年」(一九四〇=昭和一五年)を記念して、図書館を充実させようというものであり、この国の図書館界が明治以降、ずっと引きずっている国家的慶事に便乗して図書館の発展をはかるという類の提案である。
 この「皇紀二千六百年を記念して」という提案はすでに、一九三五(昭和十)年の第六十七回帝国議会において、「皇紀二千六百年記念図書館建設」として可決されていた。その機運に乗って、一九三六(昭和一一)年の東京での第三十回全国図書館大会でも、同趣旨の内容が決議されていた。

 このような三年越しの「皇紀二千六百年」に因んだ図書館充実計画は、この「満洲国」での大会決議を経て、一九三七(昭和一二)年七月、日本図書館協会理事長松本喜一名で、文部大臣安井英二に建議された。
 その内容は、
 一、現在の帝国図書館の内容、形式を充実して権威ある国立図書館にすること。
 一、図書館未設置の府県立図書館を建設すること。
 一、全国の公私立図書館に愛郷心を育てるため郷土博物室、郷土博物館を附設すること。
 一、帝国図書館に図書及び図書館に関する専門記録文化博物館を附設すること(『図書館雑誌』第三一年第九号、一九三七年九月)。

 さらに、この「皇紀二千六百年」という錦の御旗は、本国日本にだけではなく、植民地朝鮮、台湾にまで押しつけるのである。さすがに、「独立国」である「満洲国」には、「満洲国ニ於テ近代的国立図書館ヲ新京ニ建設セラレムコトヲ望ム」というだけで、「皇紀二千六百年」という文言は見られないが、朝鮮総督南次郎宛の建議書には、何の留保もなく「皇紀二千六百年」を入れている。
 「道立図書館設置ナキ地方当局ニ対シ皇紀二千六百年文化記念事業トシテ道立図書館ヲ建設セシメラレムコトヲ望ム」(傍点引用者)。
 同じく台湾総督小林躋造宛には、
 「州立図書館設置ナキ地方当局ニ対シ皇紀二千六百年文化記念事業トシテ州立図書館ヲ建設セシメラレムコトヲ望ム」(傍点引用者)。

●全国大会も中止に

 けれども、図書館界がその発展のために頼りにしていた「皇紀二千六百年記念」もじっさいには、まったく計画倒れに終わってしまった。一九四〇(昭和一五)年一一月一〇日、東京を中心に各地で、「紀元二千六百年」の祝賀行事は、提灯行列や旗行列、花電車など多彩に催された。だが、図書館建設などという具体的事業を完成させる財政的力量はすでに、この国にはなかったのである。
 じじつ、この記念事業で設立された県立図書館は、富山県立図書館だけであり、それも構想は再三縮小され、建物も既設の大正会館を改装したものであった。「皇紀二千六百年記念事業」の中心地、奈良の県立橿原文庫も、全国書籍業者の献本以外、建設一切は天理教団が引き受けたものであった(『近代日本図書館の歩み 地方篇』)。それ以外は、各地の図書館で、関連書の展覧会を開催する程度だったのである。[注6]
 この事実を見通したように、この年(一九四〇=昭和一五年)の『図書館雑誌』(第三四年第一号)一月号で、日本図書館協会理事長高柳賢三は、すでに次のように書かざるを得なかったのである。
 「惟フニ皇紀二千六百年ヲ記念スルノ事業多アルベシ、然レドモ二千六百年記念事業ハ必ズシモ敢ヘテ有形ノモノタルヲ要セズ、我等図書館員ハ積極的ニ社会ノ進運ニ添ヒ、国運国力ノ無形ノ一城郭タルノ地位ヲ獲得セントスル覚悟ノ如キハ、蓋シ好箇ノ記念事業タルベシ」。
 つまり、記念事業に図書館を建てなくても、図書館員は、銃後の国民の義務として東亜新秩序建設のために国民精神総動員の一翼に参加し、少しでも「皇恩」に報いることも適当な記念事業である。そして、去年(一九三九=昭和一四年)、結成された満洲図書館協会と連携し、今年(一九四〇=昭和一五年)の「聖地」奈良での図書館大会を成功させなければならないという。
 だが、その「皇紀二千六百年」を記念して「聖地」奈良で予定されていた第三十四回全国図書館大会も、政府の大会形式会合中止方針に準じ、開催されることはなかったのである。

 そして、再び全国図書館大会が開催されたのは戦後、一九四八(昭和二三)年になってからであった。

注●1 宇治郷毅「近代韓国図書館史の研究——植民地期を中心に——」『参考書誌研究』(第34号、1988年7月)と加藤一夫『記憶装置の解体──国立国会図書館の「原点」──』(エスエル出版会、1989)がソウル(当時京城)で開かれた第29回全国図書館大会(1935年)に触れている。
注●2 朝鮮の図書館数は、資料によって数字が異なっている。ここでは、宇治郷論文に拠った。46の内訳は官立2、公立17、私立27。宇治郷論文は、朴煕永「近世韓国公共図書館史抄1901〜1945」『図協月報』4巻5号(1963年6月)に拠っている。朝鮮総督府図書館報『文献報国』第1巻第1号(1935年10月)には、「朝鮮官私立公開図書館一覧(昭和10年9月末現在)が掲載されていて、これには60館(官立2、公立21、私立37)になっているが、これには文庫や新聞閲覧所という名称のものも含まれている。また、『図書館雑誌』第29年第12号(1935年12月)によると51館(官立2、公立19、私立30)と記されている。
注●3 朝鮮総督府図書館は、1922(大正11)年、新教育令(第2次朝鮮教育令)発布記念事業の1つとして計画されたもので、1923(大正12)年11月創立、1925(大正14)年4月開館した。創立目的は、当時の新聞(『京城日報』1924年1月15日)によれば、以下の4つであった。1、特に朝鮮統治の主義方針に基づく思想の善導、教育の普及、産業の振興に関する新旧の参考図書をとりそろえること。2、朝鮮民族の文献を収集すること。3、広義の朝鮮研究に関する和漢洋書を収集すること。4、「全鮮」に対する図書館の普及発達をはかってその指導者となること。つまり、植民地図書館の任務として、「思想善導」が第1義に位置付けられていたのである(河田いこひ「アジア侵略と朝鮮総督府図書館──もうひとつの近代日本図書館史序説──」2『状況と主体』第141号、1987年9月)、及び宇治郷毅前掲論文。
注●4 李在郁は当時、朝鮮総督府嘱託。京城帝大法文学部朝鮮語文学科第1回卒業生で、その後主任司書、司書官、1942(昭和17)年に図書館別館長となる。『文献報国』に多くの論文があり、解放後、総督府図書館が韓国国立中央図書館に引き継がれた後の初代館長(藤田豊「朝鮮の図書館」日本図書館協会編『近代日本図書館の歩み 地方篇』日本図書館協会、1992)。

注●5 1935(昭和10)年にソウルで刊行された朝鮮人によって書かれた最初の図書館関係書。当時の朝鮮に、農村図書館の必要性と緊急性を説いた農村図書館経営の実務書で、当時かなりの影響をあたえたという(宇治郷毅「近代韓国図書館史の研究──植民地期を中心に──」『参考書誌研究』第34号、1988年7月)。
注●6 『週報』(213号、1940年11月6日号)には、「地方に於ける奉祝記念事業」で、内閣書記官長に承認された事業一覧が掲載されている。図書館建設は、大阪市の中央図書館の創設、奈良県の橿原文庫、富山県立図書館の設置の3つだけである(『史料週報』第17巻、大空社、1987)。けれども、大阪市の中央図書館は建設されなかった。